No.1051 欧州と日本の封建制が近代社会を作った
欧州と日本で「強い組織的なもの」が生まれた。
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■1.「パリ日本人村の村長」
仕事でパリに来ている。数週間単位で滞在するので、オフィスのある凱旋門から地下鉄で4、5駅離れたところに家具付きのアパートを借りてみた。近くには賑やかな商店街があって、カフェやパン屋、八百屋、肉屋などが並んでいる。
驚いたのは日本食レストランの多いことだ。徒歩5分圏内だけで3軒もある。パソコンで検索してみたら、パリの約1万5千軒のレストランで、「和食」のカテゴリーに入っているのが763軒もあった。
一度、昼食にルーブル美術館近くの日本食レストランに入ったら、フランス人の客だけで満員だった。そこでの一番人気は「越前のおろし蕎麦とソースカツ丼小どんぶりのセット」だという。蕎麦もソースカツ丼も本格的な味だった。
戦前からパリに遊んだ日本の芸術家や文人は多いが、パリでこれほど多くの日本食レストランが繁盛し、しかも越前蕎麦まで食べられる時代が来るとは、誰が予想し得たろう。
そのうちの1人、大正2(1913)年にパリに渡った島崎藤村は、河上肇らが彼を頼ってやってくると、下宿を探してやったりして世話を焼いた。やがて藤村は「パリ日本人村の村長」と呼ばれるようになり、彼らを歌劇や音楽会に連れ出しては、学生街のカルチェ・ラタンで文明論に花を咲かせたという。
■2.欧州諸国の持つ「強い組織的なもの」
藤村は、上海・香港・シンガポール・コロンボ・スエズ運河を経由して約一ヶ月の船旅でマルセイユに着いたのだが、船中の読書に、幕末に洋行した幕臣、栗本鋤雲(じょうん)の『暁窓追録(ぎょうそうついろく)』を持参していた。栗本鋤雲も同じ航路で横浜からマルセイユに渡ったのだが、この間に興味深いことに気がついた。
それは船が港に入るたびに、現地人の盗みを防ぐために、船の倉庫に鍵をし、船室を閉じ、出入りを厳重にした事である。ただ、横浜とマルセイユでだけは、船員が船を下りてしまい、戸が開けっぱなしになっていても気にも留めない。
なぜ日本とヨーロッパでは盗みがなく、その間の各地の港では厳重に戸締まりをしなければならないのか。藤村はここから考えた内容を、帰国後、『エトランゼエ(異邦人)』との対話」と題したエッセイに書いている。
__________
東洋の方で肝心な港々は大抵今では英吉利(イギリス)のものだね。(中略)最初の欧羅巴(ヨーロッパ)の航海者なんてものは必ずしも他の国を奪るつもりではなかったんだね。唯、奴らは強いものを一緒に持って行ったんだね。実際欧羅巴の方へ行って見ると、強い組織的なものがあるからねえ。
左様(そう)いう強いものが押込んで行くと、組織的でないような弱いものは否でも応でも敗けてしまう。だからケエプ・タウンでも、ダアバンでも、コロンボでも、新嘉堡(シンガポール)でも、結局強いものが支配するようになっちまう。そいつが僕らの国の方まで延びて来たんだね。[1, p126]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
欧州諸国は何か「強い組織的なもの」を持っていた。そして、それを持っていなかったアジアの国々は次々と植民地にされた。それが日本に延びて来た時にどうなったのか。
■3.「阿爺(おやじ)の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」
この点を藤村は「故国に帰りて」の中で次のように記している。
__________
幸いにしてわが長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿って見ると種々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。[1, p131]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
藤村にとって、封建制度とは抽象的な概念ではなかった。藤村の父は木曽馬込の大庄屋の家に生まれ、伊那谷に多い平田派国学の門徒となり、尊皇攘夷運動を経て地方の小神社の神職となった。維新後は、明治天皇に直訴したり、廃仏毀釈の中で郷里の寺院に放火しようとしたりして、ついには座敷牢に幽閉されて、窮死した。
__________
遠い外国の旅に出て来て見ると、子供の時に別れた阿爺(おやじ)のことなぞがしきりと恋しくなる。僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ、印度あたりのように外来の勢力に敗けてしまわなかった御陰だ、左様思うと僕はあの頑固な可長しい阿爺に感謝するような心持を有って来た。
多少なりとも僕らが近代の精神に触れ得るというのは、あの阿爺たちに強いものがあったからだ。[1, p134]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
