No.850 歴史教科書読み比べ(15) :大和朝廷の東北進出と蝦夷の抵抗

 大和朝廷が東北地方に国土を広げる過程で、蝦夷はなぜ抵抗したのか。

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■1.「蝦夷のはげしい抵抗」

 奈良時代の終わりから平安時代の初めにかけて、大和朝廷は東北地方に国土を広げる過程で、蝦夷の激しい抵抗にあった。これに関する自由社版の中学歴史教科書の記述は、わずか4行である。

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 このころ朝廷は、東北地方の蝦夷(えみし)と呼ばれる人々を帰順させようとし、蝦夷のはげしい抵抗にあった。桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として軍勢を送り、802年、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。[1,p66]
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 そして「東北地方への進出」と題した地図で、朝廷の勢力圏が時代とともに、どう広がっていったかを図解している。それによると、現在の県名で言えば、茨城・栃木・新潟の北辺までが7世紀ごろまでに、福島・宮城・山形が750年ごろまで、岩手・秋田が850年ごろまで、となっている。約150年もかけて、青森県を除く東北地方の大半を版図に加えたことになる。

 蝦夷の抵抗はその一幕であるが、東北地方全体の国土編入という視点がないままに、抵抗だけを語ると、その国家的意義が分からなくなってしまう。この点で、国土拡大の地図はまだしも、本文がこれだけでは物足りない。


■2.「アテルイの抵抗」

 一方、東京書籍版は本文では次のわずか3行だが、「アテルイの抵抗」と出した半ページ大のコラムで大々的に取り上げている。

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(本文) 同じころ、朝廷は、東北地方の蝦夷に対して大軍を送り、その勢力を広げました。しかしその後も、蝦夷は、律令国家の支配に強く抵抗し続けました。[2,p40]
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(コラム)歴史にアクセス 蝦夷の抵抗

 朝廷は、東北地方に住み、朝廷の支配に従わないひとびとを蝦夷とよび、しばしば貢(みつ)ぎ物をおさめるよう強制し、ときには武力で従わせようとしました。

 これに対して、蝦夷の人々は激しく抵抗しました。胆沢(いさわ)地方(岩手県奥州市付近)を中心とした蝦夷の指導者のアテルイも、その一人です。789年、5万人の朝廷軍がアテルイの本拠地を攻撃しました。しかし結果は、アテルイのたくみな作戦の前に朝廷軍の惨敗に終わりました。

 797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されると、801年、4万人の朝廷軍を率いて、やっと胆沢地方を平定し、翌年、大きな胆沢城をつくりました。アテルイは、軍を率いて降伏し、捕りょとして都に連れていかれました。田村麻呂は、朝廷にアテルイの命を助けるように強くたのみましたが、その願いは聞き入れられず、アテルイアは河内国(大阪府)で処刑されました。

 ほかにどのような蝦夷の抵抗があったか、調べてみましょう。[2,p41]
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 コラムには、ご丁寧に「アテルイをたたえる碑」の写真まで掲載されている。オランダに征服されたインドネシア人が、民族独立のために戦った民族の英雄を謳い上げるような英雄視である。インドネシアの歴史教科書ならそれでも良いが、日本人の中学生に日本史を教える歴史教科書としては、自虐が過ぎるのではないか。


■3.農業技術指導の開拓団

 坂上田村麻呂が築いた胆沢城については、『うめぼし博士の逆・日本史3』に詳しい[3,p106]。

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 昭和30(1955)年に、この城のあったところを発掘調査したところ、なんと城の中に、みごとな農事試験場が作られていた。
 学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だけで押さえつけたような表現で述べられている。
 だが、実際はそうではなかった。坂上田村麻呂は将軍だが、戦闘はほとんどしなかった。・・・

 そのかわり彼らは、鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・斧(おの)・火打金(かね)などを持っていった。・・・

 結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂にしても、彼らの軍隊は農業開拓の派遣団だったのである。・・・だから軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技術指導の開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、そのために成功した。

 なお蝦夷とは、当時まだ農耕民ではなくて、原始的な生活をつづけていた東北日本人のことである。
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 稲は亜熱帯性の植物で、当時の稲作の北限は仙台平野までであった。寒冷地に住む蝦夷に稲作を教えるのに、稲を耐寒性に品種改良し、作付け時期を研究するために農事試験場が必要だったのである。

画像
坂上田村麻呂



■4.移民と蝦夷の共生

 蝦夷というと、文明世界の外側に住む野蛮異民族のようだが、これは大陸から入ってきた中華思想によるもので、日本人が「東夷」と呼ばれたのと同様である。日本では古くは「えみし」を「毛人」と書いた。蘇我蝦夷という個人名にも見られるように、蝦夷、毛人は「勇猛な人」という意味で、異民族への蔑称ではなかった。

