No.994 人物探訪: 澄ましえぬ水にわが身は沈むとも ~ 孝明天皇の闘い
幕末の危機に、孝明天皇は一身を省みず、国内の一致結束と国家の独立維持のために闘った。
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伊勢雅臣「『自虐史観』歴史教科書は『シベリア強制連行』を黙殺」、『歴史通』4月号に掲載
抑留者60万人、犠牲者6万人以上。広島・長崎、東京大空襲に継ぐ戦争犯罪を書かない中学歴史教科書。自分たち祖父や父の悲劇を無視している歴史教科書があると知ったら、遺族はどのような思いをされるだろうか。
http://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/
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■1.「孝明天皇が攘夷にあそこまでだわらなかったら」
幕末・維新前夜、開国か攘夷かを巡って国論が割れ、混乱した時代に、明治天皇の父君である孝明天皇の果たした役割が改めて評価され始めている。
「孝明天皇が攘夷にあそこまでだわらなかったら、日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」とは、幕末史の研究家・家近良樹・大阪経済大学助教授の言である。[1, p27]
近世史を専門とする藤田覚・東京大学名誉教授は、さらに具体的に、次のように指摘している。
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もし、江戸幕府が求めたとおりに通商条約の締結を勅許していたならば、その後の日本はかなり異なった道を歩んだのではなかろうか。
たとえば、反幕府運動、攘夷運動の高揚による幕府の崩壊とともに、幕府と一体化した天皇・朝廷もともに倒れ、その千数百年の歴史にピリオドを打つという事態も想定される。また、外圧に屈伏した幕府・朝廷に対する反幕府反朝廷運動と、攘夷運動の膨大なエネルギーの結集核が不在のため、長期に内戦状態が続き、植民地化の可能性はより高かったのではないか。[2, 52]
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本編ではこうした「異なった道」を身をもって防いだ孝明天皇の闘いの様を辿ってみよう。
■2.揺らぐ幕府の権威、高まる朝廷への期待
江戸時代、京都の御所でひっそりと民の安寧を神に祈っていた皇室で、最初に幕府の政治に口を挟んだのが孝明天皇の祖父・光格天皇だった。天明7(1787)年の大飢饉の際に米価が高騰したが、幕府の無策により、お膝元の江戸でも民が打ち壊し(暴動)を起こした。
幕府に愛想を尽かした民は皇室に助けを求めた。困窮した人々が神社で祈るような気持で、御所の周囲を回り始めたのである。その数、一日数万人に及んだ。
光格天皇は、古代の朝廷が全国の窮民に米や塩を送った例をあげて、幕府に救済措置がとれないか、と打診した。朝廷が幕府の政治に口を挟むということは前例がなく、まさに前代未聞の事だった。幕府は計画していた救助策に、さらに千石(15トン)の救い米供出を決定し、朝廷に報告した。[a]
文化3(1806)年、4年には、ロシア軍艦が樺太、択捉(エトロフ)島の日本人居留地を襲った。江戸では、ロシア軍がすでに東北地方を侵略した、との噂まで流されていた。
うち続く内憂外患に幕府の権威が落ちる一方で、本居宣長の国学や藤田幽谷の水戸学などで、幕府の統治権は天皇より委任されたものという考え方が広まっていた。幕府は人心統一のために、ますます朝廷の権威に頼らざるを得なくなっていった。
■3.「衆議公論」
嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船艦隊が来航し、通商を求めた。幕府は朝廷に報告するとともに、諸大名にも意見を求めた。この時は、孝明天皇は「人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることのないように」という叡慮を伝えた。
天皇は、アメリカ船に水や燃料を提供する人道的な措置であれば「神国日本を汚すことにはならない」と考えており、それに沿って幕府は翌年、ペリーと日米和親条約を結んだ。
安政3(1856)年に着任したアメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約を結ぶことを提案した。これは本格的な貿易を始めることとなるので、幕府は諸大名を集めて説得に努めたが、大名の中からは、朝廷の勅許(許可)を求めるべき、という意見が出た。
この時点では、幕府は勅許を得て、それによって諸大名の異論も封じることができると考えていた。当時、朝廷の実力者として30数年間、君臨していた太閤・鷹司政通が開国論者であったからだ。70歳の政通に対して、孝明天皇はわずか28歳、祖父と孫ほどの違いがあった。幕府は政通に工作して、孝明天皇の意思に関係なく、「幕府に一任」の勅許を出させようとした。
しかし、孝明天皇は、太閤に遠慮することなく、公家が自由に意見を言えるようにすべし、とした。まさに日本の政治伝統の「衆議公論」を唱えたのである。公家たちは政通の専横を排し、「人心の折り合い(国内の合意)が重要なので、諸大名に意見書を提出させ、天皇のご覧に入れるよう」との多数意見でまとまった。
