No.893 歴史教科書読み比べ(20):源平合戦と「錦の御旗」


「錦の御旗」が速やかな国内再統一をもたらした。

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■1.皇室の登場しない「源平の争乱」

 本シリーズ前稿『保元の乱と乱世の始まり』[a]で述べた保元・平治の乱により武士階級が力を得て、その中でも平清盛を中心に「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)というほどの栄華を実現した。

 その平氏が源氏に滅ぼされる過程を、自由社版では「源平合戦と平氏の滅亡」の項で、次のように説明している。

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 しかし、平氏の栄華も長くは続かなかった。平氏はやがて後白河上皇との対立を深め、上皇の院政を停止して、清盛の娘が産んだ1歳の安徳天皇を皇位につけた。後白河上皇の皇子である以仁王(もちひとおう)がこれに反発し、平氏の追討をよびかけた。これにこたえて、平氏の支配に不満を持つ武士が、各地で次々と兵をあげた。

 平治の乱で討たれた源義朝の子・頼朝は、鎌倉を拠点として関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていた。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。

義経は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を、各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに壇ノ浦でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。[1,p81]
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 東京書籍版では「源平の争乱」と題して、こう書く。

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 栄華をほこった平氏でしたが、朝廷の政治を思うままに動かし始めたため、貴族や寺社の反感を招き、地方の武士のなかにも、平氏のやり方に不満をいだく者が増えました。やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました。

 なかでも源頼朝は、鎌倉を本拠地に定め、東国の武士を結集して関東を支配下に入れ、弟の義経を派遣して、平氏を追いつめ、壇ノ浦(下関市)でほろぼしました。[1,p52]
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 まず気がつくのは、東書版では白河上皇も安徳天皇も以仁王も登場しないことである。すなわち皇室の存在はすべて無視している。したがって「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と、さも勝手に反乱が起こったかのように書いている。どちらが史実に近いのか、もう少し史実を見てみよう。


■2.平家追討の大義を与えた以仁王の令旨

 事の発端は、平清盛が武力をもって後白河法皇に院政の廃止を迫って鳥羽殿に幽閉し、さらに関白藤原基房(もとふさ)を備前に、太政大臣藤原師長(もろなが)を尾張に流し、そのうえ20歳の高倉天皇を譲位させて、自分の娘が産んだわずか1歳の安徳天皇を皇位につけたことだった。

 法皇の第二皇子以仁王は、この傍若無人を許すまじと「平家追討の令旨(りょうじ)」を全国に雌伏していた源氏に発する。「令旨」とは親王などからの呼びかけである。

 以仁王は緒戦で流れ矢に当たって亡くなってしまうのだが、この事は厳重に秘匿された。平家は以仁王の死を確認できず、そのために令旨はその後も全国の源氏を立ち上がらせたのであった。

 伊豆に流されていた源頼朝のもとにも令旨が伝えられた。

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 頼朝は衣服を改め、はるかに男山八幡宮の方を拝んだ後、謹んで令旨を拝見しました。[3,p82]
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 頼朝の敬虔な態度から、当時の人々にとって令旨がどれほどの権威を持つものであったかが窺える。

 頼朝は妻・政子の父親、北条時政にどうすべきか相談したが、そのうちに「令旨の件が京都で露見し、令旨を受け取った諸国の源氏追討の命令が下った。そちらにも手が回るから、奥州の藤原氏を頼って逃げるように」という手紙を受け取った。しかし、頼朝は逃げずに立ち上がる。

 令旨は、全国の源氏一族に平家討伐への大義を与えた。令旨がなければ、いくら不満があって立ち上がっても、それは公義に対する反乱でしかない。逆に、令旨を受け取った全国の源氏を先手をうって討伐しようとした平家の姿勢にも、令旨の権威への恐れを見ることができる。

 こう考えれば、東書版の「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と令旨に言及しない記述が、いかに歴史の真実を覆い隠したものか、よく分かるだろう。


■3.「さすがに源氏の棟梁」

 頼朝は父義朝の時代から縁故のある関東の豪族たちに挙兵を呼びかけた。緒戦で伊豆を支配している山木兼高を討ったものの、続く相模国石橋山(現小田原市)の戦いでは平家の大軍に敗れる。

