No.783 水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル将軍

 敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。

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■1.日露友好の写真

 不思議な一葉の写真がある。日露戦争中、日本軍とロシア軍の幹部が仲良く肩寄せ合って並んだ記念撮影である。あまりにも自然に親しげにしているので、あたかも同盟国どうしの軍事演習での記念写真かのように見えるが、それは違う。[1]

画像



 これは両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営(すいしえい)の会見での記念写真である。通常、降伏した側は帯剣は許されないが、明治天皇からの「武士の名誉を保たしむべき」との聖旨を受けて、ステッセル将軍以下、軍装の上、勲章をつけ帯剣していた。

 同地にはアメリカの従軍映画技師もいて、この会見を映画撮影したいと申し入れていた。しかし、乃木希典(のぎ・まれすけ)将軍は敗軍の将にいささかも恥辱を与えてはならないとこれを許さず、この一枚の記念写真だけを認めたのである。

 会見の模様は、この写真とともに全世界に報道された。武士道精神に基づく乃木のステッセルへの仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた。世界はわずか5ヶ月での旅順要塞の陥落に驚愕し、またこの会見に感嘆した。

 この6年後、乃木はイギリス国王戴冠式に参列される東伏見宮依仁(よりひと)親王に東郷平八郎とともに随行してイギリスを訪問したが、イギリスの一新聞は「各国より多数の知名の士参列すべきも、誰か東郷、乃木両大将とその光輝を争いうる者があろう」と報じている。

 その後、乃木はフランス、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、トルコなどを歴訪したが、ある欧州人は「彼がほとんど全欧州諸国より受けた王侯に対するがごとき尊敬と希にみる所の賞賛」と形容している。


■2.「いかなる敵を引き受けても3年は支えることができる」

 明治37年2月、ロシアが満洲を蚕食し、さらに朝鮮半島にまで侵出する野望をあらわにすると、日本政府はこれ以上は座視できぬと国交を断絶した。

 5月、乃木は第三軍司令官に任ぜられた。3年前に師団長をしている際に、部下が不祥事を起こしたために、潔癖な乃木は自ら休職していたのだが、国家の非常時に、乃木ほどの人材を野に置いておく余裕はなかった。

 ロシアは長年の夢である不凍港を旅順に獲得し、そこに難攻不落の要塞を築いていた。この旅順攻略を、第三軍は命ぜられた。

 しかし、ロシア側は旅順要塞の防備について、徹底して秘密保持に努めたので、参謀本部にもその内情は分からなかった。情報不足のまま、参謀本部は旅順の敵兵力を約1万5千、火砲約2百門と見積もり、第三軍は総兵力約5万と3倍以上なので、一気呵成に攻略できるものと信じて疑わなかった。

 しかし、実際にはロシア軍は総兵力4万7千、火砲約500門を備えていた。しかも、ロシア側は6年もかけて近代的な大要塞を築いていた。旅順港を二重、三重に取り囲む100mから200m級のほとんど樹木のないはげ山の上に、強固なコンクリート壁に覆われた大小の堡塁と砲台をびっしりと並べた。

 堡塁は厚さ1~2mのコンクリートで固められ、その前には幅6~12m、深さ7~9mの壕が掘られている。さらにその外側には電流を通じた鉄条網が張り巡らされ、地雷まで埋められていた。

 クロパトキン陸相は「いかなる敵を引き受けても断じて3年は支えることができる」と自負したが、それも当然の大要塞であった。


■3.正攻法への転換

 要塞攻略には正攻法と強襲法がある。正攻法は時間をかけて要塞の近くまで塹壕を掘り進め、じっくり攻めていく。強襲法は塹壕など掘らずに、犠牲を覚悟で一気に攻める。

 大本営は第三軍が速やかに旅順を攻略し、満洲の主戦場に駆けつけることを命じていたので、第三軍は強襲法をとらざるをえなかった。

 明治37(1904)年8月19日、第1回総攻撃が開始された。2日間、200余門で砲撃を行ったが、堡塁はほとんど無傷であった。最も大きな砲が口径15センチだったが、その弾は1~2mの厚さのコンクリートに空しく跳ね返された。