■4.「わが国を侵略しようとするもの」
政通は御所に乗り込み、この決定を覆そうとしたが、天皇の意思は変わらなかった。天皇の考えは、後に書かれた次のような宸翰(天皇の自筆の文書)に示されている。
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通商条約は、表面上は友好をうたっているが、じつはわが国を侵略しようとするものなので、誰が何と言おうと許しがたい。条約を締結しなければ外国と戦争になるだろう、しかし平和に慣れたわが国の軍備は弱体化し、まことに「絶対絶命の期」である、「夷」(諸外国)を成敗できないのでは、「征夷大将軍」の官職名にふさわしくなく、嘆かわしいことである。[2, 2620]
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欧米諸国が通商を求めるのは、「わが国を侵略しようとするもの」というのも、当時の東アジア諸国が次々と植民地化されている情勢を眺めれば、一目瞭然であった。
1842年には清国がイギリスとのアヘン戦争に負けて、香港を奪われていた。清国はイギリス商人が売り込むインドのアヘンが麻薬中毒患者を激増させ、貿易収支を悪化させているので、これを禁止しようとしたのを、イギリス艦隊が強引にねじ伏せたのだった。その砲艦外交は、日本の朝野に衝撃を与えていた。[c]
米国との通商を拒否したら戦争になるというのは、ペリーの国書から明らかであった。そこには、通商拒否は「天理に背く」ことで、「干伐(戦争)を持って、天理に背くの罪を糺(ただ)」さんとする、という文言があった。そして戦争になればアメリカが勝つので、降伏の際はこれを押し立てよ、と白旗まで送っていたのである。[3, p168]
今日の文明化した欧米諸国を思い描いて、「攘夷」とは文明国との自由貿易を拒否した頑迷な封建思想と考えては正確ではない。当時の欧米諸国は、チベット、ウイグルを占領・搾取している今日のシナと同様の侵略国家であった。「攘夷」とはその侵略と戦って、国家の独立を守ろうとする考えである。
他方の開国派は、戦争になったら負けて植民地となってしまうから、ここはひとまず相手の要求に屈して、当面の窮状を凌(しの)ごうという妥協派だった。
■5.国内一致協力して、独立保全を。
彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が幕府大老に就任すると、天皇の詔勅も一部大名の異論も無視して、日米通商条約に調印してしまった。それを批判する前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)らを、親藩にも関わらず、処罰し、謹慎を命じた。
井伊の専横の処置に、天皇は激怒し、次のような「御趣意書」(「戊午の密勅」)を幕府に送った。
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「皇国重大の儀」である通商条約に調印してから報告したのは、3月20日の勅答に背いた軽率な措置であり「不審」だ。朝廷と幕府の不一致は国内の治乱に関わるので、「公武御実情を尽くされ、御合体」、すなわち公武合体が永久に続くようにと思う、徳川斉昭らを処罰したようだが、難局にあたって徳川家を扶翼する家を処罰するのはどうか、心配である、
大老、老中をはじめ、御三家から諸大名に至るまで群議をつくし、国内が治まり、公武合体が永久に続くよう、徳川家を「扶助」し、外国の侮りを受けないようにすべきだ。[2,2668]
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侵略の危機に際して、「群議をつくし」、国内が朝廷も幕府も公家、大名に至るまで、一致協力してあたるべきだ、というのが、孝明天皇の願いであった。
勅許なきままの条約締結は「違勅」だとして、幕府への非難の声が高まった。井伊直弼は、それを弾圧するために公家や諸大名を謹慎させたり、吉田松陰、橋本左内などの多くの志士を処刑した。安政の大獄である。
井伊の強権政治に怒った水戸藩の浪士たちは、井伊を江戸城の桜田門外で殺害した。大老までが暗殺された事で、幕府の権威は地に落ち、幕府を見限って、朝廷を中心に外国の侵略に立ち向かうべきだという尊皇攘夷の声が盛りあがっていく。
■6.「小攘夷」か、「大攘夷」か
孝明天皇が単純な攘夷論者ではなかった事は、いくつかの点からも窺える。上述の「御趣意書」での天皇の怒りに対して、幕府は「拒絶できないからやむなく条約を結んだまでで、軍事力が整えば、鎖国に戻すのでそれまでは猶予して欲しい」と弁解した。
天皇は、この弁解に対して、「心中氷解」した、と答え、天皇の妹・和宮の将軍家茂への降嫁(こうか)を幕府側が願い出ると、いやがる和宮を苦労して説得して、それを受け入れた。
後の島津久光に意見を問う密勅では、「年久しきの治世、武備不充実に候ては無理の戦争に相成り、真実皇国の為とも存ぜられず」と、現在の軍備状態で攘夷戦争をすることに疑念を表明している。
さらに長州藩主・毛利慶近の命を受けた藩士長井雅楽(うた)が「航海遠略策」をもって、京都に乗り込んできた際のこと。この策は積極的に外国と通商航海して国力を高め、独立維持を図るべきとした。孝明天皇はこれを賞したという。
