No.813 11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から
「ソ連兵が上陸してくる」との突然の警告に、11歳の擁子と母、姉3人の満洲国境近くから母国日本への逃避行が始まった。
■転送歓迎■ H25.09.01 ■ 42,687 Copies ■ 3,734,715Views■
■1.「私も娘もこの本を読みました」
「1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。中学校の教材として採択された感動秘話」。
『竹林はるかに遠く』日本語版のAmasonでの紹介である。日本語版は発売されてからまだ2ヶ月も経っていないが122件ものレビューが寄せられ、うち109件、89%が「星5つ」をつけている。
アメリカのAmasonでも同様のようで、115件のレビューが寄せられている。しかし、在米韓国人からの批判も多く、「星5つ」が77件、「星1つ」が20件と、評価が両極端に分かれている。一般の米人読者と思われる「星5つ」のレビューでは、
__________
私も娘もこの本を読みました。この本が大好きになりました。
この本が素晴らしいのは、戦争がいかにお年寄りや女性や子供たち、家族全体に惨(むご)いものかを示している所です。
なぜ、この本を学校で子供たちに読ませてはいけないのか、分かりません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「学校で子供たちに読ませてはいけない」というのは、韓国で「この本に反対しよう」という新聞記事が出て、米Amasonのレビューにも「星1つ」で「歴史をねじ曲げている」云々のいかにも韓国人の書いたと思われる意見が寄せられているからだ。韓国ではこの本は販売禁止にされているという。
この本を読んでみると、事実を冷静に述べながらも、ぐいぐいと読者を引っ張る語り口で、上記の「素晴らしい」という感想に私も共感した。しかし、「読ませてはいけない」という韓国人の気持ちも理解できる。なにしろ登場する韓国・朝鮮人たちは、主人公の兄を助けた1家族を除いて、残虐な共産主義者や非情な人間が目立つからだ。
また、そんな修羅場でも主人公たちを助けてくれる何人かの日本人の姿も描かれている。胸に迫るこの物語を読めば、「星1つ」をつけたレビューが負け犬の遠吠えに聞こえてくる。
これは一人の少女が自らの体験を一人称で語った迫真の物語である。こういう歴史があったことを、日本人としても知るべきだろう。本号で、そのさわりだけでも、味わって貰いたい。
■2.「すぐに避難するよう」
1945(昭和20)年7月29日真夜中のことだった。朝鮮北部の羅南(ラナム)、満洲との国境線から80キロほど離れたこの古い町から、11歳の川嶋擁子(ようこ)と16歳の姉・好(こう)は母親と一緒に脱出した。満洲鉄道に勤務する父は家におらず、また長男の淑世(ひでよ)も勤労動員で、30キロ離れた兵器工場に行っていた。
きっかけは、真夜中に松村伍長がやってきて、すぐに避難するように警告したことだった。まもなくソ連兵が上陸してきて、満鉄に働く人の家族は殺されてしまうでしょう、という。
松村伍長は、かつて重傷を負って入院していた時、擁子が日本舞踊で慰問をしたことで、生きる気力を取り戻し、元気になった。その後、擁子の家に出入りするようになっていた。
「日本人の病人を避難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が、朝4時に羅南駅を出発します。それにあなたたちが乗れるよう、私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです、、、」
話し声に目を覚ました擁子のおでこに唇をあて、「君のことは忘れないよ」と言って去ろうとする松村伍長を呼び止めて、擁子は「武運長久」と書いてある半紙を渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」と言って、暗闇の中に消えていった。
父親と兄・淑世に置き手紙をし、3人は取り急いで荷物を風呂敷にまとめて家を出た。
■3.「乗せてあげなさい!」
3人は駅までの川沿いの道を歩いた。大きな窪みがいくつもあり、擁子がそれにつまづく度に、母親が手首を結んだ細引きを引っ張って起こしてくれた。細引きが手首を擦って痛かった。
「気分が悪いよぉ、、、」。擁子は半泣きで言った。「静かに」と母はささやいた。耳を澄ますと、遠くに軍隊の足音がした。3人は急斜面の土手を滑り降りて隠れた。「イル(一)、イー(二)、サム(三)、サー(四)」の掛け声で訓練している反日朝鮮軍だった。