幕末には大名や武士ばかりでなく、地方の庄屋の息子ですら国家の行く末に危機感を抱き、奔走した。「強い組織的なもの」とは、藤村にとって父親の思い出につながる体験的なものだった。
■4.欧米に広まった日本観
ヨーロッパと日本が並行して封建制を経験し、しかも、この二つの地域で近代化が先行した事から、封建制が近代化の基盤となっているのではないか、という考え方は、藤村以前からあった。
今谷明・都留文科大学学長の『封建制の文明史観』[1]によると、日本社会の封建制を指摘した最初の西洋人は、文政6(1823)年、明治維新の45年前に来日して、ドイツ人ながらオランダ人と偽って長崎・出島のオランダ商館医となったシーボルトだという。
多くの大名が半独立的に各藩を治めている徳川の幕藩体制が、同時代のドイツの諸侯が分立していた状況と良く似ている点を、シーボルトは見てとったのだろう。
医師・植物学者であったシーボルトは、学問的にこの観察を深めはしなかったが、帰国後に出版した大著『日本』により欧州での日本学の祖と見なされるようになり、日本が封建制の国だという認識は、以後、多くの訪日外国人に受け入れられていった。
学問的見地から日本が欧州に比較しうる封建制を備えていたという研究は、日本の経済学の草分けと言われる福田徳三によってなされた。福田は明治31(1898)年にドイツに留学し、ドイツ歴史学派の経済学者ルヨ・ブレンターノに師事した。
ブレンターノは欧州経済史の講義で、後方の席で度の強い眼鏡をかけた福田が微笑しているのを見つけ、授業後、なぜ笑っているのかを問うと、福田は「先生が講義される欧州の経済史が、余りに私の祖国日本の歴史に似ておりますので、ははあ、成程、と納得し、会心の笑みを漏らしたのです」と答えた。
「そんなに日本の経済史が西欧に似ているというなら、君がいっそ、日本経済史を書いてみないか」とブレンターノに勧められ、その助力を得ながら、ドイツ語で日本経済史の本を書き上げた。この本は西欧の学者に広く読まれ、日本が西欧に類似した封建制を持った国であるとの日本観は、欧米人の間でも広まった。
■5.モンゴル軍がなぜ日本と西洋で勝てなかったのか
なぜ封建制が「強い組織的なもの」を生むのか。封建制は欧州では騎士、日本では武士という「武人」が中心的な役割を果たすから軍事的に強いという説もあるだろうが、シナの各王朝も戦乱の中で軍事力でのし上がり、天下をとった。だから軍事力の存在だけでは説明できない。
日本の武士と、シナの皇帝に事える武人とを考えて見れば、その違いがはっきりするだろう。たとえば、日本の武士は主君から所領を与えられ、そこを子孫のために命を懸けて守る「一所懸命」の精神を持つ。
これがシナ皇帝に雇われている武人ならどうだろうか。別にその王朝が滅んでも、次の王朝に仕えれば、自分の身は安泰である。日本の武士とシナの武人の違いは、自分の事業にすべてをかける中小企業のオーナーと、大企業のサラリーマンの違いと考えれば、分かりやすいだろう。
現実にモンゴルの大帝国はユーラシア大陸の中心部から東は日本、西はヨーロッパにまで攻め込んだ。しかし、日本では鎌倉武士団に敗れ、欧州ではドイツ騎士団に敗れた。
元寇は神風に敗れたというのが一般の先入観だが、史実は異なる。鎌倉武士たちの抵抗によって、元軍は2ヶ月も上陸を阻止され、海上にさまよっている間に、台風に襲われたのである。台風が来なくとも、補給のない元軍は引き揚げるしかなかった。[a]
西に向かったモンゴル軍はキエフ公国、ポーランド、ハンガリーを蹂躙し、ドイツの諸城に襲いかかった所で、第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイの訃報に接して引き揚げたと言われるが、これも史実ではない。モンゴル軍がドイツ軍との戦いから引き揚げたのは、訃報を聞く数ヶ月も前であった。
実際は、城壁都市に立てこもって頑強に抵抗するドイツ騎士団を打ち破れず、諦めて撤退したのである。これもドイツ騎士団の「一所懸命」に敗れたと言える。
一所懸命の精神で、自分の愛する郷土と、ひいては祖国を命をかけて守ろうとする武人と、富のために戦う武人と、どちらが強いかは言うまでもないであろう。
■6.封建制が法治による近代国民国家の基盤を作った
武人の所領が主君から与えられるということは、こうした強さ以外に、社会の発展を生み出した。それは所領を預かる代わりに、いざという時に生命を掛けて戦う、という相互の信頼に基づいた契約関係を発展させた。
契約である以上、主君が勝手に家来の所領を取り上げる事は許されない。ここから「権利」という概念が生ずる。同時に、家来の方も戦になって命惜しさに逃げ出すなどという事は許されない。これが「義務」の概念を生み出す。この義務をいかに見事に果たすか、という所から、武士道や騎士道が生まれた。
「契約」、「権利」、「義務」などは近代社会を成立させている基本的な概念である。これらの概念を尊重する風潮が統治者にも国民の側にもなければ、近代社会は成り立たない。
