No.916 戦後左翼の正体
「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言う人々の正体を探ってみれば、、、
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■1.「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」
8月30日、安全保障関連法案に反対する国会周辺の集会で、山口二郎・法政大学教授が、以下の発言をしたと報道されている。
__________
昔、時代劇で萬屋錦之介が悪者を斬首するとき、『たたき斬ってやる』と叫んだ。私も同じ気持ち。もちろん、暴力をするわけにはいかないが、安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる! 民主主義の仕組みを使ってたたき斬ろう。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
安全保障関連法案に反対なら、現在の中国の軍事膨張に対して、どう日本を守るか、という対案を示すべきなのに、そのような政策論議はまるでなく、国民が「民主主義の仕組み」に従って選んだ首相に、品位も論理もない悪罵を投げつけるだけである。
石平氏は「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」と批判した上で、自らの経験に照らして、こう語る。
__________
今から26年前、私の世代の多くの中国人青年が北京の天安門広場でそれこそ命がけの民主化運動を展開した。しかしわれわれは、本物の独裁者のトウ(登におおざと)小平に対しても「お前は人間じゃない」といった暴言を吐いたことはない。
われわれはただ、民主化の理念を訴えただけだった。だから、民主化運動がトウ小平の解放軍に鎮圧されたとしても、われわれには誇りが残った。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
国会前で「言葉の暴力」を振るう日本の戦後左翼と、天安門で民主化を求めて立ち上がった中国の青年たち[a]とは、姿形は似ているが、その正体は全く異なる。戦後左翼の足跡を辿ってみれば、彼らの正体が見えてくる。
■2.60年安保闘争の挫折
戦後左翼のピークは、昭和35(1960)年の安保闘争だった。同年5月19日に岸信介内閣の安保条約の改正に反対して、100万人が国会を包囲した。この時、岸首相は「国会周辺は騒がしいが、後楽園球場は満員だ」と言い放ったが、その言葉通り、一般国民は当時から安保改正を支持していた。
この年の参議院選挙で社会党は敗北し、岸内閣は支持率34%と、安保改正賛成が国民の多数派だった。新安保条約が自然成立して岸内閣が総辞職し、後継の池田勇人首相のもとで行われた総選挙でも、自民党は300議席を超えて圧勝した。
後に、岸は「安保改訂がきちんと評価されるには50年はかかる。あのときは俺は一握りの人たちとマスコミだけが騒いでいると思っていた。ああいうふうに騒いでいる連中だって、そのうちきっと安保改訂をありがたいと思う時期がくるよ」と語った。[b]
その言葉通り、半世紀後の平成24(2012)年の内閣府世論調査では、「日米安保条約が日本の平和と安全に役立っている」と考える人の割合は81.2%にも達している。[3]
安保改定への左翼の批判は「安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」というものだったが、半世紀経っても日本はアメリカの戦争に巻き込まれておらず、逆にかつてのソ連や現在の中国に対する抑止力を得て、日米同盟は戦後日本の平和に寄与している。
戦後左翼の安保反対デモは、政治的主張としては誤りであり、国民の支持も受けていなかった。「一握りの人たちとマスコミ」がデモという物理的な力で、民主選挙で選ばれた政府の決定を暴力で覆そうとした闘争であった。
■3.高度成長が打ち破った「社会主義への道」
経済面における戦後左翼の主張は「社会主義国家」の建設であった。昭和39(1964)年に日本社会党が綱領として採択した「日本における社会主義への道」は、次のように主張している。[4]
・主要生産手段公有化と計画経済により、生産性を高め国民に豊かな生活を保障する。
・日本資本主義は国家独占資本主義である。資本主義の基本的矛盾は最高度に発展しており、社会主義革命の前夜にある。
この主張を事実で打破したのが、池田内閣が始めた「所得倍増計画」だった。道路5カ年計画など社会資本の充実、貿易・為替自由化による輸出推進、優遇税制による産業高度化などの具体策が矢継ぎ早に実施された。
臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が花形商品となった。
所得倍増計画の10年間、国内総生産(GDP)は年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか3倍増となった。「主要生産手段公有化と計画経済」ではなく、「民間企業と自由市場」が「生産性を高め国民に豊かな生活」を実現した。[c]