「敵を殺す訓練をする」と部隊長が言って、敵の刺し方や、死体を引きずる方法を教えた。擁子は吐いてしまったが、好が覆い被さり、兵たちに聞こえないようにした。兵たちは、また掛け声とともに遠ざかっていった。
ようやく駅に着くと、病院や軍のトラックがぎっしりと止まっており、負傷した兵隊たちや衛生兵、民間医療班でごった返していた。なんとか駅長を見つけると、彼は朝鮮人だった。母が「乗車の許可をいただいているのですが」と言っても、冷たい目を向けて「病気のようには見えないが。汽車は患者専用だ」と言い放った。
そこにいあわせた日本人の軍医が「乗せてあげなさい!」と命令した。擁子たちが陸軍病院に慰問に行った時に、その姿を見ていたのである。軍医の威圧的な態度に、駅長は「わかった。女性患者の貨車に乗りなさい」と言った。
三人は軍医に深々とお辞儀をした。この人が居合わせなかったら、列車には乗れなかったろう。
■4.「目を覚まして!」
貨車の中で、多くの病人、怪我人、妊婦たちが隙間なく、むしろの上に寝かされている間に、擁子は膝を胸につけて小さくなっていた。あちこちから、呻き声や泣き声が聞こえてきた。
列車が走り始めてしばらくすると、空は淡いピンク色に変わり始めた。「家よ!」と好が叫んだ。父と兄が夏の日に竹竿の先にくくりつけたラジオのアンテナが見えた。擁子は、少しでも長く見ようと、列車から身を乗り出した。母は家を見ようとはせず、目頭を押さえて泣いていた。
夜になると、お腹が空いてきて、リュックサックをあさったが、母から止められた。他の人もずっと何も口にしていないので、一人何か食べると不公平になってしまうからだ。「皆お腹が空いているわ。皆にあげる分はないの。明日には京城(ソウル)に着くわ。そうしたら何か作りましょう。水を少し飲んで我慢しなさい」
となりに座っていた母親が赤ちゃんにおっぱいをあげようとしたが、その口と目は閉じたままだった。母親が「目を覚まして!」と叫んで、赤ちゃんをゆらしたが動かない。衛生兵と看護婦が、赤ちゃんの死を伝え、遺体の始末をするから子供を渡すように言った。
母親は夫の名を呼んで助けを求めた。衛生兵は抵抗する母親から赤ちゃんを奪い取り、貨車の外に放り投げた。その小さな身体はほんの一瞬、人形のように空中をゆっくり飛んでいき、すぐに見えなくなった。それを見つめていた母親は、やにわに立ち上がり、貨車から飛び降りた。「ああ!」、擁子の母は両手で顔を覆った。
■5.「先頭の機関車がやられた!」
夜が更けた頃、汽車が突然大きく揺れて止まった。ブーン。グワン、グワン、グワン、グワン。飛行機が上を飛んでいった。外を見た衛生兵が叫んだ。「先頭の機関車がやられた!」。擁子と好が外に出ると、機関車から轟々と炎が上がっていた。
衛生兵は「赤十字をつけた列車や船を攻撃してはいけないことになっているのに、、、」と憤慨した。母が「今何処に居るのですか?」と聞くと、「京城から70キロ離れたところです」
3人は列車を降りて、線路沿いに南に向かって歩き始めた。燃えさかる機関車の横を通ると、黒焦げになった機関士が見えた。「見るんじゃないの!」好は強い口調で言った。線路は上弦の月明かりで不気味に輝き、前方へ延々と伸びていた。
歩き続けて、夜が明け始めると、母は線路から離れた所に茂みを見つけ、日中は共産軍に捕まらないように、そこに隠れて毛布にくるまって眠った。
目が覚めると、飯盒で米半合を炊いて、4日目にして初めて、ご飯を口にした。こうして次の7日間、昼は休み、夜だけ線路に沿って歩いた。擁子が「これ以上、歩けないわ」と泣き言を言うと、好は「歩かなければいけないの! 黙って歩きなさいっ」とぶっきらぼうに言った。
■6.「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」
そんなある日、食事の後片付けをしていると、突然、3人の共産兵が立ちはだかった。擁子たちは恐怖で身動きできなかった。兵たちは銃を向け、「立て!」と怒鳴った。3人とも好を見ていた。「お前はいくつだ」と聞いたが、好は答えなかった。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人は言った。
「お前たちは所持品を全て、、、」と兵隊の言葉が終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、頭すれすれに飛んだので、慣れている擁子たち3人はすぐに地面に伏せた。ドカーン! 爆弾が近くで破裂した。擁子は遠く吹き飛ばされたようだった。目の前が真っ暗になり、気絶してしまった。
