No.1234 シベリア出兵 ~ 共産主義の芽を摘みとれなかった世紀の「失敗」


 第一次大戦の連合国は、20世紀最大の惨劇を生んだ共産主義を萌芽のうちに摘み取るチャンスを逃した。

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■1.滅亡する国家からの脱出劇

 2021年、アフガンからの各国大使館員や前政権の関係者の国外脱出が続きました。一つの国家が滅亡する時には、こういう光景がつきもののようです。ほぼ100年前の1917年、共産革命が起こり、ロシア帝国が崩壊して、共産主義に危険を感じた人々が一斉に脱出した光景も、このようなものだったのか、と思われました。

 ロシア革命後の情勢を、東京書籍の歴史総合教科書は、次のように記述しています。

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 ソヴィエト政権側(赤軍)と反革命側(白軍)の間で内戦が生じると,革命の波及を恐れる英仏は軍事介入し,アメリカ合衆国や日本もシベリア出兵を行って対ソ干渉戦争に加わった。[東書、p110]
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「革命の波及を恐れる英仏」に日米も「対ソ干渉戦争」に加わった、という歴史観ですが、ここに書かれていない重大な史実があります。


■2.英仏を裏切って、ドイツ帝国と講和したソビエト政権

 ここで黙殺されている最も重要な史実は、ソヴィエト政権が第1次大戦で戦っていたドイツ帝国と勝手に講和してしまったことです。それまではドイツに対して、英仏が西部戦線で戦い、ロシア帝国が東部戦線で戦っていたのですが、ロシア帝国を倒したソビエト政権がドイツと講和してしまうことで、英仏はドイツの全戦力を西部戦線で受け止めなければならなくなります。

 ましてや英仏はそれまでロシア帝国に武器などの支援物質を大量に送っており、その巨大な集積の一つが日本海に面したウラジオストックにありました。これをソビエト政権が接収し、さらにドイツに渡ったりしたら大変なことになります。

 もしドイツが第1次大戦に勝利したら、独露の勢力が中部ヨーロッパから日本海沿岸までユーラシア大陸のほとんどを覆うこととなり、それは日本にとっても悪夢となります。

 それを防ぎ、対ドイツの東部戦線を再構築するために、英仏は日本軍のシベリア出兵を求めたのです。しかし、日本はアメリカからシベリア侵略の猜疑をかけられては、とアメリカも含めた連合国の共同出兵という形にこだわります。そのアメリカは、現実政治に民族自決の理想を持ち込むウイルソン大統領によって、共同出兵には容易に賛成しません。

 焦燥する英仏は、必死にアメリカの説得工作にあたり、なんとか共同出兵に漕ぎ着けたのです。この時点では英仏には「革命の波及を恐れ」て軍事介入する余裕などありませんでした。この史実を踏まえれば、上記の東書の記述は、「革命がそれほど世界に恐れられた」と考えたい社会主義者の夢想のように見えます。


■3.ドイツ帝国によってモスクワに送り込まれたレーニン

 ソビエト政権がドイツ帝国と講和した経緯を見ておきましょう。そこにソビエト政権の狡猾な本質が窺われます。

 1917年の2月革命で食糧を求める市民や、平和を求める兵士たちのストライキで、ロシア皇帝は退位を余儀なくされ、二月革命で自由主義者や穏健な社会主義者からなる臨時政府が成立しました。岩手大学の麻田雅文准教授は著書『シベリア出兵』でこう述べます。

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連合国は、味方となって戦争を継続するならば、ロシアが君主制か共和制かは問題としない。むしろ、東部戦線の立て直しを望む連合国にとって、連合国との協定の遵守と、戦争の遂行を掲げる強力な政府の出現は望ましくさえあった。まずアメリカが、続いて英仏伊が臨時政府を三月に承認する。日本は三月二七日に承認を閣議決定し、四月四日に臨時政府に通知した。[麻田、193]
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 この臨時政府を暴力的に打倒したのがレーニンでした。二月革命当時、レーニンは亡命先のスイスにいました。

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ドイツの参謀本部は、レーニンらの帰国が、ロシアとの戦争に有利に作用すると判断した。レーニンも、帰国することがなによりも革命の利益になると考えた。双方の思惑が一致して、レーニンらはドイツ側が用意した列車に乗り込む。[麻田、210]
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 レーニンは、ドイツにとってはまことに都合の良い人材でした。連合国として戦争の遂行を掲げる臨時政府を暴力的に打倒すると、すぐさまドイツに単独講和を申し入れ、ドイツのウクライナ(穀倉地帯で食糧確保が期待できる)独立承認や巨額の賠償金支払いの過酷な要求を丸呑みして、1918年3月3日に単独講和条約を結んだのです。


■4.英仏、日米へのシベリア出兵を提案

 これに衝撃を受けたのが英仏です。同月3月には、英国はすかさず、ロシアの北極圏、フィンランドに近いムルマンスク港に兵を出しました。そこに積み上げられている英仏からの軍需物資をソビエト政権に接収されないよう守るためです。これが「対ソ干渉戦争」の始まりでした。

