No.788 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設

 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。

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■1.わずか16文字に隠された歴史のドラマ

 聖徳太子は内政と外交の両面で偉大な業績を残したが、外交面での東京書籍版の記述はわずか3行に過ぎない。

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 さらに、東アジアでの日本の立場を有利にし、中国の進んだ制度や文化を取り入れようと、小野妹子(おののいもこ)らを隋につかわし(遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました。[1,p33]
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 これに比べると、自由社版は4頁を割いて、内政・外交を関連させながら記述している。外交に関しては、こんな一節がある。

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 このときの隋の皇帝にあてた手紙には、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無(つつがな)きや」と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に服属しないという決意を表明したのだった。

 隋の皇帝・煬帝(ようだい)は、この手紙を無礼だとして激怒した。朝貢国が、世界に一人しか存在しない皇帝の別名である天子という称号を、みずからの君主の称号として用いるのは、許しがたいことだった。

しかし、高句麗との戦争をひかえていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた。[2,p52]
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 東書版で「東アジアでの日本の立場を有利にし」とわずか16字で済ましている裏には、これだけのドラマがあったのである。東書版で学ぶ中学生たちは、こんな面白いドラマを教えられることもないままく、歴史は暗記物でつまらないと思い込まされてしまうのである。


■2.太子の外交は最高の教材

 ドラマの面白さだけではない。この聖徳太子の事績は、その後の我が国の外交の基本を定めた重要なものとなった。

 すなわち、中国は世界の文明の中心であり、周辺の野蛮国は中国に服属し、朝貢しているという中華思想を拒否した事。これがその後の我が国外交の原則となった。

 太子の外交は、国家の独立と他国との友好を考える上での最高の教材であり、それを小学生の授業で使った事例を、弊誌311号「聖徳太子の大戦略」[a]で紹介した。教え方によっては、小学生でもここまで考えられるのか、という点に驚かされる。

 弊誌468号「日出づる国の防衛戦略」[b]は、太子の外交戦略がどのような経緯でもたらされたのかを紹介しているが、一般の大人でもこのぐらいを知っていれば、現代の外交問題を考える上での常識を持てるだろう。

 現代の中国は軍事力を異常に膨張させ、周辺海域の侵略に乗り出して、日本のみならず、韓国、台湾、フィリピン、ベトナムと対立している。中華思想には服従しないという聖徳太子以来の外交原則を今後も守っていけるのかどうか、我々は岐路に立っている。

 東書版では、我が国の外交のよって立つ基本原則も学ぶことができない。かつての民主党政権のような外交音痴は、こういう教科書から育つのだろう。


■3.太子の内政改革

 本稿では、聖徳太子の内政改革について、さらに詳しく見ていこう。東書版は、相変わらず、全文をここで引用できるほど素っ気ない記述に終始している。

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 女帝の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子が摂政になり、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、天皇を中心とする政治制度を整えようとしました。なかでも、冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を、役人に取り立てようとしたものです。

また、仏教や儒学の考え方を取り入れた十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました。[1,p32]
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 一方、自由社版は次のように述べている。

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 聖徳太子は、隋との対等な外交を進める前に、まず、国内の改革に着手した。蘇我氏の血筋を引く太子は、蘇我馬子と協力しながら政治を進めたが、本当のねらいは、豪族の力をおさえ、天皇を中心とした国家のしくみを整えることだった。

 603年、太子は、有力な豪族が役職を占める慣例を改め、家柄に関わりなく、国家のために優れた仕事をした人物を役人に採用する、冠位十二階の制度を取り入れた。

 次いで604年、太子は十七条憲法を定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公のためにはたらく役人の心構えと国家の理想が示された。人々の和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。[2,p51]
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 これだけの短い一節だが、比較すると、ずいぶん違いがある。


■4.「豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していく」

 まず十七条の憲法から比較してみよう。東書版は「天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました」と書く。自由社版は「豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していくことなどを求めた」とある。

 東書版のように「天皇の命令に従うべきこと」というと、単に中国流に専制国家を目指しただけのように、読めてしまう。その前に「中国や朝鮮に学んで」とあるから、なおさらだ。ちなみに、例の如く、ここでも唐突に朝鮮が出てくるが、朝鮮から何を学んだのかまったく不明である。

 それに対して、自由社版の「豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していく」という記述には、大きな違いがある。

 豪族の争いとは、それ以前に蘇我氏が物部氏を戦って滅ぼした事などを指す。仏教導入、そして皇位継承に関して、両豪族が争ったのだが、その根底には当時の日本が諸豪族の連合国家であった、という構造的な問題があった。さらに蘇我馬子は自ら擁立した崇峻天皇を弑逆(しいぎゃく)するという空前絶後の事件まで起こしている。

 国内がこんな分裂状態では、対外的にまともな外交などできるはずもない。この背景を知れば、「聖徳太子は、隋との対等な外交を進める前に、まず、国内の改革に着手した」という自由社版の一節がよく理解できるだろう。


■5.蘇我馬子をおとなしくさせた太子

 蘇我氏がライバルを倒して絶対的な権限を握り、前天皇まで弑逆したとすれば、朝廷の実権は完全に馬子が握っていたと考えられる。そういう状況の中では、通常、太子がとりうる道は二つしか考えられない。一つは馬子の傀儡(かいらい)になること、もう一つは馬子を倒して、実権を握ることである。

 東書版のように「女帝の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子が摂政になり、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力しながら」では、いかにも太子は血筋のおかげで摂政になり、馬子の傀儡(かいらい)となったというような書きぶりだが、これは事の真相を隠した巧みな「偏向報道」である。

