No.747 大山捨松(下)~ 貴婦人の報国


 女子留学生第一号として帰国した捨松は、国に報いる道を求めた。

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■1.帰国

 明治15(1882)年11月21日、大山捨松と津田梅子を乗せたアラビック号は、美しく晴れ渡った横浜港に入港した。二人にとっては丸11年ぶりに見る祖国であった。

 出迎えに来てくれた肉親たちとゆっくり話をする間もなく、二人は「乳母車を大きくしたような」人力車に押し込まれ、街道の両側に並ぶ小さな家々を見て、「まるで小人の国に来たガリバーのような」気がした。

 牛込の山川家につくと、母親が次兄・健次郎夫婦などとともに捨松を出迎えた。お前を「捨」てたつもりで遠いアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰って来る日を心待ちにして「待つ」ているよ、との気持ちを込めて「捨松」と名付けてくれた母は、どんな思いで美しく成長した娘を出迎えたことだろう。

 正しい日本語ができないので、さぞ恥をかくだろうと心配していたが、「思いのほか、祖国の土を踏むと私の舌はほぐれ」、アメリカで健次郎から厳しく日本語の勉強を言いつけられたことを感謝した。日本の着物にもすぐ慣れて、家の中ではいつも着物で過ごすようになった。


■2.「祖国のために生きることの方がもっと大変なこと」

 捨松は、早速、帰朝報告と仕事の相談のために文部省に出向いた。しかし、男子留学生には大学や官庁の仕事がすぐに与えられていたが、捨松と梅子の将来については、国は具体的な計画を何一つ持っていなかった。

 文部省の方でも捨松と梅子の処遇には、頭を悩ませていた。名門ヴァッサーカレッジの学士号を持った捨松は、実力から言えば大学の教職についてもおかしくなかったが、女性が大学で教えるなどという前例はなかった。

 文部省からは東京女子師範学校で教えるという仕事の申し出があったが、日本語の読み書きができなかったので、日本語の教科書を使い、日本語で黒板に書くこともできないので、断念せざるをえなかった。この頃の苦しい胸の内を、捨松はアメリカのベーコン家で姉妹同様に育ったアリスにこう書き送っている。

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アリス。人はよく祖国のために死ぬことは名誉あることだといいますが、祖国のために生きることの方がもっと大変なことだと思います。

もし、誰かが死ぬことで、日本のためになるのでしたら、私は喜んでその一人になるでしょう。でも、今日本が一番必要としているのは、心からこの国に貢献したいと願っている人達による息の長い仕事なのです。[1,p179]
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 しかし、捨松には、そのような仕事の機会はなかなか見つからなかった。


■3.大山巌

 いかに祖国のために生きていけばよいのか、と思い悩む捨松に結婚話が持ち込まれた。一度、別の男性から求婚されたときは、「お国のお陰で外国で修業できたのですから、まずその御恩をかえさねば結婚など出来ません」と断っていた。

 しかし、どうにも就職する道が見つからない状況で、捨松は結婚する事で別の道を見つけられるのではないか、と考えるようになった。

 結婚を申し込んできたのは、時の陸軍参議大山巌(いわお)42歳であった。24歳の捨松とは18も年が違い、前年に妻を亡くしたばかりで、7歳を頭に3人の娘がいる。

 大山巌は西郷隆盛の従兄にあたり、若い頃から近代兵器の開発に関心を持っていた。奇しくも、捨松が明治4(1871)年11月12日に米国に旅発った次の日に、大山は欧州留学の途についている。

 ヨーロッパで留学生活を送った大山は、自分の娘達にもぜひしっかりした教育を受けさせたいと願っていた。また時の政府高官として外国人とのつきあいも多く、社交の場に出しても立派に振る舞える夫人を必要としていた。

 そこに紹介されたのが捨松だった。英語はもちろん、フランス語、ドイツ語にも堪能で、日本で唯一の大学出の肩書きを持つ女性である。考えれば考えるほど、捨松は自分の伴侶にふさわしい女性だと思えてきた。

 捨松の方は話が持ち込まれた時、相手の人となりを納得の行くまで知った上で返事をしたいと申し出て、当時としては珍しくたびたび、今風に言えば大山とデートをした。そして結婚を決心した。


■4.「自分が誰かの幸せと安心のために必要とされている」

 結婚の決心を、捨松は次のようにアリスに書き送っている。

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 大山氏はとても素晴らしい方で、私は自分の将来を彼に託すことにしました。・・・

 私は今、未来に希望が持てるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じられることは、ともすれば憂鬱になる気持ちを癒やしてくれるなによりの薬となりますし、私に勇気を与えてくれます。[1,p195]
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 アメリカから帰国して1年後、明治16(1883)年11月8日、日本式の結婚式が行われ、その1ヶ月後、新装なった鹿鳴館で、大山巌は結婚披露の晩餐会を開いた。この日、招待を受けたアメリカ人の雑誌記者ジョン・ドワイトは大山夫人のデビューぶりを次のように書いている。

