No.1189 「三方よし」が経済発展を導く


「三方よし」で各地に進出した近江商人が、江戸時代の全国経済を築いた。

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■1.大飢饉の中での普請

 江戸後期の天保の大飢饉(1833 -1839] )の最中、琵琶湖東岸、現在の彦根市に隣接する豊郷(とよさと)町で住宅の改築と寺院仏堂の修理工事を始めた商人がいました。今で言えば、コロナ禍で企業倒産と失業者も増える中で、家を改築するようなものです。

 起工を知った彦根藩は飢饉に苦しむ人々を無視した傍若無人の振舞いとして、役人を派遣して咎めようとしました。しかし、役人が現地に行ってみると、工事の従事者には賃金を与え、家族にまで雑炊を振る舞っていたのです。

 飢饉で人々が困っている時に、単に施しをするのではなく、仕事を作ってその対価として工賃を支払うというやり方には、相手の立場への思いやりが籠もっていました。工事をしたのは、地元の近江商人・7代目藤野四郎兵衛。派遣された役人は四郎兵衛の義挙を嘆賞し、地元民もこの一時を「藤野の飢饉普請」と呼んで、後世まで語り伝えました。[末永, 1025]


■2.「サクラやカエデ?」

 こうした義挙は、近江商人の歴史には事欠きません。現在の東近江市に寛政元(1789)年に生まれた塚本定右衛門定悦は、19歳で商売を志し、わずかな資本で小町紅(こまちべに、稀少な紅で作る伝統的な口紅)を仕入れ、東北地方にまで売り回りました。

 やがて呉服や綿製品も扱うようになり、「紅屋」と名付けた店を開いて成功しました。安政5(1858)年の大飢饉では、今まで貯めた財産を惜しげもなく使って、村人を救いました。

 その長男が定次(さだつぐ)でした。時々、勝海舟のもとに出入りしており、海舟の座談には次のように書かれています。

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 江州(JOG注: 近江)の塚本定次という男は、実にめずらしい人物だ。数万の財産を持っておりながら、自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも粗末な着物を着ていて、ちょっと見たところはただの田舎親父としか思えない。[童門、256]
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 ある時、定次がまたやってきて、自分の所在地で荒れたままになっている所がかなりあって、何か近辺の住民のためになるように使いたい、いっそのことサクラやカエデを植えたら、と思うがどうか、と聞きます。「サクラやカエデ?」と海舟が聞き返すと、定次はこう答えました。

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 近所に住む人びとは貧しくて、働くのに精一杯でなかなか京都のモミジや吉野山のサクラを見にいくような暇がありません。ですからいっそのこと、吉野山に咲いているサクラや京都の美しいモミジの苗木を荒れ地に植えて、近所の人びとが季節になれば花見をしたり、モミジ狩りができるような場をつくったらいかがかと思いまして、ご相談に上がりました。[童門, 273]
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 海舟は「面白い考えだな、ぜひ実行しなさい」と賛成しました。


■3.中江藤樹が遺したまごころ

 近江商人たちの地元を大切にする気風は、中江藤樹(なかえ・とうじゅ)が源流となっているようです。藤樹は江戸時代初期の学者で、伊予大洲藩(いよおおず、愛媛県)に仕えていましたが、学問を出世の道具と考える気風に反発して35歳にして脱藩し、生まれ故郷、琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町)に帰ってきて、母親に孝養を尽くしました。

 藤樹は母親を思う人間生来の「まごころ」が広がれば、家族で助け合い、地域も支え合う、と考えて、馬方や漁師などに教え始めたのです。その教えは琵琶湖の静かな波のように、ひたひたと周辺に広がり、藤樹の家で溝に鯉を飼い、盆栽を置いても誰も盗まない、という話が近隣でも評判になりました。

