No.670 日本語が生み出す思いやり社会

日本語では子供が親に向かって「あなた」とは言わないのはなぜか。


■1.グローバル化と「日本語放棄論」

 オンラインショッピングで有名な「楽天」が、社内の公用語を英語にすると発表して、話題を呼んでいる。「世界27カ国・地域への進出」「海外取扱高比率70%」といった大胆な国際戦略の一環だが、まず役員会議の英語化から始め、段階的に英語化を進めて、2012(平成14)年度までに楽天グループの公用語を英語にするという。

 グローバル化の波が押し寄せると、必ず「日本語でやっていてはダメだ」という議論が出てくる。言語社会学を専門とする鈴木孝夫・慶應義塾大学名誉教授は、これを「日本語放棄論」として、その系譜を紹介している。[1,p15]

 明治初期、初代の文部大臣になった森有礼(ありのり)は、遅れた日本語では、進んだ西洋文明を取り入れて国を進歩発展させることは難しいから、英語を国語にするべきだと主張した。そんな声は黙殺して、我が国は日本語を国語としたまま急速に科学技術、経済を発展させ、世界5大国の一つへと飛躍した。

 敗戦の翌年昭和21年には、文豪の志賀直哉が、愚かな戦争をして敗れた原因として、日本語の持つ不完全さ不便さ、漢字学習の効率の悪さを挙げ、フランス語を国語にすべきだと主張した。しかし我が国は、やはり日本語のまま急速な高度成長を続け、世界の経済大国となった。

 現在のグローバル化は3度目の波と言えるが、やはり「日本語放棄論」が出てきたわけである。どうもグローバル化というと、すぐに「日本語を捨てよう」という声が出てくるのが、我が民族の習性のようだ。


■2.絶望の中で母語への信頼を謳ったツルゲーネフ

 鈴木教授は、数多くの民族や国民が、自分たちの母語に対してどのような態度をもっているのか調べたところ、どの国民でも自分たちの母語に対しては絶大の信頼と愛情を寄せ、国語の持つ美しさ素晴らしさを歌い上げる詩人文学者に事欠かないという事がわかった、という。

 その好例として引用されているのが、帝政ロシアの混乱期に、ロシア社会の惨状に深い絶望を感じながらも、ロシア語の持つ根源的な力がやがてロシアを救う、と信じていた文豪ツルゲーネフの散文詩「ロシア語」である。

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 疑いの日にあっても、祖国の運命を思い悩む日々においても・・・・お前だけが私の杖であり、私の支えである。おお偉大にして力強く、真実にして自由なるロシア語よ、もしお前が無ければ、国内で行われているあらゆることを見るたびに、どうして絶望に陥らないでいられようか。私にはこのような言語が偉大なる民族に与えられないとはどうしても信じられないのだ。
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 前節で、志賀直哉の「悲惨な敗戦は不完全で不便な日本語が原因だ」とする日本語放棄論を紹介したが、深い絶望の中で母語への信頼を歌い上げたツルゲーネフと対比すると、文学者としての深みの違いを感ずる。


■3.2千年もの間、死語であったヘブライ語を復活させたユダヤ人

 もう一つ、日本人の母国語に対する劣等感と対照的な例が、ユダヤ人であると鈴木教授は指摘する。[1,p49]

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 第2次大戦後、無理に無理を重ねて自分たちの国を作ったユダヤ人は2千年もの間死語であった母語を、苦心して復活させるという奇跡に近いことまでやってのけたのです。そしてその文字として何と古代のヘブライ語を使うことにしたのです。

 そしてその文字として何と古代のヘブライ文字を使うことにしたのです。この文字が世界のどの文字とも違う独特なものであるのにもかかわらず、あえてこの文字を採用して国際性など微塵も考慮しないこの態度は、自分たちの便利を犠牲にしてまで<国際標準>に近づくことを望む日本人が、深く反省してみるに値する人間の生き方だと思います。
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 言語を単なるコミュニケーションの手段だと割り切ってしまえば、それは国際的に広く通用し、学習が容易なものほど良い、ということになってしまう。日本語放棄論の前提となっているのは、こういう考え方なのだが、ユダヤ人の場合はまったく別である。

 国際性や学習の容易性などとは関係なく、ヘブライ語こそ、自分たちの生き様の核をなすものだ、という見事なまでの覚悟である。イスラエルは政治や科学技術の面で、英語を駆使して、国際社会で存在感を発揮しているが、その活力の源となっているのは、自らの言語、文化に対する誇りなのではないか。


■4.日本語では子供が親に向かって「あなた」とは言わない

 我々日本人は、理由もなく日本語に関して劣等感を持つ前に、日本語の個性をもっとよく知るべきではないだろうか。言語社会学という学問を通じて、鈴木氏は日本語の個性が日本社会の個性を形作っている様子を解き明かしている。