こうして安全保障と経済成長の両面において、戦後左翼の主張は自民党の政策により、事実によって誤りであったことが実証されたのである。
■4.「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じている」
戦後左翼の政策的主張は挫折したが、60年代後半はベビーブーム世代が大学に進学し、反抗期的ムードを原動力とした学生運動が盛りあがった。
そのピークは、東大安田講堂事件であろう。発端は、医師国家試験制度に関する実務的な問題だったが、「医局員を監禁状態にして交渉した」として大学当局が17人の学生の処分を決めると、過激派学生たちが反発して安田講堂をバリケード占拠して、卒業式を阻止した。
その後、大学当局が機動隊を導入して、安田講堂を占拠する過激派を排除したが、これに反発して全学の過激派学生がストライキと主要な建物の占拠を行った。昭和44(1969)年1月18日、19日にかけて、警視庁の機動隊8500人が投入され、封鎖解除をした。
機動隊側は「なるべく怪我をさせずに生け捕りにする」方針をとったが、学生側は上部階から火炎瓶や大きな石、硫酸などの劇物を投下したため、機動隊側で負傷者710人、うち重傷者31名もの被害が出た。学生側は負傷者47名、うち重傷者1名、逮捕者457名となった。[5]
東大教官で作家の柴田翔は暴れる学生たちの姿を見て、こう書いている。
__________
僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。
ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。[6]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
学費値上げ反対とか、医師国家試験制度などというような実務的な問題を言いがかりとして、「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこび」を感じるような暴力的な運動が、国民の支持を得られるはずもなかった。学生運動は数年のうちに衰退した。
■5.サークルの10人のうちの4人が内ゲバで殺された
大方の学生が学生運動に見切りをつけて「ノンポリ化」する一方、残った過激派学生はますます先鋭化し、内ゲバ(過激派派閥間の内部抗争)で殺し合いまでするようになっていった。
昭和48(1978)年に東京大学経済学部に入った池田信夫氏は、社会科学研究会の部長を務めた。この会は、60年安保の時に歴史学研究会とともに、過激派学生の拠点となり、合わせて100人以上の部員がいたらしいが、池田氏の頃は10人くらいに減っていた。その10人のうちの4人が、内ゲバで殺されたという。
__________
今でも記憶に残っているのは、梅田順彦という学生だ。まじめな学生で、サークルに入ってきたときは「経済学部で過渡期経済論をやりたい」といっていた。・・・それがしばらくすると、黒田寛一や梯(かけはし)明秀などの革マル派の教祖の本から引用した話を呪文のように繰り返して「中核を打倒することが革命の第一歩だ」などというようになった。
そのうち梅田はサークルに出てこなくなり、生協の前でアジ演説をやり始めた。「こんな所にいたら危ないぞ」といったら、「大丈夫だよ。みんなの見ている前が一番安全なんだ」と笑っていたが、1975年十月、衆人環視のなかで数人に取り囲まれて鉄パイプでなぐられた。
頭蓋骨折で、即死だった。おびただしい血が食堂前まで広がって一帯が立入禁止になった。革労協が犯行声明を出したが、犯人は不明だった。
党派に入って1年もたたない彼が、東大にいなかった革労協に殺されたのは、その直前に静岡で革マルが革労協の活動家を殺害した報復だった。誰でもよかったのだ。[7,位置No.111]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
こうして全国で100名以上の学生が内ゲバで殺されたという。[8] 中国の「文化大革命」や「天安門広場」と同様の虐殺が、小規模ながら日本でも起きていたのである。
■6.「体制側に転向した裏切り者」
過激派の内ゲバなどで世間から愛想をつかされた戦後左翼は、公害反対運動に活路を求めた。公害は資本主義のもたらす「矛盾」であり、公害病患者がプロレタリアートに代わる「非抑圧者」という同工異曲の構図である。
反公害運動の草分けの一人が中西準子だった。参議院議員まで務めた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、23年間も助手生活を余儀なくされた。
しかし、中西は反対だけでは何も変わらないと気づき、それまでの流域下水道に代わって、小規模下水道を提案する。汚水をきれいな水に混ぜて処理する流域下水道に対して、汚水だけを分けて処理する方がコストが安いので、全国の市町村が中西の提案を受け入れた。
__________
純粋な「汚染ゼロ」の心情論理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。[8,1737]