乱暴に揺すられて、擁子は目を覚ました。母は何かを言っていたが、何も聞こえなかった。「聞こえない」と言うと、胸に激しい痛みが走った。そこに触れると、手は温かさを感じた。血だった。「兵隊たちはどこにいるの?」と聞くと、好の唇の動きから「死んだ」と読むことができた。
好はリュックからシュミーズを出して、擁子の胸に巻いた。母は擁子に毛布をかけて頭を撫でながら、涙を擁子の顔にぽろぽろとこぼした。擁子はいつしか眠りに落ちていった。
擁子はまる一日寝て、次の日の朝早く母に起こされた。まだ耳は聞こえなかった。次の瞬間、目に入った好の姿に驚いた。身を守るために共産軍の軍服を着て、長い髪を切り落としていた。母も軍服を着ていた。死んだ兵隊のものだとすぐに気づいた。
母は擁子を正座させ、大切な家宝である短剣を出して、頭を剃った。「坊主になりたくないよぉ」と、擁子はしくしく泣いた。それが済むと、母は擁子に死んだ兵隊の軍服を着るように言った。
「死んだ人間の服なんか脱がせたくないわ」と言うと、「私がもう脱がしたわ」と好が言って、軍服を手渡した。汗とタバコの強い臭いがした。好は袖とズボンを巻き上げてくれたが、それでも大きすぎた。その格好で、3人は、それから何日も、線路を歩き続けた。
■7.「戦争は終わった」
3人は、70キロを歩いて、ようやく京城に着いた。武装した日本人の警官が北から逃げてくる避難民を検問していた。「これからどこに行くのか」と尋ねられて、母は、息子が着くまで京城に留まり、戦争が終わったら、羅南に戻るつもりだと話した。
「戦争は終わった」と彼は言った。3人は驚きのあまり呆然とした。「いつ?」と好が聞くと、「昨日だが、君たちは羅南には戻れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人たちが避難しているのだ。」
「今日は何日ですか?」とまた好が聞くと「8月16日だ。では、長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」
羅南を脱出したのが7月29日夜だったので、3人は2週間以上もかかって、京城まで辿り着いたことになる。
もう一人の警官が言った。「日本は負けた。広島も長崎も地獄そのものだ」 突然、母が地面に倒れた。警官は、周りに立っていた男たち数人に、母を駅の中へ運ぶように言い、自分はウイスキーを取ってきて、ほんの少し母の口の中に注ぎ、好は軍服の前のボタンを外し、胸をマッサージした。
母が意識を取り戻すと、警官たちは親切に「娘さんの怪我の手当をしてやりなさい」と、屋根に赤十字が書いてある大きなテントがいくつかある場所を教えてくれた。
■8.竹林はるかに遠く
そこで擁子を治療してくれた若い医師、武田は、偶然にも父の同級生の息子で、父をよく知っていた。「患者は全員、今月の末までにトラックで釜山に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」
しかし、母は長男の淑世に書き置きした通り、京城で待つつもりだった。毎日、北からの列車が到着する度に、淑世がいないか、捜しに行った。食べ物は病院裏のゴミ箱からあさってきた。初めは擁子は強い異臭を放つゴミ箱に手をいれることなど出来なかったが、好に「やりなさい!」と厳しく命令されて、やるようになった。
好は、朝鮮人の男達が避難民の日本の女性を藪の中に連れ込んで、乱暴をした光景も見た。それでもう一度、髪を剃って貰い、ガーゼで胸をきつく巻いて、また薄汚れた軍服を着た。
一度、独立を祝いながら酔った朝鮮人たちに取り囲まれたが、この変装で好は難を逃れた。しかし、連中は他の女性を見つけると、引きずり出した。たびたび悲鳴が響いたが、朝鮮人を怒らせると、何をされるか分からないので、誰も女性たちを助けようとはしなかった。
母国日本に戻るには、京城から釜山を経て、さらに海を渡らなければならない。母国に戻れても、焼け野原になったという国土で、どんな生活が待っているのか。兄・淑世は今頃どうしているのか。
羅南の家には、ちょっとした竹林があった。それは母が青森の実家の竹林を恋しがって、父が東京に出張した際に持ち帰った竹の根っこを植えたものだった。3人はすでに羅難の竹林から遙か遠くに来ていた。しかし、母国の母の実家のまだ見ぬ竹林も、いまだ遙か遠くにあった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(357) 同胞4万救出作戦
