No.818 歴史教科書読み比べ(11) :天武・持統天皇の国づくり ~ 共同体国家「日本」の誕生

 聖徳太子の新政、大化の改新から続く国づくりが完成に近づいた。

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■1.「国づくりが完成に近づいた」

 自由社版『新しい歴史教科書』では、「天武天皇と持統天皇の政治」の節を次のように結論づけている。

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 ここに、聖徳太子の新政以来の律令国家をめざす国づくりが完成に近づいた。日本という国号が用いられるようになったのも、このころである。
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「律令」の律は刑法、令は行政法。したがって「律令国家をめざす」とは、それまでの豪族が土地や人民を私有し、勝手な人治を行っていた部族社会を脱して、公地公民を国家が法で治める法治国家を目指すことだった。

 弊誌では、聖徳太子の17条憲法[a]から、天智天皇の大化の改新[b]と、律令国家を目指す努力を辿ってきたが、天武・持統天皇の時代にその「完成に近づいた」とする視点は、この時代の先人たちが継承してきた理想的な国づくりへの志を理解する上で重要である。

 この部分を東京書籍版『新しい社会、歴史』では、こう書いている。

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大宝律令 701(大宝元)年、唐の法律にならった大宝律令がつくられ、全国を支配するしくみが細かく定められました。律令にもとづいて政治を行う国家を、律令国家といいます。律令国家は、天皇と、天皇から高い位をあたえられて貴族となった、近畿地方の有力豪族が中心になって、運営されました。[2,p34]
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 これでは、この「律令国家」とは、天皇と有力豪族が法律で全国を支配する細かな仕組みを作った、というだけで、いかにもマルクス主義の言う階級搾取が行われたかのようだ。それも「中国にならった大宝律令」という表現で、単なる人マネのように描く。

 歴史の中に理想国家建設への志を見るのか、階級搾取への欲望を見るのか、両者はまったく異なる影響を生徒たちに与えるだろう。どちらの見方がより史実に近いのか、具体的に見てみよう。


■2.「敗戦を教訓にした律令国家」

 自由社版で興味深いのは、「敗戦を教訓にした律令国家」というコラムである。そこでは白村江の敗戦に関して次のように述べている。

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 ・・・百済、新羅、高句麗の三国は、古来、激しい抗争を繰り返しており、そこに唐の軍事介入を招いてしまった。

 まず、唐・新羅軍は百済を滅ぼし、今度は高句麗を南北から挟み撃ちして滅亡させた。日本も百済の救援に赴いたが、百戦錬磨の唐軍に対して、日本は各豪族軍の寄せ集めで作戦もまとまらず、大敗を喫した。

 天智天皇は敗戦の原因を分析し、唐帝国に学んで、律令の整備と中央集権化を目指した。天智・天武天皇は東アジアの興亡と敗戦の経験を教訓に国づくりを進めたのだった。[1,p57]
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 朝鮮半島のように小国家に分かれて内部抗争を繰り返している状態、あるいは日本のように国家としてまとまってはいても、各豪族の寄せ集めの状態では、中央集権国家としてまとまった唐に抗すべくもなかった。

 白村江の敗戦のあとで、唐軍の侵攻を恐れた日本は、軍事的な備えのみならず、中央集権国家としての整備を急ぐ必要があった。わが国はもともと皇室を中心に各部族がまとまって成立したので、さらなる国家統合を進める上でも、天皇を中心に豪族が私有する土地や民を公地公民として統合していくのが、自然な道であった。

 それは聖徳太子が憲法17条で描いた統一国家のビジョンでもあった。


■3.改新の後退

 自由社版での「天武天皇と持統天皇の政治」の詳細を見てみよう。
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 天智天皇がなくなった後の672年、天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ)と、天皇の弟の大海人皇子(おおあまとおうじ)の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申(じんしん)の乱という。大海人皇子は、東国の豪族を味方につけ、機敏な行動で大勝利をおさめた。