 頼朝は船で房総に逃れ、安房(現千葉県)であらためて源氏の兵を集めた。ここに上総の平広常(たいらのひろつね)が2万の大軍を引き連れて、遅ればせながら参陣した。

 広常は房総にいた平氏の頭首で東国での最大の勢力を持っていた。保元・平治の乱で破れた源義朝の側についていたため、平清盛とは対立関係にあった。頼朝の挙兵に馳せ参じたが、場合によっては頼朝を討って自ら平家討伐のリーダーになろうと二心を抱いていた。

 広常は、関東最大の勢力を持つ自分が来たことで、敗走中の頼朝はさぞ有り難がるだろうと思っていたら、頼朝は逆に「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけた。広常は「さすがに源氏の棟梁。これは大物だ」と感じ入って、忠誠を誓う。

 頼朝は父・義朝から「源太の産着」を着せられている。源太とは頼朝よりも100年も前の先祖、源八幡太郎義家で、その義家が2歳にして天皇に拝謁した時、武家だからということで、産着として鎧をつけた。これが「源太の産着」と呼ばれ、この鎧を受け継いだ者が、源氏の正統の後継者とされていた。

 そもそも源氏はさらに3百年も前の嵯峨天皇や清和天皇を祖としており、皇室の血を引いている。その源氏の中でも皇室ゆかりの「源太の産着」を着せられた正統な棟梁が、いま皇室から「平家追討の令旨」を戴いて立ち上がった。言わば、頼朝は皇室から「錦の御旗」を与えられた官軍の頭領となった。

 頼朝が、広常を「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけたのは、その器量もさることながら、この正統性があればこそなのである。

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■4.「後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた」

 治承4(1180)年10月20日、頼朝の大軍と平家の軍勢は富士川で相まみえたが、頼朝軍の一部が夜襲をかけようと近づいたところ、富士川の多くの水鳥が騒ぎ、その羽音を聞いた平家の軍勢は、慌てふためいて逃げ出してしまう。

 しかし、頼朝は東国の鎮定が先決と関東から動かない。その隙に、同じく以仁王の令旨を受けて信濃で挙兵した従兄弟の源(木曾)義仲が京都に攻め込む。病死していた清盛の後を継いだ三男宗盛(むねもり)は、幼少の安徳天皇を奉じ、三種の神器とともに九州筑前に落ちていった。この行動を、渡部昇一はこう評する。

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 都を落ちるときに幼い安徳天皇を奉じ、三種の神器を持っていったのはいいとして、後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた。法皇は官軍の印(後に言う「錦の御旗」)を与えることのできる存在である。

だから法皇も一緒であれば、九州の武士たちもみんな文句なく平家の味方についたであろう。ところが京都に残った後白河法皇は源氏に平家追討の院宣(いんぜん)を出したものだから、平家のほうが朝敵となってしまった。[4,p72]
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■5.平家追討の院宣

 京都に入った義仲に、後白河法皇は平家追討の宣旨を下した。しかし、5万の兵で京都に入った義仲軍は食料もないため、ただでさえ飢饉に喘いでいる京都で略奪を行った。

 法皇は自ら義仲を討つ決心をし、延暦寺と園城寺に詔勅を下して、御所である法住寺殿を武装した。義仲は法住寺殿を焼き払い、後白河法皇を捕らえて幽閉する。しかし、法皇は義仲追討の宣旨を頼朝に下しており、頼朝は範頼・義経の大軍を京に送って、義仲軍を滅ぼした。

 今度は範頼と義経に平家追討の院宣が下った。ここから須磨の断崖絶壁をわずか70騎の馬で駆け下りて平家陣営を壊乱せしめた「鵯越の逆落とし」、四国・屋島での奇襲など、義経の英雄譚が生まれる。

 追いつめられた平家は関門海峡の壇ノ浦で義経の水軍を迎え撃つ。義経方は平家を滅ぼすだけでなく、三種の神器を奪い返さねばならない。義経の果敢な戦いで壊滅状態となった平氏の人々は次々と海に身を投じた。数え年6歳の安徳天皇は、祖母にあたる二位尼(にいのあま、清盛の正室)に抱かれたまま海に飛び込む。

 三種の神器も海中に没し、鏡と曲玉は回収されたものの、剣はついに見つからなかった。しかし、これは儀式用の形代(かたしろ、複製品)で、本物は熱田神宮に奉納されていたという。