内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h16/jog357.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』★★★、ハート出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4892959219/japanontheg01-22/
■「11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から」に寄せられたおたより
■春子さんより
私も、川嶋擁子さんの「竹林はるか遠く」を一気に読みました。
民間人として戦争を生き延びてこられた体験に引き込まれるようにして読みました。わずか11歳の少女が味わった、敵地と化した外地から避難することの想像を絶する数々の体験を記したこの本は日本でも教材として取り上げて欲しいと思いました。
擁子さん姉妹がやっとの思いで日本に帰ってきてからの話にも胸を打つものが多くあります。数々の試練を乗り越えて自立していかれる姿には頭が下がります。この本は今の日本人にたくさんのことを教えてくれているように感じました。
擁子さんはまだ御健在でいらっしゃるようですから、これからもお元気で過ごされることを祈ります。
■義郎さんより
この度、 『竹林はるかに遠く』のご紹介をありがとうございました。私も邦訳が出ると聞いて、市立図書館と県立図書館に購入希望を出し、読み終えたところです。
自分でも感想文を書こうかと思っているところで、伊勢様の過不足ない文章に接することができました。
この本の素晴らしいところは、イデオロギーに毒されていない幼い主人公・擁子の体験を通して描かれているところだと思いました。
韓国や在米韓国人が反対する残虐な共産主義者や非情な人間に対する描写は、見聞した事実が描かれており、何ら偏見を導いているものではありません。さらに、吹雪の中で力尽きた主人公の兄・淑世を助けた金さんの家族への感謝の思いが綴られており、バランスよく語られています。
在米各地に朝鮮人売春婦像が設立されるなど、韓国人及び韓国系米人による反日活動が盛んです。史実の裏付けのない主張を声高に繰り返す彼らの活動に対抗するには、このような実体験に基づく書物の普及が望ましく感じます。
■編集長・伊勢雅臣より
この本の価値は、イデオロギーを離れて、11歳の少女が必死に生き抜いた体験談にあります。アメリカの学校で副読本とされたのも、そうした読み方からでしょう。
■転送歓迎■ H25.09.01 ■ 42,687 Copies ■ 3,734,715Views■
■1.「私も娘もこの本を読みました」
「1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。中学校の教材として採択された感動秘話」。
『竹林はるかに遠く』日本語版のAmasonでの紹介である。日本語版は発売されてからまだ2ヶ月も経っていないが122件ものレビューが寄せられ、うち109件、89%が「星5つ」をつけている。
アメリカのAmasonでも同様のようで、115件のレビューが寄せられている。しかし、在米韓国人からの批判も多く、「星5つ」が77件、「星1つ」が20件と、評価が両極端に分かれている。一般の米人読者と思われる「星5つ」のレビューでは、
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私も娘もこの本を読みました。この本が大好きになりました。
この本が素晴らしいのは、戦争がいかにお年寄りや女性や子供たち、家族全体に惨(むご)いものかを示している所です。
なぜ、この本を学校で子供たちに読ませてはいけないのか、分かりません。
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「学校で子供たちに読ませてはいけない」というのは、韓国で「この本に反対しよう」という新聞記事が出て、米Amasonのレビューにも「星1つ」で「歴史をねじ曲げている」云々のいかにも韓国人の書いたと思われる意見が寄せられているからだ。韓国ではこの本は販売禁止にされているという。
この本を読んでみると、事実を冷静に述べながらも、ぐいぐいと読者を引っ張る語り口で、上記の「素晴らしい」という感想に私も共感した。しかし、「読ませてはいけない」という韓国人の気持ちも理解できる。なにしろ登場する韓国・朝鮮人たちは、主人公の兄を助けた1家族を除いて、残虐な共産主義者や非情な人間が目立つからだ。
また、そんな修羅場でも主人公たちを助けてくれる何人かの日本人の姿も描かれている。胸に迫るこの物語を読めば、「星1つ」をつけたレビューが負け犬の遠吠えに聞こえてくる。
