No.841 機密漏洩でスターリンの手玉にとられた日本
諜報・防諜能力の欠如から、我が国はスターリンによって戦争に引きずりこまれた。
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■1.国家機密保護と平和維持
特定機密保護法案に対するマスコミの激しい反対はいかにも異様だった。朝日新聞は8月から12月半ばまでに、反対意見を社説25本、天声人語7回も使って反対した。読者投稿欄にも11月、12月の2ヶ月で反対意見が69本も載ったという。[1]
中国漁船衝突の映像が流出した時に朝日社説は「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反することであり、許されない」と述べた。民主党政権時からの臆面もない豹変振りは見事ですらある。
朝日新聞などの一部マスコミは、特定秘密保護法によって、戦前の「軍国主義」に戻るかのような反対をしているが、弊誌は全く逆の主張をしたい。戦前の日本も国家機密保護がまるで出来ておらず、そのためにスターリンのソ連に手玉にとられ、戦争に引きずり込まれたのだ、と。
第二次大戦での歴史をきちんと反省すれば、機密保護法の意義も明らかになる。今回は、この観点から史実を振り返ってみよう。
■2.「欧州情勢は複雑怪奇」で総辞職した平沼内閣
1939(昭和14)年8月23日、それまで仇敵であったドイツとソ連が突如、独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かせた。その裏には、秘密議定書があり、バルト3国、ルーマニア東部、フィンランドをソ連に勢力圏に入れ、ポーランドを両国で分割占領することが取り決められていた。
それに従って9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、同盟国であったイギリスとフランスが9月3日にドイツに宣戦布告した。これが第2次大戦の始まりである。しかし、9月17日にはソ連軍もポーランド領に攻め込んでいる。
日本軍の真珠湾攻撃による大東亜戦争が始まったのは、この2年近くも後である。日米が戦わなければ、第2次大戦は、第1次大戦と同様の欧州内の戦争となり、我が国は甚大な被害は負わずに済んだはずである。
しかし、残念ながら我が国にはそのような巧みな外交はできなかった。他国の動きを探り、自国の機密を守るという諜報・防諜能力が、きわめて弱かったためである。
独ソ不可侵条約が発表されるや、その5日後、平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して総辞職した。そもそも日本は、ソ連を仮想敵国として、ドイツと日独防共協定を結び、さらにその強化を目指していたのに、そのドイツとソ連が結託してしまったのである。
ドイツやソ連の動きがまったく見えていなかった事実を、内閣総辞職という形で世界に晒したのであった。しかも「欧州情勢は複雑怪奇」などと正直に吐露してしまう姿勢は、策謀渦巻く国際社会とは異次元のナイーブさであった。
■3.日独交渉過程がスターリンには筒抜けになっていた
日本からはソ連の動きがまったく見えていなかったが、スターリンには日独防共協定の交渉過程が筒抜けになっていた。当時、東京-ベルリン間で暗号化された秘密電報をやりとりしていたのだが、ソ連の諜報機関がベルリンでその文書のファイルを写真にとり、かつモスクワの日本大使館から暗号解読書を盗み出していたのである。
その活動を指揮していたソ連秘密警察諜報部のワルター・クリヴィッキーが、後にスターリンの内部粛清に反発してアメリカに亡命し、回想録を出版して、その活動実態を暴露したものだ。
クリヴィッキーらの諜報活動で、この「防共協定」が表向きこそ国際共産主義運動に日独で対抗するという内容だが、その裏に秘密付属協定があり、日独両国がソ連からの攻撃またはその脅威を受けた場合に、ソ連の「負担を軽からしめる」一切の措置を講じないことを約束していた。
ソ連にとっての悪夢は、ドイツと日本の東西二正面から脅威を受けることであった。日独防共協定で、まさにその危険が現実化しつつあることをスターリンは掴み、その調印直後に、ベルリン駐在通商使節に、いかなる対価を払ってもよいから、ヒトラーとの協定に到達するように、と命じた。
ヒトラー自身は共産主義のソ連に対する根強い敵意を持っていたのだが、外相リッペントロップ、ドイツ外務省、海軍は親ソ反英路線であり、スターリンは後者の勢力と結んで、1939(昭和14)年8月に独ソ不可侵条約に漕ぎつけたのだった。
日本政府は、こうしたスターリンの暗躍も、ドイツ政府内の二つの対立路線も把握しておらず、それまでの日独防共協定でソ連を仮想敵とする体制が固まったとばかり思っていたので、突然の独ソ不可侵条約に、「欧州情勢は複雑怪奇」としか言いようがなかったのである。
■4.翻弄された日本