 3日目には砲弾が不足してきた。大本営は要塞攻撃に十分な砲弾を第三軍に供給できていなかったのである。その中でも第三軍は突撃を繰り返し、主要な二つの堡塁を落とした。しかし、24日、とうとう砲弾が底をついて、乃木は涙をのんで、攻撃中止を命じた。総兵力5万中、約1万6千人の死傷者を出した。

 これを見て、乃木はほとんどの部下の反対を押し切って、断然、正攻法に切り替えた。堡塁の近くまで塹壕を掘り進め、そこから攻撃する。局地的攻撃では4つの攻撃目標のうち、3つの堡塁を落とした。

 9月14日には、28センチ榴弾砲が到着した。占領した堡塁を大本営の技術関係者が研究して、1~2メートルのコンクリート壁を打ち破るには、これしかないと、結論を出したのである。

 10月26日、第二回総攻撃が行われた。28センチ砲18門が約2千発の砲弾を叩き込んだが、命中率はそれほど高くはなかった。31日にはまた砲弾不足に陥り、乃木はまたしても攻撃中止を命ぜざるを得なかった。

 しかし、この攻撃で新たに二つの主要堡塁を落とし、包囲網を狭めた。また日本側は死傷者3800人と大幅に減り、ロシア側は4500人と日本側より損害が大きかった。乃木の戦略転換は確実に効果をあげていた。


■4.激戦につぐ激戦

 11月26日、第三回総攻撃が開始された。今回は地下道を掘って堡塁の地下から爆破する戦法が初めて試みられた。日本側は爆破口より突進したが、ロシア軍の反撃も凄まじかった。

 同日夜、目印として白襷(たすき)をかけた3千人の白襷隊が、夜襲をかけた。ロシア軍も機関銃、手榴弾などで必死に抗戦し、これを退けた。しかし白襷を血染めにして抜刀して襲ってくる姿に、ロシア側は「(精神的に)屈服した」と記録に残している。

 乃木は翌27日正面攻撃の中止を命ずるとともに、203高地の攻略に転じた。同高地からは旅順港内が見渡せ、そこに逃げ込んだままの太平洋艦隊を砲撃できる。バルチック艦隊がやってくる前に、太平洋艦隊を撃滅しなければ海戦での勝ち目はなかった。

 海軍から矢のような催促があったのだが、大山、児玉の満洲軍総司令部も旅順要塞そのものを落とさねば、第三軍を満洲の主戦場に呼び寄せることはできないので、あくまで要塞攻略を主眼としていたのである。

 しかし、旅順要塞が容易に落ちないまま、203高地奪取のタイムリミットである12月初旬が近づいている。満州軍総司令部の許可を得ぬままに、そちらに主目標を切り替える、という戦略転換を乃木は行った。

 ロシア軍も乃木の戦略転換を読み取り、203高地をめぐる9日間の戦いは、旅順攻囲戦での最大の激戦となった。日本側が突撃につぐ突撃で一角を落としても、ロシア側が熾烈な逆襲で奪い返すということが繰り返された。

 12月5日、ようやく203高地を奪取し、ただちに観測所を設けて、8日までに旅順港内に砲撃し、太平洋艦隊を全滅させた。

 しかし、それでも旅順要塞は降伏せず、第三軍がさらに1ヶ月近くかけて主要な堡塁を占領し終わった後、明くる1月1日にようやくステッセル司令官は降伏を申し出たのである。


■5.乃木愚将論の過ち

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、乃木を無謀な突撃を強いるだけの愚将として描いている。そして、児玉源太郎がやってきて、28センチ砲を使って203高地をあっという間に落とさせた、としているが、これは史実を曲げた記述である。