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反公害運動を進める戦後左翼は中西を「体制側に転向した裏切り者」と呼んだ。彼らが真に公害問題の解決を願っていたのなら、それに貢献した中西に感謝・評価するはずである。
それを逆に「体制側に転向した裏切り者」と悪罵を投げつけるのは、彼らの狙いが公害問題の解決ではなく、公害問題を利用して「体制側」を転覆させることだからだ。公害問題という「矛盾」を改善することは「体制側」を延命させる裏切り行為となる。公害の被害者の人権などはどうでもよいのである。
同じ事が近年の反原発運動にも言えよう。原発をなくして、電気代が上がろうと、火力発電による環境汚染が進もうと構わない。原発に代わる代替エネルギーの現実的な提案もしようともしない。「反原発」とは単なる「反体制」の幟(のぼり)に過ぎない。
■7.戦後左翼の残党が民主党政権を作った
このように戦後左翼はもう半世紀も前から挫折し、堕落してきたのだが、その残党は、まだあちこちにしぶとく生き残っている。
たとえば、民主党政権で首相を務めた菅直人は、かつて学生運動の中心人物であり、大変なアジテーターだった。数百人規模の学生を扇動してデモを始めるが、本人は4列目にいて、前の3列までが警察に捕まる間に消えてしまう。だから、菅は「第4列の男」と呼ばれた。[d]
そんな人物が、その後、市民運動を経由して、民主党に入り、首相まで務めた。菅は「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めること」と発言しているが、衣の下から戦後左翼の鎧が見える。
その菅政権で官房長官を務めた仙谷由人は東大時代に全共闘の活動家だった。安田講堂占拠の際も弁当運びなどをしていたようだ。仙谷も「自衛隊は暴力装置」などとお里が知られる発言をしている。
以上のように、戦後左翼の系譜を辿ってみると、一貫して法と民主主義、人権を無視して、暴力によって権力を握ろうと闘争を続けてきたのが正体であることが判る。彼らが権力を握れば、天安門での中国共産党のように、民主化を求める青年たちを戦車で轢き殺すだろう。
西側先進国で、わが国ほど、政治、マスコミ、法曹、教育の各界で、いまだに左翼がしぶとく巣くっている政治的後進国はない。わが国が中国に隷従すれば、戦後左翼が一気に息を吹き返して、自由と民主、人権と平和を求める日本国民を暴力で抑え込むだろう。
安倍首相の進める安保法制改革は、そんな事態を防ぐための戦いだ。だからこそ、彼らは安倍首相に悪罵を投げつけるのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(162) 天安門の地獄絵
天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群衆に人民解放軍が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog162.html
b. JOG(337) 岸信介 ~ 千万人といえども吾往かん
日本を真の独立国とするための構想に邁進した信念の政治家。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h16/jog337.html
c. JOG(103) 下村治
高度成長のシナリオ・ライター
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog103.html
d. JOG(708) 国家の危機管理能力 ~ 佐々淳行・渡部昇一『国家の実力』を読む
治安・防衛・外交という「国民を護る仕事」をしない人間が首相になっている。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201107article_4.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 産経新聞、H27.8.31「国会前集会発言集(1)『安倍は人間じゃない。たたき斬ってやる』山口二郎法政大教授」
2. 産経WEST、「「平和運動の名に値しない」 安保法案反対集会での首相への『お前は人間じゃない』発言などに 石平氏寄稿」
http://www.sankei.com/west/news/150901/wst1509010066-n1.html
3.内閣府大臣官房政府広報室、「世論調査 6.日本の防衛のあり方に関する意識」
http://survey.gov-online.go.jp/h23/h23-bouei/2-6.html
4.Wikipedia contributors. "日本における社会主義への道." Wikipedia. Wikipedia, 3 Mar. 2008. Web. 2 Sep. 2015.
5.Wikipedia contributors. "東大安田講堂事件." Wikipedia. Wikipedia, 20 Aug. 2015. Web. 2 Sep. 2015.
6.Wikipedia contributors. "全学共闘会議." Wikipedia. Wikipedia, 19 Jun. 2015. Web. 2 Sep. 2015.
