JOG(636) 台風娘の町興し(上)~ セーラと小布施の人々

 長野オリンピックと国際北斎会議を機会に、セーラは伝統文化による町興しに邁進した。

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■1.「マレーシアのセーラなんとか」

 長野県小布施(おぶせ)町にある栗菓子の老舗「小布施堂」の社長・市村次夫に、妙な電話がかかってきたのは平成6(1994)年春のことだった。電話の向こうから聞こえてくるのは、たどたどしい日本語の、しかしやけに元気で弾けるような外国人女性の声だった。






 どうも「マレーシアのセーラなんとか」と名乗ったようだが、よく聞き取れない。そして「小布施堂の仕事に興味を持っているのでお会いしたい」と言っているようだ。「マレーシアの女性がどうしてウチに興味があるのだろう」と素朴な疑問を抱きながらも、市村は面白がって面会を承諾した。

 女性は長野市内にいるというので、小布施までは電車でも30分ほどの距離である。しかし、それから2時間経っても、一向に姿を現さない。ようやく現れたのは、アメリカの青春ドラマから抜け出したような、長い金髪の美しい女性だった。本人は「マルイチ産商のセーラ・カミングス」と名乗ったのを、市村は「マレーシア」と聞き間違えたのだった。

「ごめんなさい。自転車で来たので、ちょっと道に迷ってしまいました」と息を弾ませながら、セーラは元気一杯に挨拶した。

■2.「通訳だけしてくれればいい」

 セーラはアメリカ東部ペンシルバニアの田舎町に生まれた。小さい頃からお転婆娘で、小学校の野球チームではただ一人の女の子で、投手として活躍した。ペンシルバニア州立大学では国際ビジネスを専攻したが、同時に日本の歴史文化に興味を持ち、第二の専攻として日本語を学んだ。

 在学中の平成3(1991)年に来日し、関西外語大学に交換留学生として1年間過ごした。周囲の日本人もとても親切で、日本の生活を面白く感じた。そして将来、日米の架け橋になるような仕事をしたいと夢を膨らませた。

 平成4(1992)年、大学を卒業したセーラは、ある日本人の紹介で、長野市内のマルイチ産商に勤めながら、平成10(1998)年に開催される長野冬季オリンピックのボランティア・スタッフとして働くという機会を得た。

 だが、再来日したセーラを待っていたのは、大きな挫折感だった。マルイチ産商では、親切にホームステイ先を紹介してくれたが、職場では普通の女性社員としての仕事しか与えられなかった。またオリンピックのボランティア・スタッフの仕事も、「通訳だけしてくれればいい」というものだった。

 元気一杯の自分を活かせずに、意気消沈していたセーラに上司が「だったら小布施堂の社長に会ってごらん。あそこならおもしろいことをやっているから」と紹介してくれた。その上司が市村に話をする前に、セーラは持ち前の突進力で自分から小布施堂に押しかけてきてしまったのだった。

■3.「社員に英語を教えるな」

 小布施堂本店は、屋敷門、格子窓の商店、土蔵など重厚な建物が集まる小布施の中心地にある。落ち着いた風格のある町、澄んだ空気、東西を囲むなだらかな山々。そしてなによりも、今、ここに住んでいる人々が暮らしを大切に楽しんでいる雰囲気。この町に着いた時、セーラは「あ、ここなら私の居場所がある」と直感した。

 この町も、つい30年前には、高度成長に取り残され、農業に頼るだけの地方の一町村に過ぎなかった。そんな小布施の町を変えたのが、市村次夫の父で、町長を務めた郁夫だった。

 郁夫は町に伝わる葛飾北斎の肉筆画を目玉にした美術館「北斎館」を開館させて、町興しの気運を高めた。郁夫の死後、後を継いだ次夫は、8年以上の年月をかけて栗の木レンガを敷いた道沿いに小布施堂などの重厚な建物が並ぶ街並みを整備した。この町並み修景事業は全国規模の話題を集め、小布施を訪れる人々は飛躍的に増加した。

 修景事業が一段落し、市村次夫が新たな一手を探っている時に、飛び込んできたのがセーラだった。市村はセーラを一年更新の契約社員として雇い、「経営企画室」に配属させた。

 市村がセーラに言った事は「社員に英語を教えるな」だけだった。セーラが何か、自分で考えて、やり始める事を期待したのである。


■4.「ここでは誰からも期待されていない」

 唐突に登場した金髪娘に、社員たちは戸惑った。セーラが出社すると、職場にはみるみる気まずい空気が流れた。朝、敷地内で職人頭とすれ違った時に、「オハヨウゴザイマス」と声をかけたら、相手は困った様子で顔をそむけた。セーラが意地になって、さらに挨拶を5回繰り返したら、じりじりと逃げるように向こうに言ってしまった。職人頭も青い眼の金髪娘にどう接したらよいのか、途方に暮れていたのだった。

 セーラは、自分は「ここでは誰からも期待されていない」と感じ取った。それなら、自分でやるべき事を見つけるしかない。市村は小布施堂の文化事業として、自社施設を使ったコンサートを開いたり、デザイナー、コピーライターなどを集めたイベントをしていたが、バブルの崩壊後、いったん終息していた。