 その興味深い例に人称代名詞がある。一人称は「自分」を差し、英語では「I」、日本語では「私」、二人称は話の相手を指し「You」、「あなた」、三人称は第3者を指す「He、She」、「彼、彼女」と文法書は教える。

 しかし、小さな子供が自分の母親に向かって「I love you, mammy!」と英語では言えるが、日本語で「お母さん、私はあなたが好きです」と言ったら変だ。言うとしたら、たとえば「花子はお母さんが大好き!」だろう。この場合は、「花子」は自分のことを指しているので一人称代名詞「I」に相当し、「お母さん」は話の相手なので二人称代名詞「You」に相当する。

 同様に、親が子供に向かって英語では「You must come with me」とは言うが、日本語では「お前は私と一緒に来なさい」とは言わない。例えば「太郎はお父さんと一緒に来なさい」だろう。この場合、「太郎」は二人称の「You」にあたり、「お父さん」は自分のことを指す一人称として使われている。

 このように、英語では誰が誰に対して話していても、一人称は「I」、二人称は「You」の一点張りだ。しかし、日本語ではそれほど人称代名詞は使われず、「あなた」の代わりに「お母さん」を使ったり、「私」の代わりに「お父さん」と呼んだりする。


■5.「私」対「あなた」という対立関係を避ける

 日本語では、そもそも自分を「私」、相手を「あなた」というように人称代名詞で呼ぶことがほとんどない。「私」対「あなた」とは、自分と相手とを一種の対立関係に置くことで、日本人は心理的にそのような対立関係を避けようとする。

「花子はお母さんが大好き!」とか、「太郎はお父さんと一緒に来なさい」と言うのは、文法的には三人称を使って「私」対「あなた」という対立関係を避けているのである。

 息子が父親にキレて「あんたなんか嫌いだ」などと、ことさら人称代名詞を使う場合は、すでに親族関係が破綻している事を意味している。

 そもそも「あなた、あんた」とは「彼方(あなた)」という離れた場所を指す言葉であった。「そなた」とか「その方」も同じく場所を指す。「おまえ」は「御前」で、「自分の前」に「御」をつけて敬った言葉。相手を直接呼ばずに、相手のいる場所を示すことで、間接的に相手を指す語法である。

 英語でもごく一部このような語法があり、たとえば国王陛下に対しては、直接 "You"と話しかけるのではなく、"Your Majesty"(あなたの尊厳)に対して呼びかけるのが、礼儀である。さすがに国王に対しては、「I」対「You」という対等な関係に置くことが憚られるからであろう。日本語ではこの語法が高度に発達しているのである。

 興味深いことに、「御前」や「貴様」はかつては敬意のこもった呼び方であったが、頻繁に使われていると、だんだん敬意がすり減ってくるようで、現代では若者の仲間内や喧嘩の際にも使われるようになる。そのかわりに「あなた」という新たな言葉を使って、敬意を回復させようとする。しかし、喧嘩の時ですら、「貴っ様~」などと「元敬語」が使われる事を知れば、我が母国語のゆかしさに思い至るだろう。


■6.「お母さん」とは呼べても「娘さん」とは呼べない

 しかし、同じく人称代名詞を使わないとは言え、子供が「花子はお母さんが大好き!」とは言えても、親が自分の娘に向かって「私も娘が好き!」とは言えないのはなぜか。親族内での呼び方に関して、鈴木教授が解明した日本語のルールとは、こうだ。

 まず目上の人に対しては人称代名詞を使えない。父母、祖父母、おじおば、兄姉に対しては、「あなた」ではなく、お父さん、お祖父さん、叔父さん、兄さん、などと親族用語を使う。また、兄が複数いる場合は、「太郎兄さん」「次郎兄さん」と名前をつけて区別するが、「太郎さん」などと直接名前で呼ぶことはしない。

 逆に目下のものには人称代名詞は使えるが、親族用語は使わない。子、孫、弟妹、年下のいとこに対して、「おい、子供」とか、「お孫ちゃん」などとは言わない。レストランで親が子供に向かって「お前は何にする?」などと人称代名詞を使うことはできるが、それよりも「太郎は何にする?」などと、名前を直接使う方が親しみが籠もっている感じがする。

 こうして見ると、親族間では目上に対しては、人称代名詞は使えずに親族用語を使い、目下に対しては人称代名詞を使うことができるが、名前を直接使う方が多い。

 人称代名詞を避けるのは、前述のように対立的な関係をなるべく避けたいと言う意識が働いているからである。

 目上の人に対して、「お父さん」「お祖母さん」「お兄さん」などと親族用語を使うのは、それ自体に敬意が籠もっているので好ましい。逆に目下のものに対して「子供」「孫」などと親族用語を直接使ったら、相手を見下した態度となるので忌避される。


■7.なぜ自分の息子を「お兄ちゃん」と呼ぶのか?

