No.677 若き日の大東亜戦争

「日本の古きよき時代を精一杯、力の限り生き抜いた」と女子医学生だった清水公子さんは語る。


■1.「いよいよやったね。しっかり頑張ろうね」

 大正11年生まれの女医・清水公子さんは、65年前の大東亜戦争開戦の日を次のように思い起こす。

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 昭和16年12月8日、開戦の詔勅と真珠湾攻撃の大戦果を知ったのは、私が東京女子医専(現女子医大)に入学して2年目のことでした。喚声をあげながら朝食の為、寄宿舎の地下食堂へ急ぎました。途中、顔を合わせた級友達と、「いよいよやったね。しっかり頑張ろうね」と固く手を握り合ひました。・・・

 張り切るとはかういう事を言ふのでせうか。私達は前にも増して勉学に励みました。男性達は続々と戦場に召されるであらう、銃後を護るのは我々女性である、一日も早く役に立つ医者にならなくては、との自覚がもりもりと湧き上がって来るのでした。[1,p115]
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「いよいよやったね」とは、アメリカが経済封鎖によって日本を追い詰めていったことに、国民全体が積年の憤懣(ふんまん)を抱いていたからである。たとえば石油輸出禁止など、日本経済の息の根を止めるようなルーズベルト大統領の対日政策に対しては、共和党の下院リーダーであったハミルトン・フィッシュ議員も、「日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルトにある」と述べている。[a]

 この点を清水さんは次のように記している。

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 開戦の詔勅に縷々(るる)述べられてある様に、長年の日米間のわだかまりは、度々の日本からの平和裡解決の為の特使派遣にも拘わらず、頑迷冷酷なアメリカの傲慢な態度に、遂に堪忍袋の緒を切らざるを得なかったのです。

 隠忍自重の末、戦争に踏み切らざるを得なかった日本、積年の憤懣の爆発は日本民族を奮ひ立たせ、人々はワシントン迄攻め落とせといきり立ってゐました。[1,p115]
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 今日でも尖閣諸島で衝突事件を引き起こした中国が、さらにレア・メタルの輸出制限までして日本に理不尽な圧力をかけた事で日本国民を憤激させたが、その何十倍もの圧力を何年にもわたって米国から受けていた事を想像すれば、当時の国民の「積年の憤懣」が多少なりとも想像できよう。


■2.「豈(あに)朕が志(こころざし)ならんや」

「開戦の詔勅」は、こうした当時の日本国民の憤懣を表現したものだと言える。詔勅では、まず世界各国との友好・共栄関係を築くことが我が国の基本方針であるのに、今や米英との戦争に入らざるを得なかった事を述べている。

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・・・而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽 (たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端( きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるもの あり。豈(あに)朕が志(こころざし)ならんや。

(現代語訳)・・・そして各国との交流を盛んにし、万国と共栄の楽しみをともにすることは、日本の外交の基本方針とするところである。今や不幸にして米英両国と戦端を開くことにいたった。 まことに、やむをえない事態である。どうして、これが私(昭和天皇)の志であろうか。
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「豈(あに)朕が志(こころざし)ならんや」という一節に、昭和天皇の「万邦共栄の志を遂げられなかった」という深い痛惜の念がが込められている。これほど悲痛な開戦宣言が歴史上、あっただろうか。


■3.「隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも」

 続けて、詔勅は我が国がやむなく立ち上がった理由として、米英が経済封鎖により、日本を屈服させようと強硬な姿勢をとり続けたことを述べている。

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 朕は政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も 交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷 延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。

 私は政府をして、事態を平和裡に解決させようと、長い間、隠忍したのだが、米英は少しも譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を先延ばしにし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大させ、それによって我が国を屈服させようとしている。
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「隠忍久しきに弥(わた)りたるも」、このままでは、日本の存立も危うくなるとして、ついに自存自衛のために立ち上がったことを述べている。

 清水さんの言う「隠忍自重の末、戦争に踏み切らざるを得なかった日本、積年の憤懣の爆発」とは、まさにこの詔勅の思いそのままを述べている。


■4.「宣戦の詔勅を拝して、泣かぬものがあったろうか」

 昭和16年12月8日、多くの国民が、この開戦の詔勅をラジオで聞き、涙を流した。何人もの作家、学者がその日の思いを記している。

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火野葦平(作家): 私はラヂオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった。この感動は私ひとりではあるまい。全国民が一様に受けた感銘であろう。宣戦の詔勅を拝して、泣かぬものがあったろうか。[1,p177]
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坂口安吾(作家): 僕はラヂオのある床屋を探した。やがて、ニュースが有る筈である。客は僕ひとり。頬ひげをあたっていると、大詔の捧読、つづいて、東條首相の講話があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならない、一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。[1,p202]
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清水幾多郎(社会学者): 宣戦の大詔を拝して、私は凡(すべ)ての国民と同じように涙を禁ずることが出来なかった。日本がアメリカに勝つためには、日本の思想がアメリカの思想に勝たねばならぬ。・・・私はこの仕事のために微力を儘(つく)すことを最高の義務と考えている。[1,p176]
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 祖国が万邦共栄を求めながらも、ついに自存自衛をかけて、米英という世界最強国に戦いを挑まざるを得なくなった。「豈(あに)朕が志ならんや」との昭和天皇の悲痛なお言葉に、国民は涙したのである。


