No.946 国史百景(19): ウズベキスタンの桜
ソ連に抑留され、ウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本人の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。
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■1.ウズベキスタンの桜
中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの首都・タシケントに、1500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となった。
劇場の外壁にはプレートがはめ込まれ、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語でこう記されている。
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1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。[1]
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劇場周辺の庭には染井吉野や枝垂れ桜、八重桜など30本の桜が植えられ、春には美しい花を咲かせる。
ナヴォイ劇場だけでなく、タシケント市の中央公園にも600本の桜が植えられ、「さくら公園」と呼ばれている。さらに、そこに通じる大通りに250本、大統領官邸にも100本の桜が植えられている。
すべて日本から苗木を空輸し、日本人の造園の専門家がついて、ウズベキスタンの人々が植樹したものだ。今回は、ウズベキスタンに、なぜこれほどの桜が植えられたかを辿ってみよう。
■2.「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」
事の発端は、2000(平成12)年10月19日夕刻、ナヴォイ劇場とその前庭広場で「日本の祭り」が開かれた時だった。当時の在ウズベキスタン大使・中山恭子氏が同国の伝統音楽や、宮崎からやってきた親善訪問団による「木剣踊り」などを見ていると、訪問団の二人が大使に相談したいことがあると言ってきた。
その一人、池田明義さんは戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい、という。
中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。翌日の夕方、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、お墓に行ったらとても悲しかった。ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」と唇を噛み締めていた。
そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残して、日本に帰っていった。
その後、すぐに中山大使はベカバード市を訪れた。市長のジャロリジン・ナスレジノフさんが、まず水力発電所に案内してくれた。シルダリアという大河から水を引いて大きな貯水湖を作り、そこから6~7本の太いパイプで水を落として発電する、という巨大な発電所である。水力発電所は赤レンガ作りの立派なものであり、貯水池も向こう岸が霞むほどの大きなものだった。
ベカバード市長は、案内しながら、こう話してくれた。
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ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所や運河のおかげで今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。
ここで風速五十メートルを超える突風が吹いた時にも、周辺の建物は全て壊れてしまいましたが、この水力発電所だけはビクともせずに動いていました。五十五年間、毎日、一日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています。[1,p207]
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■3.「何という風景でしょう」
それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。ウズベク人、トルコ人、ロシア人などのそれぞれのお国ぶりの墓地の中心部辺りに、大きな野原があった。案内してくれた人が「ここが日本人のお墓です」という。
何もない枯れ野原で、目についたのは小さな垣根だけだった。その中に入り、足元を見ると、ちょうど人が横たわっているような盛り土が、幾筋もはるか遠くまで並んでいた。
墓標もない。ただ頭のあたりに、はがき大の小さな鉄板が刺してあり、記号と6桁の数字が彫ってあった。捕虜の番号だろう。
大使は立ちすくんだ。
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何という風景でしょう。一体どうしたらいいのだろう。
しばらくの間、その場に立ち尽くしてしまいました。
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■4.「あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ」
墓地を訪れた後、市長は中山大使を、日本人のことをよく覚えているという90歳の老人の家に連れていってくれた。子や孫、曾孫に囲まれた賑やかな一家だった。
老人は「お墓をお参りしてくれたのか。あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」とお礼を言った。
大使が「日本人のことを覚えていらっしゃいますか」と聞くと、こう答えた。
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それはもう、よく覚えているよ。自分は若い頃タシケントに住んでいたが、ベカバードに水力発電所を造ることになり、ここで働くようにと言われてやってきた。
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日本人抑留者が3千人ほどやってきて、すぐに仕事を始めた。
