No.894 アバダンの日章旗(上) ~ 出光「日章丸」、イランへ


 欧米石油資本の包囲を脱すべく、出光佐三は世界最大級のタンカー「日章丸」をイランに向かわせた。

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■1.「たかが終戦ごときに慌てて彼らを首になどしてはならん」

 終戦の翌々日、昭和20(1945)年8月17日、出光興産株式会社の社長・出光佐三(いでみつ・さそう)は在京の従業員を集めて、訓示をした。

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 ただ昨日までの敵の長所を研究し、取り入れ、己の短所を猛省し、すべてをしっかりと腹の中に畳み込んで、大国民の態度を失うな。[1,p134]
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 そして、日本の3千年の歴史を見直して、「堂々と再建設に進まなければならぬ」と諭した。

「大国民の態度」「堂々と再建設」とは、佐三が次に下した決定に現れた。海外から引き揚げてくる857名の社員を一人も首にしない、全員引き取ると宣言したのである。

 役員たちは唖然とし、それから強く反対した。満洲から中国、東南アジアで石油の配給を行ってきた海外事業はすべて壊滅した。国内での仕事もない。役員たちは、佐三が全てを失って気が狂ったかと思った。しかし、佐三はこう考えていた。

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 八百人を超える海外の社員は、最後に残った唯一の資本じゃないか。『人間尊重』を唱えてきた出光が、たかが終戦ごときに慌てて、彼らを首になどしてはならん。[1,p136]
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■2.「正しい道を歩いていれば、そのうち敵が味方にもなる」

 佐三は書画骨董などを売って社員を食べさせながら、仕事を探した。ようやく得た仕事の一つが、GHQの命じた旧海軍の貯油タンクに残る底油をさらう仕事だった。タンクの底の酷暑と悪臭の中を、ふんどし一つになって、バケツリレーで底油をくみ出す。危険、汚い、きつい、の3K作業そのもので、他に応ずる業者はなかった。

 過酷な労働をものともせず、ただ働けるだけで幸せだとニコニコしながら、若者たちはタンクの底に縄ばしごで降りていく。そして昭和21(1946)年4月から、1年4ヶ月で2万キロリットルもの貴重な油を危機に瀕していた日本経済に供給した。

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 出光社員の「堂々と再建設」にいそしむ姿を見たGHQの高官は、出光に対する敬意を抱いた。仕事もないのに、一人の首も切らない出光の経営姿勢にも感銘を受けていた。

 GHQから得た信頼は、出光の石油販売業への復帰を助けた。商工省と石油配給公団は、石油販売での戦前の統制を復活し、昔から自由競争を主張していた出光を排除しようとした。出光はその不明朗なやり方をGHQに訴え、GHQは商工省に指示して、それをやめさせたのである。

 心配していた周囲に、佐三は「正しい道を歩いていれば、そのうち敵が味方にもなる」と言って笑い飛ばした。

 こうして出光は石油販売に復帰できたのだが、戦後は欧米の石油業者(外油)が国内の業者を資本傘下に入れ、出光以外の13社はみな外国支配となってしまった。出光はただ一社、民族系石油会社として戦わなければならなくなった。

 しかも、石油の小売りをしようにも、外油が出光には石油を売らなくなった。世間では「出光、危うし」の声が広がった。


■3.「白旗をあげたら日本民族が泣きます」

 虎口を脱する道は、自前のタンカーを持つことだった。海外で石油を売ってくれる所から直接買い付けて、自社タンカーで日本に運んでくれば、欧米石油資本やその傘下の日本企業から石油製品を分けて貰わなくてもよい。

 昭和25(1950)年当時は、まだ大部分の物資が配給制度のままで、タンカーを建造するにも、政府の許可が必要だった。政府は造船の枠を設定していて、それを確保するのに海運会社どうしが争っていた。運輸省は海運会社でもない出光の申し出など、受け付けようとはしなかった。

 出光は経済安定本部の金融局長・内田常雄を待ち構えて、こう嘆願した。

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 どうしても聞いていただきたいお願いがあって、こうしてお待ちしていました。私の会社はいま孤軍奮闘の喧嘩をしています。13対1の喧嘩です。いま白旗を挙げて、外油の傘下に入れば、会社も潰れずにすみ、千人の社員は助かるでしょう。しかし、それでは日本民族が泣きます。どうか、この私に戦う武器をいただけないでしょうか。[1,p173]
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 ひたすらに国家の復興を思う出光の声に、内田はうなずき、助力を約束してくれた。こうして出光のタンカー建造が決まったが、世間を驚かせたのは、その大きさだった。当時は大型といっても1万2、3千トンがせいぜいだったが、出光は1万8500トンの世界最大級の船を造ると発表したのである。

 こうして昭和26(1951)年9月、「日章丸」が就航した。出光はさっそく米国西海岸で独立系の石油会社を見つけ、そこから高オクタン価ガソリンを買い付ける契約を結んだ。