 前述のように親が「太郎は何にする」などと名前を直接使うことはできるが、たとえば太郎に弟がいたら、「お兄ちゃんは何にする」と親族用語を使うことができる。親が自分の子供を「お兄ちゃん」などと呼ぶのは、外国人には理解不能な言い方であろう。

 この言い回しを鈴木氏は「親族用語の原点移動」という概念で説明している。家族のうちの最も目下の者(この場合は弟)に原点を移し、その弟から見て「お兄ちゃん」と呼ぶのである。これなら親族用語を使った親しみと共に、兄としての敬意も込められている。

 子供を持った夫婦が、互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶのも、子供に原点を移した「親族用語の原点移動」の例である。

 目上の人に対して、敬意の籠もった親族名称を使うという原則は、職場や学校でも拡張されて適用される。職場では「部長、お電話です」、学校では「校長先生、おはようございます」などと職名をそのまま使うのが、丁寧な用法である。

 知らない人に呼びかける時はどうだろうか。子供が、通りがかりの中年の婦人に「おばちゃん。ハンカチ落としたよ」などと言う。甥-叔母の関係でもないのに「叔母さん」という親族用語を使うのは、よく考えるとおかしい。しかし、これは相手を疑似親族と見なして、相手に親しみと敬意を込めた呼びかけ方なのである。

 逆に、中年の婦人が子供に声を掛けるときは、目下だから親族用語を使えない。だから、「親族用語の原点移動」を適用して、「そこのお兄ちゃん、ハンカチを落としたわよ」などと言う。相手の子に弟を想定し、それを原点として「お兄ちゃん」と呼ぶのである。

 親子の間でも、職場でも、通りがかりの人に対しても、「I」「You」の一本やりで通す英語に比べれば、相手への呼びかけ一つとっても、親しみや敬意など細やかな思いやりが我が国語には込められているのである。


■8.日本語が生み出す思いやり社会

 外国人が自然な日本語を話そうとすれば、自ずからこうした「人称代名詞による対立関係を避ける」「目上・目下に対する親族用語を使い分ける」「他人にも疑似親族用語を使う」といった語法を身につけなければならない。それによって、日本語社会におけるこまやかな人間関係のありようを理解し、身につけていく。

 逆に日本人が英語社会で暮らしていると、「I」対「You」の一本やりで、個人どうしの対立関係に慣れていく。相手との目上・目下関係、疑似親族関係など一切気にしなくてもよいので、知らない人にでも気軽に声をかけられるようになる。

 職場で英語が公用語になり、日常会話も英語で行われるようになると、日本企業では「部長からご指示頂いた件ですが」と言う所を、英語で「あなたから指示された件ですが」などと言うようになるだろう。

 それはそれで、外国人社員には働きやすい職場にはなるだろうが、日本語が生み出すこまやかな人間関係は失われていくだろう。たとえば、先輩が後輩を自分の弟のように手取り足取り仕事を教えたり、社内で家族のように力を合わせるという、目上・目下関係、疑似家族関係の中でこそ生まれる思いやりの世界は薄れていく。

 アメリカ企業のようになってグローバル競争社会を勝ち抜いていこうというのも立派な志ではあるが、二流の英語と二番煎じのアメリカ的経営では、だいぶハンディがある事は否めない。

 逆に、長期安定雇用のもとで、日本語社会の思いやりに満ちた人間関係を作り、その中で人を伸ばし、チームワークを発揮していく、という方向もある。外国人社員にも日本語を学ばせ、その関係の中に組み込んでいく、という事もできる。このような「人作り」と「人の和」こそ我が国の強味であった。

 明治以来、二度のグローバル化の波に際して、二度とも「日本語放棄論」が現れたが、そんな声は黙殺して、我が国は日本語が生み出す「人作り」と「人の和」によって乗り越えてきた。今が3度目の勝負である。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(553) 国語の品格
 品格ある国語は、品格ある国民を作る。
http://jog-memo.seesaa.net/article/502747637.html

b.JOG(240) 日本語が作る脳
 虫の音や雨音などを日本人は左脳で受けとめ、西洋人は右脳で聞く!?
http://jog-memo.seesaa.net/article/202005article_4.html

c. JOG(559) 大和言葉の世界観
 「鼻」は「花」、「目」は「芽」。大和言葉には古代日本人の世界観が息づいている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog221.html

d. JOG(221) 漢字と格闘した古代日本人
 外来語を自在に取り込める開かれた国際派言語・日本語は漢字との国際的格闘を通じて作られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog221.html

e. JOG(514) 「ある」日本語と「する」英語
 なぜ日本人は「私はあなたを愛します」と言わないのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog514.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 鈴木孝夫『日本語教のすすめ』★★★、新潮新書、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106103338/japanontheg01-22/

