No.873 樺太に立つ鳥居 ~ 祖国を失った日本人たち


 バイクで走ったサハリン(樺太)には、あちこちに祖国を失った日本人がいた。

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■1.「ではご無事で」

「パスポルト」ロボットのように表情のない、小太りの若い白人金髪女性が言った。恐る恐るパスポートを差し出す。あっさり入国を拒否されてしまいそうな不安がよぎる。

 ここはサハリン(樺太)最南端の港コルサコフ(大泊)の粗末な薄暗い入国管理事務所。西牟田靖さんは「原付バイクでサハリンの北端をめざして走る」ために、稚内から5時間半の船旅を終えて、今、到着した所だった。

 その時、「カバンを開けなさい」と、事務的な日本語の声が響いた。声の主は荷物検査をしている東洋系の小柄な老人だった。

「それにしてもなぜこんなところに流暢な日本語を話す東洋系の老人がいるのだろか」と疑問が浮かんだが、老係官はさらに「観光か?」と戦時中の憲兵のような口調で問いただしたので、身の上を聞くことなど、とてもできなかった。

「バイクでサハリンを回るんです」
「オマエひとりでか?」
「そ、そうです」

 恐る恐る答えた西牟田さんに対する老人の反応は意外だった。「心臓ふてえなあ」 心配してくれているのかと思うと、たちまち老係官の印象が変わった。

 検査を終え、外でバイクに荷物をくくりつけていると、仕事を終えて外に出て来た老係官が再び、声をかけてきた。「日が暮れてしまわないうちに、ただちに豊原に行きなさい」

「豊原」は現在、ユジノサハリンスクと呼ばれているサハリンの中心的都市の日本統治時代の名前だ。その豊原が出てくるということは、この地に生まれ育った日本人だろう。

「豊原へはまっすぐまっすぐ行きなさい。そうすれば到着する。ではご無事で」と老係官は昔の礼儀正しい日本語を残して、車で去って行った。

 樺太は江戸時代には日露混住の地であったが、明治8(1875)年、樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。その後、日露戦争の勝利の結果、明治38(1905)年の日露講和条約(ポーツマス条約)で、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された。しかし大東亜戦争終戦間際にソ連が侵攻し、全島を占領してしまう。[a]

 老係官は、日本統治時代の樺太に住み、戦後、逃げ遅れた住民の1人らしい。


■2.「こんな日にあなたにお会いできてうれしいです」

 片側一車線、舗装はされてはいるが、ガードレールもなく、アップダウンの続く道を走ってユジノサハリンスクに着いた。人口約17万人でサハリン州の州都だ。町の中心にはソ連建国の父であるレーニンの像がいまだに立っている。

 繁華街には青い目をした金髪美女が闊歩する横を、日本の中古車が「花のムスメヤ」などと日本語のペイントのまま走っている。

 街には日本統治時代の建物も残っていた。かつての北海道拓殖銀行豊原支店はどっしりした石造りのビルで、現在は美術館として使われている。旧樺太庁博物館は瓦葺きの、まるで日本のお城のような建物で、入り口には一対の狛犬(こまいぬ)が置かれていた。

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 道を聞くために、アジア系の老人に日本語で声をかけた。老係官との経験で、日本語が通じそうだ、という事が分かっていたからだ。案の上、穏やかな正確な発音の日本語で道を教えてくれた。

 そのあと「今日は終戦記念日ですね」と、老人の方から話題を投げかけてきた。しかし、西牟田さんにとっては、終戦記念日とは遠い昔の、実感の伴わない出来事だった。

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 しかしこの老人にとっては、この日、そして戦争というものは人生をゆるがす一大事であったのだろう。彼がもし日本統治時代から住んでいる住民だとすると、その日前後にそこが日本のものではなくなってしまったのだから。
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 どう言葉を返せばよいのか戸惑っているうちに、老人は自分の体験談をしみじみと独り言のように思い起こしながら続けた。「学校で玉音放送を聞いたことを昨日のように覚えています。15歳のときでした」

 彼はなぜ逃げられなかったのだろう、その後はどうやって生きてきたのだろう。心の中で疑問が駆け巡ったが、老人は清々しい微笑みを浮かべて言った。「こんな日にあなたにお会いできてうれしいです。ではさようなら」