 蝦夷の竪穴住居なども基本的には東国のものと変わらない。縄文時代から東北地方に住んでいた日本人で、地理的に遠く隔たっていたために、大和朝廷に帰属していなかった人々とされている。

 その人々をどう国家に取り込んでいったかについては[4]が詳しい。

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 7世紀から8世紀にかけての東北地域への政策の基本は、国家支配の拡大であるが、それは戦争によって敵方の版図を切り取っていくことを優先したものではない。・・・

蝦夷との交流において、日常は武力による威嚇を必要とする場面はそう多くはなかった。ただし、交渉が決裂するような場面では
武力衝突することがあり、武装の必要があった。[4,p149]
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 国家支配を広げる拠点として作られたのが「城(き)」「柵(き)」と呼ばれる施設だった。

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「城」「柵」という名称ではあるが、防御された区画のなかに存在するのは、軍事一辺倒の空間ではなく、行政施設としての面が多分にある。平時においては周辺の蝦夷との交流の場となり、饗宴や交易も行われた。蝦夷に対して国家の威容を見せる施設であるとともに、地域支配の実務機関であった。[4,p152]
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 この「城」「柵」を中心として、周囲に北陸地方や関東地方からの移民が住みついた。

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 そして、この空間には国家側の移民だけでなく、蝦夷も集まり始めていた。宝亀11年(780)に起こった秋田城の廃止移転問題の際には、蝦夷たちが、国家の威を頼みとして久しく城柵のもとに居住してきたので廃止しないでほしい、という意見を述べている。各地で、城柵を中心とした、移民と蝦夷の共生が形成されはじめていた。[4,p153]
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■5.大和朝廷の統治は蝦夷に受け入れられた

 今まで村落単位で暮らしていた蝦夷が、朝廷に帰属するとは、どういう事か。国家から税金をとられ搾取される、というのは、マルクス主義流の一面的な見方である。国家の基本的な機能は外敵からの防衛と共同体内の治安維持である。そのための経費として税金が必要となる。

 蝦夷たちが「国家の威を頼みとして久しく城柵のもとに居住してきた」というのは国による防衛と治安維持への感謝を示している。

 もちろん国家にも様々あって、現代の中国のように、為政者が自らの利益のために、国民を搾取している政府もある。年間20万件もの暴動・争乱が起きているということは、現在の中国政府の統治に対して、国民の側で巨大な不満がたまっているという事だろう。

 それに対して、蝦夷との交流がおおむね平和的に行われたこと、蝦夷たちが、秋田城を廃止しないで欲しいと訴えたことは、大和朝廷の統治が蝦夷たちにも受け入れられたからである、と言える。


■6.動乱は蝦夷社会の成長から、起こるべくして起こった

 しかし、それでは何故、蝦夷の抵抗が起こったのだろうか? その発端は、次のようであった。

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 光仁朝の終わりに近い780(宝亀11)年、東北の辺境に一大事が起こったという飛報が、朝廷を驚かせた。

陸奥の国上治(かみち)郡の郡司伊治公(いじのきみ)呰麻呂(あざまろ)が、とつじょ俘軍(降伏した蝦夷からなる軍隊)をひきいて反乱を起こし、陸奥国府の多賀城(現在の宮城県多賀城市)の北方にある伊治城を(現在の宮城県栗原郡)を襲って按察使(あぜち)(陸奥・出羽両国の最高行政官)紀広純(きのひろずみ)を殺したのである。[5,p62]
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 この伊治公呰麻呂は帰順した蝦夷であった。すなわち蝦夷の長が朝廷から郡司に任命され、また帰順した蝦夷たちからなる軍隊を率いて朝廷側に立っていたということである。当時の蝦夷と大和朝廷の融和ぶりが窺える。

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 陸奥の国の開拓がはじめられてからすでに年久しかった。仙台平野から南には十ばかりの郡が設けられ、「蝦夷」とよばれる土着民と、「柵戸(さくこ)」とよばれる東国地域からの武装移民とは、概して平和に共存していた。

しかし奈良時代末期になると、蝦夷の集団をひきいて律令政府の支配に服していた各地の「俘囚(ふしゅう、服属した蝦夷)の長は、しだいに大きな勢力に成長し、いつまでも異民族として軽侮されている立場に不満をいだくようになった。

 これに対して、朝廷側がとくに強硬方針を打ち出していた様子はない。むしろ長い間の平和な開拓方針が、光仁朝に至って限界に突き当たったのであろう。つまり動乱は蝦夷社会の成長から、起こるべくして起こったのだ。[5,p62]
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 蝦夷たちが村落単位で生活していた頃には、朝廷に帰属して安全を守って貰う、という事に価値を見いだしていただろう。しかし半世紀以上も経って、蝦夷が郡司を務め、蝦夷だけで軍隊まで組織するほどに成長した時点で、いつまで遠い朝廷の風下に立っているのか、という意識が芽生えたとしても不思議はない。

