No.1172 かくて蝦夷は「和の国」に迎え入れられた



 坂上田村麻呂に「征服」された蝦夷の子孫たちは、なぜ彼を称え、思慕するのか?

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■1.スコットランド独立の闘士ウィリアム・ウォレスの残虐刑

 映画『ブレイブ・ハート』を観たことがありますか? スコットランド独立のために戦った実在の人物ウィリアム・ウォレスの生涯を、メル・ギブソンが熱演しています。ウォレスはイングランドの圧政に怒るスコットランド民衆を糾合して、1297年の戦いで勝利をおさめました。

 しかし、翌年の戦いに敗れ、7年間ゲリラ戦を続けたましたが、1305年に奸計にかかって捕らえられ、形式的な裁判で死罪とされました。その処刑ぶりが凄まじいのです。

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 判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた。処刑場到着後、首吊り・内臓抉(えぐ)り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された。
遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所(ニューカッスル、ベリック、パース、アバディーン)で晒(さら)し物とされた。[Wikipedia]
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 スコットランド民衆に対して、イングランド支配に抵抗したらこうなるぞ、という見せしめとされたのです。


■2.蝦夷の長アテルイの処刑

 我が国の歴史で、ウォレスに比較しうる人物が、蝦夷(えみし)の族長アテルイでしょう。中学歴史教科書でトップシェアの東京書籍は、次のように記述しています。

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789年、5万人の朝廷軍がアテルイの本拠地を攻鑿しました。しかし結果は、アテルイのたくみな作戦の前に朝廷軍の惨敗に終わりました。
 797年坂上田村麻呂が征夷大将軍(蝦夷を征服するために設けられた軍の総司令官)に任命されると、801年、4万人の朝廷軍を率いて、ようやく胆沢地方を平定し、翌年、大きな胆沢城を造りました。
アテルイは、軍を率いて降伏し、捕虜として都に連れていかれました。田村麻呂は、朝廷にアテルイの命を助けるように強くたのみましたが、その願いは間き入れられず、アテルイは河内(大阪府)で処刑されました。[東京書籍]
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 このコラムの横には、「アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚」の写真も掲示されています。ここだけ読むと、中学生たちはいかにも大和朝廷は罪もない蝦夷の土地を侵略し、立ち上がったアテルイが降伏したのに、処刑までした残虐な政府だと考えてしまうでしょう。

 しかし、たとえばウォレスとアテルイを比べてみれば、似たような事件でも国柄の違いはだいぶ明らかになります。近畿大学文芸学部・鈴木拓也准教授は、中国では戦争の捕虜を、大勢の民衆の前で処刑することによって皇帝の勝利を印象づける事はよく行われていたが、日本では違うとして、次のように述べています。

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ただし日本では、蝦夷の処刑は基本的に行われておらず、投降してきた蝦夷に対する処置は、未服属の蝦夷の投降を促すためにも、おおむね寛大であった。延暦21(802)年に河内国で阿弖流爲(あてるい)と母礼(もれ)が処刑されたのは、彼らが長年にわたって政府軍を苦しめてきた蝦夷の族長であったためで例外中の例外と言って良い。[鈴木、p23]
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 アテルイは10年以上も大和朝廷に抵抗したので、これを生かしても改悛はしまい、という判断で、「例外中の例外」の処刑となったのでしょう。


■3.城柵を拠点とした東北地方開拓

 大和朝廷とイングランドの北方進攻を比較すると、さらに大きな違いがあります。まず、大和朝廷の征夷の経緯をおさらいしておきましょう。

 蝦夷(えみし)とは、新潟市、米沢市、仙台市あたりを結んだ線より北側に住む住人を大和朝廷側が呼んだ呼称です。蝦夷が縄文以来の和人で大和朝廷の統治に服していないだけの人々なのか、後のアイヌ人なのかは、まだ学界でも定説はないようです。たとえアイヌ民族にしても遺伝子解析や言語学研究から和人とは縁戚関係だったとされている事は留意すべきでしょう。

 大和朝廷の統治を蝦夷の住む地域に拡張しようという動きは、大化の改新の直後、大化3(647)年に越(こし)の国(後の越後国)に淳足柵(ぬたりさく)を設けることから始まりました。

「柵」、または「城柵」とは一種の砦で、軍事・行政の拠点でした。城柵の周辺には、他地域から移住した和人が住み、食料や労役などを城柵に提供しました。服属した蝦夷系の住民も城柵周辺に住み、土木作業など一定の賦役を負う一方で、禄や食料の支給を受け、未服属の蝦夷から護られていました。蝦夷系住民との饗宴や交易も城柵で行われました。

