伊勢雅臣『世界が称賛する国際派日本人』を読み解く
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(伊勢雅臣) 私が常々、参考にさせていただいているメルマガ書評紙「国際インテリジェンス機密ファイル」で、拙著が紹介されましたので、転載させていただきます。
読者に興味深いポイントを厳選して抜き出して拙著の言わんとしている所を示していただきました。
伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/
AMAZONカスタマーレビュー 53件/五つ星のうち4.9
レビュー投稿プレゼント実施中: http://bit.ly/2pgJSe5
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※要旨
★南方熊楠。
大英帝国に挑んだ「もっとも博識で剛直無偏の日本人」
・学問で日本国の名をあげようと、
天才・熊楠は、世界の学問の中心地ロンドンに上陸した。
・その博覧強記で数多くの論文を書き、
大英博物館で働くなど大活躍する。
そうした熊楠を支えていたのは、
日本人としての誇り、学者としての矜持であった。
・1867年に和歌山で生まれた熊楠は、
幼いころから異様な神童だった。
・小学校の頃には、友人の家にあった
『和漢三才図会』(図入り漢文による百科事典)を読みふけっては、
暗記した文章と絵を、家に帰ってから描き写した。
全105巻を5年で終えた。
・中学に入ると『漢訳一切経』3,300巻を筆写したり、
欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけった。
・かと思うと、2,3日も寝食を忘れて、
山中で昆虫や植物の採集をしていた。
・東大予備門を退学して、
20歳でアメリカに渡る。
超人的な記憶力を持つ熊楠は、
この頃、18か国語に通じていた。
★樋口季一郎少将。
2万人のユダヤ人を救った「偉大な人道主義者」
・ハルピンの内科医であるカウフマン博士は、
大の親日家であり、ハルピンユダヤ人協会の会長として、
反ナチ派の闘士でもあった。
・カウフマンが訪ねたのは、1937年8月にハルピンに
赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口少将であった。
・カウフマンはハルピンで極東ユダヤ人大会開催の許可を求めた。
樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、
ロシアを旅行して、ユダヤ人たちの悲惨な運命をよく知っていた。
樋口は即座に快諾し、博士を励ました。
・ユダヤ難民は、
シベリア鉄道で満州のハルピンを経由し、陸路で上海に向かうか、
日本の通過ビザを取得して、
ウラジオストク、敦賀、神戸を経由して海路で上海を目指すルートをとった。
前者のルートで2万人のユダヤ人を救ったのが樋口少将だった。
・「オトポールの恩を返すのは、今をおいてない」
終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、
連合軍総司令部に引き渡しを要求した。
・停戦後の8月19日まで、
北千島を攻撃してきたソ連軍は、
北方防衛の責任者であった樋口に大損害を与えられ、
北海道上陸を阻止されたことを恨んでいたのである。
・樋口の危機を聞いて、
ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。
その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。
「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」
世界各地のユダヤ人に指令が出され、
樋口救出運動が開始された。
・世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、
マッカーサー総司令部は、ソ連の引き渡し要求を拒否し、
樋口を擁護することを通告した。
・長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、
それだけに他人から受けた恩義を簡単には忘れていなかった。
※コメント
歴史上の日本人のなかには
まだまだ知らない偉人が多い。
多くの生き方を学び、
自らの指針にしたい。
★伊勢雅臣『世界が称賛する国際派日本人』
の詳細,amazon購入はこちら↓
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大英帝国に挑んだ「もっとも博識で剛直無偏の日本人」
・学問で日本国の名をあげようと、
天才・熊楠は、世界の学問の中心地ロンドンに上陸した。
・その博覧強記で数多くの論文を書き、
大英博物館で働くなど大活躍する。
そうした熊楠を支えていたのは、
日本人としての誇り、学者としての矜持であった。
・1867年に和歌山で生まれた熊楠は、
幼いころから異様な神童だった。
・小学校の頃には、友人の家にあった
『和漢三才図会』(図入り漢文による百科事典)を読みふけっては、
暗記した文章と絵を、家に帰ってから描き写した。
全105巻を5年で終えた。
・中学に入ると『漢訳一切経』3,300巻を筆写したり、
欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけった。
・かと思うと、2,3日も寝食を忘れて、
山中で昆虫や植物の採集をしていた。
・東大予備門を退学して、
20歳でアメリカに渡る。
超人的な記憶力を持つ熊楠は、
この頃、18か国語に通じていた。
★樋口季一郎少将。
2万人のユダヤ人を救った「偉大な人道主義者」
・ハルピンの内科医であるカウフマン博士は、
大の親日家であり、ハルピンユダヤ人協会の会長として、
反ナチ派の闘士でもあった。
・カウフマンが訪ねたのは、1937年8月にハルピンに
赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口少将であった。
・カウフマンはハルピンで極東ユダヤ人大会開催の許可を求めた。
樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、
ロシアを旅行して、ユダヤ人たちの悲惨な運命をよく知っていた。
樋口は即座に快諾し、博士を励ました。
・ユダヤ難民は、
シベリア鉄道で満州のハルピンを経由し、陸路で上海に向かうか、
日本の通過ビザを取得して、
ウラジオストク、敦賀、神戸を経由して海路で上海を目指すルートをとった。
前者のルートで2万人のユダヤ人を救ったのが樋口少将だった。
・「オトポールの恩を返すのは、今をおいてない」
終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、
連合軍総司令部に引き渡しを要求した。
・停戦後の8月19日まで、
北千島を攻撃してきたソ連軍は、
北方防衛の責任者であった樋口に大損害を与えられ、
北海道上陸を阻止されたことを恨んでいたのである。
・樋口の危機を聞いて、
ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。
その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。
「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」
世界各地のユダヤ人に指令が出され、
樋口救出運動が開始された。
・世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、
マッカーサー総司令部は、ソ連の引き渡し要求を拒否し、
樋口を擁護することを通告した。
・長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、
それだけに他人から受けた恩義を簡単には忘れていなかった。
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まだまだ知らない偉人が多い。
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