この三点を考えれば、孝明天皇の願いは、あくまで日本の独立維持にあったという事が分かる。開国せずにすぐに外国の侵略と戦うことを「小攘夷」、開国して貿易によって富国強兵を実現し、独立を全うする道を「大攘夷」という。開国してからの攘夷なので、「開国攘夷」と言っても良いだろう。吉田松陰も『対策一道』に同様の考え方を説いている。
長州は下関での英仏蘭米の四カ国艦隊との戦闘、薩摩は薩英戦争を経験した後、「小攘夷」路線は無理だと考え「大攘夷」路線に転換した。両藩が中心となって倒幕を果たした後は、明治新政府として「大攘夷」路線を追求していく。それによって、明治日本は独立を保全することができた。孝明天皇の国家独立への願いは、「大攘夷」によって実現したと言って良いだろう。
■7.「天(あめ)がした人といふ人こゝろあはせ」
孝明天皇のもう一つの願いは国民の一致結束であった。朝廷と幕府と諸大名、すなわち日本国内が一体となって国難に当たるべきだと考えた。
天(あめ)がした人といふ人こゝろあはせよろづのことにおもふどちなれ
(天下の人という人が心合わせ、万事を共に考える仲間であれ)
元治元(1864)年の御製である。この年は、長州兵が上洛して、京都守護職・松平容保率いる会津勢と京都市中で市街戦を繰り広げている。そもそも、こうした武力闘争は井伊直弼による安政の大獄での尊王攘夷派の弾圧に端を発し、それに対する桜田門外の変での直弼暗殺と京都での尊王攘夷派のテロ、それを抑えるための新撰組の戦い、と応酬が続いていた。
「人といふ人こゝろあはせ」との天皇の祈り虚しく、こうした力と力の戦いが繰り広げられていた。明るい希望の歌ではなく、絶望に近い呼びかけなのである。
■8.「澄ましえぬ水にわが身は沈むとも」
幕府が諸大名からも見離されるようになっても、あくまで国内一致団結の理想から公武合体の信念を曲げない孝明天皇は、倒幕を目指す過激な尊王攘夷派からは抵抗勢力とみなされるようになっていた。
そうした矢先、慶應2(1866)年12月25日、孝明天皇は痘瘡(天然痘)で、突然、崩御された。当時から何者かによる毒殺説が流されたが、今日では末期の症状などから、天然痘による病死である事が通説となっている[3]。
澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ國民(くにたみ)
(淀んだ水にわが身は沈むとも千万の国民を汚してはならない)
御詠年月は分かっていないが、この御製から国民の安寧を祈る孝明天皇の生涯の志を窺うことができる。
孝明天皇が自身の安楽のみを考えていたら、幕府の通商条約を黙認していたろう。それでは攘夷のエネルギーは燃え上がらず、わが国は上海のように外国人商人が闊歩する半植民地状態に陥ったかも知れない。あるいは攘夷のエネルギーが燃え上がっても、それを結集する旗印がないために、幕府方や外国人へのテロが頻発し、政治の混乱が続いたろう。
幕府の権威が地に落ちた後では、孝明天皇は尊王攘夷派の御神輿にのっかっていく道もあった。しかし、それによって倒幕の戦いが早まったのでは、幕府のエネルギーが残っていただけに、内乱状態が続いて、外国勢力に付け入る隙を与えただろう。天皇が幕府を見捨てなかった事で、慶喜が最後の将軍となって、大政奉還までたどり着けたのである。
こうして歴史的な役割を果たされた孝明天皇を、絶妙のタイミングで天は召された。その後を継いだ明治天皇を中心に、国民が一丸となって「開国攘夷」を展開し、孝明天皇の遺志が実現されていくのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(503) 光格天皇 ~明治維新の基を築いた62年の治世
その62年の治世で皇室の権威は著しく向上し、尊皇攘夷運動の核となりえた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog503.html
b. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
c. JOG(173) アヘン戦争~林則徐はなぜ敗れたのか?
世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦って負けるとは誰が予想したろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog173.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点』★★、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4166602217/japanontheg01-22/
2. 藤田覚『幕末の天皇』★★★、講談社学術文庫、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406292157X/japanontheg01-22/
3. Wikipedia contributors. "孝明天皇." Wikipedia. Wikipedia, 16 Feb. 2017. Web. 16 Feb. 2017.