 乃木は児玉が到着する12月1日の前に203高地への戦略に転換しているし、28センチ砲は9月から使われていた。

 そもそも約6万人もの死傷者を出しながら、第三軍将兵が終始激烈に戦い抜いたのは、司令官としての乃木に信服していたからである。この結果、ロシア側が「3年は支えることができる」とした大要塞を約5ヶ月で陥落させることができた。

 第三軍はその後、すぐに満洲の主戦場に赴き、そこでもロシア軍に攻め込む中心的な働きをした。日本海海戦の東郷とともに、乃木が陸戦における中心人物として世界から称賛されたのも当然であった。

 日本側は死傷者約6万を出したが、その数をもって乃木を愚将とするのは正当ではない。ロシア側も2万7千人と、半数以上の死傷者を出している。

 この12年後、第一次大戦でドイツとフランスの要塞攻防戦であった「ヴェルダンの戦い」では、両軍合わせて70万人以上の死傷者を出した。旅順の戦いは、こうした膨大な犠牲者を生み出す近代戦の先例と位置づけるべきだろう。

 ただし、乃木自身はこれほどの死傷者を出したことを自らの大罪と受けとめ、この後は自らは質素な生活をしながら、俸給の大半を戦死者遺族の救済や傷病兵の医療に費やしている。


■6.「武士の名誉を保たしむべき」

 ステッセルの降伏が報ぜられると、明治天皇は深く喜ばれ、1月2日、山形参謀長を通じて、次の聖旨を送らせた。

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 陛下には、将官ステッセルが祖国のため尽くせし苦節を嘉(よみ)したまい、武士の名誉を保たしむべきことを望ませらる。
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 乃木はすぐにステッセルに特使を送ってこれを伝えた。翌日は、再度特使を送って、2両の輜重車(しちょうしゃ)に野菜を満載して、鶏、ブドウ酒と一緒に送った。ロシア軍が野菜不足で苦しんでいる、と特使から聞いたからである。

 こうして1月5日、名高い水師営の会見が行われた。乃木は挨拶の後、姿勢を改めて明治天皇の聖旨を伝えた。ステッセルは慇懃なる態度で「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき厚遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります」と答えた。

 その後、二人は席につき、なごやかな雰囲気のもとに語り合った。それはあたかも旧知の友のようであった。ステッセルは日本軍の不屈不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木はロシア軍の守備の頑強さを称えた。


■7.「昨日の敵は今日の友」

 そのあとステッセルは容(かたち)を改めて、乃木がこの戦いで二子を喪ったことを慰めた。乃木は微笑を湛(たた)えつつ、答えた。

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 私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所を得たることを悦んでおります。長子は南山に斃(たお)れ、次子は203高地において戦死しました。

かく彼ら両人がともに国家の犠牲となったことは、ひとり私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います。
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 いかにも古武士らしき乃木の言葉に、ステッセルは愕然として、「閣下は真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」と感嘆おくあたわざる面持ちであった。

 さらに乃木が、諸処に散在しているロシア軍の死没者の墳墓を一カ所に集め、その所在氏名を明らかにしたい、と述べると、ステッセルは驚きと喜びを溢れさせて言った。

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 閣下は実に死者のことまで注意されるか。厚意は謝するに言葉がありません。
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 この会見の後、双方は日本側の用意した昼食をとった。そこには5ヶ月にわたって凄惨な戦いを繰り広げた仇敵同士ではなく、まさに「昨日の敵は今日の友」との和気藹々とした空気が流れていた。

 そして、この後に、冒頭で紹介した両者対等に入り交じった記念撮影が行われたのである。


■8.「武士の情け」

 乃木のステッセルに対する「武士の情け」は、この後も続く。日露戦争後、ステッセルは旅順開城の責任を追及されて、重罪に処せられんとした。それを知った乃木は、当時パリにいた元第三軍参謀・津野田是重少佐に対して、ステッセルを弁護するよう依頼した。

 少佐は仏、英、独の新聞に投書して、開城はやむを得ざるものであり、ステッセルは立派に戦い抜いたことを詳しく述べた。これが奏功して、ステッセルは死刑の判決を特赦によって許され、モスクワ近郊の農村で静かに余生を送った。