これは一人の少女が自らの体験を一人称で語った迫真の物語である。こういう歴史があったことを、日本人としても知るべきだろう。本号で、そのさわりだけでも、味わって貰いたい。
■2.「すぐに避難するよう」
1945(昭和20)年7月29日真夜中のことだった。朝鮮北部の羅南(ラナム)、満洲との国境線から80キロほど離れたこの古い町から、11歳の川嶋擁子(ようこ)と16歳の姉・好(こう)は母親と一緒に脱出した。満洲鉄道に勤務する父は家におらず、また長男の淑世(ひでよ)も勤労動員で、30キロ離れた兵器工場に行っていた。
きっかけは、真夜中に松村伍長がやってきて、すぐに避難するように警告したことだった。まもなくソ連兵が上陸してきて、満鉄に働く人の家族は殺されてしまうでしょう、という。
松村伍長は、かつて重傷を負って入院していた時、擁子が日本舞踊で慰問をしたことで、生きる気力を取り戻し、元気になった。その後、擁子の家に出入りするようになっていた。
「日本人の病人を避難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が、朝4時に羅南駅を出発します。それにあなたたちが乗れるよう、私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです、、、」
話し声に目を覚ました擁子のおでこに唇をあて、「君のことは忘れないよ」と言って去ろうとする松村伍長を呼び止めて、擁子は「武運長久」と書いてある半紙を渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」と言って、暗闇の中に消えていった。
父親と兄・淑世に置き手紙をし、3人は取り急いで荷物を風呂敷にまとめて家を出た。
■3.「乗せてあげなさい!」
3人は駅までの川沿いの道を歩いた。大きな窪みがいくつもあり、擁子がそれにつまづく度に、母親が手首を結んだ細引きを引っ張って起こしてくれた。細引きが手首を擦って痛かった。
「気分が悪いよぉ、、、」。擁子は半泣きで言った。「静かに」と母はささやいた。耳を澄ますと、遠くに軍隊の足音がした。3人は急斜面の土手を滑り降りて隠れた。「イル(一)、イー(二)、サム(三)、サー(四)」の掛け声で訓練している反日朝鮮軍だった。
「敵を殺す訓練をする」と部隊長が言って、敵の刺し方や、死体を引きずる方法を教えた。擁子は吐いてしまったが、好が覆い被さり、兵たちに聞こえないようにした。兵たちは、また掛け声とともに遠ざかっていった。
ようやく駅に着くと、病院や軍のトラックがぎっしりと止まっており、負傷した兵隊たちや衛生兵、民間医療班でごった返していた。なんとか駅長を見つけると、彼は朝鮮人だった。母が「乗車の許可をいただいているのですが」と言っても、冷たい目を向けて「病気のようには見えないが。汽車は患者専用だ」と言い放った。
そこにいあわせた日本人の軍医が「乗せてあげなさい!」と命令した。擁子たちが陸軍病院に慰問に行った時に、その姿を見ていたのである。軍医の威圧的な態度に、駅長は「わかった。女性患者の貨車に乗りなさい」と言った。
三人は軍医に深々とお辞儀をした。この人が居合わせなかったら、列車には乗れなかったろう。
■4.「目を覚まして!」
貨車の中で、多くの病人、怪我人、妊婦たちが隙間なく、むしろの上に寝かされている間に、擁子は膝を胸につけて小さくなっていた。あちこちから、呻き声や泣き声が聞こえてきた。
列車が走り始めてしばらくすると、空は淡いピンク色に変わり始めた。「家よ!」と好が叫んだ。父と兄が夏の日に竹竿の先にくくりつけたラジオのアンテナが見えた。擁子は、少しでも長く見ようと、列車から身を乗り出した。母は家を見ようとはせず、目頭を押さえて泣いていた。
夜になると、お腹が空いてきて、リュックサックをあさったが、母から止められた。他の人もずっと何も口にしていないので、一人何か食べると不公平になってしまうからだ。「皆お腹が空いているわ。皆にあげる分はないの。明日には京城(ソウル)に着くわ。そうしたら何か作りましょう。水を少し飲んで我慢しなさい」
となりに座っていた母親が赤ちゃんにおっぱいをあげようとしたが、その口と目は閉じたままだった。母親が「目を覚まして!」と叫んで、赤ちゃんをゆらしたが動かない。衛生兵と看護婦が、赤ちゃんの死を伝え、遺体の始末をするから子供を渡すように言った。
母親は夫の名を呼んで助けを求めた。衛生兵は抵抗する母親から赤ちゃんを奪い取り、貨車の外に放り投げた。その小さな身体はほんの一瞬、人形のように空中をゆっくり飛んでいき、すぐに見えなくなった。それを見つめていた母親は、やにわに立ち上がり、貨車から飛び降りた。「ああ!」、擁子の母は両手で顔を覆った。
