No.996 歴史教科書読み比べ(33): 徳川幕府の学問による国づくり


 戦国の世を終わらせ、平和な国家を建設するために、家康は朝廷にも武家にも学問を勧めた。

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■1.「文の時代」の幕開け

 徳川の世となって最初に行われたのが、武家諸法度(ぶけ・しょはっと)や禁中並公家(きんちゅう・ならびに・くげ)諸法度により、国家統治の基本ルールを確立したことだった。

「武家諸法度」については、東京書籍(東書)版、育鵬社版ともに、その一部を引用しているが、その選択に違いがある。「城の修理許可制・新設禁止」「大名間婚姻許可制」は両教科書で共通しているが、東書版は「学問・武道の奨励」を冒頭に掲げている[1, p113]。育鵬社版にはそれがなく、「参勤交代」と「服装は身分相応」を加えている。[2, p117]

「城の修理許可制・新設禁止」「大名間婚姻許可制」は諸大名の幕府への反乱を防ぐための施策であり、それは徳川幕府の安泰だけでなく、戦乱の世を終わらせるためにも必要なことであった。

 ただ東書版で引用されている「学問と武道にひたすら精を出すようにしなさい」という項目が第一条に置かれている点に、徳川の国家統治思想がよく現れているので、以下、考察したい。

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 徳川時代の大きな特徴は、「文」が起こったことである。戦国時代が「武」の時代だったとすれば、徳川時代は「文」の時代だった。[3, p41]
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 渡部昇一氏の言葉だが、この「文の時代」の幕開けが、武家諸法度の第一条だった。


■2.「学問と武道」

 武家諸法度の第一条に「学問と武道」を置いたのは、いかにも徳川家康らしい。家康は儒学・仏教・神道・日本古典を広く学び、それらを通じて政治の在り方を考究した。

 文禄2(1593)年、秀吉の朝鮮出兵が行われていた頃、50歳の家康は藤原惺窩(せいか)を呼んで『貞観政要(じょうがんせいよう)』を講義させている。この書物は唐の太祖が群臣と交わした議論を収めており、国家を治める王者の道を説いている。鎌倉時代初期に北条泰時などの名君が現れて仁政を展開したのも[a]、『貞観政要』による所が大きかった、と言われている。

 家康の学問重視は書物の出版にも熱心だった点にも表れている。慶長4(1599)年、関ヶ原の戦いの前年から、『孔子家語』『貞観政要』『吾妻鏡(鎌倉時代の政治史)』などを出版させている。

 また「武」も、戦闘のための「武術」から人格形成のための「武道」へと昇華させた。家康に取り立てられ、2代目将軍・秀忠、3代目・家光の兵法指南役となった柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)は江戸初期を代表する剣士であったが、人を斬ったのは大坂の陣で秀忠に迫った豊臣方の武者7人を瞬く間に倒した時だけだったと伝えられている。

 宗矩は懇意にしていた沢庵(たくわん)和尚から禅を学び、「剣禅一致」を唱えて、後の武士道の発展を導いた。戦国時代に戦闘者であった武士は江戸時代には為政者となっていくが、その基盤を家康は文武両道に置いたのである。

 シナや朝鮮では、為政者は儒学を修めた文人であったが、机上の学問だけでは政治が乱れやすく、一旦乱れると学問のない群雄がのし上がって弱肉強食の世となってしまう。文と武の分離がシナの政治の不安定の一大要因だった。わが国では為政者たる武士が文武両道を学んだ点が、長き徳川の平和をもたらした大きな要因だろう。

 この点は、徳川幕府の国づくりが、いかにシナや朝鮮と異なっていたか、という重要なポイントであり、歴史教科書本文の記述にも含めるべき点だろう。

画像
[2, p116]



■3.「天子が習熟すべき諸芸能は、第一に御学問である」

 家康は朝廷に向けては「禁中並公家諸法度」を発したが、東書版、育鵬社版の記述は、それぞれ以下の通りである。

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(東書版)また幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせませんでした。[1, p113]
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(育鵬社版)幕府にとって征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころであり、その任命者は朝廷でした。幕府は朝廷を敬いながらも禁中並公家諸法度を定め、京都所司代を置くなどその動きを監視し、幕府をおびやかさないよう注意を払いました。[2, p117]
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 育鵬社版の「征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころ」「幕府は朝廷を敬いながら」という点が異なる。シナでは古い王朝を倒した権力者が皇帝となって新しい王朝を始めるのだが、江戸幕府は朝廷を注意深く統制しながらも、その権威をそのままに活かした。ここにわが国の特質がある。

