No.799 歴史教科書読み比べ(9) ~ 大化の改新 権力闘争か、理想国家建設か
聖徳太子の描いた理想国家を具現化しようとしたのが大化の改新だった。
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■1.「戦争に備える国づくり」と「独裁的な政治に対する不満」
大化の改新前夜の国内外の状況を東京書籍(東書)版は以下のように説明する。
__________
7世紀の中ごろ、唐が対立する高句麗(コグリョ、こうくり)を攻撃し、そのために朝鮮半島の国々では緊張が高まりました。日本でも戦争に備える国づくりを急がなければなりませんでしたが、そのころ国内では、蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていました。[1,p33]
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高句麗にわざわざ「コグリョ」と朝鮮語読みのふりがなをふっているのは、以前にも述べたが[a]、東書版に見られる半島への不見識なおべっかである。高句麗を朝鮮語で読み仮名をふるなら、なぜ唐の方には中国語読みを書かないのか。
ちなみに同じ状況を、自由社版はこう記す。
__________
7世紀の中ごろになると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃した。朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機を感じ国家の体制を強化しなければならなかった。[2,p68]
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この「日本も危機を感じ」に比べれば、「戦争に備える国づくり」とは、いかにも軍国主義と言わんばかりの表現である。特に、同じ頁で、半分近くものスペースを使って、「大野城と水城(みずき) 九州の博多湾の近くに作られた軍事用の施設です」という説明で、巨大な山城と水城の鳥瞰図を載せている。これが「戦争に備える国づくり」という事の説明なのだろうか。「軍事用」というよりは、「防衛用」としか思えないが。
そうした「戦争に備える国づくり」と、「そのころ国内では蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていた」という次の一節との脈絡がまったくついていない。両者はたまたま同時に生じた出来事なのか。
■2.「聖徳太子の理想を受けつぎ」
東書版の言う「蘇我氏の独裁的な政治」を、自由社版は「蘇我氏の専横」と節を改めて、次のように具体的に述べている。
__________
ところが、聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏の一族が専横を極めるようになった。蘇我馬子(そがのうまこ)の子の蝦夷(えみし)は、天皇のようにふるまい、自分の息子をすべて王子と呼ばせた。蝦夷の子の入鹿(いるか)も、聖徳太子の長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめ、太子の一族を一人残らず死に追いやった。
やがて、聖徳太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりを求める機運が生まれた。このころ、太子が派遣した留学生があいついで帰国し、唐の進んだ政治制度を伝えたことも、改革の機運を高めた。[2,p54]
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「蘇我氏の専横に対する不満」と言うと、単なる権力争いの中での恨み、やっかみのようだが、「聖徳太子の理想を受けつぎ」という一言で、まったく違った光景が見えてくる。「歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設」[a]で述べたように、太子の理想とは「豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していく」という事だった。
この太子の理想は、同時に唐の圧力に対して、「国家の体制を強化」するための道だった。そして、専横をふるう蘇我氏が、その道を妨げていたのである。「天皇のようにふるまい」「息子をすべて王子」を呼ばせるとは、いずれ皇室を打倒して、取って代わろうという野望を持っていたのだろう。
蘇我馬子は崇峻天皇を弑逆し、その孫の入鹿は聖徳太子の理想を受けついだ御子の山背大兄王一族を亡ぼした。蘇我一族には野望のためには悪逆をも厭わない精神が流れていたようである。
民を大御宝と呼び、その幸せを祈る伝統を継承してきた皇室を、もし蘇我氏が打倒して王家となっていたら、我が国の歴史は中国大陸のように権力闘争と戦乱にまみれたものになっていただろう。
■3.「身を捨てて、国のもといを固くするのも、また男ではないか」
山背大兄王については、東書版では名前すら出てこず、自由社版でも「聖徳太子の長男」としてしか述べられていないが、大兄王一族の滅亡は、我が国の歴史の中でも美しくも哀しい一幕で、教室ではぜひ先生方に物語って貰いたいところである。以下の坂本太郎・東大名誉教授の記述は、中学生の心にも訴えかけるものがあろう。
蘇我入鹿は国中の人民を勝手に招集して、皇室を真似して、父・蝦夷と自分のために陵(みささぎ、巨大な墓)を作らせた。天下の人心が蘇我氏を離れ、山背大兄王に向かうと、643(皇極天皇2)年11月、入鹿は軍勢を出し、斑鳩の王の住居を襲った。
王の従者たちは戦ったが、多勢に無勢。王は妻子とともに、近くの生駒山に逃れた。一人の従者が、「いったん東国に逃れて、所領の人民を率いて戦いましょう」と進言した。王はその勧めを聞かなかった。
__________
「おまえのいうとおりにすれば、勝つことは間違いあるまい。だが、わたしは十年の間、人民を使うまいと心に決めている。わたし一身のために、どうしても多くの人々に苦労をかけることができよう。