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日本人っていうのはとってもいい人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けている。
うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全ていいものだった。本当にすごい人達だった。とても大切な友達だったんだ。
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こういう話を老人からいつも聞かされて、家族も町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思ってきたという。整備するだけの余裕はなかったけれど、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。
同様に、ウズベキスタン全体では、大戦後、2万5千人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。ナヴォイ劇場はその一つである。どの地方でも、日本人が勤勉に働いていた様が語り継がれていた。
■5.「父はここで眠るのが一番幸せだと思いました」
中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思ったが、作業に取りかかる前に、まず埋葬者の遺族の意思を確認することとした。日本に遺骨を持って帰りたい、という人もいるのではないか、と思ったからだ。
遺族を探し出すのは難儀したが、「父の遺骨をどうしても日本に持って戻りたい」という人が見つかった。とりあえず現状を見てみたい、とのことで、元抑留者たちと一緒にウズベキスタンにやってきた。
その人の父親のお墓は、コカンド市にあった。地元の人々が赤い鳥居を立ててくれている。その人は墓地を訪問した後、中山大使にこう語った。
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ウズベキスタンまで来て本当に良かった。父はここで眠るのが一番幸せだと思いました。お墓を訪ねたら大層綺麗になっていた。お花を飾ってくれていたし、箒(ほうき)の目まで立っていた。そして、周りにいたウズベキスタンの人々に話を聞いたら、みんなが「ここで働いていた人達は本当に優れた人達だった。尊敬している。だからお墓を守っている」と話してくれた。
父が、みんなに、こんなにまで温かく見守られているとは思ってもいませんでした。父の遺骨を日本に持って帰るために、兄弟で少しずつ貯金をしてきました。でも、日本に帰ったら、兄弟達にきちんと話をして納得してもらいます。
父はきっと、ここで仲間達と一緒に眠るのが一番幸せなのだろう……そういうふうに感じたからです。そして、貯めてきたお金は代わる代わるお墓参りに来るのに使いたいと思います。
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こうして、元抑留者や遺族の間では、、「遺骨を日本に持ち帰るより、戦友達と一緒に、ウズベキスタンの人々に温かく見守られながら、ここで眠るのが一番いいだろう。それに反対する人は関係者の中にはいないだろう」という結論となり、墓地整備に踏み切ることになった。
■6.「日本人墓地の整備はウズベキスタン政府が責任を持って行う」
こうして大使館側では資料収集を始め、また日本側でも呼応して募金活動が始まった。約2千万円の浄財が集まり、整備の目処がついた所で、ウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたい、とお願いした所、スルタノフ首相からすぐに返事が返って来た。
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ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取り掛かります。[1,p224]
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対外経済関係省が中心となって、墓地整備の作業が始まった。同省のエリヤル・ガニエフ大臣が自ら各地の墓地を訪れて、「ここに車が通れる道を作れ」などと具体的な指示をした。
それぞれの地域では、住民達が集まって石を切り出し、磨き、垣根を作り、墓石の周囲になるべく雑草が生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。政府の声がかりがあるとはいえ、多くの人がボランテイアで参加してくれた。
各地域で大勢の人々が作業に参加したため、1年ほどで全ての墓地整備が完了した。白い墓石が並び、それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、四つの市に「抑留者記念碑」も建立さた。
■7.「ここに桜を植えたい」
墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な光景が忘れられなかった。
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亡くなった当時、ほとんどが二十代、三十代の若者でした。何とかして日本に帰ろうと耐えていたことでしょう。日本を思って毎日を過ごしていたに違いありません。帰郷がかなわず五十数年間訪ねる人もないまま、日本から遠く離れたウズベキスタンの地で眠っているのです。
周囲の墓地には、木が大きく育ち墓を守っています。野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、ここに桜を植えたいと強く思いました。春になれば綺麗な花を咲かせてくれるだろう。何年か経てば太い枝が墓を覆ってくれるだろう。きっと異国の地に眠る霊達も喜んでくれるに違いない。
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そこで中山大使は、集まっていた募金の一部を桜の苗木に使えないか、と協力者たちに相談した。元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」という話も出て、皆、大賛成だった。
ウズベキスタン側からも、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。こうして冒頭に記したように、各日本人墓地とともに、中央公園とそれに続く大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1300本もの桜の苗木を植えるという国家的大事業が始まったのである。