7. 池田信夫『戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか』★★、PHP新書、H27
(数字はKindle版の位置No.です)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569825117/japanontheg01-22/
8. Wikipedia contributors. "学生運動." Wikipedia. Wikipedia, 19 Apr. 2015. Web. 3 Sep. 2015.
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■1.「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」
8月30日、安全保障関連法案に反対する国会周辺の集会で、山口二郎・法政大学教授が、以下の発言をしたと報道されている。
__________
昔、時代劇で萬屋錦之介が悪者を斬首するとき、『たたき斬ってやる』と叫んだ。私も同じ気持ち。もちろん、暴力をするわけにはいかないが、安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる! 民主主義の仕組みを使ってたたき斬ろう。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
安全保障関連法案に反対なら、現在の中国の軍事膨張に対して、どう日本を守るか、という対案を示すべきなのに、そのような政策論議はまるでなく、国民が「民主主義の仕組み」に従って選んだ首相に、品位も論理もない悪罵を投げつけるだけである。
石平氏は「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」と批判した上で、自らの経験に照らして、こう語る。
__________
今から26年前、私の世代の多くの中国人青年が北京の天安門広場でそれこそ命がけの民主化運動を展開した。しかしわれわれは、本物の独裁者のトウ(登におおざと)小平に対しても「お前は人間じゃない」といった暴言を吐いたことはない。
われわれはただ、民主化の理念を訴えただけだった。だから、民主化運動がトウ小平の解放軍に鎮圧されたとしても、われわれには誇りが残った。[2]
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国会前で「言葉の暴力」を振るう日本の戦後左翼と、天安門で民主化を求めて立ち上がった中国の青年たち[a]とは、姿形は似ているが、その正体は全く異なる。戦後左翼の足跡を辿ってみれば、彼らの正体が見えてくる。
■2.60年安保闘争の挫折
戦後左翼のピークは、昭和35(1960)年の安保闘争だった。同年5月19日に岸信介内閣の安保条約の改正に反対して、100万人が国会を包囲した。この時、岸首相は「国会周辺は騒がしいが、後楽園球場は満員だ」と言い放ったが、その言葉通り、一般国民は当時から安保改正を支持していた。
この年の参議院選挙で社会党は敗北し、岸内閣は支持率34%と、安保改正賛成が国民の多数派だった。新安保条約が自然成立して岸内閣が総辞職し、後継の池田勇人首相のもとで行われた総選挙でも、自民党は300議席を超えて圧勝した。
後に、岸は「安保改訂がきちんと評価されるには50年はかかる。あのときは俺は一握りの人たちとマスコミだけが騒いでいると思っていた。ああいうふうに騒いでいる連中だって、そのうちきっと安保改訂をありがたいと思う時期がくるよ」と語った。[b]
その言葉通り、半世紀後の平成24(2012)年の内閣府世論調査では、「日米安保条約が日本の平和と安全に役立っている」と考える人の割合は81.2%にも達している。[3]
安保改定への左翼の批判は「安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」というものだったが、半世紀経っても日本はアメリカの戦争に巻き込まれておらず、逆にかつてのソ連や現在の中国に対する抑止力を得て、日米同盟は戦後日本の平和に寄与している。
戦後左翼の安保反対デモは、政治的主張としては誤りであり、国民の支持も受けていなかった。「一握りの人たちとマスコミ」がデモという物理的な力で、民主選挙で選ばれた政府の決定を暴力で覆そうとした闘争であった。
■3.高度成長が打ち破った「社会主義への道」
経済面における戦後左翼の主張は「社会主義国家」の建設であった。昭和39(1964)年に日本社会党が綱領として採択した「日本における社会主義への道」は、次のように主張している。[4]
・主要生産手段公有化と計画経済により、生産性を高め国民に豊かな生活を保障する。
・日本資本主義は国家独占資本主義である。資本主義の基本的矛盾は最高度に発展しており、社会主義革命の前夜にある。
この主張を事実で打破したのが、池田内閣が始めた「所得倍増計画」だった。道路5カ年計画など社会資本の充実、貿易・為替自由化による輸出推進、優遇税制による産業高度化などの具体策が矢継ぎ早に実施された。
臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が花形商品となった。
所得倍増計画の10年間、国内総生産(GDP)は年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか3倍増となった。「主要生産手段公有化と計画経済」ではなく、「民間企業と自由市場」が「生産性を高め国民に豊かな生活」を実現した。[c]
