No.997 歴史教科書読み比べ(34): 世界最高の教育水準が実現した農村自治
年貢納めまで自主的に行っていた農村自治は、世界断トツの農民の読み書き能力が支えていた。
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■1.農民の自治で年貢納め?
江戸時代の農民は、高度な自治を行っていた。育鵬社版はこう述べる。
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百姓は農村に住み、幕府や藩に年貢米を納めていました。百姓は自分の土地をもつ本百姓と土地をもたない水呑(みずのみ)百姓に分かれ、本百姓の中からは名主(庄屋)、組頭、百姓代とよばれる村役人が選ばれました。本百姓たちは寄合を開き、年貢や祭り、共有地の世話や用水の管理などを話し合いによって運営しました。[1, p123]
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東京書籍版の記述もおおむね同様だが、一部、「幕府は、安定して年貢を取るため、土地の売買を禁止したり、米以外の作物の栽培を制限したりするなどの規制を設けました」などと、幕府の統制について付言している程度である。[2, p115]
しかし、考えてみれば、百姓たちが自治を通じて年貢米を納める、というのは不思議なことだ。現代日本でも企業がサラリーマンの税徴収を代行したり、あるいは税の取り立てのための「徴収官」が活躍しているように、好き好んで税金を払う人は少ない。江戸時代の農民たちが自主的に年貢を納めていたというのは、いったいどんな自治の仕組みがあったのか?
■2.6万人ほどの百姓を一人の代官と数人の手代で管理
当時の村の自治の様子を見ると[3]、現代日本と比べても徹底したものであり、おそらく世界的に見ても希有なレベルのものだったのではないか。当時の幕府領はおよそ4百万石だったが、代官数は江戸時代初期の延宝元(1673)年でわずか69人、中期の享保15(1730)年では42人がそれぞれ数人の手代とともに管理していた。
初期の69人で4百万石を割ると一人当たりでは6万石近く、人口規模で言えば6万人ほどの比較的大きな大名クラスの所領を管理していたことになる。どうしてこんな事が可能になったかをまとめると、次の二つの要因があったからである。
第一に、役人の不正や重すぎる年貢などによる苛斂誅求が少なく、おおむね妥当、かつ公正な徴収が行われていたこと。そうでなければ、多くの農民が自治を通じて大人しく年貢を納めることなどするはずがない。もし不正や苛斂誅求があれば、百姓の側からも訴えや一揆で牽制することができた。
第二に、すべての行政、すなわち年貢高の設定から徴収に至るまでの事務が文書によって行われており、農民の方もほとんどが読み書きができて、それらの文書を自分で作成したり、確認できた。
第一の点は996号「徳川幕府の学問による国づくり」で述べたので[a]、今回は第二の点に絞って見ておこう。
■3.文書主義を可能にした百姓の読み書き算盤能力
まず、年貢の徴収がどのような仕組みになっていたかを見てみよう。
毎年秋に、代官から各村毎に検地高(田の面積による想定産出高)にその年の年貢率を掛けて、納めるべき年貢高を記載した「免状」が出される。
村を治める庄屋が、村の納めるべき年貢高を、村民一人ずつの所有面積から割り出して、各自の年貢高を計算した「免割帳」を作成する。免割帳には、庄屋と百姓全員が立ち会い、各自の分を確認した上で、それぞれ判を押す。押印後の免割帳は代官に提出して、確認を受ける。
米の収穫後、それぞれの百姓が庄屋のもとに年貢米を納める際、庄屋は「庭帳」という帳簿に、納入者の名前と量を書きつけ、百姓に確認印を押させるとともに、受取の証拠として手形を渡す。年貢納入が終わると、代官、庄屋、百姓が立ち会って確認し、その帳面に相違なしとの判を押す。
このように諸帳簿をきめ細かくつけさせ、それを百姓たちにも公開して、代官や庄屋の不正や、百姓側の滞納などが相互に見えるように仕組みを整えていたのである。[3, p208]
このようにすべて文書主義できちんと管理するためには、名主のみならず百姓たちも読み書き算盤ができなければならない。江戸時代の百姓の教育レベルは、それだけ高かったのである。
東書版には「年貢納め」の絵があって、「百姓が納めた年貢を、武士が立ち会って量り直しています。百姓には年貢のほか、労役も課されました」と説明がなされている[2, p115]。
いかにも、武士が百姓から厳しく年貢米を取り立てていた、と言いたげだが、絵の中では代官と思われる武士は隅の方で座って見ているだけで、その前には帳簿が開かれている。こういう平和的な光景を成り立たせていた百姓の読み書き能力については、東書版では何も記述がない。
■4.世界でも群を抜いた読み書き能力
百姓の読み書き能力に関連して、育鵬社版では、江戸時代の身分制度」というコラムで、こう述べている。