■5.一女子学生の戦い

 その涙から、国民一人一人が、祖国の生き残りのために自分の持ち場で国民としての義務を果たそうと立ち上がった。女子学生であった清水公子さんもその一人だった。
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 私達は直接戦力とはなりませんが少しでも実力をつけ様と、学期間の休暇には各病院の各科に見学に行きました。また当時、貧困家庭への医療救済公的制度がありませんでしたので、気の毒なこれ等の人々を救うべく、夏休みを利用して周辺小学校を借り受け「無料診療所」を開設致しました。女子医専独特の年中行事でした。

 学生達は二交替で休暇の半分を返上して医局員に協力、貧しさ故に医療を受けられない人々に愛の手を差し延べ、同時に自分達の勉強ともなりました。[1,p122]

 日曜日には皇居前広場へ「もっこ担ぎ」に参りました。学校の名誉にかけてもと重い土運びに掛け声を掛けながら頑張りました。今の皇居前広場は当時の学生が汗を流して作ったのです。[1,p122]
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 しかし、戦局は次第に劣勢となり、空襲が始まった。家の前に防火用水槽を作り、町会でたびたびバケツリレーなどの消化練習を行うが、敵は無数の爆弾を雨霰(あられ)と落とすので、逃げるのに精一杯だった。

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 文字通り火の海の中を逃げ惑う民衆の上に、これでもかこれでもかと追い打ちをかけ、更に石油を撒くのです。阿鼻叫喚、すさまじい地獄絵さながら、悲惨さこの上もありません。石一つ投げられない無抵抗な女・子供・老人達に対し、敵は皆殺しを図ったのです。連日のあくなき無差別爆撃(軍事施設と民家の別なく)に多くの国民が命を落とし、傷つき、家を失い、みるみる焼け野原と化していきました。

 この様にされても国民は挫けませんでした。何回も空襲に遭い無一物になりながら、「何もかも無くなり、さっぱりしたよ」と、誠に意気軒昂でありました。[1,p124]
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■6.「又明日命があったらお目にかゝりませう」

 戦力増強のため、各学校は6ヶ月繰り上げ卒業となり、清水さんは昭和19年9月30日、東京女子医専を卒業した。

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 一日の休みもなく10月1日から千葉医大(現、千葉大医学部)の医局員となり、まだ22歳と5日しかない娘医者ながら精一杯頑張りの生活に入りました。男性医師は次々と招集され、我々新米医は文字通り病院中を走り廻り、また寸暇をみては本を開きました。

 明日死ぬかもしれない。折角医者になったのだから今のうちに少しでも勉強しておこうと思ったからです。・・・

 一日の仕事を終えて家路に着くのは大抵8時頃になりました。真っ暗な夜道を友人達と腕を組み、女学校で習ったロマンチックな歌を口ずさみながら駅へと急ぎました。当時は燃料も乏しくなり、バスは運行停止、30分の道のりをすき腹を抱え、それでも元気一杯スタスタと歩きました。

 友と別れる時、「又明日命があったらお目にかゝりませう」がさよならの挨拶でした。今夜の空襲で死ぬかもしれないからです。既に死への覚悟は出来てゐました。国に殉ずるのに何のためらひもなかったのです。

 灯火管制下の真っ暗な人通りのない夜道を、若い娘が一人で歩いてゐても痴漢など全く出ませんでした。国家の為、真剣に生きる日本国民に一人として遊んで居る者や悪事を働く者は居りませんでした。

 互いに励まし合い扶け合い、誠に美しくよき時代でありました。豊かになり平和になった現代の方が、どれだけ人の心の荒んでゐることでせうか。[1,p125]
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■7.「日本中が声もなく、しーんと静まり返り」

 そして、運命の昭和20年8月15日が巡ってくる。

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 必勝の信念を持ち、信州不滅を信じながらも一億玉砕を覚悟、眦(まなじり)を決していた私達でした。昭和20年8月15日正午に、天皇陛下の初めての玉音放送があるといふので、家中を清めてラヂオの前に端座しました。きっと全国民最後の一人となる迄戦ひ抜けとのお励ましのお言葉を頂戴するものと信じてゐましたのに、無条件降伏とは...。

 こみ上げる嗚咽を抑えることが出来ませんでした。日本中が声もなく、しーんと静まり返り、全ての努力が水泡に帰してしまった空しさに、虚脱状態に陥りました。ひとり忙しいのは蝉しぐればかり、あの時ばかりは蝉が羨ましうございました。