一方、皇帝による独裁国家では、皇帝は勝手に家来の財産を取り上げる事ができるし、臣下は危なくなったら、敵方に寝返ったりする。シナ大陸や朝鮮半島で現在でも契約や条約、さらには人権や義務を尊重する気風が薄いのは、封建社会を経験していないからであろう。
さらに封建社会では、隣人との間で境界争いなどが生じた場合は、契約関係をもとに、どちらが正しいかを道理をもって議論することになる。ここから裁判制度が発達する。たとえば鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時が中心となって整理し、成文化した『関東御成敗式目』の末尾には、この法体系の基本理念としての「道理」を明白に掲げている。[b]
__________
およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。
(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
これは建前だけでなく、実際の裁判でも、一方が自分の主張のおかしい事に気がついて「これは当方の負けなり」と認めた態度を、泰時が涙ぐみながら褒めた事例も記録されている。物事の道理を「法」として書き表し、争い事も法と道理に照らして、どちらが正しいかを判断する。これが「法治国家」の基盤である。
一方、皇帝による独裁社会では、臣下の争いはどちらが皇帝に好かれるか、という事で決まってしまう。そこに発達するのは皇帝へのおべっか争いと互いの足の引っ張り合いである。
封建制は法治による自由な社会の基盤を作った。そして国民の自由な活動が、経済的発展を生み出した。こうして近代国民国家という「強い組織的なもの」が生まれた。封建制を経験した西欧と日本が近代国民国家として発展したのは、当然の現象なのである。
■7.内外からの浸食から、いかに国民国家を守るか
島崎藤村が「強い組織的なもの」と感じとったのは、権利、義務、契約、法を尊重し、それによって国民どうしが互いに助け合う共同体として発展してきた近代国民国家の姿だったのだろう。
しかし、この「強い組織的なもの」が、あたかも自然現象のように勝手に生まれたと考えるべきではない。それは何代にもわたる先人の努力の積み重ねによって発展してきたものである。たとえば、前節に紹介した北条泰時が「道理による政治」を追求した努力がその一例である。
とすれば、先人の遺してくれた「強い組織的なもの」に対して、
藤村のように、「僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と感謝の心をもって、思い起こすべきだろう。
しかし、この「強い組織的なもの」は、現在の我々が努力して守っていかないと風化していってしまう。特に現在は、シナや北朝鮮、韓国など、封建制を経験せず、したがって条約も国際法も人権も理解しない前近代国家が外からの脅威を与えている。
同時に、内からはこれまた法治や近代的自由の概念を持たない左翼勢力が、教育や報道、政治をねじ曲げて、国民国家を浸食しつつある。こうした内外からの浸食から、わが国の法治主義と自由民主主義を守って、我々も子孫から「阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と言われるよう、頑張らねばならない。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog207.html
b. JOG(752) 日本における道理の伝統
布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201206article_2.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 今谷明『封建制の文明史観』★★、PHP新書、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569704700/japanontheg01-22/
■■『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』へのアマゾン・カスタマー・レビュー 2/24現在、計9件 5つ星のうち5.0
■★★★★★ 待ちに待った素晴らしい良書(せんべいさん)2/19
私は、いつも、考えてきたのは、なぜ、日本人は、道徳心が高く、隣人を思いやる利他心、親切心を持っているかということでした。本書の中に、ヒントがあるような気がします。
■★★★★★ 日本人として生まれたことに改めて感謝できる本 (matsudaさん)2/21
ここまでやさしく125代と連綿と続いた皇室について語られた本はなかったのではないか。・・・日本という国は本当に神々に守られている国なのだと思う。そのような国に生まれたことに改めて感謝。そして誇りに思う。
