Wing(2620) 国民国家が古代帝国に勝った日清戦争
JOG(976) 「国史百景(22) 海の武士道 ~ 伊東祐亨と丁汝昌」を書いていて痛感したのは、日清戦争とは国民国家・日本と古代帝国・清の戦いだった、ということだ。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201611article_1.html
■国民の志気
まず国民の志気が違う。日本軍は一般兵士に至るまで、国を護ろうという志気が高かった。紙数の制約で書けなかったが、こんな逸話もある。
連合艦隊旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾を受けて、多数の死傷者を出した。副長の向山真吉少佐は、甲板で重傷を受けた水兵に「副長」と呼び止められた。その水兵は苦しい声で問うた。「『定遠』はいまだ沈みませぬか」と。
向山少佐が「心配するな、『定遠』はもはや発砲し能(あた)わざるまでにヤッツケたれば、これから『鎮遠』をヤルノダ」と答えると、水兵は微笑して「ドウカ、仇を討って下さい」と言って、そのまま絶命した。向山少佐の胸中は張り裂けるばかりだったという。
この逸話に、若い歌人、佐佐木信綱はいたく感激して、一夜にして歌に詠んだ。この「勇敢なる水兵」は小学唱歌に採用されて、戦前はあまねく国民が愛唱した。
「まだ沈まずや定遠は」 この言の葉は短くも 皇国(みくに)を思ふ 国民(くにたみ)の 胸にぞ深く刻まれぬ
一方の清国艦隊は、戦線からの逃亡が目立った。黄海海戦で「済遠」が日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った件は本編に書いたが、威海衛への攻撃に際しても、10隻余りの水雷艇が湾口から躍り出て、連合艦隊は「すわ、水雷艇の出現!」と警戒ラッパを鳴らして応戦体制をとった。
しかし、水雷艇は快速を利用して、一目散に逃げ出したので、みなあっけにとられた。文字通りの敵前逃亡である。結局、これらの水雷艇は追撃されて、4隻は撃沈され、6隻は浅瀬に座礁した。
日本の将兵は、命を懸けて自らの国家を護らんとする最良に意味での「国民」であったが、清国の兵隊は単に金で雇われた「傭兵」であった。命が危なくなったら、平気で逃げ出す。そういう兵を集めて、国を支えようとした丁汝昌提督の困難が思いやられる。
■明治天皇と西太后
明治24(1891)年に、清国北洋艦隊の「定遠」「鎮遠」以下計6隻が長崎、神戸、横浜、呉と各地に寄港し、自由に艦内を見せたのは、日本の朝野に威圧を与える一大示威行動だった。
当時の日本の主力艦「浪速」「高千穂」は、「定遠」「鎮遠」の半分以下の排水量であった。「定遠」「鎮遠」に対抗できる新鋭艦が欲しいという国民の声が、日本中に漲った。しかし、政府の予算は底をついていた。
明治天皇は大変心配されて、宮廷費の1割、30万円を節約して寄付された。この聖旨が伝わると、国民各層から建艦寄付金が寄せられた。巡査や教師の月給が3円~5円という時代に、わずか数ヶ月で203万8千円の寄付が寄せられたのである。
こうして明治天皇と国民の熱意の結果として、完成したのが「秋津島」と「吉野」であった。両艦とも高速性と速射砲で優り、黄海海戦での勝利の一因となった。
一方、清国の方は「定遠」「鎮遠」で示威行動を行った後は、建艦努力を怠ってしまった。特に日清戦争の勃発した明治27(1894)年は西太后の還暦の年にあたり、それを記念して頤和園(いわえん)の造営を行った。そのために軍艦購入費約4500万円を流用したという。
また日清の講和で、清国内には3億円の賠償を払うくらいなら、それを戦費にして、戦争を続けようという主張もあったが、西太后は金で済むことなら、早く戦争を止めようと言った。
清国の富強は日本とは桁違いだったが、西太后の、国の事よりも自身の享楽と保身のことしか考えないという暗君ぶりでも桁違いだった。国家を皇帝の私物と考えるのは古代帝国の特徴である。
■国民国家と古代帝国
明治日本は、天皇から水兵まで国家のことを第一に考える、という国民国家であった。対する清国は、西太后から水兵まで、国のことより保身を考える古代帝国であった。
しかし、わが国が明治維新で一気に国民国家となった、と考えるのは無理がある。建国の昔から、我が皇室は民の安寧を祈り、その大御心に感じて、国のために尽くす民も少なくなかった。そういう意味で、わが国は太古の昔から国民国家であったと考えた方が良さそうだ。
対するシナは、共産革命後も、党幹部が自らの享楽と保身しか考えない古代帝国そのままである。