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百姓は、農民を含めて、農業を経営しながら他業にも従事する人たちを指します。検地によって百姓は、実質的な田畑の所有権を得て、米以外の商品を生産する者も出ました。中には、醸造業や織物業さらに廻船業を営む者もあらわれ、村の中に都市化する場所が増えました。
こうした貨幣経済の発達もあって、豊かな百姓・町人の中には武士身分の買い取りや武家との養子縁組などにより武士になる者もいました。この背景には、行政を行ううえでの読み書き能力を、百姓ももっていたことがあげられます。[1, p123]
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商品を売ったり運んだりして儲けるには、当然、受け払い記録や在庫管理などのための読み書き算盤能力が必要である。また武士は行政官であったから、さらに高度な文章作成・読解能力が求められた。百姓がこうした高度な能力を持っていたからこそ、商売に進出したり、武士になることもできたのである。
幕末に日本にやってきたプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナーは、その航海記で次のように述べている。
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日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」
<『エルベ号艦長幕末記』(ラインホルト・ヴェルナー著、新人物往来社)より>
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民衆の読み書き能力では、江戸時代の日本は世界でも断然のトップだった。
■5.「男女共に、貴賤万民共に」
このような読み書き能力は、村が共同で設けた寺子屋によって育成された。その様子を育鵬社版は、次のように詳細に記している。
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庶民の学びの場・寺子屋 工業が発展し、農書などもさかんにつくられるようになると、庶民のあいだでも、読書をしたり、帳簿をつけたりすることが多くなってきました。このような生活上の理由から、江戸や京都などの都市部には、 寺子屋が開かれるようになりました。17世紀末になると、寺子屋は農漁村にも広がり、幕末のわが国には,約1万もの寺子屋があったといわれます。・・・
寺子屋で習う内容は「読み・書き・そろばん」のほか、道徳や古典、地理歴史など多方面にわたりました。往来物とよばれた寺子屋向けの教科書も出版され、その数は7000種類にもおよびました。こうした民間での教育の普及によって、江戸時代後期から末期の教育水準はきわめて高いものになっていました。このことは、のちの明治時代以降のわが国の近代化の際に、大いに役立つこととなりました。[1, p131]
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寺子屋で子供たちを教育することは、農民自身が豊かさを求めて実施したことであろうが、藩としても教育を奨励していた事例がある。寛文2(1662)年の土佐藩の国掟には、次のように百姓の子供にも手習いをさせるべきことを定めている。
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百姓の子供は男女共に八、九歳にもなれば「面々の事を仕習せ」るべきである。庄屋や手前富貴な者は子供に「物を書かせ算用をもさせ」るが、貧しい者はさせていない。そもそも貴賤万民共に貧富はあっても、人々の志次第で「芸能も調う」ものである。
しかしそうはいっても百姓はまず百姓のことが第一であるから、物書算用は暇時を考え、「夜役(夜間)」にでもさせるように。よくできる者はひとかどに取り立てよう。[3, p229]
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「男女共に」「貧富はあっても」という事から、男女や貧富の差に関係なく、国民全体を教育する近代教育の意識がすでに芽生えていたようである。
一方、東書版での寺子屋に関するの記事は、以下の文章のみである。
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庶民の間にも教育への関心が高まり,町や農村に多くの寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技能を教えました。[2, p131]
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この淡々とした記述では、ヴェルナーを驚かせたわが国の教育水準の高さを、中学生たちは知らずに読み過ごしてしまう。しかも、育鵬社版の指摘するように、この庶民の教育が、明治以降のわが国の近代化の基盤となった。近代化が遅々として進まなかったシナや朝鮮との違いはここにある。この点を知らずしては、わが国の歴史を学んだとは言えないだろう。
■6.「農業の進歩」が、なぜ実現したのか?