 実は「禁中並公家諸法度」の第一条も「学問」から始まっている。その現代語訳は以下の通りである。

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 天子が習熟すべき諸芸能は、第一に御学問である。「学問を学ばなければ古道も明らかにならない。学ぶことでよき政事を行い、太平を実現することができるのであるが、未だそうなっていない」と『貞観政要』にも明記されている。

(平安時代に宇多天皇が子の醍醐天皇に与えた)『寛平の遺誠(かんぴょうのゆいかい)』にも、「経史(経書や歴史書)をすべて読むことはできなくても『群書治要』は暗誦できるほど読むべきである」と記されている。[4, p33]
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 この部分は、鎌倉時代に順徳天皇が著した朝廷の儀式や政務に関する『禁秘抄』からの引き写しであり、さらにその中に平安時代に宇多天皇が遺された『寛平の遺誠』が言及されている。すなわち、この第一条は、皇室の伝統的理想を継承したものだと言える。

 この制定に関しては、家康は朝廷に赴いて親王や公家達と意見を交わしたり、文書で意見を求めており、かならずしも幕府側の一方的押しつけではなかった。

 この「禁中並公家諸法度」は、武家が文武両道の為政者となるのと並行して、朝廷にも国家統合の権威の中心としての見識を求めたものと言えよう。権威を司る朝廷と権力を用いる幕府が両輪となって、共通の学問を基軸として国家の安泰を築こうとする家康の思想が窺われる。


■4.武士は戦時の戦闘員から、平時の社会の指導者へ。

 徳川時代の武士の実態について、もう少し見てみよう。東書版はこう記す。

__________
 武士は、主君から領地や米で支給される俸禄を代々あたえられ、軍役などの義務を果たしました。武士は、名字・帯刀などの特権を持ち、支配身分として名誉や忠義を重んじる道徳意識を持つようになりました。これは「武士道」とも呼ばれます。[1, p114]
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「軍役などの義務」は、260余年続く平和の時代には、武士の中心的任務ではなかったろう。「支配身分」というのも抽象的である。そもそも、支配身分になれば、自然に「道徳意識を持つように」なるわけでもない。そこには別の事情があるはずだ。

 武士のあり方について、育鵬社版はこう記述する。

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 武士は社会の指導者として名字・帯刀を許され、武士道とよばれるきびしい規範を身につけることを要求されました。本来、武士は武芸に励み、戦いに備えることが最大の仕事でしたが、平和が続くにつれ幕府や藩の役人として政治をにない、治安を維持することが仕事の中心となりました。[2, p122]
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 この記述の方が具体的で正確である。家康は、武士を戦時の戦闘員から、平時の「社会の指導者、役人、治安維持」の役割に変えた。そのためにも学問を奨励し、武術を武道に昇華させ、「武士道とよばれるきびしい規範を身につけることを要求」したのである。


■5.「百姓が餓死することは、我等に恥を与えることである」

 武士を束ねる大名の役割について、育鵬社版はこう説明する。

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 とりわけ大名は、藩の経営に責任を負っており、領民の生活を安定させることが求められました。百姓一揆がおきるなどの失政があれば、幕府からきびしく責任を問われたため、大名や役人は、百姓の不満に対して適切に対処しなければなりませんでした。[2, p122]
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 これに相当する記述は、東書版にはない。この点はマルクス主義史観での「江戸時代は階級差別と搾取の暗黒時代だった」とする考え方を否定する大事なポイントである。

 たとえば、寛永17(1640)年、蝦夷駒ヶ岳の降灰、翌年の日照り・長雨などから、全国的な飢饉に襲われた。大老・酒井忠勝は国元の若狭などを治める家老たちから、村の百姓たちが10人、20人と饑餓に及ぶほど切迫した状況にあるとの報告を受けて、激しい叱責を送っている。