 こうした城柵が約150年の間に21カ所ほど、北へ北へと設けられていき、最終的には青森県を除く東北地方の大半が、大和朝廷の統治下に収められたのです。


■4.「長い間の平和な開拓方針」

 東北進出のうち、特に大きな蝦夷の反乱が起きたのは、150年の最後の方で、宝亀5(774)年から光仁2(811)年まで、現代では38年戦争と呼ばれています。目崎徳衛・聖心女子大学名誉教授は、次のように語っています。

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 陸奥の国の開拓がはじめられてからすでに年久しかった。仙台平野から南には十ばかりの郡が設けられ、「蝦夷」とよばれる土着民と、「柵戸(さくこ)」とよばれる東国地域からの武装移民とは、概して平和に共存していた。
しかし奈良時代末期になると、蝦夷の集団をひきいて律令政府の支配に服していた各地の「俘囚(ふしゅう、服属した蝦夷)の長は、しだいに大きな勢力に成長し、いつまでも異民族として軽侮されている立場に不満をいだくようになった。
 これに対して、朝廷側がとくに強硬方針を打ち出していた様子はない。むしろ長い間の平和な開拓方針が、光仁朝に至って限界に突き当たったのであろう。つまり動乱は蝦夷社会の成長から、起こるべくして起こったのだ。[目崎, p62]
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 この戦乱のきっかけになったのは、宝亀11(780)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみ・あざまろ)の反乱でした。 

 呰麻呂は伊治城(これはり)城(宮城県内陸北部)が置かれた地方に勢力を持つ蝦夷の族長でした。呰麻呂はその二年前の戦闘で、一族を率いて朝廷軍に協力して戦功を立て、外従五位下という地方在住者として最高の位を与えられていました。また陸奥国上治(かみはり)郡の大領(郡司の長官)にも任命されていました。

 しかし、別の郡の大領、この人は和人移民でしたが、呰麻呂を常に蝦夷として辱めていたので、ついに呰麻呂はこの大領と、その上司である按察使(あぜち、地方行政の責任者)を殺害して、反乱を起こしたのです。

 呰麻呂の個人的な怨恨から始まったとは言え、それが多くの蝦夷の蜂起を呼んだということは、蝦夷たちが和人に侮蔑されていた事、また朝廷の政治に対しても不満があったことを示しています。

 しかし、ここで見落としてはならない事は、呰麻呂が朝廷から官位を受け、大領という地方の行政官に任命されていたことです。大和朝廷には、蝦夷であっても功績があった者には官位を与え、行政官に任命するという原則がありました。それが十分でなかったので反乱が起きたのでしょうが、蝦夷をなるべく同胞として国家に取り込みたいとするのが大和朝廷の姿勢でした。


■5.農業技術指導の開拓団でもあった朝廷軍

 38年戦争の後半から登場して、アテルイを降伏させ、戦争を終結させたのが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でした。「怒れば猛獣もたちまちたおれ、笑えば幼児もなつく」と伝えられ、また田村麻呂が創建、あるいは関係した寺社が東北地方だけで50以上もある、という伝説の人物です。

 田村麻呂がどんな戦いをしたのかは、ほとんど記録もなく、アテルイ一族が降伏したのも、周囲の蝦夷を服属させて孤立化させたからのようです。そのアテルイの助命をしようとしたところに、情(なさけ)の深い武将であったことが窺えます。

 坂上田村麻呂が築いた胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)に関して、國學院大學の樋口清之名誉教授は次のように述べています。

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 昭和30(1955)年に、この城のあったところを発掘調査したところ、なんと城の中に、みごとな農事試験場が作られていた。
 学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だけで押さえつけたような表現で述べられている。
 だが、実際はそうではなかった。坂上田村麻呂は将軍だが、戦闘はほとんどしなかった。・・・
 そのかわり彼らは、鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・斧(おの)・火打金(かね)などを持っていった。・・・
 結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂(ふんやのわたまろ、JOG注:38年戦争を終結した武将)にしても、彼らの軍隊は農業開拓の派遣団だったのである。・・・だから軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技術指導の開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、そのために成功した。[樋口,p106]
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 神武天皇は様々な種族・部族が「一つ屋根の下の家族」のように暮らせる国家を作ろうと、南九州から出発して、各地域の人々に稲作を教えつつ大和地方まで東征しました。坂上田村麻呂の東北経営にも、その理想が感じられます。

坂上田村麻呂.jpg
「威容抱慈(坂上田村麻呂像)」三木宗策、大正13年(1924)、郡山市立美術館蔵、郡山市ホームページから


■6.各地方に送られて、処を得た蝦夷の投降者

 投降した蝦夷を東国から九州に至る国々に移住させるという政策をとったのも、田村麻呂のようです。たとえば、近江一国で千人を超える蝦夷が移住させられ、総数では少なくとも数千人という規模に至ったと推定されています。