またわたしについて戦ったために、親を失った嘆きを人民たちに与えたくない。戦いに勝つばかりが男ではない。身を捨てて、国のもといを固くするのも、また男ではないか。」[3,p200]
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王は法隆寺に入り、「わが身を入鹿に賜う」と述べて、妻子・兄弟23人、一族とともに自害して果てた。坂本博士は、こう結ぶ。
__________
非は相手にあるにもかかわらず、なおわが身を捨てて人々に苦労をかけまいというこの行為は、仏の教えそのままの実行であった。父聖徳太子の感化がどんなに偉大であったかもおしはかられる。古代史上たぐいない、美しい人間精神の表れであるといえよう。[3,p201]
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このような「美しい人間精神」に触れるのも、歴史教育の意義の一つでなければならない。
■4.蘇我氏滅亡
山背大兄王の「身を捨てて、国のもといを固くする」という覚悟は、大化の改新によって、わずか2年で現実のものとなっていく。自由社版の言う「聖徳太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりを求める機運」が生まれたのである。
__________
蘇我氏をたおす計画を心に秘めていたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)であった。鎌足は、蹴鞠(けまり)の会を通じて皇子に接近し、2人は心の中を打ち明けあうようになった。それから1年半をへた645年6月、朝鮮からの使者をむかえると、中大兄皇子は蘇我入鹿を朝廷にさそい出して斬り殺した。蝦夷は屋敷に火をつけて自害し、蘇我氏は滅亡した。[2,p55]
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さらに自由社版では、入鹿殺害の光景を描いた半頁ほどの絵巻を掲載している。刀を振り上げる皇子、弓を持った鎌足、首を落とされた入鹿、驚く天皇と、臨場感あふれる描写となっている。
この部分を、東書版では、冒頭の「蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていました」に続いて、こう書く。
__________
この情勢を見た中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、645年、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らとともに蘇我氏をたおし、新しい政治のしくみをつくる改革を始めました。[1,p33]
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わずか3行のみである。出来事のあらすじだけを追った記述で、中学生の心に訴えかけるものは何もない。
■5.日本独自の年号を始めた意義
新政権が最初に取り組んだのは、日本独自の年号を立てることであった。自由社版によれば:
__________
この年、朝廷は日本で最初の年号を立てて、大化元年とした。東アジアで中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を制定して使用し続けた国は、日本だけであった。[2,p55]
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日本独自の年号を持つ目的と意義を、坂本博士はこう解説している。
__________
このたび、新政を行おうとして年号を立てたのは当然だった。それは、国内に君主威令をおよぼすとともに、国外に、独立国としての日本の存在を宣言したものである。服属の関係にある国は自国の年号を持たず、宗主国の年号を使う。新羅が唐の年号を用い、高麗が宋や元の年号を使ったのはその例である。
昔の年号には、そうした重大な意義があった。だから、後に幕府が政治を行った時代でも、改元だけは、天皇でなければ行えないものとされていた。[3,p213]
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年号について、東書版ではこう記すのみである。
__________
このとき、はじめて「大化」という年号が使われたといわれるので、この改革を「大化の改新」といいます。[1,p33]
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これでは元号の開始という事実は伝わっても、その意義や、それに込められ我が先人だちの新国家建設の意気込みは伝わらない。
独自の年号を持つことは、我が国の独立国家としの立国の精神のあらわれであり、それを理解することは、日本国民としての基本的教養であると弊誌は考える。それを中学生に教えるには、この大化の改新こそ、最もふさわしい歴史場面なのである。
■6.公地公民の狙い
新政権は、いよいよ国内体制の変革を始める。その内容を、東書版は次のように説明する。
__________
皇子は、鎌足や帰国した留学生らの協力を得ながら、それまで豪族が支配していた土地と人々とを、公地(こうち)・公民(こうみん)として国家の直接の支配のもとに置こうとしました。また、政府の組織を整えて、権力(けんりょく)の集中をめざしました。[1,p33]
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これでは生徒たちは、権力争いに勝った皇子が、さらに絶対的権力を握ろうとした、と読んでしまうだろう。特に「国家の直接の支配」とか、「権力の集中」などというマルクス主義臭のする用語を使っているので、なおさらである。
同じ部分を、自由社版は、こう説く。