 駅のホームでも立っている人は一人もありませんでした。皆一様に黙りこくってしゃがみ込んで居ました。翌日は皇居前広場に馳せ参じ、土下座して大泣きしました。力の及ばなかった事を陛下にお詫びし、陛下の御前で共に泣きたかったのです。[1,p129]
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「アメリカは懐柔政策に出るでせう。子供達はアメリカの都合のよい様に教育されるでせう。我々はよほどしっかりしなければなりません。これからが本当の日米の戦いですよ」と、心ある人々は異口同音に言っていたという。

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 アメリカは占領政策に成功しました。日本は伝来の大和魂を引き抜かれた愚劣な人間の集団となり、自らの国を口汚く罵る非国民のうようよ居る国になり下がりました。それ故に国歌国旗も否定する愛国心喪失の国柄は、外国から侮辱されても反発さえ出来ない情けない国となりました。[1,p131]
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■8.「日本の古きよき時代を精一杯、力の限り生き抜いた」

 しかし清水さんは自らの青春時代を後悔したり、反省したりはしない。

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 私の青春は確かに華やかではありませんでした。然し一生のうちで最も生命力の旺盛な時期に、全身全霊を国と学問にぶつけたという事、安穏の世には得難い魂の燃焼であったと思います。

 敗戦という千載一遇の体験は誠に貴重な試練であり、戦時中に培はれた不撓不屈の精神に依り、極度の貧困も、「国と運命を共にした光栄ある貧乏」と胸を張り、明るく清く乗り越える事が出来ました。

 日本の古きよき時代を精一杯、力の限り生き抜いたといふ自負心、まさに「我が青春に悔なし」であります。[1,p132]
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 齢70歳となった現在の清水さんのせめてもの願いは「昔の日本のように祝日には何処の家にも日の丸が翻り、君が代が津々浦々に谺(こだま)する美しく健全な姿に立ち還る」ことだという。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 昭和を語る会編『若き日の大東亜戦争』★★、展転社、H3
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886560725/japanontheg01-22/


■「若き日の大東亜戦争」に寄せられたおたより

■「ちびたちの母」さんより
 ~「信念をもって自分の国を守ろうとしたすがすがしさ」

 今回もためになるお話をありがとうございました。

 私は祖父母とともに育ちました。92で亡くなった祖父は第2次世界大戦には出征していませんでしたが、一度だけ大東亜戦争についての話を私たちにしたことがあります。

 それは、戦争の悲惨さの話ではなく、何故日本は大東亜戦争を始めたか・・・という話でした。それは壮大なテーマで、当時は植民地・・・という名前ではあったが、アジアで統一された社会連合作り、欧米諸国の植民地化からアジアを守ろうとした・・・という話で、当時私たちが学校で習う近代日本史からはかけ離れた内容でした。

 その後、多くの文献を読み、多くの出征した方たちとお話をする機会を得、あながち、祖父の話していた話は嘘ではない・・・と感じるようになりました。軍部の一部の暴走も時勢としてあったこととは思います。

 しかしながら、日本が植民地化していたペリリュー島では、全島の住民を激戦地から避難させ、日本兵はそこで壊滅するまで戦った話や、日本の植民地時代、入植されていた方たちの努力実って、美しい果樹園は残り、戦後もその地域の大きな経済収入に貢献した・・・という話をきけば、日本軍がすべて強奪、略奪のためにそこに侵攻していたとは思われないのです。

 私には50歳の離れた友人がいます。その方が送ってくださった本に「海軍よもやまばなし」という本があり、最後の章に出征された方たちのアンケートが載っていました。「あなたにとって、大東亜戦争はなんだったか」との問いに「良くも悪しくも、青春の1P」と書かれた答えが印象的でした。これについてはブログにとりあげたことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/akko0203/59553270.html

 また、仕事で出征された年代の方とお話することが多くあり、出征検査で不合格になったため出征はしていない方がほとんどだったことに疑問を抱いていたところ、ある出征された経験のある方が「戦争にいったもんは、みんな死んじまったからな」とつぶやかれたことに、ただ沈黙するしかなかった経験もあります。

 そのほかにも終戦後、シベリア抑留を3年経験して帰国された方のお話や、入植のため南方にいかれたところ、終戦で命からがらジャングルをくぐりぬけ帰国された方のお話。

 私の中には多くの戦争経験者の方たちの青春が眠っています。どの話も命をかけた、大変な経験であるはずなのに、信念をもって自分の国を守ろうとしたすがすがしさを感じます。今日の清水さんのお話を拝読し、そのすがすがしさのわけが、少し理解できたような気がします。


■編集長・伊勢雅臣より

 当時を生き抜いた我々の先人の声に耳を傾ける必要があります。



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