No.917 歴史教科書読み比べ(23): 元寇 ~ 鎌倉武士たちの祖国防衛
フビライの日本侵略の野望を打ち砕いた時宗と鎌倉武士たち。
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■1.「武力を用いるのは朕の本意ではない」
13世紀の初め、チンギス・ハンはモンゴル帝国を建て、無敵の騎馬軍団で中国から、中央アジア、東ヨーロッパまで広がる大帝国を築いた。5代皇帝フビライ・ハンは現在の北京に都を定め、国号を元と称した。
そのフビライが日本への侵略を企てた様子を、自由社版歴史教科書は次のように記述している。
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元寇 フビライは、東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本を征服しようと企てた。フビライは、まず日本にたびたび使いを送って、服属するように求めた。しかし、朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた。幕府は、執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えた。[1,p86]
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この一節の横には、コラムで「フビライの国書(1268年)」を引用している。
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わが祖先が天下を領有して以来、その威を恐れ徳を慕う異国は数え切れない。高麗もわが東の藩属国として、あたかも君臣、父子のようにしている。日本は高麗に近接し、過去には中国と交流していたようだが、朕が即位してからまだ一度も使いをよこさない。武力を用いるのは朕の本意ではない。日本の王は、その点よく考えよ。(「蒙古国牒状」)[1,p86]
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「服属せよ、さもなくば武力征服する」との明らかな最後通牒である。
自由社版では触れていないが、この国書は上段に「大蒙古国皇帝奉書(大蒙古国皇帝は書を奉る)」と書き、その下に小さく「日本国王(日本国王へ)」とあった。皇帝は世界の中心であり、王は皇帝から任じられた一地方の統治者に過ぎない。
時の執権、18歳の北条時宗は「これは無礼な」と眉を逆立てた。「戦さを防ぐためにも、形式的に属国となっては」という声に時宗は「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません」と答えた。[a]
■2.「ユーラシア世界史の誕生」
一方、東京書籍版歴史教科書(東書版)は、モンゴル帝国を「ユーラシア世界史の誕生」というコラムで次のように説明する。
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日本は平氏政権の時代から急速に大陸との交流を深めていました。宋銭が国内に出回り、陶磁器が輸入され、僧の行き来もさかんになりました。このように、東アジア世界の交流が活発化していたところに、モンゴル帝国が内陸アジアからやってきたのです。
モンゴル帝国は、東アジアだけでなく、遠くヨーロッパにも影響を与えました。ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始めることになったと言えます。[2,p59]
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このモンゴル帝国の日本襲来は次のように解説する。
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二度の襲来 フビライは日本を従えようと、たびたび使者を送ってきましたが、執権の北条時宗がこれを斥けたために、高麗の軍勢をも合わせて攻め入ってきました。[2,p58]
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この二つを合わせ読むと、「ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始め」たのに、日本だけがそれへの参加を拒否して、戦争になった、と言いたいようである。
■3.蒙古兵に蹂躙された朝鮮の悲劇
そもそも、モンゴルの侵略ぶりは朝鮮半島だけを見ても次のような過酷なものであった。
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朝鮮は二十数年の間、全土を蒙古兵に踏み荒らされたが、とくに大軍の侵略があった1254年には、蒙古兵にとらえられた朝鮮人は男女二十万余、殺された者は数知らず、ひとたび蒙古兵の通ったあとは、村も町もすべて荒廃しつくしたとさえいわれている。[3,p170]
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日本への襲来は「高麗の軍勢も合わせて」というが、このように国土を蹂躙された上、日本への侵略にまで駆り出された高麗兵の悲劇を思いやるべきだ。さらに「ヨーロッパへの影響」とは、ポーランドなど東欧諸国が同様の悲惨な戦いを経て、国土を守ったという事である。
半島の悲惨な状況は、日本にも伝わっていたはずで、フビライに服属すれば、同様の運命が待ち構えていたことは明らかだった。だからこそ、フビライの国書を「朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた」のである。
こうしたわが先人の危機感に思いを寄せることもなく、「ユーラシア世界史の誕生」などとお花畑的な世界史理論を振り回すのは、国家と子孫のために命懸けで闘った先人の思いを踏みにじるものだ。
こういう教科書で歴史を学んだ人々が、現在の中国の周辺諸国への軍事拡張主義も目に入らずに、集団的自衛権や沖縄の米軍基地に反対しているのだろう。
■4.「対馬・壱岐をへて」
元の襲来について東書版はこう述べる。
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1274(文永11)年には、対馬・壱岐をへて北九州博多湾に上陸し、集団戦法と優れた火器により、日本軍を悩ましたすえ、引き上げました(文永の役)。[1,p58]
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「対馬・壱岐をへて」とは、途中に立ち寄ったに過ぎないような書きぶりだが、渡部昇一の『日本の歴史 2』では具体的に次のように記述している。
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元(蒙古)軍はおよそ4万人、そのうち八千人は高麗兵である。朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出港した元軍は、対馬を襲い、残虐の限りをつくして全島を奪った。対馬守宗助国(そうすけくに)はわずか八十騎を率いて迎え撃ったが、無残に玉砕した。
続いて元軍は壱岐に上陸。守護代平景隆(かげたか)も大軍に抗しきれず自決。その家族も皆殺しにされた。これらの惨状は、明治時代の画家、矢田一嘯(いっしょう)が迫力のある大パノラマ画に描いている。
元寇については戦後あまり語られなくなったが、われわれの子供の頃は「対馬・壱岐の女子供が手に穴をあけられて船べりに吊された」といったような、悲惨な話を聞かされたものである。[4,p101]