__________
翌年には、これまで皇族や豪族が私有していた土地と人民を、国家が直接統治する、公地(こうち)公民(こうみん)の方針を打ち出した。
大化元年に始まるこの改革を、大化の改新と呼ぶ、大化の改新は、聖徳太子以来の理想を実現するために、天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった。[2,p55]
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東書版のように、豪族も国家も同じく「支配」という言葉を使っていたのでは、単に権力が移っただけと思ってしまうが、「私有」から「直接統治」と言えば、その違いが見えてくる。
各豪族がそれぞれ民と土地を私有していた部族連合国家から脱して、天皇を統合の中心とする統一国家にしていこう、というのが、大化の改新の狙いだった。
■7.太子の国家建設の理想を受け継いだ大化の改新
坂本博士は、公地公民の狙いを、土地を国家のものとし、6歳以上の人民に一様に口分田を授けた、班田収受の法と同じ精神だったとして、こう解説している。
__________
それまで、土地も人民も各豪族が支配していた。農民たちは、自分の土地をまったく持たず、米その他の生産物の大半を貢納することで、耕作させてもらう小作人にほかならなかった。そうした人民の苦しみを救うことは、新政の大きなねらいの一つであった。[3,p221]
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人民を「大御宝」と呼び、その安寧を神に祈るのが天皇の祀(まつ)り事であり、またそれを現実の国家として具現化しようとしたのが、皇室の伝統的な政(まつりごと)であった。
その伝統の上に、天皇を統合の中心として臣(官僚)と民が「和」の心を持って力を合わせていく国家という理想を描いたのが、聖徳太子であった。[a]
太子の長男・山背大兄王は惜しくも蘇我氏の兇刃に倒れたが、その悲劇を乗り越えて、聖徳太子の国家建設の理想を具現化しようとしたのが、大化の改新であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201303article_1.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
2. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/
3. 坂本太郎『日本の歴史文庫〈2〉国家の誕生』★★★、講談社、S50
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■1.「戦争に備える国づくり」と「独裁的な政治に対する不満」
大化の改新前夜の国内外の状況を東京書籍(東書)版は以下のように説明する。
__________
7世紀の中ごろ、唐が対立する高句麗(コグリョ、こうくり)を攻撃し、そのために朝鮮半島の国々では緊張が高まりました。日本でも戦争に備える国づくりを急がなければなりませんでしたが、そのころ国内では、蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていました。[1,p33]
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高句麗にわざわざ「コグリョ」と朝鮮語読みのふりがなをふっているのは、以前にも述べたが[a]、東書版に見られる半島への不見識なおべっかである。高句麗を朝鮮語で読み仮名をふるなら、なぜ唐の方には中国語読みを書かないのか。
ちなみに同じ状況を、自由社版はこう記す。
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7世紀の中ごろになると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃した。朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機を感じ国家の体制を強化しなければならなかった。[2,p68]
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この「日本も危機を感じ」に比べれば、「戦争に備える国づくり」とは、いかにも軍国主義と言わんばかりの表現である。特に、同じ頁で、半分近くものスペースを使って、「大野城と水城(みずき) 九州の博多湾の近くに作られた軍事用の施設です」という説明で、巨大な山城と水城の鳥瞰図を載せている。これが「戦争に備える国づくり」という事の説明なのだろうか。「軍事用」というよりは、「防衛用」としか思えないが。
そうした「戦争に備える国づくり」と、「そのころ国内では蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていた」という次の一節との脈絡がまったくついていない。両者はたまたま同時に生じた出来事なのか。
■2.「聖徳太子の理想を受けつぎ」
東書版の言う「蘇我氏の独裁的な政治」を、自由社版は「蘇我氏の専横」と節を改めて、次のように具体的に述べている。
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ところが、聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏の一族が専横を極めるようになった。蘇我馬子(そがのうまこ)の子の蝦夷(えみし)は、天皇のようにふるまい、自分の息子をすべて王子と呼ばせた。蝦夷の子の入鹿(いるか)も、聖徳太子の長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめ、太子の一族を一人残らず死に追いやった。