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■1.「パリ日本人村の村長」
仕事でパリに来ている。数週間単位で滞在するので、オフィスのある凱旋門から地下鉄で4、5駅離れたところに家具付きのアパートを借りてみた。近くには賑やかな商店街があって、カフェやパン屋、八百屋、肉屋などが並んでいる。
驚いたのは日本食レストランの多いことだ。徒歩5分圏内だけで3軒もある。パソコンで検索してみたら、パリの約1万5千軒のレストランで、「和食」のカテゴリーに入っているのが763軒もあった。
一度、昼食にルーブル美術館近くの日本食レストランに入ったら、フランス人の客だけで満員だった。そこでの一番人気は「越前のおろし蕎麦とソースカツ丼小どんぶりのセット」だという。蕎麦もソースカツ丼も本格的な味だった。
戦前からパリに遊んだ日本の芸術家や文人は多いが、パリでこれほど多くの日本食レストランが繁盛し、しかも越前蕎麦まで食べられる時代が来るとは、誰が予想し得たろう。
そのうちの1人、大正2(1913)年にパリに渡った島崎藤村は、河上肇らが彼を頼ってやってくると、下宿を探してやったりして世話を焼いた。やがて藤村は「パリ日本人村の村長」と呼ばれるようになり、彼らを歌劇や音楽会に連れ出しては、学生街のカルチェ・ラタンで文明論に花を咲かせたという。
■2.欧州諸国の持つ「強い組織的なもの」
藤村は、上海・香港・シンガポール・コロンボ・スエズ運河を経由して約一ヶ月の船旅でマルセイユに着いたのだが、船中の読書に、幕末に洋行した幕臣、栗本鋤雲(じょうん)の『暁窓追録(ぎょうそうついろく)』を持参していた。栗本鋤雲も同じ航路で横浜からマルセイユに渡ったのだが、この間に興味深いことに気がついた。
それは船が港に入るたびに、現地人の盗みを防ぐために、船の倉庫に鍵をし、船室を閉じ、出入りを厳重にした事である。ただ、横浜とマルセイユでだけは、船員が船を下りてしまい、戸が開けっぱなしになっていても気にも留めない。
なぜ日本とヨーロッパでは盗みがなく、その間の各地の港では厳重に戸締まりをしなければならないのか。藤村はここから考えた内容を、帰国後、『エトランゼエ(異邦人)』との対話」と題したエッセイに書いている。
__________
東洋の方で肝心な港々は大抵今では英吉利(イギリス)のものだね。(中略)最初の欧羅巴(ヨーロッパ)の航海者なんてものは必ずしも他の国を奪るつもりではなかったんだね。唯、奴らは強いものを一緒に持って行ったんだね。実際欧羅巴の方へ行って見ると、強い組織的なものがあるからねえ。
左様(そう)いう強いものが押込んで行くと、組織的でないような弱いものは否でも応でも敗けてしまう。だからケエプ・タウンでも、ダアバンでも、コロンボでも、新嘉堡(シンガポール)でも、結局強いものが支配するようになっちまう。そいつが僕らの国の方まで延びて来たんだね。[1, p126]
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欧州諸国は何か「強い組織的なもの」を持っていた。そして、それを持っていなかったアジアの国々は次々と植民地にされた。それが日本に延びて来た時にどうなったのか。
■3.「阿爺(おやじ)の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」
この点を藤村は「故国に帰りて」の中で次のように記している。
__________
幸いにしてわが長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿って見ると種々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。[1, p131]
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藤村にとって、封建制度とは抽象的な概念ではなかった。藤村の父は木曽馬込の大庄屋の家に生まれ、伊那谷に多い平田派国学の門徒となり、尊皇攘夷運動を経て地方の小神社の神職となった。維新後は、明治天皇に直訴したり、廃仏毀釈の中で郷里の寺院に放火しようとしたりして、ついには座敷牢に幽閉されて、窮死した。
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遠い外国の旅に出て来て見ると、子供の時に別れた阿爺(おやじ)のことなぞがしきりと恋しくなる。僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ、印度あたりのように外来の勢力に敗けてしまわなかった御陰だ、左様思うと僕はあの頑固な可長しい阿爺に感謝するような心持を有って来た。
多少なりとも僕らが近代の精神に触れ得るというのは、あの阿爺たちに強いものがあったからだ。[1, p134]