日本の国民国家ぶりと、シナの古代帝国ぶりとの違いは、國體の違いと言うほかはないだろう。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201611article_1.html
■国民の志気
まず国民の志気が違う。日本軍は一般兵士に至るまで、国を護ろうという志気が高かった。紙数の制約で書けなかったが、こんな逸話もある。
連合艦隊旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾を受けて、多数の死傷者を出した。副長の向山真吉少佐は、甲板で重傷を受けた水兵に「副長」と呼び止められた。その水兵は苦しい声で問うた。「『定遠』はいまだ沈みませぬか」と。
向山少佐が「心配するな、『定遠』はもはや発砲し能(あた)わざるまでにヤッツケたれば、これから『鎮遠』をヤルノダ」と答えると、水兵は微笑して「ドウカ、仇を討って下さい」と言って、そのまま絶命した。向山少佐の胸中は張り裂けるばかりだったという。
この逸話に、若い歌人、佐佐木信綱はいたく感激して、一夜にして歌に詠んだ。この「勇敢なる水兵」は小学唱歌に採用されて、戦前はあまねく国民が愛唱した。
「まだ沈まずや定遠は」 この言の葉は短くも 皇国(みくに)を思ふ 国民(くにたみ)の 胸にぞ深く刻まれぬ
一方の清国艦隊は、戦線からの逃亡が目立った。黄海海戦で「済遠」が日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った件は本編に書いたが、威海衛への攻撃に際しても、10隻余りの水雷艇が湾口から躍り出て、連合艦隊は「すわ、水雷艇の出現!」と警戒ラッパを鳴らして応戦体制をとった。
しかし、水雷艇は快速を利用して、一目散に逃げ出したので、みなあっけにとられた。文字通りの敵前逃亡である。結局、これらの水雷艇は追撃されて、4隻は撃沈され、6隻は浅瀬に座礁した。
日本の将兵は、命を懸けて自らの国家を護らんとする最良に意味での「国民」であったが、清国の兵隊は単に金で雇われた「傭兵」であった。命が危なくなったら、平気で逃げ出す。そういう兵を集めて、国を支えようとした丁汝昌提督の困難が思いやられる。
■明治天皇と西太后
明治24(1891)年に、清国北洋艦隊の「定遠」「鎮遠」以下計6隻が長崎、神戸、横浜、呉と各地に寄港し、自由に艦内を見せたのは、日本の朝野に威圧を与える一大示威行動だった。
当時の日本の主力艦「浪速」「高千穂」は、「定遠」「鎮遠」の半分以下の排水量であった。「定遠」「鎮遠」に対抗できる新鋭艦が欲しいという国民の声が、日本中に漲った。しかし、政府の予算は底をついていた。
明治天皇は大変心配されて、宮廷費の1割、30万円を節約して寄付された。この聖旨が伝わると、国民各層から建艦寄付金が寄せられた。巡査や教師の月給が3円~5円という時代に、わずか数ヶ月で203万8千円の寄付が寄せられたのである。
こうして明治天皇と国民の熱意の結果として、完成したのが「秋津島」と「吉野」であった。両艦とも高速性と速射砲で優り、黄海海戦での勝利の一因となった。
一方、清国の方は「定遠」「鎮遠」で示威行動を行った後は、建艦努力を怠ってしまった。特に日清戦争の勃発した明治27(1894)年は西太后の還暦の年にあたり、それを記念して頤和園(いわえん)の造営を行った。そのために軍艦購入費約4500万円を流用したという。
また日清の講和で、清国内には3億円の賠償を払うくらいなら、それを戦費にして、戦争を続けようという主張もあったが、西太后は金で済むことなら、早く戦争を止めようと言った。
清国の富強は日本とは桁違いだったが、西太后の、国の事よりも自身の享楽と保身のことしか考えないという暗君ぶりでも桁違いだった。国家を皇帝の私物と考えるのは古代帝国の特徴である。
■国民国家と古代帝国
明治日本は、天皇から水兵まで国家のことを第一に考える、という国民国家であった。対する清国は、西太后から水兵まで、国のことより保身を考える古代帝国であった。
しかし、わが国が明治維新で一気に国民国家となった、と考えるのは無理がある。建国の昔から、我が皇室は民の安寧を祈り、その大御心に感じて、国のために尽くす民も少なくなかった。そういう意味で、わが国は太古の昔から国民国家であったと考えた方が良さそうだ。
対するシナは、共産革命後も、党幹部が自らの享楽と保身しか考えない古代帝国そのままである。
日本の国民国家ぶりと、シナの古代帝国ぶりとの違いは、國體の違いと言うほかはないだろう。