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 その夜は、約8百人の日本人と2百人程の外国人が招待されていた。伯爵夫人は、お客が入場する時、さらに退場する時にも一人一人と握手したばかりか、日本人には、一人につき6回はお辞儀をしたのである。もし、アメリカの婦人であったら、殺されてしまったかもしれない程の離れ業であった。・・・

「完璧なホステスぶり、今まで東京で開かれた一番素晴らしい夜会」これが伯爵夫人に送られた賞賛の言葉であった。[1,p201]
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■5.「鹿鳴館の花」の報国

 鹿鳴館は外国からの賓客を接遇するために明治政府の肝いりで作られた施設であった。当時の日本は欧米諸国から不平等条約を押しつけられており、外国人犯罪には日本の法律や裁判が適用できない、輸入品にかける関税も自由に決められない、という状態にあった。

 この不平等条約の改正の一助として、欧米流の社交施設を作り、日本が文明国であることを印象づけようとしたのである。

 しかし維新までは下級武士などであった政府高官たちやその妻が、急に礼服を着て、食事をしたり、ダンスをしても、西洋人の目から見れば、様にならない事、甚だしかった。

 当人たちにしても、そんな思いをするより、家で和服でくつろいでいた方がはるかに楽だったろう。しかし、そんな思いまでしても、なんとしても条約改正を、と願った先人の労苦に我々は思いをいたさなければならない。

 そんな中で、日本人離れしたプロポーションで夜会服を身にまとい、外国人と流暢な会話をしながら、軽やかなステップでダンスを踊る捨松は、一夜にして「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。

 しかし、その捨松にしても、コルセットで身動きできないほど身体を締め付け、ハイヒールの痛さを笑顔で隠してワルツを踊るのは、大変だったろう。しかも捨松は、7年余の鹿鳴館時代に、4人の子供を身ごもっている。

 捨松は、自分が鹿鳴館で華麗に踊り、ホステス役を務めることで、日本の文明開化ぶりを示し、それが少しでも条約改正に役立つならばと、その身の苦労を厭わなかった。


■6.日本最初の慈善バザー

 ある時、捨松は政府高官の夫人たちと病院を参観する機会があった。病室を訪れると、驚いたことに男性が病人の世話をしている。院長に「なぜ看護に女性を使わないのですか」と尋ね、米国での見聞から、女性の方がきめ細かな看護に向いている、と説明した。

 院長の答えは、「ごもっともですが、何分経費が足りず、看護婦養成所を作りたくともとても手が回りません」ということだった。そこで捨松は米国での慈善活動の経験を生かして、日本でバザーを開いて資金集めをしようと思い立った。

 捨松の音頭取りで、明治17(1884)年6月12日から3日間、日本で最初のバザーが鹿鳴館で開かれた。上流階級の夫人や令嬢たちが店を開いて品物を売るというので新聞紙上にも評判となり、皇族や政府高官たちも馬車や人力車で押しかけて大賑わいであった。

 鹿鳴館の二階に作られた売り場では、夫人や令嬢たちの作った人形、ハンカチ、竹細工、菓子などが並べられ、値段は市価よりも随分高くつけられた。客が買わずに通り過ぎようものなら、内務卿・山県有朋夫人、参議・西郷従道夫人など、そうそうたる夫人たちに捕まって、何か買わされてしまう。

 結局、3日間で約1万2千人が入場して、収益も目標の1千円をはるかに超える8千円にのぼり、全額が看護婦養成所設立のために寄付された。

 捨松はその後も、看護婦の育成に深い関心を持ち続け、日本赤十字社に働きかけて、「篤志看護婦人会」を設立した。


■7.「私達は日本の生存のために闘っているのです」

 明治37(1904)年7月、大山が日露戦争の満洲軍総司令官として出征すると、捨松は包帯作りから、募金集め、貧窮家庭の支援など、大車輪の活躍を始めた。その様子を捨松はアリスへの手紙で書き連ねた。

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 この戦争に対する国民の関心は非常に大きく、勝利を得るまでは、どんなことにも耐えていく覚悟でいます。天皇陛下から身分の低い労働者まで、日本人は皆一体となってベストを尽くしています。

戦争に勝つには前線で闘っている兵士達の力だけでは勝てません。国民の支持を受けていない軍隊は、けっして勝つことは出来ません。又、アメリカの皆様からの精神的な御支援も私共の心の大きな支えとなっているのです。[1,p289]
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 アリスは、捨松の活動を助けようと、この手紙をアメリカの新聞や週刊誌に公表して、日本への寄付金を募った。当時、アメリカの新聞は、大山元帥を「東洋のナポレオン」を賞賛し、その夫人が東部の名門女子大ヴァッサーカレッジの卒業生であることを誇らしげに書いていた。当然、その反響は大きかった。

 続々とアリスのもとに寄付が集まり、アリスはそれを捨松に送った。捨松は、その一人一人に礼状と領収書を書き送った。

 奉天会戦の勝利の後には、捨松は自らペンをとって、アメリカの全国版週刊誌「コリアーズ・ウィークリー」に投稿した。「戦時下における日本婦人の働き」と題して、日本の婦人たちが銃後を守るためにどんなに一生懸命働いているか、を書き綴った。その結びには次のような一文があった。