 それを聞いて、中江の塾で学問をしたいという人々が増えていき、馬方や漁師、農民から、商人、武士と身分を超えて、ともに人としての生きる道を学ぶようになっていきました。藤樹はわずか41歳で亡くなりましたが、死後、「近江聖人」と呼ばれるようになったのです。[JOG(324)]

 藤樹の徳風が根付いた土地に生まれ育った商人たちが、成功した後に財産を地元の人々にために使おうとするのは、同じまごころでしょう。


■4.「商(あきな)いはホトケの代行だ」

 近江商人たちが大切にしたのは、地元だけではありません。なかには、わざわざ遠い地域の道路修理に金を出した人物もいました。まわりから、「あんな遠い所の道路修理になぜ金を出すのだ?」と聞かれると、こう答えました。

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遠い近いは関係ない。近江国を通る道の中で、悪い道路があれば直せる人間が直すことによって、人びとの往来が活発になる。それがひいてはわれわれの商売にも利益をもたらすのだ。[童門,291]
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 江戸時代初期の鈴木正三(しょうさん)は「商(あきな)いはホトケの代行だ」と言いました。正三は徳川の旗本でしたが、42歳にして武士の身分を捨て、禅僧として出家した人です。その頃から士農工商の身分制が定着し始めましたが、「何(いずれ)の事業もみな仏行なり」と教えていました。

 士農工商の最下位に置かれた商人に対しても、「ホトケの代行」と言っていたのは、山奥に住む人々にも必要な商品をお届けするのは、その人々にとって、まさに仏様にも相当する救いの手だ、という意味でしょう。道路を直して、そういう人々のところにも商人が行きやすくするのも、仏様をお助けする善行です。[童門, 219]

 そして「ホトケの代行」なら、当然、暴利をむさぼったり、悪い品物を騙して売りつけたりしてはいけません。


■5.天秤棒の行商で覚える「売り手よし」

 江戸時代から近江には、畳表、蚊帳、売薬、麻布、木綿などを作る地場産業があり、初期の近江商人は、天秤棒を担いでこれらの商品を売り歩きました。

 現在の東近江市出身で、綿や麻の織物の問屋として成功した丁子屋(ちょうじや)小林吟右衛門という近江商人がいました。初代吟右衛門は、寛政10(1798)年、22歳にして行商を始め、織物や小間物を近隣の村々へ売り歩きました。この吟右衛門が78歳で亡くなる寸前に、次のような発言をしたことが記録されています。

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 天秤棒をかついでまわるような小商人は、世間の人々の好意や助力で毎日の生活が成り立っているのである。だから、相手の立場を考えて振舞うという実意がなければ、他人は力添えをしてくれることはない。

どんな場合でも他人に不義理をしないように、損失をかけないようにということを第一に心がけながら、自分は骨を折って働きとおすことを少しも厭わないならば、人々はその心持と働く姿をみて自然に心を動かされるであろう。そのような好印象を与えることができれば、商売はうまくいき、資産もいつとはなしに増えるものである。[末永,839]
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 天秤棒の行商は、買い手よしを体で覚える機会でした。

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■6.盛岡まで進出して喜ばれた「世間よし」

 近江商人は行商の範囲を広げ、やがて関東や東北にまで足を伸ばしていきます。

 琵琶湖西岸の高島で商売を始めた村井新七は、盛岡(岩手県)にまで進出しました。そこでは藩も商人たちも現金の持ち合わせが少ないので、藩政府は他国の商人が商品を売りつけて、正貨が流出することを嫌がっていました。そこで新七が考えたのが、持ち込んだ商品を売った代金で、土地の名産品を買い付け、それをまた近畿に持ち帰って売る、という交易です。

 特に東北地方は、木綿、茶、みかん、ローソクなどの生活必需品が不足しており、それらを持ち込むことで地元民に喜ばれる。またその代金で地元の名産品を買って他国に売ってくれるのですから、藩政府も「近江商人の商法は、なかなかいい」と歓迎しました。