 同様に、日本海沿岸のウラジオストックも抑える必要がありました。そこは日本も含めて連合国がロシアに供給した軍需物資の受け入れ港であり、特にシベリア鉄道が混乱して、輸送待ちの武器弾薬が山と積まれていました。英仏は、太平洋国家の日米がシベリアに出兵して軍需物資を接収し、シベリア鉄道沿いを抑えて、鉄道輸送を管理するのが、最善と考えました。

 1917年12月1日、パリで開かれた連合国最高軍事会議では、この案が日米の代表者に示されましたが、アメリカはロシアへの内政不干渉と民族自決を理由として、ウイルソン大統領が正式に拒否しました。大統領は暴力的に政権を奪取したソビエト政権には批判的でしたが、民族自決を優先したのでした。[麻田、277]

 朝鮮、南満洲、樺太南部を勢力圏としていた日本にとって、ロシア革命は地続きの大変動でしたが、日本政府は経済的に関係の深いアメリカとの協調を優先して、「出兵については連合国の全体の協調を待つ」という穏便な回答をしました。

 首相の寺内正毅(まさたけ)陸軍元帥は、ドイツか、ドイツとロシアの連合軍が東へ進攻した場合には、「断固として出兵の必要がある」と考えていましたが、大義名分の立たない現在は「戦局に深入りすることは上下ともに望まない」と閣議でも述べています。[麻田、323]

 ここで留意すべきは、この時点では東書が述べているような「革命の波及を恐れる」などという議論は見当たらず、ましてや日本は出兵に乗り気ではなかった、という点です。


■5.チェコ軍団を救え

 しかし、ここに新しい事態が生じました。シベリアでソビエト政権と戦っていたチェコ軍団が危機に瀕しているとの噂から、英米は救援のための出兵を日米に強く求めたのです。

 チェコ軍団とは16世紀以降、オーストリア帝国の支配下から逃れてロシア帝国に移住したチェコ人、スロバキア人の子孫や、第一次大戦でロシア軍の捕虜となった両民族兵士からなる部隊でした。チェコ軍団は、祖国の独立を目指して、オーストリアとも戦うロシア帝国に協力していたのです。

 ところが、ロシア帝国が倒れ、ソビエト政権がオーストリアとも講和してしまったので、チェコ軍団はシベリアで孤立していました。1917年末で4万人近くの兵士がいたとされています。英仏は東部戦線の再構築を、このチェコ軍団に期待していたのです。そのチェコ軍団との連絡が途絶えたので、英仏は1918年6月の連合軍最高軍事会議で、再度、日米にシベリア出兵を要請しました。

 ウイルソン大統領も、人道的観点からチェコ軍団を見捨てることはできず、日米7千と同数の兵力をウラジオストクに限って送ることを、日本政府に提案しました。アメリカの提案に日本は「一万から一万二〇〇〇名出兵する」と答え、アメリカ政府もこれを受け入れました。こうして連合国の共同出兵が始まりました。

1918年秋の時点では、米9千、英7千、中国2千、イタリア1400、フランス1300の出兵を行いました。しかし日本軍は、出兵開始後、すぐに兵力を最大7万2千まで増やし、かつウラジオストクからシベリア鉄道沿いに内陸部に展開しました。

 もともと英仏は、東部戦線再構築のために日本軍単独でもバイカル湖以西まで出兵してもらいたいと希望しており[細谷、p39]、その通りの展開になりました。

 アメリカ側も文句はつけましたが、もともとの東部戦線再構築という本来の出兵目的をチェコ軍救出に差し替え、内陸部にもいるチェコ軍を救うのに出兵はウラジオストックに限る、という不合理な制約を課していたのです。英仏の手前、途中で出兵を取りやめるような、強い姿勢には出られなかったのでしょう。

 日本軍主体の各国軍は、わずか二ヶ月足らずの8月末までにチェコ軍団と反革命勢力と連携して、バイカル湖から数百キロ東のザバイカル州の州都チタ以東のシベリア鉄道沿線を制圧し、シベリア各地では反革命派が息を吹き返しました。[麻田、1,105]

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1918年、ブラゴヴェシチェンスクに入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民


■6.反革命勢力への支援

 同時に8月以降、連合国軍の西部戦線での反攻が本格化しました。11月11日にはドイツとの休戦協定が結ばれましたが、正式に戦争状態が終結したのは、ヴェルサイユ条約が調印された翌1919年6月28日でした。

 ちなみに、パリ講和会議ではロシアの革命派と反革命派の両勢力の代表を招待しようという案も出ましたが、フランスのステファン・ピジョン外相はボルシェビキのような「犯罪的政権」とは、いかなる協定を結ぶことも拒否すると反対しています。[麻田、1592]