■5.「先頭の機関車がやられた!」
夜が更けた頃、汽車が突然大きく揺れて止まった。ブーン。グワン、グワン、グワン、グワン。飛行機が上を飛んでいった。外を見た衛生兵が叫んだ。「先頭の機関車がやられた!」。擁子と好が外に出ると、機関車から轟々と炎が上がっていた。
衛生兵は「赤十字をつけた列車や船を攻撃してはいけないことになっているのに、、、」と憤慨した。母が「今何処に居るのですか?」と聞くと、「京城から70キロ離れたところです」
3人は列車を降りて、線路沿いに南に向かって歩き始めた。燃えさかる機関車の横を通ると、黒焦げになった機関士が見えた。「見るんじゃないの!」好は強い口調で言った。線路は上弦の月明かりで不気味に輝き、前方へ延々と伸びていた。
歩き続けて、夜が明け始めると、母は線路から離れた所に茂みを見つけ、日中は共産軍に捕まらないように、そこに隠れて毛布にくるまって眠った。
目が覚めると、飯盒で米半合を炊いて、4日目にして初めて、ご飯を口にした。こうして次の7日間、昼は休み、夜だけ線路に沿って歩いた。擁子が「これ以上、歩けないわ」と泣き言を言うと、好は「歩かなければいけないの! 黙って歩きなさいっ」とぶっきらぼうに言った。
■6.「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」
そんなある日、食事の後片付けをしていると、突然、3人の共産兵が立ちはだかった。擁子たちは恐怖で身動きできなかった。兵たちは銃を向け、「立て!」と怒鳴った。3人とも好を見ていた。「お前はいくつだ」と聞いたが、好は答えなかった。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人は言った。
「お前たちは所持品を全て、、、」と兵隊の言葉が終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、頭すれすれに飛んだので、慣れている擁子たち3人はすぐに地面に伏せた。ドカーン! 爆弾が近くで破裂した。擁子は遠く吹き飛ばされたようだった。目の前が真っ暗になり、気絶してしまった。
乱暴に揺すられて、擁子は目を覚ました。母は何かを言っていたが、何も聞こえなかった。「聞こえない」と言うと、胸に激しい痛みが走った。そこに触れると、手は温かさを感じた。血だった。「兵隊たちはどこにいるの?」と聞くと、好の唇の動きから「死んだ」と読むことができた。
好はリュックからシュミーズを出して、擁子の胸に巻いた。母は擁子に毛布をかけて頭を撫でながら、涙を擁子の顔にぽろぽろとこぼした。擁子はいつしか眠りに落ちていった。
擁子はまる一日寝て、次の日の朝早く母に起こされた。まだ耳は聞こえなかった。次の瞬間、目に入った好の姿に驚いた。身を守るために共産軍の軍服を着て、長い髪を切り落としていた。母も軍服を着ていた。死んだ兵隊のものだとすぐに気づいた。
母は擁子を正座させ、大切な家宝である短剣を出して、頭を剃った。「坊主になりたくないよぉ」と、擁子はしくしく泣いた。それが済むと、母は擁子に死んだ兵隊の軍服を着るように言った。
「死んだ人間の服なんか脱がせたくないわ」と言うと、「私がもう脱がしたわ」と好が言って、軍服を手渡した。汗とタバコの強い臭いがした。好は袖とズボンを巻き上げてくれたが、それでも大きすぎた。その格好で、3人は、それから何日も、線路を歩き続けた。
■7.「戦争は終わった」
3人は、70キロを歩いて、ようやく京城に着いた。武装した日本人の警官が北から逃げてくる避難民を検問していた。「これからどこに行くのか」と尋ねられて、母は、息子が着くまで京城に留まり、戦争が終わったら、羅南に戻るつもりだと話した。
「戦争は終わった」と彼は言った。3人は驚きのあまり呆然とした。「いつ?」と好が聞くと、「昨日だが、君たちは羅南には戻れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人たちが避難しているのだ。」
「今日は何日ですか?」とまた好が聞くと「8月16日だ。では、長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」
羅南を脱出したのが7月29日夜だったので、3人は2週間以上もかかって、京城まで辿り着いたことになる。
もう一人の警官が言った。「日本は負けた。広島も長崎も地獄そのものだ」 突然、母が地面に倒れた。警官は、周りに立っていた男たち数人に、母を駅の中へ運ぶように言い、自分はウイスキーを取ってきて、ほんの少し母の口の中に注ぎ、好は軍服の前のボタンを外し、胸をマッサージした。