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幕末には大名や武士ばかりでなく、地方の庄屋の息子ですら国家の行く末に危機感を抱き、奔走した。「強い組織的なもの」とは、藤村にとって父親の思い出につながる体験的なものだった。
■4.欧米に広まった日本観
ヨーロッパと日本が並行して封建制を経験し、しかも、この二つの地域で近代化が先行した事から、封建制が近代化の基盤となっているのではないか、という考え方は、藤村以前からあった。
今谷明・都留文科大学学長の『封建制の文明史観』[1]によると、日本社会の封建制を指摘した最初の西洋人は、文政6(1823)年、明治維新の45年前に来日して、ドイツ人ながらオランダ人と偽って長崎・出島のオランダ商館医となったシーボルトだという。
多くの大名が半独立的に各藩を治めている徳川の幕藩体制が、同時代のドイツの諸侯が分立していた状況と良く似ている点を、シーボルトは見てとったのだろう。
医師・植物学者であったシーボルトは、学問的にこの観察を深めはしなかったが、帰国後に出版した大著『日本』により欧州での日本学の祖と見なされるようになり、日本が封建制の国だという認識は、以後、多くの訪日外国人に受け入れられていった。
学問的見地から日本が欧州に比較しうる封建制を備えていたという研究は、日本の経済学の草分けと言われる福田徳三によってなされた。福田は明治31(1898)年にドイツに留学し、ドイツ歴史学派の経済学者ルヨ・ブレンターノに師事した。
ブレンターノは欧州経済史の講義で、後方の席で度の強い眼鏡をかけた福田が微笑しているのを見つけ、授業後、なぜ笑っているのかを問うと、福田は「先生が講義される欧州の経済史が、余りに私の祖国日本の歴史に似ておりますので、ははあ、成程、と納得し、会心の笑みを漏らしたのです」と答えた。
「そんなに日本の経済史が西欧に似ているというなら、君がいっそ、日本経済史を書いてみないか」とブレンターノに勧められ、その助力を得ながら、ドイツ語で日本経済史の本を書き上げた。この本は西欧の学者に広く読まれ、日本が西欧に類似した封建制を持った国であるとの日本観は、欧米人の間でも広まった。
■5.モンゴル軍がなぜ日本と西洋で勝てなかったのか
なぜ封建制が「強い組織的なもの」を生むのか。封建制は欧州では騎士、日本では武士という「武人」が中心的な役割を果たすから軍事的に強いという説もあるだろうが、シナの各王朝も戦乱の中で軍事力でのし上がり、天下をとった。だから軍事力の存在だけでは説明できない。
日本の武士と、シナの皇帝に事える武人とを考えて見れば、その違いがはっきりするだろう。たとえば、日本の武士は主君から所領を与えられ、そこを子孫のために命を懸けて守る「一所懸命」の精神を持つ。
これがシナ皇帝に雇われている武人ならどうだろうか。別にその王朝が滅んでも、次の王朝に仕えれば、自分の身は安泰である。日本の武士とシナの武人の違いは、自分の事業にすべてをかける中小企業のオーナーと、大企業のサラリーマンの違いと考えれば、分かりやすいだろう。
現実にモンゴルの大帝国はユーラシア大陸の中心部から東は日本、西はヨーロッパにまで攻め込んだ。しかし、日本では鎌倉武士団に敗れ、欧州ではドイツ騎士団に敗れた。
元寇は神風に敗れたというのが一般の先入観だが、史実は異なる。鎌倉武士たちの抵抗によって、元軍は2ヶ月も上陸を阻止され、海上にさまよっている間に、台風に襲われたのである。台風が来なくとも、補給のない元軍は引き揚げるしかなかった。[a]
西に向かったモンゴル軍はキエフ公国、ポーランド、ハンガリーを蹂躙し、ドイツの諸城に襲いかかった所で、第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイの訃報に接して引き揚げたと言われるが、これも史実ではない。モンゴル軍がドイツ軍との戦いから引き揚げたのは、訃報を聞く数ヶ月も前であった。
実際は、城壁都市に立てこもって頑強に抵抗するドイツ騎士団を打ち破れず、諦めて撤退したのである。これもドイツ騎士団の「一所懸命」に敗れたと言える。
一所懸命の精神で、自分の愛する郷土と、ひいては祖国を命をかけて守ろうとする武人と、富のために戦う武人と、どちらが強いかは言うまでもないであろう。
■6.封建制が法治による近代国民国家の基盤を作った
武人の所領が主君から与えられるということは、こうした強さ以外に、社会の発展を生み出した。それは所領を預かる代わりに、いざという時に生命を掛けて戦う、という相互の信頼に基づいた契約関係を発展させた。
契約である以上、主君が勝手に家来の所領を取り上げる事は許されない。ここから「権利」という概念が生ずる。同時に、家来の方も戦になって命惜しさに逃げ出すなどという事は許されない。これが「義務」の概念を生み出す。この義務をいかに見事に果たすか、という所から、武士道や騎士道が生まれた。
「契約」、「権利」、「義務」などは近代社会を成立させている基本的な概念である。これらの概念を尊重する風潮が統治者にも国民の側にもなければ、近代社会は成り立たない。