この争いの中で豪族達は分裂し、政治への発言力を弱めた。こうして、天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった。[1,p57]
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 歴史学者の坂本太郎・東大名誉教授は、天智天皇が豪族の持っていた土地や人民を取り上げて国家のものとしたが、豪族の不満は大きく、白村江の敗戦の後には、その不満を和らげるために、人民私有を復活させたりして、改新の後退を余儀なくされた、と述べている。[3,p251]

 同時に自由社版では天智天皇の項で、「全国的な戸籍をつくった」事績を紹介しており、旧来の豪族勢力と妥協しながらも、公地公民化への準備を怠らなかった様が窺える。


■4.「われらの大君」

 天智天皇の子、大友皇子は偉丈夫で、文武の才にすぐれていた。しかし、大友皇子の支持基盤は、父・天智天皇が妥協を余儀なくされた旧来からの中央の大豪族であった。

 一方、大海人皇子を支持したのは下級役人や地方豪族であった。だからこそ、皇子はいったん東国に逃れて、そこから挙兵したのである。坂本博士はこう述べる。

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 この乱によって、大豪族に囲まれて成立していた近江朝廷(JOG注:天智天皇-大友皇子)が破れ、舎人(とねり)のような下級の役人や、国造(くにのみやつこ)・郡司(ぐんじ)などの地方の豪族に支持されていた大海人皇子が勝利を得たことの意味は大きい。

中央の豪族・貴族にくらべると、これらの下級の役人や地方の豪族は、むしろ一般民衆の側にも近かった。そして、かれらにとって、大海人皇子の成功は自分たちの成功と感じられた。この皇子こそわれらの大君である、と感じたに違いない。[3,p270]
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 こうして、白村江敗戦以来、一時、停滞していた改新への流れが、壬申の乱によって中央の豪族ら「抵抗勢力」を排除できたことで、また勢いを得たのである。

 東書版の「律令国家は、天皇と、天皇から高い位をあたえられて貴族となった、近畿地方の有力豪族が中心になって、運営されました」という記述では、中学生の学ぶ内容はまるで逆である。


■5.国づくりが「完成に近づいた」

 中央の豪族という抵抗勢力を打破した大海人皇子、後の天武天皇は、その後、いかに改新を進めていったか。自由社版はこう描く。

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 内乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改新の動きを力強く進めた。天武天皇は、中国の律令制度にならった国家の法律の制定と、国の歴史書の編纂に着手した。また、国を運営する役人の位や昇進の制度を整え、豪族たちをこの制度の中に組み入れていった。[1,p57]
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 役人の位や昇進の制度を整えたのも、豪族たちが権勢をほしいままにしていた状態から、位を得た官僚が政治を行うという国家を目指したものである。そこでは豪族の生まれでなくとも昇進の機会があり、また豪族に生まれても、官僚として出世しなければ、政治に関われない。

 さらに歴史書の編纂は、人民一人一人に部族の一員であるよりも国家の一員であるという国民意識を持たせることを狙ったものだろう。この作業が後に、『古事記』『日本書紀』として結実する。

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 天武天皇のあと、皇后の持統天皇が即位して、改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。これは、初めて中国にならってつくられる大規模な都の建設だった。[1,p57]
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 都は、国家統合の中心である天皇の宮殿を戴き、国家の行政を担当する官僚たちが仕事をする場である。有力部族がそれぞれの所有地で割拠した部族連合国家から、朝廷が政治を行う中央集権国家への脱皮において、都の建設は重要なステップであった。

 これらはいずれも聖徳太子が理想を描き、天智天皇が大化の改新でその実現に大きく踏み出した国づくりを完成させようという動きである。天武・持統朝の治世で、そうした理想の国づくりが「完成に近づいた」のである。


■6.国号「日本」の誕生

 自由社版では「国づくりが完成に近づいた」という結論に続いて、「日本という国号が用いられるようになったのも、このころである」と述べているが、その後に「『日本』という国名のおこり」というコラムに2頁も割いている。

 そこでは、「日本」という国名の意味を、「日」は太陽、「本」は「・・・の下」と説明して、次のように説いている。

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「日本」という国名は、607年の遣唐使の国書に「日出づる処」と書かれていたように、「太陽の昇るところ(昇る太陽の下)にある国という意味になります。