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 平家が安徳天皇を抱えているのに対し、源氏は後白河法皇を奉じて大義名分を得たのである。もし平家が後白河法皇まで抱え込んでいたら、いくら頼朝でも追討することは不可能だった。このことは日本の歴史を理解するうえで非常に重要だと思う。[4,p74]
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 こうして以仁王の平氏追討の令旨で源氏が立ち上がり、後白河法皇の院宣で頼朝の天下が定まった。


■6.中国大陸での戦いだったら

 こういう史実を一切、無視して、以仁王も後白河法皇も登場させずに、単なる豪族間の武力闘争のように源平の合戦を描く東書版の記述は、「日本の歴史を理解するうえで非常に重要」と渡部昇一の言うわが国の真実の姿を伝えていない。

 東書版のように皇室がいっさい登場しないのでは、まるで中国での戦いのようだ。源平の合戦が、仮に中国大陸で行われたと仮定してみよう。

 平広常は2万の軍勢を持っていたのだから、当然、頼朝が源氏の棟梁だとか、以仁王の令旨を受けている点などは無視して、頼朝を殺し、その軍勢を吸収して、政権奪取の戦いに名乗りを上げただろう。

 また、木曾義仲は後白河法皇を幽閉するような手ぬるいやり方ではなく亡き者として、京都での恐怖政治を続けたろう。となると、関東は平広常、京都は木曾義仲、西日本は平氏という、まさに「三国志」の世界が現出し、互いに相手を滅ぼすまで、徹底的な戦いが続いたはずだ。その間、民の苦しみは続く。


■7.「錦の御旗」で速やかな統一回復

 日本の歴史では、統治者の交替と国内統一の回復は速やかに進む。頼朝が令旨を得たのが治承4(1180)年、国内を平定して征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開いたのが建久3(1192)年と、わずか12年で国内の統一を回復している。

 この速やかな変革は、皇室の与えた「錦の御旗」があったればこそであろう。清和天皇の血を引く源氏の棟梁という権威、さらに以仁王の令旨や後白河法皇の院宣を与えられたという正統性が、国内の様々な豪族、貴族、寺社などを納得させて、統一政権を誕生させたのである。

 皇室の「錦の御旗」で内乱が短期間に終わって、統一が速やかに回復するという現象は、明治維新の際にも見られた。

 江戸幕府が行き詰まって大政奉還、すなわち将軍が天皇に委託されてきた統治権を返上したのが慶応3(1867)年。薩長が「錦の御旗」を得た官軍として戊辰戦争や西南戦争を経て、近代的統一国家として出発したのが明治10(1877)年。この間、わずか10年である。

 皇室による「錦の御旗」は国内が分裂した際にも、その向かうべき方向を明らかにし、多くの勢力をそれに向けて集めることで、国内の統一と安定を速やかに回復する統合力を発揮するのである。


■8.「錦の御旗」と日本の国柄

 国家を幕府なり政権という「統治者」と、その基盤となる「国民共同体」と2層に考えてみると、「錦の御旗」の持つ意味が理解しやすいだろう。わが国においては「錦の御旗」を得た統治者は、国民共同体の承認を得る。

 現代の民主主義は、統治者を多数決で決めるためのルールであるが、その基盤となる国民共同体がまとまっていないと機能しない。たとえば民族間の内戦で疲弊した地域に、国連が介入して選挙を実施しても、負けた方が選挙は無効だなどといって、収まらない場合も多い。

 また中国のように共産党という統治者が力で国民共同体を押さえつけているような国では、そもそも自由選挙などは認めない。

 さいわい、わが国は皇室を中心として安定した国民共同体を維持してきた歴史伝統があるので、自由選挙によって政権を選ぶ、という民主主義のルールも機能しやすい。

 そして多数決で選ばれた政権が国民統合の象徴たる天皇に任命される。この親任式は国民共同体がその政権に正統性を与えることの象徴である。いわば現代の「錦の御旗」なのだ。

 統治者の選び方は時代ごとに変わっても、天皇から任命された政権が国民共同体の支持を得て政治を行う、という日本の歴史伝統は有史以来変わってない。だから、皇室の登場しない「源平の合戦」では、日本の歴史になっていないのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(886) 歴史教科書読み比べ(19):保元の乱と乱世の始まり
 上皇と天皇が争った保元の乱が、乱世の始まりだった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201502article_3.html

b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
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2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 平泉澄『物語日本史(中)』★★★、講談社学術文庫、S54
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4.渡部昇一『「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇』★★★、ワック、H24
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