 老人は会釈して、しっかりとした足取りで横断歩道を渡って、人混みの中に消えていった。


■3.「日本から来たのかい?」

 ユジノ・サハリンスクから東海岸沿いに3百キロほど舗装もしていない道路を何日も野宿しながら北上して、人口2万人以上の港町ポロナイスクに着いた。ポロナイとはアイヌ語で「大きな川」という意味である。日本時代は敷香(しずか)と呼ばれていた。

 路上ではアジア系の人々が花、肉、野菜、果物などを屋台で売っている。多くは朝鮮人のおばさんたちだが、西牟田青年が日本人だと気がついて、威勢のいい日本語で声をかけてくる。

 大通りの広い歩道で、背筋のシャンと伸びたスマートな老人が、新鮮そうなトマトを車の荷台に載せて売っていた。ハカリには朝鮮語の表示があった。

「日本から来たのかい?」老人は訛りのない知的な感じの日本語で話しかけてきた。

「このバイクで来たんですよ」
「それは大変だったね。このトマトはうちのビニールハウスで収穫したものなんだよ。食べてみな。」

 かぶりつくと、みずみずしさが口の中にあふれた。5つ買って、食べながら話を聞いた。年齢は70歳とのことだった。

「日本時代の建物って残っていたりするんですか?」
「製紙工場ならいまも動いているよ。王子製紙の工場をソ連になってからもそのままずっと使っているんだよ」


■4.終戦間際のソ連の侵攻

 日露戦争の勝利によって日本の領土となった南樺太には、日本人の入植が進み、林業、製糸業、漁業、石炭採掘などの施設が各地に作られた。内地よりも給料が良かったため、当時、大日本帝国の統治下にあった朝鮮半島からも出稼ぎや徴用などで樺太にやってきていた。

 終戦間際の昭和20(1945)年8月8日、突如、日ソ中立条約を破ってソ連が宣戦布告、翌日には北樺太から国境を越えて、ソ連軍が侵攻してきた。日本が降伏した8月15日以降も、攻撃をやめず、日本軍は応戦した。住民たちは必死に逃げまどったが、ソ連軍兵士は民間人に対しても、略奪、強盗、強姦などの限りを尽くした。[b,c]

 ソ連が停戦に応じたのは8月23日のことで、その頃にはソ連軍は南樺太のほぼ全域の占領を完了していて、日本本土への避難船の往来も遮断していた。往来が禁止される前に、本土に脱出できたのは樺太の全住民43万人のうち約10万人に過ぎなかったという。

 トマト売りの老人は、終戦時15歳だったが、こうして島に残された。戦争が終わってから1950年代までには日本人には何度か引き揚げるチャンスがあったが、朝鮮人は韓国がソ連と国交がなく、またソ連も労働力を必要としていたために帰れなかった。

 北朝鮮に戻った人々もいたが、たまに「ものを送ってくれ」という手紙が届くぐらいで、音信不通になった。北朝鮮に帰還した在日朝鮮人と同様、厳しい警戒と差別のもとに置かれていたのだろう。[d]


■5.「ロスケ(ロシア人)に全部燃やされたよ」

 トマト売りの老人が紹介してくれたポロナイスク郊外の金山さんという老婦人の家に泊めて貰うことになった。金山さんは、この地の日本人会会長をしており、遺骨収集や墓参りなどで訪れる日本人のほとんどを世話しているとのことだった。

 金山さんはポロナイスクの北の山の中で生まれた。父親は林業の作業所の棟梁を務めていて、たくさんの従業員を抱え、その家は集落の中でもひときわ大きく従業員の飯場としても使われていた。しかし、終戦直前にソ連軍が攻めてきたことで、彼女の人生は大きく変わった。家は「ロスケ(ロシア人)に全部燃やされたよ」。

 昭和20(1945)年8月20日、一家はやむなくポロナイスクに下りてきた。ソ連時代は、秘密警察の目が張り巡らされ、日本人が訊ねてくると、取調を受けたり、尾行されたりした。

 やがて朝鮮人と結婚して、子供ができ、彼女の国籍も北朝鮮に変えた。ソ連時代には、日本人より重んじられていた朝鮮人や、戦後入植してきたロシア人と結婚した日本人女性は珍しくなかった。

 1957(昭和32)~58年頃、親や兄弟は日本に引き揚げていったが、北朝鮮国籍だったこともあり、金山さんだけが樺太に留まることになった。

 ソ連が崩壊した後、日本に行けるようになった。残留日本人ということで、厚生労働省から渡航費とお小遣い1万円が支給された。金山さんは日本に6回行ったという。現在の年金は月4千円しかないので、1万円はなるべく使わずに持って帰ったという。