こうした農民の自治と教育水準が相俟って、江戸時代の農業技術は大いに進歩した。その様子を東書版は次のように記述する。
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「農業全書」などによって近畿地方の進んだ農業の技術が各地に伝わり、深く耕すことができる備中ぐわや、脱穀を効率的にする千歯こきなどによって生産力が上がりました。
都市で織物や菜種油しぼりなどの手工業が発展すると、農村では、現金収入を得るため、原料となるあさ、綿、あぶらな、こうぞ、みつまたなどの商品作物の栽培が広がりました。
染料では阿波(徳島県)のあいや出羽村山地方(山形県)の紅花、宇治(京都府)の茶、紀伊(和歌山県)のみかん、備後(広島県)のいぐさ、薩摩(鹿児島県)のさとうきびなどが生産され、地方の特産物になりました。[2, p120]
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史実の豊富な記述は良いが、「幕府は,・・・米以外の作物の栽培を制限したりするなどの規制を設けました」という記述との整合はどうなったのか、と嫌みの一つも言いたくなる。いや、それよりも農民の教育水準が驚くべき水準にあった事を説明していないので、これだけの「農業の進歩」がなぜ実現したのかが分からない。
しかも、この農業技術の進歩は世界史的に見ても傑出した水準であった。たとえば、朝鮮半島は李朝時代まで原始的な焼き畑農業をしていたが、日本統治時代に「農産漁村振興運動」で植林、灌漑、水田開拓など、江戸時代の日本が行っていた農業技術を展開した結果、20年間で米の生産量が約1千万石から2千万石へと倍増し、人口も980万人から、1,866万人と倍増している。[b]
■7.「激しい身分による差別」!?
東書版が、世界に卓越した庶民の教育水準のかわりに、三分の一ページも費やして書いているのが、「激しい身分による差別」という項での「えた身分」「ひにん身分」である。
たしかに、こうした被差別階級はあったが、それも他国と比較してみないと、どの程度のものだったかが分からない。インドのカースト制度は言うに及ばず、シナも膨大な数の奴隷が労働力の中核をなしていた。欧州ではギリシア、ローマ時代から奴隷が存在し、近代に至ってもアフリカで黒人を捕まえて新大陸で売りさばく奴隷貿易が盛んだった。
こういう「世界標準」に比べれば、日本の身分差別が特にひどいものだったとは思えない。朝鮮の白丁が「文字を知ること」「墓碑を建てること」まで禁ぜられたのに比べれば、はるかにマイルドな制度であったと言えるのではないか。
育鵬社版では4行ほどで、「えた・ひにん」が「死んだ牛馬の処理、皮革製品をつくったり、役目として罪人の世話」を担当していたことの一方で、「住む場所や服装を制限されるなど、さまざまな面できびしい差別を受けました」と書く[1, p123]。この程度の記述が妥当だろう。
東書版は、世界でも傑出した庶民の教育水準については黙して語らず、世界のどこにでもあった階級差別について執拗に記述する。このアンバランスな記述では、中学生たちは日本の優れた点は教えられず、暗い面ばかり吹き込まれることになる。世界史的な視野から自国を見なければ、わが国の本質を理解することは出来ない。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(996) 歴史教科書読み比べ(33): 徳川幕府の学問による国づくり
戦国の世を終わらせ、平和な国家を建設するために、家康は朝廷にも武家にも学問を勧めた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201703article_7.html
b. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/199810article_1.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/
2. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/
3. 横田冬彦『天下泰平 日本の歴史16』★★、講談社学術文庫、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919168/japanontheg01-22/
4. ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』、新人物往来社
「日本の世界一」、「世界が驚嘆した識字率世界一の日本」より再引用
http://www.nipponnosekaiichi.com/mind_culture/literacy_rate.html
5. Wikipedia contributors. "賤民." Wikipedia. Wikipedia, 3 Nov. 2016. Web. 3 Nov. 2016.
6. Wikipedia contributors. "奴隷." Wikipedia. Wikipedia, 24 Feb. 2017. Web. 24 Feb. 2017.
7. Wikipedia contributors. "白丁." Wikipedia. Wikipedia, 10 Dec. 2016. Web. 10 Dec. 2016.