 新七はさらに「南部の地に根を生やさなければだめだ」と考え、行商だけではなく、地元に店を構えました。そして仲間の近江商人たちも次々に呼び寄せました。近江商人たちは、よそ者が新しい地に根を下ろすには、地元の人間以上に徳義を大切にしなければならない、と良い意味での「他国者意識」を持って働いたのです。

 矢尾喜兵衛は琵琶湖東岸から20キロほど東南の山間部に入った蒲生郡に、正徳元(1711)年に生まれました。長じて同郷の矢野新右衛門の下で奉公に入り、やがて武蔵国(埼玉県)秩父郡の出店の支配人となり、寛延2(1749)年、39歳で同地での独立を認められました。本家と資本を出し合って、大宮郷で酒造業も始めました。

 その4代目は、奉公人に対して「遠国渡世の身分は地の商人と違ひ、身持また格別に正しく有るべきこと」と心得を教え諭しています。自分達のような他所からやってきた商売人は、地元の商人衆よりも格別に身持ちを正しくしなければならない、というのです。

 進出して100年も経っているのに、「他国者意識」を持ち続けていました。そして飢饉の際には貧民に米銭を施し、また自腹を切って米の安売りを続けたのです。

 その徳義が報われる時がやってきました。明治17(1884)年、松方デフレ不況で、養蚕・製糸を副業にしていた農民たちが借金に苦しみ、数千人が蜂起して、大宮郷の郡役所や警察を襲い、高利貸しの家を焼き討ちしたのです。

 当時、矢尾家の出店は、大宮郷で最大の商家に成長していましたが、蜂起した農民たちは、矢尾家の日頃の徳義に感謝していて、兵糧の炊き出しを依頼するのみで、通常のように開店営業することを認めました。「情けは人のためならず」と言うように、近江商人の「世間よし」は危機の際には我が身を助けたのです。


■7.全国経済を発展させた近江商人と三方よし

 近江商人は各地に出店を作ると、出店間の情報ネットワークを利用して、諸国の商品の需給や価格差を調べ、それに基づいた商品販売をするようになりました。それを「諸国産物回し」と言います。

 近江や畿内で生産され、近江商人によって全国に運ばれた商品は「下し荷」と呼ばれ、小間物・売薬・蚊帳・畳表・麻布・木綿・呉服など都市で生産されるものでした。その売り上げで近江商人が諸国で買い集めて、近江、畿内に運んだ商品は「登せ荷」と呼ばれます。関東・東北では生糸・関東呉服・麻・紅花などでした。これらは近江商人による技術支援や市場開拓で実現したのです。

 上方の商品の送り込みによる地方への文化の伝播、地方商品の仕入れと市場開拓による産業の育成、まさに現代の商社活動の源流となったのが、近江商人でした。実際に伊藤忠商事と丸紅は近江商人・伊藤忠兵衛が創業した兄弟会社です。

 育鵬社の中学歴史教科書は、江戸時代の産業の発達をこう描いています。

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手工業の発達につれ,原料となる麻や綿染め物に使われる藍や紅花などの栽培もさかんになりました。各藩では,このような商品作物の栽培を奨励し,各地でさまざまな特産品の生産が活発になりました。農業の発達は農民の生活にゆとりをもたらしました。[育鵬社、p126]

製鉄,酒づくり,漆器陶磁器,鋳物織物などの手工業も発達し,各地に特産品を生み出しました。産業の発達を支えたものは街道と水運の整備でした。[育鵬社、p127]
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 江戸時代の我が国では、まさに全国を統合する経済が発達したのですが、その原動力となったのが近江商人であり、彼らの成功要因が三方よしの商業道徳であったのです。


■8.「商売の根本は正直にあることを日本人は教えてくれた」

 近江商人の商法が現代の商社活動の源流と述べましたが、三方良しの徳義は、そのまま現代の商社にも継承されているようです。経済評論家の日下公人(くさか・きみんど)氏の著書『道徳という土なくして経済の花は咲かず』に次のようなエピソードが紹介されています。