 処女航海で、日章丸はサンフランシスコに向かった。敗戦国の日本が造った世界最大級のタンカーがサンフランシスコに出現したことは米国人の注目を集めた。

「日章丸」が持ち帰ったガソリンを、出光は「アポロ」と名付けて売り出した。品質が良く、価格も安い「アポロ」は飛ぶように売れた。と同時に、それまで外油が高い値段で暴利を貪っていたことも明らかとなって、石油製品が急速に値下がりした。


■4.イランから石油を買わないか

 しかし欧米石油資本はあくまで出光を排除しようと、「アポロ」を供給していた独立系の石油会社に圧力をかけ、出光への販売を止めさせた。

 進退窮まった所に、イランから石油を買わないか、という話が佐三の所に持ちかけられた。イランの石油は1908年にイギリス人が掘り当て、アングロ・イラニアン社(AI社)が牛耳っていた。

 第2次大戦後、民族主義の高まりを受けて、イランでクーデターが起き、国民戦線の指導者であるモハメド・モサデクが政権を握った。モサデクは石油事業の国有化を宣言し、ペルシア湾最奥部に位置するアバダン製油所を接収した。

 怒った英国は15隻からなる艦隊をペルシャ湾に送り込み、イランを威圧した。イランから石油を買い付けたイタリア籍のタンカーは英国海軍に拿捕され、アラビア半島南端の英領直轄地アデンに曳航されてしまった。

 佐三はイランからの石油買い付けは時期尚早だと考えた。危険というだけでなく、「イギリスが権利を主張しているイランで、国際信義を無視してまで商売をやっちゃいかん」と考えたのだった。


■5.「よろしい。それなら来年3月までに船をよこせ」

 しかし、イラン政府の代理人をしているアメリカ人から聞くと、イランにおける英国の搾取ぶりが分かってきた。AI社がイラン政府に支払っていた石油利権料はトン当たり1ドル40セント。これはサウジアラビアの4ドル、イラクの5ドル10セントと比べものにならないほど安い。

 イランは石油以外に頼るべき資源も産業もなく、国庫はAI社からのこの法外に安い利権料に頼っていた。人口19百万人のうち80%が慢性的な栄養失調に陥っている。この状況に「ノー」をつきつけたのがモサデク政権だった。この話を聞いて、佐三はこれまでよくイランが我慢していたものだ、と考えるようになった。

 国際社会も徐々にイランの国有化を認める方向に動いていた。米国政府がイランと英国の仲介役に入っており、イランと技術援助協定を結んだというニュースも入ってきた。さらに欧米石油資本が組合をつくって、イランの石油を買い付けて販売することを計画している、という情報ももたらされた。

 道義を重んじつつも、こういう国際的な情報を徹底的に集めて、情勢を見極めるのが佐三の姿勢でもある。欧米資本がイランの石油を買いに行くというなら、出光だって買いに行ってもいいじゃないか、と決心した。

 佐三は弟で副社長の計助を極秘にイランに派遣し、モサデク首相と話をさせた。首相は計助に会うなり「今まで契約に来た会社が20近くある。けれども油をとりにきたところはひとつもない」と言った。

「お前もその類いだろう」と疑うモサデク首相に、計助は「私たちはそんな不義理をしない」と出光の経営を説いた。「よろしい。それなら来年3月までに船をよこせ」と首相は注文した。


■6.朝風にひるがえる日章丸の日章旗

 佐三は、はじめに某船会社に船を出して貰う契約をした。その会社は当初「そりゃ面白い。張り合いのある仕事だ」と意気込んでいたが、途中でやめると言い出した。メジャーから脅されたのか、対英関係を懸念する外務省筋から圧力がかかったのか。

 佐三は、それならば日章丸を派遣しようと決心した。英国に見つかっても、拿捕はされても撃沈まではされない、と方々で聞いていた。佐三はこう回想している。

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 拿捕される程度で済むならば、命まで取られることはないから、船員には気の毒だけれども、まあ十何億円する船をイギリスに預けておけば、そこにイランも義理合いができて、イランの石油と日本が完全に結びつくと、それなら安い担保じゃないかと僕は思った。

 それで唯一持っているタンカーを失う出光はどうなるかわからないが、こういう事態になれば国家もそう見殺しにはしないだろうと思い、自分たちのことは忘れて日章丸をイランに向けることにした。[2,p58]
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 昭和28(1953)年3月23日、日章丸は勇姿を神戸港岸壁に横たえていた。

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 六甲、摩耶の連山を背景とし、折から旭光を浴びた日章丸は、その名にふさわしく日章旗を朝風にひるがえしている。僕は白羽の矢を手に船に上がった。そのまま船橋に上って、そこに奉祀してある宗像(むなかた)神社に矢を捧げ、船長とともに一路平安を祈願した。僕は特に、乗組員の安泰無事帰還を心を込めてお願いした。[1,p59]
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■7.「いま第三の矢が放たれた」