やがて、聖徳太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりを求める機運が生まれた。このころ、太子が派遣した留学生があいついで帰国し、唐の進んだ政治制度を伝えたことも、改革の機運を高めた。[2,p54]
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「蘇我氏の専横に対する不満」と言うと、単なる権力争いの中での恨み、やっかみのようだが、「聖徳太子の理想を受けつぎ」という一言で、まったく違った光景が見えてくる。「歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設」[a]で述べたように、太子の理想とは「豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していく」という事だった。
この太子の理想は、同時に唐の圧力に対して、「国家の体制を強化」するための道だった。そして、専横をふるう蘇我氏が、その道を妨げていたのである。「天皇のようにふるまい」「息子をすべて王子」を呼ばせるとは、いずれ皇室を打倒して、取って代わろうという野望を持っていたのだろう。
蘇我馬子は崇峻天皇を弑逆し、その孫の入鹿は聖徳太子の理想を受けついだ御子の山背大兄王一族を亡ぼした。蘇我一族には野望のためには悪逆をも厭わない精神が流れていたようである。
民を大御宝と呼び、その幸せを祈る伝統を継承してきた皇室を、もし蘇我氏が打倒して王家となっていたら、我が国の歴史は中国大陸のように権力闘争と戦乱にまみれたものになっていただろう。
■3.「身を捨てて、国のもといを固くするのも、また男ではないか」
山背大兄王については、東書版では名前すら出てこず、自由社版でも「聖徳太子の長男」としてしか述べられていないが、大兄王一族の滅亡は、我が国の歴史の中でも美しくも哀しい一幕で、教室ではぜひ先生方に物語って貰いたいところである。以下の坂本太郎・東大名誉教授の記述は、中学生の心にも訴えかけるものがあろう。
蘇我入鹿は国中の人民を勝手に招集して、皇室を真似して、父・蝦夷と自分のために陵(みささぎ、巨大な墓)を作らせた。天下の人心が蘇我氏を離れ、山背大兄王に向かうと、643(皇極天皇2)年11月、入鹿は軍勢を出し、斑鳩の王の住居を襲った。
王の従者たちは戦ったが、多勢に無勢。王は妻子とともに、近くの生駒山に逃れた。一人の従者が、「いったん東国に逃れて、所領の人民を率いて戦いましょう」と進言した。王はその勧めを聞かなかった。
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「おまえのいうとおりにすれば、勝つことは間違いあるまい。だが、わたしは十年の間、人民を使うまいと心に決めている。わたし一身のために、どうしても多くの人々に苦労をかけることができよう。
またわたしについて戦ったために、親を失った嘆きを人民たちに与えたくない。戦いに勝つばかりが男ではない。身を捨てて、国のもといを固くするのも、また男ではないか。」[3,p200]
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王は法隆寺に入り、「わが身を入鹿に賜う」と述べて、妻子・兄弟23人、一族とともに自害して果てた。坂本博士は、こう結ぶ。
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非は相手にあるにもかかわらず、なおわが身を捨てて人々に苦労をかけまいというこの行為は、仏の教えそのままの実行であった。父聖徳太子の感化がどんなに偉大であったかもおしはかられる。古代史上たぐいない、美しい人間精神の表れであるといえよう。[3,p201]
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このような「美しい人間精神」に触れるのも、歴史教育の意義の一つでなければならない。
■4.蘇我氏滅亡
山背大兄王の「身を捨てて、国のもといを固くする」という覚悟は、大化の改新によって、わずか2年で現実のものとなっていく。自由社版の言う「聖徳太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりを求める機運」が生まれたのである。
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さらに自由社版では、入鹿殺害の光景を描いた半頁ほどの絵巻を掲載している。刀を振り上げる皇子、弓を持った鎌足、首を落とされた入鹿、驚く天皇と、臨場感あふれる描写となっている。
この部分を、東書版では、冒頭の「蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていました」に続いて、こう書く。
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この情勢を見た中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、645年、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らとともに蘇我氏をたおし、新しい政治のしくみをつくる改革を始めました。[1,p33]
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わずか3行のみである。出来事のあらすじだけを追った記述で、中学生の心に訴えかけるものは何もない。
■5.日本独自の年号を始めた意義
新政権が最初に取り組んだのは、日本独自の年号を立てることであった。自由社版によれば:
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この年、朝廷は日本で最初の年号を立てて、大化元年とした。東アジアで中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を制定して使用し続けた国は、日本だけであった。[2,p55]