■8.「ふるさと」の歌
2002(平成14)年春には全ての墓地整備が完了し、白い墓石が並び、いつでもお線香をあげてお参り出来るようになった。それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、四つの市に「抑留者記念碑」も建立された。
同年5月、鎮魂の碑と抑留者記念碑の除幕式に日本から麻生太郎日本・ウズベキスタン自民党友好議連会長、中山成彬同事務局長はじめ、遺族、元抑留者、ボランティアなど多くの人々がタシケントに集まった。
式の後で三つのグループに分かれて、各地にある全ての墓地を訪ね、花を供え、お線香を焚いて、時には日本酒を注いでお参りをした。誰からともなく「ふるさと」の歌が流れ、全員が声を合わた。人々の頼に涙が伝った。
鎮魂の碑や抑留者記念碑の費用は日本で集まった募金で賄ったが、実際に石を切り出し、墓石を磨き、道を造り、桜を植えてお墓の世話をしてくれてたのは地元の人々だった。ウズベキスタン側はそうした作業にかかる費用について、本来、自分達がやるべきことだからと一切受け取らなかった。
それではと墓地整備のためとして全国から寄せられた募金で、13カ所の日本人墓地の地域の学校に日本製のコンピュータを寄付した。教育熱心なウズベキスタンの人々は大変喜んだという。
この春も、ウズベキスタンの桜は見事な花を咲かせたろう。墓を護ってくれているウズベキスタンの人々とともに、墓地に横たわる日本の抑留者たちも、美しい桜の花を愛でながら、遠い祖国の山河に思いを寄せたことだろう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(885) キルギス邦人拉致事件はいかに解決されたのか
解決の鍵は、現地を良く理解し、現地の人々と信頼関係を築いていた国際派日本人が握っていた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201502article_1.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 中山恭子『ウズベキスタンの桜』★★★、KTC中央出版、H17
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4877583548/japanontheg01-22/
■おたより
■ウズベキスタンの女性に助けられた(ベル子さん)
ウズベキスタンの桜の話ですが、私はアメリカでウズベキスタンからの移民の女性に聞かされておりました。
彼女とは、移民向けのESL(英語を教えてくれる学校)で出会いました。ウズベク語とロシア語を話す彼女は、クラス内でグループ分けをする際にいつも私のそばに来て、「私は日本人が好き。あなたと一緒がいい!」と言ってくれました。
アジア、ヨーロッパ、南米など、地域で分かれる際にも、「ウズベキスタンはアジアです。日本人と一緒です。」と言ってくれました。
なぜそんなに日本人を好いてくれるのか、ゆっくり話す機会がなかなかなくて聞けずにいたのですが、ある大雨の日に彼女を家まで私の車で送ってあげることになり、その際に教えてもらいました。
彼女のおじいさん(年齢的に考えると、ひいおじいさんかもしれません)や親戚の人たちは、昔 戦争の後に日本人と一緒に働いていたそうです。(具体的にどんな仕事をしていたのか、というのは彼女は英語で説明が出来ずはっきりしませんが、しきりに耕す、運ぶというジェスチャーをしていました。)
その日本人たちがとても素晴らしい人たちだったこと、親切だったことを彼女は何度も聞いて育ったのだそうです。その時に、「日本人の場所には花があった。きれいな花 、沢山の木。とてもきれいだった。」と一生懸命に教えてくれました。
その後、ESLで出身国の文化を紹介する行事があった際、桜の造花や写真を私は持参したのですが、ウズベキスタン人の彼女が「この花!ウズベキスタンにあった花!日本人の花!」ととても喜びました。
彼女が言っていた「日本人の場所の花」のことを詳しくメルマガで教えていただけて、彼女との会話の中ではわからなかった歴史的な事情も理解出来、本当にありがたい気持ちです。
東欧・モルドバからの移民は、何故かアジア人蔑視が酷くて 私も嫌がらせをされたことがあったのですが、ウズベキスタン人の彼女がロシア語でモルドバ人を撃退してくれたことがありました。
立派な日本の先人達のおかげで 、海外に出て困ったときに助けてもらえたのです。本当にありがたいことです。
■編集長・伊勢雅臣より
立派に生きた御先祖様の余慶ですね。
■「異国の岡」の収容所生活(Tetsuroさん)
近年、大相撲でモンゴル力士が増えておりますが、その中に ウランバートル出身の方がおられます。ウランバートルと聞くと、ウランバートル捕虜収容所を思い出します。その収容所で我々同胞は苦労したのでしょう。
それから、今は全く聴かれなくなりましたが、戦後の一時期、NHKのノド自慢放送等で良く歌われていた曲に「異国の丘」というのがありました。
その曲のyoutube を添付しましたので、お聴きください。一つは作曲した吉田正さんの歌、もう一つはプロの歌手の方の歌です。収容された方々の過酷な生活の中のでの、気をまぎらわせる一時も画かれております。
YoutubeのURL
https://www.youtube.com/watch?v=DN3Kcl8Gs-I&nohtml5=False
http://bit.ly/1TbLVdF
■伊勢雅臣より
収容所生活を懸命に明るく生きる先人達の光景が胸に迫ります。
■ご遺骨の帰還を(夏目壽さんより)
今回も読んでいて本当に胸が熱くなりました。
70年前の大東亜戦争に負けたことにより米国により「日本は悪い国だ」と洗脳され今に到っています。戦争が終了し祖国に帰れると思っていたのが捕虜として抑留され今の世の中では考えられないような凄絶な状況で労働を強いられたと思います。
そんな環境の中でも我々の先人たちは精一杯その地域の為に後世に語り継がれることをされたのほんとうにすごいことだと思いますし誇りに思います。
また中山恭子さんが大使だったのも良かったと思います。
このように戦地で散華された人たちがまだ約110万柱あると聞きます。今の日本があるのはこの方々のお陰であります。一刻も早く祖国に還れるようにすることが我々の責務ではないかと思います。
■伊勢雅臣より
ご遺骨の帰還作業は、先人の思いを受け継ぐ大切な営みですね。