■「日本語が生み出す思いやり社会」に寄せられたおたより

■「ちびたちの母」さんより

今回も興味深い記事をありがとうございました。

 今現在、ドイツ在住で娘は英語ドイツ語のバイリンガルの幼稚園に通っています。私自身、日本で言語聴覚士という仕事をしており、幼児期にどれほど母国語の環境が大切かを知りつつ、海外在住という環境で、そして種々の事情からこの選択をしました。

 幸い娘は日本語脳が強く、英語、ドイツ語は3年通った今でもあまり達者ではなく、完璧な日本語話者です。最初から「英語は環境として選ぶけれど、耳に残る程度でいい」と決めていました。

 娘を見ていて思うのですが、日本語を話すということは、日本人にとって本当に安心できることなのです。細やかな心のひだや気持ちを込めれるのは、日本人にとってはやはり日本語でないとできないことだと感じます。(ただ、同じ日本語を喋るから、お互いを理解できるか・・・ということは別問題で、社会の使用語として)

 日本は英語話者にとても劣等感を持っていると思います。確かに国際社会の中では英語は公用語だし、ビジネス場面では普通に喋れて当たり前の感はあります。でも、それを丸々日本の社会に当てはめてしまうのはいかがなものでしょうか?

 世界が愛する日本の文化の一つに「柔術」があります。これはドイツにきて、びっくりしたことの一つですが、ドイツには沢山の柔術(柔道・剣道・空手・合気道)の教室があります。また、私と同じドイツ語の教室に通っているブラジル人のなかには柔術の先生をしている人もいます。ブラジルは移民政策のあったところということもあって、日本のこういったスポーツが盛んだそうです。

 こういう日本独自の文化が世界化されている現実を日本人はもっと認識するべきです。そしてその文化を担ってきたのは日本語社会での文化ということを忘れるべきではありません。


■「田舎国語教師」さんより

 普段、漠然と思っていたことを、豊富な具体例と誠にすばらしい論理展開でご教示頂き、感謝申し上げます。ここで書かれている内容を折に触れ、ぜひとも我が校の生徒へも伝えていきたいものだと思いを新たに致しました。

 ここでご紹介頂きました鈴木孝夫教授や渡部昇一教授など英語をご専門の方は、とても敏感に日本語の良さに率直にお気づきになるなといつも感心しながら御説を拝聴させて頂いております。またお二方のようなご高名でない一般の方々でも、海外に長く生活なさってきた方々には、日本へのすばらしさをとても敏感に認識されるようですね。大変興味深い事実だと思います。

 近々小学生から英語を学びはじめるとのことですから、いっそのこと、他国の言葉を学ぶ第一義は、自国のことをよく理解するために学ぶのだ、としても大変意義深いことのように思われます。

 日本語も満足に話すことができず、自国の歴史にも疎い方々が、英会話だけを練習して渡航することについて、彼の地でいったい何を話してくるのだろうかと思うと背筋の寒い思いがします。空疎で流暢な英語が日本人への侮蔑に変わることは火を見るよりも明らかなことに思えます。

 三度目の波は乗り越えられる日本人であって欲しいと願うばかりです。

■編集長・伊勢雅臣より

 流暢な英語で内容のない話しかできない日本人よりも、英語はたどたどしくとも日本の文化伝統に愛着を持って語ることのできる日本人の方が、海外で一目置かれませす。


■「shtrowa」さんより

 日本にグローバル化の波がおしよせるたびに<日本語放棄論>が出て来るのですね。それも日本を代表する文化人の中から。しかし、今度は口先だけではなく、実行する所が現れてしまいました。

 戦勝国が戦敗国を全面否定し植民地支配してしまうと、アフリカや南北アメリカ大陸などに多く見られるような戦勝国文化のみが栄える と言った結果になります。

<多>言語地球人は<他>言語文化をも尊重し相互に学びあうことによってそれぞれのより豊かな自己の文化を育ててきたのではないでしょうか。

<日本語放棄>では自己の文化否定の泥沼にはまりそうな気がします。<どうぞ日本を植民地にしてください症候群>のような無痛で厄介な流行病が蔓延しないことを祈ります。もっともこれが杞憂であればそれに越したことはありませんが。

■編集長・伊勢雅臣より

 自己の文化否定では、海外でも一目置かれる人物にはなりえません。


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