 出獄したステッセルは一時、生活に困窮したが、それを知った乃木は名前を伏せて、しばしば少なくない金額を送った。逆に、乃木が明治天皇崩御の後に殉死した際、ステッセルは皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔慰金を「モスクワの一僧侶」とだけ記して送った。

 ステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と繰り返し語っていた。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(218) Father Nogi
 アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃木大将をいかに描いたか?
http://bit.ly/XAajG9

b. JOG(048) 「公」と「私」と
 私情を吐露しつつ公の為に立上がった日露戦争当時の国民
http://bit.ly/W61sAe

c. Wing(1569) ロシア人捕虜の墓を護る松山の人々
http://bit.ly/XCpvCv

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 岡田幹彦『乃木希典―高貴なる明治』★★★★、展転社、H13
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886561861/japanontheg01-22/

■「国史百景(3) 水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル?将軍」に寄せられたおたより

■直美さんより

 今回の乃木大將のお話は心にジ~ンと響くものがありました。

 私の年代(60代)ならかろうじて乃木大将のお名前ぐらいは頭の隅で聞いた覚えがありますが、今の小学生、中学生、高校生、大学生、20代の人たちはどうなのでしょうか? それらの人たち全てにこのお話を読んで知ってほしいと思います。

 日本の武士道は、ここに書かれているように人徳を尊び、正義に基づいて行為をしてきたことがよくわかります。人間としての品格に溢れ、これはどこの世界、いつの世でも大切にすべきことだと思います。

 あいにく今の世には悪意に満ちた人間が多く品格にかける人間が多いのは悲しいです。

■siketioさんより

 本日の記事は、本当に胸を打たれました。

 特に、乃木大将がステッセル将軍に名を伏せて援助をした件と、
それに応えて、ステッセル将軍が乃木大将の殉死に際し弔慰金を送った件については、両将の武人としての凛とした心構えに、ただただ圧倒されます。

自らの任務に誇り高く命を懸けて取り組んだ彼らに少しでも近づける様、自分も僅かずつでも精進して行きたい、と思った次第でありました。

■熊本護国生さんより

 明治帝及び乃木将軍閣下は昨年に大行及び帰幽から百年を経て百年祭が齋行されました。

 遍く聖徳を及ぼすことの意義は、乃木・ステッセル両将軍が後日いかに過ごしたか、その素行を通じて明らかでありますが、改めて感慨深く拝読仕りました。

 それに比して司馬氏は自らが対蒙古で勇躍を期し、ノモンハンでソ連を苦しめた戦車を駆りながらも、敗戦により自らの志を果たせなかったという鬱憤あるいは責任転嫁のため、巧妙に歴史作品を構築したものと存じます。

 坂本龍馬=自己のかつての雄志
 明治日本=自己の失敗を招いた元凶

 日本が満州に進出してさへいなければ、自分が惨めな憂き目に遭わずに済んだ筈、また乃木将軍閣下の勇戦を範として騙されなければ自分が対蒙古を志し挫折しなかった筈、という下賤な観念をもって粉塗を図ったがために、自らの青春を永久に肯定できない末路に踏み到った、憐れむべき姿態であろうものと愚考いたしております。

 氏が素直に自身の青春と我が国の雄飛を重ねて認識されておれば、例えば蒙古やチベットに関する論功なども、かつて蒙古への研鑽を深めた経歴を有為に活用し、共産支那に脅かされる悲劇に想いを寄せられたことでしょう。

 氏は満州チベット蒙古の正しい歴史認識については描けず、韃靼という過去に労を注いだ理由もかかる点にありそうです。

 我々は下記に添付するようなチベットの現在に想いを寄せる機会を通じて、乃木将軍閣下が明治帝の聖徳を体現すべく敵将兵に寄せられた遺徳に応えるばかりと思われてなりません。

■編集長・伊勢雅臣より

 乃木大将は日本近代最高の武人だったと言えますね。



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