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文永の役の翌年、フビライから何度も使者が来て、幕府内でも「和を結んでは」との声があがったが、時宗は「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ」と言い切っている。[a]
■5.「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」
対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸した元軍は「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」と東書版は言うが、なぜ引き上げたのかが、説明されていない。
高麗側の記録では、総司令官の忻都(きんと)は「疲れた兵をもって日ごとにふえる敵軍と戦おうとするのは、正しい作戦とはいえない」と言って、退却を決めたとしている。一日だけの戦いだったが、鎌倉武士の勇戦で、勝ち目はないと判断したのである。[a]
幕府側も、いったん蒙古軍の上陸を許すと、陸上戦では不利である事が判って、執権時宗は博多湾の沿岸十数キロに渡って石塁を築かせた。また御家人たちが自分ひとりの勲功を揚げようと、勝手な抜け駆けをしたことが、統制のとれなかった原因だとして、時宗は鎮西奉行を置き、その統制のもとで一致協力して戦いに臨むよう、通達を出した。
7年後の弘安4(1281)年、元は二度目の軍勢を送り出した。この間に元は南宋をも滅ぼしていたので、今回は、蒙古・漢・高麗兵4万からなる東路軍に加えて、水軍に長けた南宋人10万からなる江南軍も編成されて、前回の数倍もの大軍であった。日本占領後の農業用具までも持参していた。
■6.「神風」と「独立」
弘安の役に関して、東書版は、こう説明する。
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1281(弘安4)年には、ふたたび攻めてきましたが、御家人の活躍や、海岸に築かれた石塁などの防備もあって、元の大軍は上陸できないまま、暴風雨にあって大損害を受け、退きました。[2,p58]
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この記述は正確である。元寇は「神風」だけで勝った、という先入観があるが、史実は鎌倉武士たちの抵抗で、元軍は2ヶ月近くも上陸できずに海上におり、そこを台風が襲ったのである。[a]
自由社版は、2度の戦役をまとめて、こう解説している。
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元・高麗連合軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本をおそった。日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、新規な兵器にも悩まされた。しかし、鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った。
元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨にもおそわれて、敗退した。こうして日本は、独立を保つことができた。この2度にわたる元軍の襲来を、元寇という。[1,p87]
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「鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った」とは、その通りだが、その戦い振りをもう少し具体的に記述しないと、中学生には伝わらないだろう。
ただ、「神風」についての言及は大事である。この国難を救った暴風雨を以後、「神風」と感謝した先人たちの心映えを偲ぶべきだ。また大東亜戦争での「神風特攻隊」も、祖国を守る神風にならんとする思いから名付けられたものである。日本人の精神史を辿る上で、「神風」の出てこない東書版の記述は、重大な欠陥と言うべきだろう。
さらに自由社版の言う「こうして日本は、独立を保つことができた」という視点が、東書版には欠落している。元寇は我が国の独立維持のための戦いだった事を、中学生には教えなくてはならない。
■7.フビライの野望を挫いたもの
東書版は、元寇の項を次の文章で結ぶ。
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この二度の襲来(元寇)のあとも、元は日本への遠征を行おうとしましたが、計画だけで終わりました。[2,p59]
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なぜ、計画だけで終わったのか、これまた大事な事が書かれていない。フビライは、その後も繰り返し、日本への遠征を命じ、その都度、高麗は大量の軍船や兵員の準備を命ぜられた。
しかし、二度の日本遠征により、元の財政は破綻し、一般民衆は疲弊して、ベトナムや江南では反乱が相次いだ。弘安の役の12年後、日本を脅した最初の国書を送ってから25年後の1293年、フビライは日本遠征への最後の命令を下したが、一高官が命をかけて反対したため、中止となった。
フビライはその年明けに80歳で日本征服の野望を果たせぬまま病没する。結局、3度目の遠征を諦めさせ、フビライの野望を抑止したのは、鎌倉武士たちの勇戦だった。
■8.「かまくら山の松の嵐」
渡部昇一は、元寇が執権・北条時宗の時代であったことが、幸いだったと言う。
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日本中が上も下も不安に包まれているとき、鎌倉にすわったままでいる青年武将を見て武士たちは大きな山を仰いだような気がしたという。・・・
青年時宗の精神力は日本中の武士たちに電流のように通じた。もし総大将に少しでも動揺の色があれば、鎮西の武士たちもあれほど勇敢には戦えなかったであろう。[4,p105]
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時宗はフビライから国書が来た2ヶ月後に、わずか18歳で執権となった。そして2度の国難を乗り切り、弘安の役のわずか3年後に数え34歳の若さで病没してしまう。「まことに元寇から国を守るために生まれてきたような武将であった」と渡部昇一は表している。
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)は次のお歌を詠まれている。
あだ波は ふたたび寄せずなりにけり かまくら山の 松の嵐に
あだ波を寄せ返した「かまくら山の松の嵐」とは時宗と鎌倉武士たちの国と子孫を守るための戦いであったろう。神頼みの暴風雨ではなく、鎌倉武士たちの国家と子孫を守ろうとする意思こそが「神風」であった、と皇太后は詠まれているのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog207.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
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2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
3. 安田元久『日本の歴史文庫(7) 鎌倉武士』★★★、講談社、S50
4.渡部昇一『「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇』★★★、ワック、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/