 秘密保持のため、出航時にアバダン行きを知らされていたのは、新田船長と機関長だけだった。日章丸がマラッカ海峡を抜け、インド洋に入ると、船長は甲板に全員を集め、「本船はこれからアバダンに行く」と告げた。

 二等機関士として乗船していた福田収作はこう語っている。「全員が本当に驚いた。イタリアの船が拿捕されたというニュースを知っていただけに、正直言って耳を疑った」

 新田船長は、佐三から渡された紙袋の封を切って、みなに渡し、一語一語噛みしめるように読み上げた。

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「わが社は消費者本位の主張を展開してきたが、敵の包囲に陥り、孤軍奮闘、悪戦苦闘の窮地に追いつめられた。[1,p214]
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 この重囲を脱するために放った第一の矢が日章丸。第二の矢が日章丸を使ってのアメリカ独立資本からの輸入であった。

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 そして、いま第三の矢が放たれた。行く手には防壁防塞の難関があり、これを阻むであろう。しかしながら、弓は(JOG注: 日月の加護が宿るという)桑の弓であり、矢は石をも徹する(貫通する)ものである。ここにわが国は初めて世界石油大資源と直結した。確固不動たる石油国策の基礎を射止めるのである。[1,p214]
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 しばしの沈黙が訪れた。エンジンの鈍い音と船が波を切る音が聞こえてくる。そのうち、誰かが「よし」と叫び、やがて「日章丸万歳」「出光万歳」「日本万歳」の声が響き渡った。


■8.アバダンに現れた巨大タンカー

 アバダンはペルシャ湾の最奥部のシャット・アル・アラブ河の河口からさらに80キロも遡ったところにある。絶えず、土砂が流れ込むため水深は浅い。国有化後、きちんと浚渫しているかどうかも分からない。

 河底の状況は海図では分からない。日章丸は手探りの航行を続けた。時々、スクリューが黄色く濁った水を跳ね上げるたびに、乗員たちは座礁するのでは、とひやひやした。

 右の川岸はイラン、左はイラク。黒いベールをかぶった夫人たちや子どもたちが、巨大なタンカーを呆然と眺めている。その頃、日章丸の姿はUPI通信の取材網に捉えられていた。

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 1万8500トンのタンカーがイランのガソリンを積み荷するため、明日アバダンに入港する予定である。このタンカーの船名と国籍は明らかにされていないが、おそらく日本のものと思われる。[1,p216]
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 やがて前方に数十の煙突と巨大なタンク群が見えてきた。世界最大のアバダン製油所である。日章丸は無事にアバダンに着いた。出光はモサデク首相との約束通り、タンカーを寄越した。しかし、無事に石油を日本に持ち帰れるか、勝負はこれからが本番だった。
(続く、文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(111 盛田昭夫の "Made in JAPAN"
 自尊と連帯の精神による経営哲学
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog111.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 水木楊『出光佐三 反骨の言魂 日本人としての誇りを貫いた男の生涯』★★★、PHPビジネス新書、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569809855/japanontheg01-22/

2.北尾吉孝、『出光佐三の日本人にかえれ』★★★、あさ出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4860635000/japanontheg01-22/


■おたより

■「虎穴さん」より

 出光興産の創業者、出光佐三(いでみつ さそう)氏の名は私たち赤間小学校の生徒にはなじみ深いものがあった。年々増えて行く学校の設備や備品の多くが、出光佐三氏の寄贈によるものだと教えられていた。

 小学校1年の頃、冬の教室の後ろには四角い火鉢があった。それが2年か3年になると石炭ストーブに変わった。3年か4年の頃、各教室にラジオが置かれた。5年生頃にはテレビが設置された。

 1年生の教室の南側に新設された図書館や、鹿児島本線脇の田んぼを潰して作られたプールなども出光さんの寄付によるものだと教わったと思う。

 出光佐三氏は自ら先頭に立って原産地の中東との間に太いパイプを築き上げ、官僚の政策判断を超えたレベルで日本の基幹産業界をリードしてきた。日本の高度経済成長の大功労者とも言うべき人である。背筋の正しい愛国者で、出光興産の企業行動は「店主」出光佐三氏の国家的視点によって貫かれていた。

 当時の私はそんなことは知る由もなく、郷土の産んだお金持ちの先輩、くらいの理解しかなかったが、じつはその愛国者の一面が、子供の私をかすかに照らしていたのである。

 図書館には楠正成関連の本が数点はあったように思う。少なくとも「千早城の旗風」という本は愛読した。南朝方の忠臣、楠正成はこの歴史絵本でおなじみだったから、そのご縁で読んだのかも知れない。

 出光佐三さんの寄贈された絵本が機縁で尊王家の見本のような楠正成の本を読み、のちに忠君愛国に対する変なアレルギーを持たなくて済んだと考えるなら、出光さんの思いはかすかにではあるが今の私に伝わったのである。

■編集長・伊勢雅臣より

 教育は国家百年の計であることが、偲ばれる逸話ですね。

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