 次の文化事業を考えようとセーラは思った。文化とは専門家が高所から論ずるものではなく、その地域にしかない生活史を掘り起こし、次代に継承することだと考えていた。

 そこで着目したのが、北斎だった。葛飾北斎は90歳という長寿を全うしたが、最晩年にたびたび小布施に逗留した。その時のパトロンを務めたのが、市村の5代前の先祖、幕末の文人豪商・高井鴻山(こうざん)だったのである。


■5.誰もが「OBUSE」の地名を知っていた

 江戸時代の浮世絵を世界的な芸術として評価・再発見したのは欧米人だった。セーラによれば、アメリカの大学生の教養として、「HOKUSAI」や「HIROSHIGE」の名前は当たり前に浸透していたという。

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 そのなかでも北斎は格別なのです。『赤富士』『神奈川沖波裏』・・・。日本人がルノワールの絵に馴染みがあるように、アメリカの学生はみなそれらの絵を知っています。知っているだけでなく、高く評価し尊敬しているのです。[1,p47]
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 セーラは仕事や休暇で海外に出かけると、美術館や美術商、古書店を巡って、北斎に関する資料や情報の収集に励んだ。特に大きな成果があったのは、ワシントンのスミソニアン博物館と、ニューヨークのメトロポリタン美術館だった。スミソニアン博物館では、北斎に関する文献が500冊以上も収蔵されており、セーラを驚喜させた。

 メトロポリタン美術館では、1990(平成2)年にイタリアのベニスで開催された「第一回国際北斎会議」の論文集を見つけた。英語で書かれた20本の論文のうち、なんと9本が北斎と小布施の関係に言及していた。

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 でも、その会議に小布施の人はひとりも参加していなかったんです。海外の研究者がこんなに小布施に注目しているのに、当の小布施住人がそのことに気付いていない。これもなんてもったいないことだろうと思いました。[1,p50]
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 その翌月、ロンドンのオークション会社サザビーで、北斎の作品が競売にかけられると知って、セーラは駆けつけた。オークション会場に集まった世界の有力な北斎収集家は、これまた誰もが「OBUSE」の地名を知っていた。

 セーラは国際北斎会議を小布施に招致しようと考えた。第1回は1990(平成2)年、第2回は1994(平成6)年にいずれもベニスで開かれていた。4年サイクルなら、次は1998(平成10)年ということになる。ちょうど長野五輪の開催年であり、また奇しくも北斎没後150年にあたっていた。


■6.テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」まで招致

 セーラは、イタリア・ベニス大学、アメリカ・ハーバード大学、学習院大学、東京大学などで世界の北斎研究のキーパーソンたちに直接会って、国際北斎会議の小布施招致の交渉をした。

 翌平成8(1996)年、セーラの奔走が実り、ついに平成10(1998)年に第3回国際北斎会議が小布施で開催されることになった。

 小布施町議会は会議のために48百万円の拠出を承認し、県や自治省からの予算、さらには寄付金、関連イベント入場料やグッズの売り上げ見込みなどを合わせて、2億円規模の予算が組まれた。

 また、基調講演者には日本研究の重鎮ドナルド・キーンを招き、イタリア、オランダ、オーストラリア、アメリカ、ロシア、日本の北斎研究者たちが発表を行う。

 さらにセーラは会期中に町のあちこちで行うイベント「北斎フェスティバル」の企画も、町とともに進めていった。江戸時代の長屋をテントで再現し、そこで浮世絵の彫りと摺りを実演したり、町立小布施中学校の体育館では野村万作、萬斎による狂言の特別公演、さらにテレビ番組「開運! なんでも鑑定団」に出張鑑定を頼み、地域に眠る北斎ゆかりの品々をお宝鑑定してもらう。

 セーラは、学術性だけでなく、小布施の人々が自然に楽しめるイベントを同時に組むことにこだわった。こうした硬軟とりまぜた企画により、最初のうちは遠巻きに眺めていた小布施の人々の心を次第に惹きつけ、徐々に参加を促していった。

 国際北斎会議に向けて奔走するセーラが、町を歩いていると、「がんばってね」と声をかけられることが多くなった。小布施に来た当初は「ここでは誰からも期待されていない」と思ったセーラを、小布施の人々が受け入れ始めたのである。


■7.オリンピックグッズに伝統工芸品を

 大車輪で、国際北斎会議の準備を進めるセーラにもう一つの大きな仕事が舞い込んできた。長野オリンピックでのイギリスの訪問団、選手団の世話役である。訪問団の中にはアン王女や英国大使といったVIPまで含まれている。セーラのの役割はレセプションの開催から、交通手段や宿泊先の確保といった裏方作業まで含まれていた。そうした地味な仕事もセーラは精一杯こなしていった。

 たとえば「携帯電話を28台用意して貰いたい」といった要望がでた。セーラはNTTと交渉して、その携帯が外国人にどれくらい評価されるかモニターになる、という提案をして、タダで借りてきてしまった。