 日本の商社がアラブ商人と取引を始めた頃、彼らは「日本人ほど騙しやすい連中はない」と見ました。同じ手口で三井・三菱・住友と3回騙せるというのです。

 ところが、しばらくすると日本の商社どうしで「あいつは危ない、気をつけろ」と教え合うようになり、「札付き」という噂が立つと日本のすべての会社がその人を相手にしなくなりました。

 長い時間が経ってみると、正直なアラブ商人は日本企業相手の取引を続けて金持ちになりました。一方、騙し合いの商売を続けてきた人は、今もアメリカやフランス相手の食うか食われるかの苦しい商売をしています。

 あるアラブ商人は「商売の根本は正直にあることを日本人は教えてくれた」と述懐しています。日本人は改まってお説教したりはしませんが、取引をするかしないか、という行動で雄弁に経営哲学を語っているのです。

 日本の総合商社とは、商品の輸出入だけでなく、海外への投資を行って産業を育成する事業も行っています。ちょうど近江商人が地方の特産品を育てたように、各国の産業育成に貢献しています。それには長い期間がかかりますが、売り手よし、買い手よし、世間よしを踏まえなければ、成功は望めません。

 総合商社とは世界に類のない日本独自の事業形態ですが、それは近江商人の三方良しを世界を相手に拡大したものと言えそうです。総合商社は戦後の高度成長を支え、世界の途上国の発展を助けました。
(文責 伊勢雅臣)

■おたより

■「敵対」を「共存共栄」に転化させる力のある民族(夏子さん)

日本人が同じ手口で三度も騙されるけれども、連携することで、騙されなくなった。
そして、日本人の正直な商習慣が、アラブ人の商売発展にも役立つようになった。

これは、渋沢栄一が、外国商人との生糸取引で「やられてばかり」に苦しんでいた頃、同業者の組合を作り、日本人が江戸時代から実行していた、公正な取引を外国人との間でも実現させた話と似ていると思いました。

三方よしの実例なので、共通点があるのは当然ですね。

加えて、日本人は正直でお人好しなので、最初はやられるけれど、元来、持っている本質的なよさを、連携することで強化し、「敵対」を「共存共栄」に転化させる力のある民族だと感じました。

やられっぱなしで終わらない信念を、個々人が持つか持たないかが、カギなのでしょう。

今、日本を敵視する国々とも、最後は、そうなれればよいと思います。


■伊勢雅臣より

 確かにこれは古事記で書かれている「言向け和す」と同じアプローチのようですね。

■リンク■

a. JOG(324) 中江藤樹~まごころを磨く学問
 馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・末永國紀『近江商人学入門 改訂版』(Kindle版)★★★、サンライズ出版、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B077YXFM1D/japanontheg01-22/

・童門冬二『近江商人のビジネス哲学』(Kindle版)★★★、サンライズ出版、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00MTUHYNK/japanontheg01-22/


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この記事へのコメント

宮川輝子
2022年10月29日 12:18
私が取締役をしている会社は、昭和14年、私の父が創業した83年の歴史ある会社です。一時は、倒産の危機にありましたが、父の倫理観を社員と共に勉強して、過っての危機を脱しました。創業者の遺志を引き継ぐことは、単に血筋が繋がっていることではない……と、強く思っています。
伊勢雅臣
2022年10月29日 14:20
ご指摘のように、血筋はつながっていなくとも、遺志を引き継いでいれば、立派な後継者ですね。創業者の遺志を引き継ごうという決意が、長寿企業の力なのですね。

>宮川輝子さん
>
>私が取締役をしている会社は、昭和14年、私の父が創業した83年の歴史ある会社です。一時は、倒産の危機にありましたが、父の倫理観を社員と共に勉強して、過っての危機を脱しました。創業者の遺志を引き継ぐことは、単に血筋が繋がっていることではない……と、強く思っています。

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