 これは蝦夷の勢力を分断するため、という目的もあったでしょうが、彼らは移住先で口分田を支給され、子の世代までは食料の不足分は国家から供与され、租税も免除されました。朝廷からは「望郷の思いを忘れるほどに常に優遇・優待せよ」との命令が出ており、時節毎に饗宴まで行うこともありました。

 もちろん、慣れない土地で見知らぬ和人に囲まれながらの新生活にすぐには慣れず、騒ぎも各地で起こりましたが、逆に善行を積んで、朝廷から姓を賜ったり、位を与えられたりする蝦夷もいました。また国司の扱いが不当な場合には、朝廷に直接訴えを起こすことも正当な権利として認められていました。

 さらに朝廷は蝦夷たちの武力を活用しました。九州太宰府に防人として送ったり、また警察として群盗や海賊の追捕にも用いたのです。彼らの忠誠心が信じられなければ、武力を持つ軍人や警察官として用いることは危険な行為です。それほどまでに蝦夷が地域社会で処を得て、信頼されるようになった、ということでしょう。


■7.なぜ坂上田村麻呂は称えられ、思慕されるのか

 一方、スコットランドの方はどうでしょうか。蝦夷と違って、スコットランドは9世紀には、独自の王国を成立させていました。1071年、イングランドの侵攻が始まり、ウィリアム・ウォレスの闘争も含め、最終的にスコットランドがイングランドに下ったのは、1707年に連合王国となった時でした。636年もの間、断続的な独立闘争が続いたのです。

 それから約300年、スコットランドは連合王国の一部をなしてきました。しかし、1999年、独自の議会を再開し、連合王国からの独立を問う住民投票も提案されています。結局、スコットランドは600年以上も断続的に独立のために戦い、その後の300年はイングランドと同じ連合王国に属していましたが、いまだ独立国家となる夢を捨てていないのです。

 蝦夷の方はどうでしょう。高橋崇・岩手大学教授は、著書『坂上田村麻呂』で次のように問いかけています。

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 東北の、とくに宮城県北部以北の人々・蝦夷は、田村麻呂の襲来をうけ、戦い、そして、ついに征服されてしまった、いわば、田村麻呂は現地の蝦夷からすれば、侵略者・征服者であったことを否定するわけにはいかない。
それなのに、後世に伝説が残るということは、被征服者の子孫が征服者を憎んだり、悪しざまに扱うのではなく、いや、むしろ、称え、思慕するということになるが、それはどうしてか・・・[高橋、p215]
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 スコットランドと違って、現在の東北地方には自分を蝦夷の子孫として、独立を夢見る人はいないでしょう。アテルイの後裔として、その最期に涙する人もいないのです。それだけ、蝦夷の子孫は日本の中に融合されています。

 大和朝廷の対蝦夷政策が、イングランドの対スコットランド政策と違うのは、蝦夷たちを同じ国民同胞として迎え入れようという努力です。農業技術を教えたり、帰順した蝦夷を護ったり、投降した蝦夷たちを各地に送って、そこの民とし、さらには兵士や警察として処を与えました。そうした融和政策の象徴が田村麻呂なのです。だからこそ彼が称えられ、思慕されているのでしょう。

 もちろん、文明の程度も、文化も異なる蝦夷に対して、当時の和人が経済的搾取をしたり、差別をしたことは当然あったでしょう。朝廷の政策にも偏見も失敗もあったでしょう。しかし、そうした失敗や問題を乗り越えて、蝦夷たちは「一つ屋根の下の家族」に迎え入れられました。大和朝廷の「和の国」作りはこうして幾多の苦難を乗り越えつつも、進められていったのです。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(850) 歴史教科書読み比べ(15) :大和朝廷の東北進出と蝦夷の抵抗
 大和朝廷が東北地方に国土を広げる過程で、蝦夷はなぜ抵抗したのか。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201405article_7.html

b. JOG(635) アイヌとの同化・融和・共生の歴史
「もののわかった人は、私たちアイヌを本当の日本人として尊敬してくれました」
http://jog-memo.seesaa.net/article/201006article_17.html

c. JOG(936) 日本武人の闘い方
「敵を欺いて勝つのは真の武の道ではない」と日本最古の兵書は『孫子』の兵法を否定した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201601article_7.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・Wikipedia contributors. "ウィリアム・ウォレス." Wikipedia. Wikipedia, 14 Apr. 2020. Web. 14 Apr. 2020.

・鈴木拓也『蝦夷と東北戦争(戦争の日本史)』★★、吉川弘文館、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4642063137/japanontheg01-22/

・高橋崇『坂上田村麻呂』★★、S61、

・東京書籍、『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

・樋口清之『うめぼし博士の逆・日本史 (3)』★★、祥伝社、S62
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4396500092/japanontheg01-22/

・目崎徳衛『日本の歴史文庫(4) 平安王朝』★★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4642050450/japanontheg01-22/

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