 この頃、シベリアでは、ロシア帝国海軍中将だったアレクサンドル・コルチャークが反革命勢力を糾合し、連合国の協力も得て、ウラル地方の中心都市ウファを奪回していました。ソビエト政府は、シベリアの小麦とウラル地方の工業を奪われ、存亡の危機に瀕していたのです。

 日本はコルチャーク政権を承認し、5月24日には日米英仏伊の首脳会議で、条件付きながらコルチャーク政権を支援する決議を採択しました。しかし、動乱下の経済混乱と、赤軍の反攻で、コルチャークは捕らえられ、処刑されます。さらに英仏はデニーキン将軍を担ぎ上げますが、こちらも失敗。

 1919年10月以降、シベリアに進出した連合軍は赤軍との戦闘を恐れ、続々と撤退して行きました。チェコ軍団も、祖国が独立を果たしたので撤退しました。

 チェコ軍団の撤退後、日本政府は出兵の範囲を「過激派」の影響が及ぶ「自衛上黙視難き」地域に限ると、国際的な声明を出しました。それは「帝国と一衣帯水」のウラジオストクと、「接攘地」の朝鮮、北満洲でした。欧米諸国と違って、日本はシベリアと隣接していたのです。

 日本軍が占領地域を縮小するに従って、反革命派は次々と勢力を失い、共産ゲリラが勢いを得ていきました。

 その過程で起きたのが、1920年3月から5月にかけての尼港事件でした。朝鮮人、中国人を含む共産ゲリラ4,300人がアムール川河口のニコラエフスクで、住民の半数、6千人を虐殺するとともに、女性子どもを含む日本人居留民、領事一家、日本軍守備隊700名以上がほぼ皆殺しにされました。

 日本世論は激昂し、このままでは撤兵もできない状況になりました。日本政府は、ロシアに責任ある政権が樹立され、尼港事件が解決されるまでの担保として北樺太を保障占領することを宣言しました。南樺太は、日露戦争後にすでに日本に割譲されています。


■7.「日本史の外交上最も失敗した外交」

 ウラジオストクに駐留していた日本軍は、ようやく1922年10月25日に撤退しました。赤軍の勢力が迫り、もはや駐留を継続しても意味はない、と判断されたからです。国内、およびアメリカ政府などからも、撤退に向けて大きな圧力がありました。

 同時に、同地に根を下ろしていた3386名の邦人も難民として引き揚げました。この際にロシア人の反革命軍将兵とその家族なども、報復を恐れて脱出が相次ぎ、合計9千人ほどが世界に散っていきました。後に神戸でチョコレート会社「モロゾフ」を創業したフョードル・モロゾフもこの中にいました。

 亡命できたロシア人はまだ幸運でした。新聞などの言論機関が統制され、反革命と判断され、あるいは日本軍への協力に携わった人々は、収容所に送られました。

 北サハリンからの撤兵は、ソ連との交渉で日ソ基本条約がようやくまとまった後の1925年5月15日となりました。交渉の結果、日本は北樺太の油田と炭田開発の権利を得ました。7年にも及ぶ出兵の代償としては、経済的にはあまりにも小さな成果でした。

 シベリア出兵は、当初の狙いであったウラジオストクの軍需物資をソビエト政権やドイツ軍に接収されることを防ぐ、という点では成功でした。しかし、その後、反革命政権を樹立するという後半の狙いについては失敗しました。

 日米英仏伊が反革命勢力を支援した背景には、各国がソビエト政権の本質を見破っていた事があったのではないか、と考えます。それはアメリカのウイルソン大統領やフランスのピジョン外相が指摘したように、暴力的に政権を奪った勢力でした。そして、ドイツに助けられて政権を奪うと、即座に連合国を裏切って、ドイツとの講和を結んでしまう狡猾さを持っていました。

 その暴力性、狡猾性は、その後のソ連の歩みにも見てとれます。狡猾性は、ソ連がナチスドイツと組んでポーランド分割を行い、第二次大戦を引き起こした事で再現されました。暴力性は、多くの国民を強制収容所などで虐殺した点に表れています。

『共産主義黒書』は共産主義による世界の犠牲者を1億人としています。シベリア出兵が反革命勢力の政権樹立に成功していれば、その惨劇を萌芽のうちに摘み取ることができた可能性がありました。シベリア出兵は「日本史の外交上最も失敗した外交」とも言われていますが[Wikipedia]、地球史から見ても手ひどい失敗でした。20世紀最大の惨劇を防げなかったのですから。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

・JOG(142) 大和心とポーランド魂
 20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した日本の恩をポーランド人は今も忘れない
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・麻田雅文『シベリア出兵 - 近代日本の忘れられた七年戦争』★★、中公新書、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121023935/japanontheg01-22/

・細谷千博『シベリア出兵の史的研究』★★、岩波現代文庫、H17
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4006001371/japanontheg01-22/

・Wikipedia contributors. "シベリア出兵." Wikipedia. Wikipedia, 5 Sep. 2021. Web. 18 Sep. 2021.

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