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日本独自の年号を持つ目的と意義を、坂本博士はこう解説している。
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このたび、新政を行おうとして年号を立てたのは当然だった。それは、国内に君主威令をおよぼすとともに、国外に、独立国としての日本の存在を宣言したものである。服属の関係にある国は自国の年号を持たず、宗主国の年号を使う。新羅が唐の年号を用い、高麗が宋や元の年号を使ったのはその例である。
昔の年号には、そうした重大な意義があった。だから、後に幕府が政治を行った時代でも、改元だけは、天皇でなければ行えないものとされていた。[3,p213]
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年号について、東書版ではこう記すのみである。
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このとき、はじめて「大化」という年号が使われたといわれるので、この改革を「大化の改新」といいます。[1,p33]
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これでは元号の開始という事実は伝わっても、その意義や、それに込められ我が先人だちの新国家建設の意気込みは伝わらない。
独自の年号を持つことは、我が国の独立国家としの立国の精神のあらわれであり、それを理解することは、日本国民としての基本的教養であると弊誌は考える。それを中学生に教えるには、この大化の改新こそ、最もふさわしい歴史場面なのである。
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新政権は、いよいよ国内体制の変革を始める。その内容を、東書版は次のように説明する。
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皇子は、鎌足や帰国した留学生らの協力を得ながら、それまで豪族が支配していた土地と人々とを、公地(こうち)・公民(こうみん)として国家の直接の支配のもとに置こうとしました。また、政府の組織を整えて、権力(けんりょく)の集中をめざしました。[1,p33]
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これでは生徒たちは、権力争いに勝った皇子が、さらに絶対的権力を握ろうとした、と読んでしまうだろう。特に「国家の直接の支配」とか、「権力の集中」などというマルクス主義臭のする用語を使っているので、なおさらである。
同じ部分を、自由社版は、こう説く。
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翌年には、これまで皇族や豪族が私有していた土地と人民を、国家が直接統治する、公地(こうち)公民(こうみん)の方針を打ち出した。
大化元年に始まるこの改革を、大化の改新と呼ぶ、大化の改新は、聖徳太子以来の理想を実現するために、天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった。[2,p55]
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東書版のように、豪族も国家も同じく「支配」という言葉を使っていたのでは、単に権力が移っただけと思ってしまうが、「私有」から「直接統治」と言えば、その違いが見えてくる。
各豪族がそれぞれ民と土地を私有していた部族連合国家から脱して、天皇を統合の中心とする統一国家にしていこう、というのが、大化の改新の狙いだった。
■7.太子の国家建設の理想を受け継いだ大化の改新
坂本博士は、公地公民の狙いを、土地を国家のものとし、6歳以上の人民に一様に口分田を授けた、班田収受の法と同じ精神だったとして、こう解説している。
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それまで、土地も人民も各豪族が支配していた。農民たちは、自分の土地をまったく持たず、米その他の生産物の大半を貢納することで、耕作させてもらう小作人にほかならなかった。そうした人民の苦しみを救うことは、新政の大きなねらいの一つであった。[3,p221]
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人民を「大御宝」と呼び、その安寧を神に祈るのが天皇の祀(まつ)り事であり、またそれを現実の国家として具現化しようとしたのが、皇室の伝統的な政(まつりごと)であった。
その伝統の上に、天皇を統合の中心として臣(官僚)と民が「和」の心を持って力を合わせていく国家という理想を描いたのが、聖徳太子であった。[a]
太子の長男・山背大兄王は惜しくも蘇我氏の兇刃に倒れたが、その悲劇を乗り越えて、聖徳太子の国家建設の理想を具現化しようとしたのが、大化の改新であった。
(文責:伊勢雅臣)
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a. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
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1.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
2. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
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