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 たくさんのアメリカ人が、日本に同情的であると聞いています。私達は日本の生存のために闘っているのです。私達の主張は正当で間違っていないと信じています。

私達は勝利を確信していますが、それにはもう何年も闘っていかなくてはなりません。アジアに永久平和をもたらすために。どんなに長い間でも戦う心の準備は出来ています。[1,p298]
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 いかにも武家出身の女性らしい凜とした言葉は、英国と戦って独立を勝ち取ったアメリカ人の独立精神に響くものがあったろう。


■8.大きな慰め

 日露戦争が終結し、夫も戦地から無事に帰ってくると、捨松にもようやく平穏な生活が戻ってきた。大山は、軍人は政治に関与すべきではない、という信念を貫いて、栃木県の那須野に農場を開いて、百姓仕事にいそしんだ。「私達は『仲の良い老夫婦』となりました」と、捨松はアリスに書き送っている。

 大正5(1916)年11月17日、大山巌は、大正天皇のお供をして九州福岡で行われた陸軍特別大演習を陪観した帰りの汽車の中で倒れ、3週間後、捨松ら家族に見守られながら、75歳の生涯を閉じた。

 葬儀は国葬によって執り行われ、式の最中、捨松はうなだれたままで、手にした扇子が小刻みに震えていたが、最後まで涙を見せなかった。

 身辺がようやく落ち着いてから、捨松はアリスに手紙を出した。

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 私にとって主人を失うということがどのようなことかは、あなたにお話しするまでもないと思います。私にとって大きな慰めだったことは、主人が天皇陛下にお仕えしている最中に亡くなったことです。

 もう一つ、私を慰めてくれたことは、主人が孫の顔を見ることができたことです。・・・2,3分でも赤ん坊を主人の病室に連れて行くと、とても嬉しそうにしていました。[1,p319]
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 夫の死後、捨松は公式の場から完全に身を引き、孫の相手をすることを何よりも楽しみとして過ごした。女子留学生第一号として、大山司令官夫人として、お国のために尽くしてきた捨松に、ようやく静かな日々が訪れたのであった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(745) 大山捨松(上) ~ 日本初の女子留学生
 12歳でアメリカに渡った捨松は、伸び伸びと育ちながらも、国を思う心は忘れなかった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201204article_4.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』★★★、中公文庫、H5
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122019990/japanontheg01-22/

■「大山捨松(下)~ 貴婦人の報国」に寄せられたおたより

■リード真澄さんより

 アメリカのテキサス州から毎回貴メルマガを楽しみに読ませて頂いています。今回の大山捨松のお話も、長年アメリカに住み、公立高校で日本語を教えて来た自分にとっても大きな励みになりました。
 さて、お聞き及びのことと思いますが、ニューヨーク市において、韓国人慰安婦の記念碑を建てる計画が進んでいるとのことです。

 つい先日も色々なメルマガで取り上げられていましたが、日本海を米国の教科書で「東海」「日本海」の併記とする様に署名を集めたことに酷似しています。歴史的な『事実」と異なっているのに、こういった主張をすることにより国際社会における日本の立場を弱め、韓国の立場を有利にし、政治的目的で使おうという意図が明白です。

 ここで私達が沈黙を続ければ、「嘘」であっても国際社会で「真実,事実」として解釈されてしまうのです。

なでしこアクション  Japanese Women for Justice and Peaceが、以下のリンクで、皆さんからニューヨーク市会議員宛に手紙を書く様、訴えています。私も今日、22名の議員に手紙を書きました。ご賛同頂ける方は、是非アクションを取って下さい。よろしくお願いします。

http://sakura.a.la9.jp/japan/

 数年前まで私自身も非常に自虐的な歴史観を抱いておりましたので、韓国や中国が第二次世界大戦中のことで日本をいかに(今更の様に)責めようと、仕方の無いことだと本当に思っておりました。

 東京裁判についての文献や書籍に触れ、その後、貴メルマガや多数、歴史の真実(と言い切るのは難しい部分がありますが)若しくは「別の見方」を知る様になり、自分の歴史観が本当に戦後の「日本が全面的に悪かった」と洗脳されて来たことに気付き、目から鱗が落ちるようでした。

 アメリカの高校教育ではcritical thinkingがよく話題になります。50代になって漸く自分が「色々なものの見方,考え方」に気付き、あらゆる事象について「なぜ?」という問いかけをし、本当の意味で学ぶ喜びを知り始めた様な気がしております。

 高校,大学時代にこの過程を経ていれば、また違った人生が送れたかなという気もしますが、今後更に学ぶ喜びを追求して行きたい、と同時に何か社会に(そして日本に)役立つことを実行して行きたいと(大山捨松のように)願ってやみません。

■編集長・伊勢雅臣より

 私の知る韓国の人々は、礼儀正しい良い人ばかりなのに、国際社会に出ると、どういうわけか、こういう人々が「活躍」するのですね。


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