 聖徳太子が内政改革と対隋対等外交に乗り出した途端に、蘇我馬子は横暴な振る舞いをやめて、妙におとなしくなってしまうのである。蘇我氏が再び牙をむくのは、馬子の子、入鹿が太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を643年に亡ぼした事件である。太子の没後、20年以上も後のことであった。

 太子の人格と思想、政治的手腕は、暴虐な馬子すらも大人しくさせるほどのものであったと言えるのではないか。

 また、太子は馬子を倒して実権を奪うという道も選ばなかった。これが中国や朝鮮であれば、相手を亡ぼさなければ、帝位を奪われてしまう。中国や朝鮮の王朝が何度も入れ替わっているのは、この繰り返しからである。

 しかし、太子はこの道も選ばなかった。後述するように、太子の理想は、日本を豪族どうしの連合国家から、天皇を統合の中心として、「公のためにはたらく役人」が国家国民のために尽くす、平和的な統一国家に作り替えることであった。

 そのためには、馬子をも平和的に新しい国家の中に取り込まなければならなかった。太子はそういう難しい道を歩み、成功したのである。


■6.太子の描いた理想の国家

 太子が十七条の憲法で描いた理想の国家を、歴史学者の坂本太郎・東大名誉教授は、次のように説いている。

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 第一に、国家は君と臣と民との三つの身分で構成される。おのおのがその分を守って国家のために尽くす時、国家は永久に栄えるということである。

 君は天皇、臣は朝廷に仕える役人、そして民は一般の人々だ。・・・ 天皇は、臣や民とはかけはなれた高い地位にあるが、礼を重んじ、信を尊び、賢い人を役人にして、民の生活を安定させねばならぬ。

臣は、君の命をうけて、私(わたくし)をすて、公(おおやけ)に向かい、公平な政治を行わなければならぬ。民は、臣の導きによって、おのおのの職分につとめねばならぬ。[3,p159]
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 君と臣と民を、国家元首と政治家・官僚、国民と言い換えれば、これは現代の多くの国家に共有されている国家構成の原理である。

「天皇を中心に」ということは日本国憲法流に言えば、天皇を「国家統合の象徴」とするということであり、国体論から言えば、「ひたすらに民の幸せを無私に祈る天皇が民を知らす」[c]ということである。

 皇帝が土地も民も自らの私有財産として専横をふるう中国の国家体制(この構造は、現代の中国共産党も同様だが)とは、原理的に異なっていることを知る必要がある。この点で、東書版が「中国や朝鮮に学んで、天皇を中心とする政治制度」としているのは、執筆者たちの見識不足と考える。


■7.冠位十二階に込められた理想国家への道筋

 十七条憲法に込められた太子の理想の国家像が理解できれば、冠位十二階の狙いもよく分かる。十七条の中には、役人の仕事のありかたを具体的に説いた項目が多い。自由社版は17条すべてを現代語訳で掲載しているが、たとえば以下のようなものがある。

第4条 役人は、人の守るべき道をすべての根本とせよ。
第12条 地方官は人民から税をむさぼり取ってはならない。
第15条 私心を捨てて、公の立場に立つのが、君主につかえる者のつとめだ。

 理想の国家を実現するには、臣、すなわち役人が、天皇の民の幸せを祈る無私の心を体して、民を護り導かねばならない。そして、私心を捨てて民のために尽くす役人を評価し、取り立てようとしたのが、冠位十二階の制度であろう。憲法17条と冠位12階は、太子の理想とする国作りを目指すための両輪なのである。

 東書版の「冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を、役人に取り立てようとしたものです」は事実ではあるが、これを単に能力主義と見なしたのでは、太子の理想的国家建設との関連が見えてこない。


■8.和やかな美しい国を作ろうという理想

 太子が目指したのは、政治的改革に留まらない。国家の精神的改革も含まれていた。坂本太郎氏はさらにこう説く。

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 第二に、このような国家は、権力で支配し、支配されるだけのものであってはならない。人はみな仏の教えに従い、ひとしく凡夫(ただの人)であるという自覚に立って、相手の立場を尊び、我を通してはならない。

それは一口にいえば、和の精神を実行することである。人がみな和の心を持って争いを止めれば、この世は和やかな理想の国となる。それは単に政治のうえで統一せられた国というだけでなく、精神のうえで、道議のうえでも、一つになった美しい国家だ。[3,p159]
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「和を以て貴しとなす」とは、よく誤解されるように単に仲良くすることが大切だというような道徳的教訓を述べたものではない。自分を凡夫と自覚して、だからこそ他者と力と知恵を合わせて、和やかな美しい国を作っていこうとする理想なのである。「和」はこの太子の理想の中核であり、かつ自由社版のいうように「人々の和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった」。[d]

 しかし、東書版では本文で「和」に言及することなく、「仏教や儒学の考え方を取り入れた十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました」という記述では、中学生たちは太子の美しい理想に気がつかずに素通りしてしまう。

 確かに17条憲法の「和を以て」を含む最初の3条はコラムで引用されているが、なんの解説もなく、ここから太子の理想を読みとれる生徒がいるはずもない。

 多感な中学生の頃にこそ、太子の美しい理想にふれることで、日本人としての情操を養う機会なのだが、そういう機会を東書版で学ぶ多くの中学生は奪われているのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(311) 聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取ったのか?
http://bit.ly/Yp6Lsn

b. JOG(468) 日出づる国の防衛戦略
 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
http://bit.ly/XBhEcO

c. JOG(736) 井上毅 ~ 有徳国家をめざして(下)
 井上毅が発見した我が国の国家成立の原理は、また教育の淵源をなすものであった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201202article_7.html

d.JOG(602) 外国人の見た「大いなる和の国」
「私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの」
http://bit.ly/VV2lLv

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

2. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

3. 坂本太郎『日本の歴史文庫〈2〉国家の誕生』★★★、講談社、S50

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