これ以降、ヒトラーとスターリンの二人の独裁者の化かし合いが続き、日本政府は翻弄されるのであるが、事態が2転3転してまさに「複雑怪奇」になるので、まず年表風に整理しておこう。
1936(昭和11)年11月25日 日独防共協定締結
1939(昭和14)年8月23日 独ソ不可侵条約締結
1941(昭和16)年4月13日 日ソ中立条約締結
同年 6月22日 独ソ開戦
独ソ不可侵条約を結びながら、わずか1年半後に一転してヒトラーが対ソ戦に踏み切ったのは、ソ連が秘密協定に入っていないルーマニアの一地方を割譲させたことを協定違反とし、またソ連が軍備増強を進めている事を開戦準備と受け止めたからである。
この年表を見ると、日本が尽く、後手後手に回っているのが分かる。日独防共協定でソ連を仮想敵国としてドイツと結んだが、その3年後には、ドイツとソ連が急に組んでしまい、はしごをはずされた形となる。そしてドイツから、日独伊ソの「4国同盟」案を持ちかけられ、日ソ中立条約を結んだ途端、今度は独ソ開戦である。
独ソ開戦後、スターリンが恐れ、ヒットラーが切望したのは日本が日ソ中立条約を破って、ソ連に侵攻することであった。しかし、もし日本が対米英戦争に踏みきり、ソ連攻撃を仕掛けないならば、極東ソ連軍を対独戦に回すことができる。
日本が南進するか北進するのか、それがスターリンにとって、生き残りをかけた分岐点だった。
■5.スターリンの謀略
スターリンはこの分岐点に関して、二つの手段をとった。第1は日本を蒋介石政権、さらにはアメリカと戦わせて南進させようという謀略工作、第2は日本政府の機密情報を盗みだし、その意向を探る、という諜報手段である。
第1の日本と米中を戦わせる謀略工作については、すでに弊誌で取り上げた。朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)に世論工作をさせて日本と蒋介石政権の日支事変を煽った。さらに尾崎は近衛内閣のブレーンともなって、対中和平工作を妨害し、日本と蒋介石政権を共倒れにさせ、中国共産党に漁夫の利を与えようとした。[a]
スターリンは同時に米ルーズベルト政権の中枢にもスパイを送り込み、日本を対米戦争に追い込む工作をさせた。日本に対米戦争を覚悟させたハル・ノートの原案作成者である財務次官ハリー・デクスター・ホワイトもソ連のスパイであったことが、戦後明らかになっている。[b]
日本が蒋介石政権との戦いで泥沼に引きずり込まれ、さらには日米戦争に至ったのは、スターリンの謀略が見事に当たったからである。
■6.筒抜けになっていた日本の動き
もう一つ、スターリンは日本政府の動きをスパイに探らせて、北進か南進かの意図を掴もうとした。そのために複数の諜報ルートを使っていた。
一つは『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員リヒャルト・ゾルゲとその一味。ゾルゲは駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得て、その私的顧問の形で、多くの機密情報を入手し、尾崎が日本政府筋から集めた国家機密とともに、ソ連に送っていた。
このゾルゲ一味が、昭和16(1941)年9月6日の御前会議で決定された米英蘭を相手として南進する決定をスターリンに伝えていたのである。昭和16(1941)年10月にゾルゲ、尾崎以下、実に35名が検挙され、ゾルゲは日本で死刑にされたが、戦後、1964(昭和39)年に「ソ連邦英雄勲章」が授与されている。
もう一つの諜報ルートは、「エコノミスト」というコードネームで呼ばれていた日本人スパイである。「エコノミスト」は北樺太石油会社の幹部であったようで、9月2日に同社で開かれた午餐会で、左近司(さこんじ)政三・商工大臣の発言内容をソ連に伝えた。
それは「日本政府のアメリカとの和平交渉が難航しつつあり、このままでは日米開戦となる。その場合、ソ連とは和平を維持することになろう」という内容であった。左近司大臣は御前会議の数日前に、その見通しを漏らしてしまったのである。
これらの情報を許に、スターリンは日本の対ソ攻撃はないと判断し、極東ソ連軍を欧州戦線に振り向けた。当時の極東ソ連軍の規模は、総兵力80万、戦車約千両、飛行機約千機と推定されているが、その三分の一程度が西送された模様である。
当時の独ソ戦線はほぼ膠着状態にあったが、ソ連軍は12月初旬から冬期大反攻を開始し、ここからドイツ軍の敗退が始まる。極寒での戦いに慣れた極東ソ連軍の貢献が大きかったと推察されている。
ドイツの降伏後、ソ連軍の相当部分は再び、対日攻撃のために極東に送られた。その間も、日本はソ連に和平仲介を依頼する、という間の抜けた外交を続けていた。極東ソ連軍は日ソ中立条約を無視して、日本の降伏直前に満洲を襲い、多くの在留邦人が犠牲となった。
■7.真の敵を見誤った日本