 これは、自分たちの国にゆるぎない自身をもち、その歴史にも誇りを持った古代のご先祖が、わが国に最もふさわしい国名として選んだものといえます。[1,p58]
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 そして、再度、聖徳太子の新政から大化の改新、天武・持統天皇の改革の流れの総括した後で、

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 こうして、それまでの政治改革の成果をまとめた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法律で、「日本」という国名が公式に定められたと考えられます。[1,p59]
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「日本」とは、聖徳太子以来の政治改革の結果として新生なった国家につけられた名称なのである。


■7.1300年も続く国名「日本」

 このコラムはさらに、こう指摘する。

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 それから約1300年を経たこんにちまで、この国名はまったく変わることなく使われ続けています。中国や朝鮮半島の国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのがわかります。

わが国の国名が、この長い年月の間変わらなかったのは、その間、国がとだえたり、他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。わが国は、世界でもっとも長い歴史を持つ国です。[1,p59]
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 わが国が以降、国名を決して変えなかったという事実は、中国や朝鮮半島の数々の、現れては消えていった国々とは対照的だ。そこにわが国の独自性がある。

 東書版では注で「『日本』という国号や「天皇」という称号は、このころ正式に定められました」と書いてあるだけである。日本の歴史を学ぶ教科書で、「日本」という国号の意味も経緯も独自性も書いていないのは重大な欠陥ではないか。


■8.共同体国家「日本」の誕生

 以上、「律令国家」建設への歩みを見てきたが、この「律令国家」という歴史用語自体が「律令」という法的側面だけしか指していないし、また中国の律令体制との違いも明らかにしていない。

 本講座736号[c]でも述べたように、わが国では古来から人民に対して「知らす」と「うしは(領)く」という厳密な区別をしてきた。
 中国の皇帝は人民を家畜のように財産として「領有」したが、日本の皇室は、民の喜びや悲しみを「知らし」たまい、民の安寧を祈る事を務めとしてきた。そして神武天皇は建国に際し「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と宣言された。[d]

 人民が皇帝の財産、すなわち奴隷だとすれば、そこでの法律は奴隷を支配する命令である。しかし、家族の中での法律は仲良くやっていくために互いに守るべきルールとなる。同じく「律令」と言っても、国家の有り様が違えば、その意味合いはまったく別のものになる。

 聖徳太子から天智、天武、持統天皇と受けつがれた志は、実は神武天皇以来の「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそう」という理想を、現実の政治体制の中で実現しようとする努力であったと解釈できよう。

 とすれば、それは「律令国家」というよりも、「共同体国家」と呼ぶ方がふさわしい。部族連合国家として生まれた「大和の国」は、ここに共同体国家として元服して、「日本」という新たな名前を得たのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201303article_1.html

b. JOG(799) 歴史教科書読み比べ(9) ~ 大化の改新 権力闘争か、理想国家建設か
http://jog-memo.seesaa.net/article/201305article_4.html

c. JOG(736) 井上毅 ~ 有徳国家をめざして(下)
 井上毅が発見した我が国の国家成立の原理は、また教育の淵源をなすものであった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201202article_7.html

d. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h11_1/jog074.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3.坂本太郎『日本の歴史文庫〈2〉国家の誕生』★★★、講談社、S50

■「天武・持統天皇の国づくり ~ 共同体国家「日本」の誕生」に寄せられたおたより

■まいかさんより

いつも大変ありがたく拝見しております!

> 日本の歴史を学ぶ教科書で、「日本」という国号の意味も経緯も独自性も書いていないのは重大な欠陥ではないか。

その通りです。 長年のなぞでした。
長年のもやもや病に晴れ間がさしました。
感謝します!

また、下文も目から鱗が落ちる位 驚きの一つです!
どうりで知らずにいた為か、自国民の誇りが育ちにくいわけです。
今思うと最近までわたしは、いわゆる自虐史観に取り付かれまくっていたのです。いわば被害者ですよ。
一体、なぜこうなったのでしょう?

>わが国は、世界でもっとも長い歴史を持つ国です。


■編集長・伊勢雅臣より

 こういう事を教えないのも、一種の偏向教育ですね。

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