こうして安全保障と経済成長の両面において、戦後左翼の主張は自民党の政策により、事実によって誤りであったことが実証されたのである。
■4.「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じている」
戦後左翼の政策的主張は挫折したが、60年代後半はベビーブーム世代が大学に進学し、反抗期的ムードを原動力とした学生運動が盛りあがった。
そのピークは、東大安田講堂事件であろう。発端は、医師国家試験制度に関する実務的な問題だったが、「医局員を監禁状態にして交渉した」として大学当局が17人の学生の処分を決めると、過激派学生たちが反発して安田講堂をバリケード占拠して、卒業式を阻止した。
その後、大学当局が機動隊を導入して、安田講堂を占拠する過激派を排除したが、これに反発して全学の過激派学生がストライキと主要な建物の占拠を行った。昭和44(1969)年1月18日、19日にかけて、警視庁の機動隊8500人が投入され、封鎖解除をした。
機動隊側は「なるべく怪我をさせずに生け捕りにする」方針をとったが、学生側は上部階から火炎瓶や大きな石、硫酸などの劇物を投下したため、機動隊側で負傷者710人、うち重傷者31名もの被害が出た。学生側は負傷者47名、うち重傷者1名、逮捕者457名となった。[5]
東大教官で作家の柴田翔は暴れる学生たちの姿を見て、こう書いている。
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僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。
ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。[6]
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学費値上げ反対とか、医師国家試験制度などというような実務的な問題を言いがかりとして、「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこび」を感じるような暴力的な運動が、国民の支持を得られるはずもなかった。学生運動は数年のうちに衰退した。
■5.サークルの10人のうちの4人が内ゲバで殺された
大方の学生が学生運動に見切りをつけて「ノンポリ化」する一方、残った過激派学生はますます先鋭化し、内ゲバ(過激派派閥間の内部抗争)で殺し合いまでするようになっていった。
昭和48(1978)年に東京大学経済学部に入った池田信夫氏は、社会科学研究会の部長を務めた。この会は、60年安保の時に歴史学研究会とともに、過激派学生の拠点となり、合わせて100人以上の部員がいたらしいが、池田氏の頃は10人くらいに減っていた。その10人のうちの4人が、内ゲバで殺されたという。
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今でも記憶に残っているのは、梅田順彦という学生だ。まじめな学生で、サークルに入ってきたときは「経済学部で過渡期経済論をやりたい」といっていた。・・・それがしばらくすると、黒田寛一や梯(かけはし)明秀などの革マル派の教祖の本から引用した話を呪文のように繰り返して「中核を打倒することが革命の第一歩だ」などというようになった。
そのうち梅田はサークルに出てこなくなり、生協の前でアジ演説をやり始めた。「こんな所にいたら危ないぞ」といったら、「大丈夫だよ。みんなの見ている前が一番安全なんだ」と笑っていたが、1975年十月、衆人環視のなかで数人に取り囲まれて鉄パイプでなぐられた。
頭蓋骨折で、即死だった。おびただしい血が食堂前まで広がって一帯が立入禁止になった。革労協が犯行声明を出したが、犯人は不明だった。
党派に入って1年もたたない彼が、東大にいなかった革労協に殺されたのは、その直前に静岡で革マルが革労協の活動家を殺害した報復だった。誰でもよかったのだ。[7,位置No.111]
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こうして全国で100名以上の学生が内ゲバで殺されたという。[8] 中国の「文化大革命」や「天安門広場」と同様の虐殺が、小規模ながら日本でも起きていたのである。
■6.「体制側に転向した裏切り者」
過激派の内ゲバなどで世間から愛想をつかされた戦後左翼は、公害反対運動に活路を求めた。公害は資本主義のもたらす「矛盾」であり、公害病患者がプロレタリアートに代わる「非抑圧者」という同工異曲の構図である。
反公害運動の草分けの一人が中西準子だった。参議院議員まで務めた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、23年間も助手生活を余儀なくされた。
しかし、中西は反対だけでは何も変わらないと気づき、それまでの流域下水道に代わって、小規模下水道を提案する。汚水をきれいな水に混ぜて処理する流域下水道に対して、汚水だけを分けて処理する方がコストが安いので、全国の市町村が中西の提案を受け入れた。
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純粋な「汚染ゼロ」の心情論理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。[8,1737]
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反公害運動を進める戦後左翼は中西を「体制側に転向した裏切り者」と呼んだ。彼らが真に公害問題の解決を願っていたのなら、それに貢献した中西に感謝・評価するはずである。