スターリンは、恐れていた日独との両面戦争を巧みに避けて、個別撃破に成功した。その結果が、東欧と中国の共産化であった。アメリカが中国市場を失い、蒋介石も台湾に閉じ込められた事を考えれば、第2次大戦の勝者はスターリンだけであった。そして、その勝利は多分に優れた諜報能力によるものなのである。
ゾルゲ事件に関して、スパイ取り締まりを担当していた特別高等警察(特高)の第一課係長であった宮下弘は、その捜査で一年以上かかってしまった事を回想して、次のように述べている。
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もしゾルゲ事件の検挙が半年以前に行われていたとしたら、シナの背後にいるのが米英でなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦争させているのが、米英ではなくソ連だ、ということがはっきりわかったでしょうから、対米英宣戦布告などというバカげたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。[2,p143]
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一方、ソ連は、イギリス外務省から東京のイギリス大使館に送られた次のような指示も情報入手していた。
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・・・もしこの(JOG注:日本による)ロシアへの攻撃が極東で行われたとすれば、いかなるバリアント(選択肢)も日本との自動的な国交断絶を伴うものではない。ソ同盟と我国との取決めは対ドイツに限定され、日本がロシアと戦争をする場合には、日本との国交断絶をするいかなる義務もない。 [2,p196]
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日本の真の敵はソ連であった。ソ連に対する満洲からの軍事圧力を強めても、米英との対立が強まる恐れはなかった。逆にソ連は日独との2方面への対応で余力を使い果たして、蒋介石政権を援助する余裕はなくなっていただろう。
そうなれば、後ろ盾を失った蒋介石政権との和解も可能であったかもしれず、そうなれば米英が対日批判する理由もなくなり、対米英和解の道も大きく広がったであろう。
いずれにせよ、欧州での戦争に日本が巻き込まれる必要は何もなかった。諜報・防諜能力の不足から、スターリンの手玉に取られて、真の敵を見誤り、米英中と戦ってしまったのである。
■8.我が国の独立と安全を守る諜報・防諜能力
スターリンの勝利の結果、東欧と中国が共産化し、さらに朝鮮戦争やベトナム戦争が起こった。共産主義国内での内戦・粛正・弾圧も含めれば、共産主義による犠牲者は8千万から1億5千万人に及ぶとされている。これは第2次大戦の犠牲者約6千万人を上回る。
その責任の一端は、敵を見誤ってアジアでの共産主義の膨張を防げなかった我が国にもある。そして失敗の一因は、諜報・防諜能力の決定的な欠如にあった。
この「歴史の反省」は、現代にも重大な意味を持つ。現在の日本の安全と独立への最大の脅威は中国である。しかるに、沖縄の米軍基地闘争や、偏向マスコミによる反米報道は真の敵を見誤らせてしまう。ちょうど、朝日新聞記者・尾崎秀實が、スターリンの手先として蒋介石政権との戦いを煽り、和平への動きを妨害したのと、同じ構図である。
我が国の独立と安全を守るには、領土・国民を守りうる軍事力とともに、政治・外交を正しい方向に導くための諜報・防諜能力の構築が不可欠なのである。
冒頭で朝日新聞の特定機密保護法案に対する異様な報道を紹介したが、民主党政権時代の中国漁船衝突の映像流出を「許されない」とした批判と考え合わせれば、朝日が本気で報道の自由を守ろうとしているとは信じられない。
朝日新聞は大先輩の尾崎秀實の先例に従って、我が国の独立と安全を脅かそうとしている中国のために、特定秘密保護法案反対の論陣を張ったのでは、と疑うのは、穿ち過ぎであろうか。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog263.html
b. JOG(116) 操られたルーズベルト
ソ連スパイが側近となって、対日戦争をそそのかした
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog116.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 柿谷勲夫「秘密保護法反対で朝日大狂乱」、『WiLL』、H26.3
2. 三宅正樹『スターリンの対日情報工作』★★、平凡社新書、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4582855407/japanontheg01-22/