一方、皇帝による独裁国家では、皇帝は勝手に家来の財産を取り上げる事ができるし、臣下は危なくなったら、敵方に寝返ったりする。シナ大陸や朝鮮半島で現在でも契約や条約、さらには人権や義務を尊重する気風が薄いのは、封建社会を経験していないからであろう。
さらに封建社会では、隣人との間で境界争いなどが生じた場合は、契約関係をもとに、どちらが正しいかを道理をもって議論することになる。ここから裁判制度が発達する。たとえば鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時が中心となって整理し、成文化した『関東御成敗式目』の末尾には、この法体系の基本理念としての「道理」を明白に掲げている。[b]
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およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。
(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
これは建前だけでなく、実際の裁判でも、一方が自分の主張のおかしい事に気がついて「これは当方の負けなり」と認めた態度を、泰時が涙ぐみながら褒めた事例も記録されている。物事の道理を「法」として書き表し、争い事も法と道理に照らして、どちらが正しいかを判断する。これが「法治国家」の基盤である。
一方、皇帝による独裁社会では、臣下の争いはどちらが皇帝に好かれるか、という事で決まってしまう。そこに発達するのは皇帝へのおべっか争いと互いの足の引っ張り合いである。
封建制は法治による自由な社会の基盤を作った。そして国民の自由な活動が、経済的発展を生み出した。こうして近代国民国家という「強い組織的なもの」が生まれた。封建制を経験した西欧と日本が近代国民国家として発展したのは、当然の現象なのである。
■7.内外からの浸食から、いかに国民国家を守るか
島崎藤村が「強い組織的なもの」と感じとったのは、権利、義務、契約、法を尊重し、それによって国民どうしが互いに助け合う共同体として発展してきた近代国民国家の姿だったのだろう。
しかし、この「強い組織的なもの」が、あたかも自然現象のように勝手に生まれたと考えるべきではない。それは何代にもわたる先人の努力の積み重ねによって発展してきたものである。たとえば、前節に紹介した北条泰時が「道理による政治」を追求した努力がその一例である。
とすれば、先人の遺してくれた「強い組織的なもの」に対して、
藤村のように、「僕らが今日あるのも、彼様(ああ)して阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と感謝の心をもって、思い起こすべきだろう。
しかし、この「強い組織的なもの」は、現在の我々が努力して守っていかないと風化していってしまう。特に現在は、シナや北朝鮮、韓国など、封建制を経験せず、したがって条約も国際法も人権も理解しない前近代国家が外からの脅威を与えている。
同時に、内からはこれまた法治や近代的自由の概念を持たない左翼勢力が、教育や報道、政治をねじ曲げて、国民国家を浸食しつつある。こうした内外からの浸食から、わが国の法治主義と自由民主主義を守って、我々も子孫から「阿爺の時代の人たちが頑張っていてくれた御陰だ」と言われるよう、頑張らねばならない。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog207.html
b. JOG(752) 日本における道理の伝統
布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201206article_2.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 今谷明『封建制の文明史観』★★、PHP新書、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569704700/japanontheg01-22/
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■★★★★★ 待ちに待った素晴らしい良書(せんべいさん)2/19
私は、いつも、考えてきたのは、なぜ、日本人は、道徳心が高く、隣人を思いやる利他心、親切心を持っているかということでした。本書の中に、ヒントがあるような気がします。
■★★★★★ 日本人として生まれたことに改めて感謝できる本 (matsudaさん)2/21
ここまでやさしく125代と連綿と続いた皇室について語られた本はなかったのではないか。・・・日本という国は本当に神々に守られている国なのだと思う。そのような国に生まれたことに改めて感謝。そして誇りに思う。