母が意識を取り戻すと、警官たちは親切に「娘さんの怪我の手当をしてやりなさい」と、屋根に赤十字が書いてある大きなテントがいくつかある場所を教えてくれた。
■8.竹林はるかに遠く
そこで擁子を治療してくれた若い医師、武田は、偶然にも父の同級生の息子で、父をよく知っていた。「患者は全員、今月の末までにトラックで釜山に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」
しかし、母は長男の淑世に書き置きした通り、京城で待つつもりだった。毎日、北からの列車が到着する度に、淑世がいないか、捜しに行った。食べ物は病院裏のゴミ箱からあさってきた。初めは擁子は強い異臭を放つゴミ箱に手をいれることなど出来なかったが、好に「やりなさい!」と厳しく命令されて、やるようになった。
好は、朝鮮人の男達が避難民の日本の女性を藪の中に連れ込んで、乱暴をした光景も見た。それでもう一度、髪を剃って貰い、ガーゼで胸をきつく巻いて、また薄汚れた軍服を着た。
一度、独立を祝いながら酔った朝鮮人たちに取り囲まれたが、この変装で好は難を逃れた。しかし、連中は他の女性を見つけると、引きずり出した。たびたび悲鳴が響いたが、朝鮮人を怒らせると、何をされるか分からないので、誰も女性たちを助けようとはしなかった。
母国日本に戻るには、京城から釜山を経て、さらに海を渡らなければならない。母国に戻れても、焼け野原になったという国土で、どんな生活が待っているのか。兄・淑世は今頃どうしているのか。
羅南の家には、ちょっとした竹林があった。それは母が青森の実家の竹林を恋しがって、父が東京に出張した際に持ち帰った竹の根っこを植えたものだった。3人はすでに羅難の竹林から遙か遠くに来ていた。しかし、母国の母の実家のまだ見ぬ竹林も、いまだ遙か遠くにあった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(357) 同胞4万救出作戦
内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h16/jog357.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』★★★、ハート出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4892959219/japanontheg01-22/
■「11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から」に寄せられたおたより
■春子さんより
私も、川嶋擁子さんの「竹林はるか遠く」を一気に読みました。
民間人として戦争を生き延びてこられた体験に引き込まれるようにして読みました。わずか11歳の少女が味わった、敵地と化した外地から避難することの想像を絶する数々の体験を記したこの本は日本でも教材として取り上げて欲しいと思いました。
擁子さん姉妹がやっとの思いで日本に帰ってきてからの話にも胸を打つものが多くあります。数々の試練を乗り越えて自立していかれる姿には頭が下がります。この本は今の日本人にたくさんのことを教えてくれているように感じました。
擁子さんはまだ御健在でいらっしゃるようですから、これからもお元気で過ごされることを祈ります。
■義郎さんより
この度、 『竹林はるかに遠く』のご紹介をありがとうございました。私も邦訳が出ると聞いて、市立図書館と県立図書館に購入希望を出し、読み終えたところです。
自分でも感想文を書こうかと思っているところで、伊勢様の過不足ない文章に接することができました。
この本の素晴らしいところは、イデオロギーに毒されていない幼い主人公・擁子の体験を通して描かれているところだと思いました。
韓国や在米韓国人が反対する残虐な共産主義者や非情な人間に対する描写は、見聞した事実が描かれており、何ら偏見を導いているものではありません。さらに、吹雪の中で力尽きた主人公の兄・淑世を助けた金さんの家族への感謝の思いが綴られており、バランスよく語られています。
在米各地に朝鮮人売春婦像が設立されるなど、韓国人及び韓国系米人による反日活動が盛んです。史実の裏付けのない主張を声高に繰り返す彼らの活動に対抗するには、このような実体験に基づく書物の普及が望ましく感じます。
■編集長・伊勢雅臣より
この本の価値は、イデオロギーを離れて、11歳の少女が必死に生き抜いた体験談にあります。アメリカの学校で副読本とされたのも、そうした読み方からでしょう。