 勢いに乗ったセーラは、小布施堂オリジナルのオリンピック・グッズ制作に乗り出した。赤、青、黄、黒、白というオリンピックカラー5色の蛇の目傘を150本作り、オリンピック委員会のライセンスを取った上で、同委員会に寄付し、一般にも販売するというものだ。

 セーラは、巷で売られているオリンピックグッズから、日本の伝統工芸がばっさり抜け落ちているのが残念でたまらなかったのである。

 しかし、問題は3ヶ月の期限内にそれだけの蛇の目傘を仕上げてくれる伝統職人がなかなか見つからないことだった。セーラは持ち前の突進力で、職業別電話帳の「和傘工房」のページに載っている電話番号を片っ端からかけて行った。

 30軒以上断られて、ようやく京都の内藤商店が受けてくれた。内藤商店でも「無理だ」と思ったのだが、セーラの熱意にほだされたのだった。しかもセーラは、日本人の知らない細部の技術まで調べていて、和傘の先端につける小さな布の「かっぱ」と蛇の目の色を合わせるところにまでこだわった。内藤商店では、白い生地をセーラの望む色に染め分けて、なんとか要望に応えた。


■8.セーラが目指した町興し

 平成10(1998)年2月7日、長野冬季オリンピックが開幕した。その晩、アン王女、英国大使、そして英国選手団を迎えて、小布施での選手激励会が開かれた。セーラを筆頭に、町のボランティアと小布施堂が総力を結集して企画準備したもてなしである。

 地元の勇壮な小布施太鼓を聴きながら、酒蔵でのオードブルと食前酒、明治時代に建てられた市村家本宅の座敷での古式豊かな懐石料理。小布施の伝統文化はアン王女をはじめ、英国選手たちを魅了した。

 オリンピック閉幕の2ヵ月後、こんどは国際北斎会議が始まった。4月19日からの4日間、小布施の町には国内外から500人を超える人々が訪れた。小布施は宿泊施設が乏しいので、住民のボランティアがホームステイを受け入れて、普段着のもてなしをした。

 オリンピック開催の中心地となった長野市では、その後の経済の落ち込みが激しかったが、小布施を訪れる観光客は増え続けていった。人口1万2千人の小布施町を訪れる観光客は、昭和63(1988)年には約37万人だったが、平成12(2000)年には120万人と町の人口の百倍に達している。

 小布施町の伝統文化を掘り起こし、それを町の人々が毎日の生活の中で楽しみ、誇りにしている様が、多くの観光客を惹き付けているのである。そしてそれこそ、セーラが目指した町興しであった。

(続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(370) ニッポン人には日本が足りない~ 老舗温泉旅館の女将になった米人女性奮闘記
 我慢強さと親切心。これこそが、日本人に備わっている素晴らしさ、価値ではないかと思います。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog370.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 清野由美『セーラが町にやってきた』★★★、日経ビジネス人文庫、H21
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532194849/japanontheg01-22%22


■「台風娘の町興し(上) ~ セーラと小布施の人々」に寄せられたおたより

■直美さんより

 う~ん!日本人でも町興しや村興しに奔走した方たちはいっぱいいると思いますが、小布施の町興しをしたのがアメリカ人のセーラさんであったとは驚きというか、日本人でなくというのが情けないというのか。

 でもある意味で日本人の発想とか思い付きとかとは違う観点、興味、熱意がなせた業、努力の結果ともいえ素晴らしいと思いました。

 北斎など浮世絵なども日本であまり評価されず海外に多く流出し、それでボストン美術館などが世界に誇れる浮世絵コレクションを持っているというのはある意味皮肉ですが、それゆえ貴重な芸術作品が保存されたのですから、また感謝でもあり得ます。

 そしてここでも書いてあるように日本で、また日本人にあまり高く評価されたり、関心を持たれていないものがかえって海外で高く評価され、関心を持たれているのがきっと数多くあり、日本で埋もれている可能性大と言えますね。

 自国の歴史、文化、言語などにやっぱり興味を持つような教育がされ、関心を持ち保存し誇りを持てるようにしたいものです。国家や国旗も当然のことながら。

■喜明さんより

 今日いただいたセーラ・カミングスさんの記事は、偶然にも先日、会社の研修の一環として、彼女に東京まで来ていただき、約1時間半お話を聞いたところです。

 日本の伝統文化を復活させているその熱意と継続には感心させられた反面、日本人として恥ずかしい気持ちも持ちました。

 彼女の言葉で印象に残ったのは「國に誇りを持つ」ということでした。戦後60年、日本を悪い國として教育されてきた結果が今のていたらくな状況を招いていることをわれわれ一人一人が気づき、真っ当な國になるために、2000年の歴史を持つ貴重な國の良いところをのばす努力をしなければならないと感じました。

■編集長・伊勢雅臣より

「保守」とは、古いものを大切に受け継ぎながら、それを新しい時代に合った、より良いものに改革していくという不断の姿勢なのですね。
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