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 どうして百姓が饑餓に及ぶほどまでに放置しておいたのか。・・・百姓が餓死することは、我等に恥を与えることである。年寄共に「国の仕置」を任せているのは、このような時のためではないか。[4, p143]
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 同じ頃、安芸広島藩主・浅野光晟(みつあきら)も、国許に次のような書状を送っている。

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 ・・・もし本当に餓死しているのであれば、当面どれだけの支出・損失になってもいいから、百姓が生きていけるように対策をとりなさい。[4, p142]
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「大名は、藩の経営に責任を負っており、領民の生活を安定させることが求められました」というのは建前だけでなく、こういう実態を伴っていた。幕府においても、時の三代将軍・家光主導で次々と対策が打ち出され、諸大名には交替で帰国して飢饉対策に当たるよう指示が出されている。


■6.農民の権利を守る法令

 家康は農民保護についても「郷村(ごうそん)法令」を出した。しかも、それは家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8(1603)年2月の翌月、最初の法令として出されたものだった。

・私領の領主に「人質を取られ、せんかたなきに付いては」、幕府の代官や奉行所へ届けた上で直目安(じきめやす、家康への直接の訴状)を出してよい。しかし、幕府代官の「非分(非法行為)については、そうした届け出無しに直接出して良い。

・幕府代官や領主に「非分」があって、百姓が「所を立ち退(の)き逃散(ちょうさん)をする場合は、たとえその領主が求めても、安易に強制送還されることはない。

・百姓を理由もなく殺す事は禁ずる。たとえ罪のある百姓といえども、これを逮捕し、奉行所において対決の上、罰を申しつけるべきである。[4, p12]

 戦国時代は農民も野盗からの自衛のために、あるいは村どうしの争いのために武器をとって戦っていたが、秀吉は「刀狩り」と「兵農分離」により百姓が武器を持たなくとも暮らせる社会を目指した[b]。それをさらに徹底して、平和な農村社会を実現しようとしたのが「郷村(ごうそん)法令」だった。

 特に、領主や幕府代官の不正を防ぐために、農民に訴えや逃散、あるいは裁判の権利を認めていたのは、現代のシナ農村よりもはるかに近代的である。


■7.美政をもたらした学問の力

 こうした農村保護の法令は、幕府によってかなり徹底されたようだ。

 東北の会津藩40万石は加藤明成が治めていたが、年貢率の引き上げ、無地高(土地がないのに石高だけある)の押しつけなどで百姓が困窮しているところに、寛永19(1642)年の凶作が襲った。2千人の百姓たちが一斉に「田畑を捨て、妻子を連れ、隣国に奔るっこと大水流のごとっく」逃散を始めた。

 その状況が隣国から幕府に注進され、加藤氏は翌年に改易(領地没収)された。次の領主となった保科氏は、鄕村触(ごうそんぶれ)を出して、逃散した百姓の還住(げんじゅう)を呼びかけた。

 逆に米沢藩を治めた上杉家は、藩内の経済開発に努め、天明の大飢饉で平年の2割ほどに米作が落ち込んでも、備蓄米を活用して、死者を一人も出さず、他藩からの難民も救った。幕府からも「美政である」と三度も表彰を受けている。[c]

 その上杉家代々の家訓「伝国の辞」は、次の三箇条からなっている。

・国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
・人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
・国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 このような近代的な統治思想をもたらしたのが、学問の力であった。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(910) 歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政
 北条氏は「道理」と「合議」に基づく政治により、安定した社会を生み出した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201507article_7.html

b. JOG(986) 歴史教科書読み比べ(30) 織田信長・豊臣秀吉による天下統一
 天下統一には、武力による全国制覇だけではなく、「安定した近世社会のしくみ」作りが必要だった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201701article_3.html

c. JOG(130) 上杉鷹山~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも美しく豊かな共同体を作り出した
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog130.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
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2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3.渡部昇一『「日本の歴史」〈第4巻〉江戸篇―世界一の都市 江戸の繁栄』★★★、H22
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4. 横田冬彦『日本の歴史16 天下泰平」★★、講談社、H14
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