 夫はすでに他界し、子供5人がポロナイスクの団地に住む。金山さんは毎日数キロを歩いて、子供たちに会っているという。樺太に生まれ育った彼女にとって、この島は愛すべき故郷なのである。国は変わっても。


■6.小山に立つ鳥居

 日ソ激戦のあった北緯50度線を越え、最北端のエリザベート岬に着いてから、西牟田青年は東海岸沿いの道を引き返した。再び、金山さんの家にお世話になった際に、ある本に載っていた写真が彼を捉えた。

 それは鳥居の写真だった。「樺太時代130を数えたという神社も、いまでは、鳥居が残っているものはごくわずかだ」という一文が添えられていた。そこはウズモーリエ(白浦)という所で、ちょうどユジノサハリンスクに戻る100キロほど手前にある。

 金山さんから、ウズモーリエに住む岡本さんという人を紹介して貰い、尋ねていった。出て来たのは眼鏡をかけたインテリ風の老紳士だった。鳥居のことを聞くと、すぐ案内してくれるという。

 岡本さんはソ連製のサイドカーにまたがり、西牟田青年を助手席に座らせると、運転しながら日本統治時代の話をしてくれた。「この町、戦前は2千人もいたけどね。いまは500人しかいないんだ」 知的な印象の日本語を話した。昔は、この集落の発電所の責任者をしていたという。

 しばらくすると、サイドカーが停まった。右側に海、左側に小高い山、あたり一面、草むらや湿地帯となって、見捨てられたような光景が広がっていた。

「ここには学校があったんですよ」 岡本さんが通っていた学校だ。すでに校舎はなく、小さな四角いコンクリート製の建物だけが残されていた。天皇皇后両陛下のご真影や、教育勅語が安置されていた「奉安殿」だった。今は壁に落書きがされ、床には投げ込まれたゴミが散乱している。

 そこから500メートルほど小山を登っていくと、そこに高さ3~4メートルほどの白い鳥居が立っていた。昔は、学校からこの鳥居まで、繁華街が広がっていたという。鳥居の他には本殿や狛犬など神社らしきものは何も残っていなかった。「ソ連時代、ロシア人が日本時代の建物を壊そうとしました。でも、これだけは頑丈で壊れなかったんです」

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■7.「『日本の足あと』を訪ねてみたい」

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 サハリンの旅の途中、残された日本時代の建物を目にし、日本語を話す残された人びとに会い、彼らの生きてきた時代の話を聞くごちに、僕の好奇心はふくらみ続けていた。

 そしてそれは、この鳥居の目線に立ち、鳥居の見続けた光景に思いを馳せることで、
「かつて日本の領土だった地域に、『日本の足あと』を訪ねてみたい」
という切実な、渇望感にも似た欲求にまで昇華したのだった。
「日本」を知るための旅が始まった---。
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 この後、西牟田青年は、4年近くかけて、台湾、韓国、北朝鮮、竹島、満洲、南洋群島と、かつての大日本帝国領を巡る。樺太から南洋パラオのペリリュー島まで南北4500キロに及ぶ壮大な範囲の旅だった。その過程を『僕の見た「大日本帝国」』と題する紀行文にまとめた。

 旅を終え、終戦記念日の翌日に、西牟田青年は靖国神社に赴いた。参拝の帰りの道すがら、靖国通り側にある石の鳥居の両脇に一対の狛犬があることに気がついた。その狛犬はユジノサハリンスクで見た旧樺太博物館の狛犬と、ほとんど同じ姿、同じ貌をしていた。

 サハリンが、急にまた近づいてきた気がした。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(181) 北方領土交渉小史~スターリンの「負の遺産」
 ロシアの変転きわまりなき外交攻勢に、わが国は信義と国際法で対抗してきた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog181.html

b. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog203.html

c.JOG(763) 職務に殉じた9人の乙女 ~ 樺太真岡郵便局悲話
 ソ連軍の迫る中で、9人の乙女は電話交換手として最後まで職務を果たそうと、決心した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201209article_1.html

d.JOG(271) 「地上の楽園」北朝鮮への帰還
「地上の楽園」とのプロパガンダに騙されて、9万3千余の人々が北朝鮮に帰国していった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog271.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』★★★、角川ソフィア文庫、1998
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/404409425X/japanontheg01-22/


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