それを逆に「体制側に転向した裏切り者」と悪罵を投げつけるのは、彼らの狙いが公害問題の解決ではなく、公害問題を利用して「体制側」を転覆させることだからだ。公害問題という「矛盾」を改善することは「体制側」を延命させる裏切り行為となる。公害の被害者の人権などはどうでもよいのである。
同じ事が近年の反原発運動にも言えよう。原発をなくして、電気代が上がろうと、火力発電による環境汚染が進もうと構わない。原発に代わる代替エネルギーの現実的な提案もしようともしない。「反原発」とは単なる「反体制」の幟(のぼり)に過ぎない。
■7.戦後左翼の残党が民主党政権を作った
このように戦後左翼はもう半世紀も前から挫折し、堕落してきたのだが、その残党は、まだあちこちにしぶとく生き残っている。
たとえば、民主党政権で首相を務めた菅直人は、かつて学生運動の中心人物であり、大変なアジテーターだった。数百人規模の学生を扇動してデモを始めるが、本人は4列目にいて、前の3列までが警察に捕まる間に消えてしまう。だから、菅は「第4列の男」と呼ばれた。[d]
そんな人物が、その後、市民運動を経由して、民主党に入り、首相まで務めた。菅は「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めること」と発言しているが、衣の下から戦後左翼の鎧が見える。
その菅政権で官房長官を務めた仙谷由人は東大時代に全共闘の活動家だった。安田講堂占拠の際も弁当運びなどをしていたようだ。仙谷も「自衛隊は暴力装置」などとお里が知られる発言をしている。
以上のように、戦後左翼の系譜を辿ってみると、一貫して法と民主主義、人権を無視して、暴力によって権力を握ろうと闘争を続けてきたのが正体であることが判る。彼らが権力を握れば、天安門での中国共産党のように、民主化を求める青年たちを戦車で轢き殺すだろう。
西側先進国で、わが国ほど、政治、マスコミ、法曹、教育の各界で、いまだに左翼がしぶとく巣くっている政治的後進国はない。わが国が中国に隷従すれば、戦後左翼が一気に息を吹き返して、自由と民主、人権と平和を求める日本国民を暴力で抑え込むだろう。
安倍首相の進める安保法制改革は、そんな事態を防ぐための戦いだ。だからこそ、彼らは安倍首相に悪罵を投げつけるのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(162) 天安門の地獄絵
天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群衆に人民解放軍が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog162.html
b. JOG(337) 岸信介 ~ 千万人といえども吾往かん
日本を真の独立国とするための構想に邁進した信念の政治家。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h16/jog337.html
c. JOG(103) 下村治
高度成長のシナリオ・ライター
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog103.html
d. JOG(708) 国家の危機管理能力 ~ 佐々淳行・渡部昇一『国家の実力』を読む
治安・防衛・外交という「国民を護る仕事」をしない人間が首相になっている。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201107article_4.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 産経新聞、H27.8.31「国会前集会発言集(1)『安倍は人間じゃない。たたき斬ってやる』山口二郎法政大教授」
2. 産経WEST、「「平和運動の名に値しない」 安保法案反対集会での首相への『お前は人間じゃない』発言などに 石平氏寄稿」
http://www.sankei.com/west/news/150901/wst1509010066-n1.html
3.内閣府大臣官房政府広報室、「世論調査 6.日本の防衛のあり方に関する意識」
http://survey.gov-online.go.jp/h23/h23-bouei/2-6.html
4.Wikipedia contributors. "日本における社会主義への道." Wikipedia. Wikipedia, 3 Mar. 2008. Web. 2 Sep. 2015.
5.Wikipedia contributors. "東大安田講堂事件." Wikipedia. Wikipedia, 20 Aug. 2015. Web. 2 Sep. 2015.
6.Wikipedia contributors. "全学共闘会議." Wikipedia. Wikipedia, 19 Jun. 2015. Web. 2 Sep. 2015.
7. 池田信夫『戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか』★★、PHP新書、H27
(数字はKindle版の位置No.です)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569825117/japanontheg01-22/
8. Wikipedia contributors. "学生運動." Wikipedia. Wikipedia, 19 Apr. 2015. Web. 3 Sep. 2015.