 蝦夷の反乱は、朝廷側の搾取や横暴に怒って立ち上がったのではない。大和朝廷との同胞意識が芽生えていない段階で、政治面、経済面で成長した蝦夷が、一種の反抗期を迎えたという事であろう。


■7.坂上田村麻呂の蝦夷融和策

 反乱の中で、蝦夷の勇アテルイが頭角を現し、朝廷軍を打ち破る。それに対して、朝廷から派遣された坂上田村麻呂は短期的な戦いで勝利を治めつつ、防備を整え、諸国の農民9千人を移民させて、その小作料を低く抑えて生活を安定させるなど、持久戦の体制を整えた。

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 この盤石の構えを見て、反乱の蝦夷が次々に帰順してくると、田村麻呂はこれを内地に移して、柵戸の移民と蝦夷との対立を緩和していった。[5,p71]
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 こうした準備のうえ、801(延歴20)年2月、田村麻呂は4万の大軍を率いて、蝦夷の奥地に攻め入り、翌年には胆沢城を築いて、朝廷の統治を固めた。最後まで抵抗したアテルイも、5百余人を率いて降参した。田村麻呂はアテルイを連れて上京し、「このたびはかれらを許し、賊の同類を引き寄せるのに一役買わせるのが上策である」と朝廷に訴えたが、その献策は聞き入れられなかった。

 田村麻呂の戦略は、戦いで武威を示しつつ、蝦夷たちに朝廷に服属した方が上策である事を理解させる事であった。胆沢城で農事試験場を作り、その地の蝦夷に稲作を教えたのも、その一環である。

 東書版の記述では、この融和策が書かれていないので、英雄アテルイに同情して命乞いをしたというような英雄譚になってしまっている。しかも、朝廷側の英雄譚は取り上げないのに、反乱軍側だけ英雄視する処に「反体制」という偏向が露呈している。


■8.東北地方の一体化

 しかし、東北地方がこれで完全に朝廷に帰順したわけではなかった。平安時代の後期、寛治元(1087)年からは1世紀ほど奥州藤原氏が半独立国として栄華を誇ったが、源頼朝がこれを下した。こうした長いプロセスを経て、東北は日本の一部として一体化していくのである。

 先の東日本大震災では、東北の人々の不幸に対して、すべての日本人が同胞に降りかかった災難として、心からの同情と支援を寄せた。その同胞感は、自然に生じたものではない。東北を日本の一部として一体化させようとする7世紀以来の先人の長い努力の結果である。

 そういう歴史の流れを語るのが、本来の歴史教育であろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG((635) アイヌとの同化・融和・共生の歴史
「もののわかった人は、私たちアイヌを本当の日本人として尊敬してくれました」
http://jog-memo.seesaa.net/article/201006article_17.html

b. JOG(801) 沖縄は中国の領土なのか?
 沖縄が我が国の領土であるのは、多くの先人たちの努力の結果である。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201306article_1.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 樋口清之『うめぼし博士の逆・日本史 (3)』★★、祥伝社、S62
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4396500092/japanontheg01-22/

4. 鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3』★★、小学館、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4096221031/japanontheg01-22/

5. 目崎徳衛『日本の歴史文庫(4) 平安王朝』★★★、講談社、S50

■「歴史教科書読み比べ(15) :大和朝廷の東北進出と蝦夷の抵抗」に寄せられたおたより

■渡辺カツユキさんより

渡辺カツユキの日本一元気になるビジネスマガジン
http://archive.mag2.com/0001028802/index.html

私も東北に暮らす者の一人として、東北人のアイデンティティについてよく考えることがあります。

この号の記事について、ぜひ多くの方にも知っていただきたいと思い、転載をさせていただければありがたく存じます。

先日、私の所属しております仙台青年会議所で講演会が催され、會津藩校日進館の名誉館長のお話を聞く機会がありました。

明治維新は東北にとっては、とりわけ会津の方々にとっては、暗黒の時代であり、表には出てこないが、明治期の東北人は優秀な人間も出世できない、そんな時代であったと。

しかし、「ならぬものはならぬ」に代表されるような、會津日進館の論語、古典教育は、まさに日本が古来大事にしてきた、そして日本を根底から支える価値観をはぐくんできたものと私は感じています。

東北は縄文時代には日本のなかでもっとも豊かな地域であったという説もあります。

震災を経て、私も東北に住む者の一人として、東北の歴史をしっかりと学ぶとともに、震災でいただいた日本全国からのご厚情をお返しできるよう、元気な東北をつくっていきたいと決意を秘めているところです。


■編集長・伊勢雅臣より

 東北は、日本人の良さがもっとも純粋に残っている地方の一つであると思います。先の大震災でもこれが実証されました。東北から、元気をいただきました。



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