No.264 楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士
その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづけた。
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■1.正成一人いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば■
__________
鎌倉武士の近ごろの悪逆非道ぶりは、すでに天道のとがめを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りはてたのに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がございましょう。ただ天下統一の業が成功するには、武略と智謀とのふたつが必要です。・・・
勝敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必ずしもお気にかけられるには及びません。この正成(まさしげ)ひとりがまだ生きているとお聞きくださいましたら、帝の御運は必ず最後には開けるものとお考え下さい。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
元弘元(1331)年8月27日、再度の倒幕計画が漏れ、後醍醐帝は奈良北東山中の笠置寺に逃れられた。そこで夢の中に大きな常磐木の南に伸びた枝が勢いよく張って、玉座を守っているという夢を見られた。木に南と書けば、「楠」となる。「このあたりに楠と称する武士はおらぬか」とお尋ねになって、早速召し出されたのが、河内の国金剛山の西麓に領地を持つ楠木正成であった。
すぐに参上した正成が、天下統一のための策略について問われ、申し上げたのが冒頭の答えであった。最後の一節のみ太平記の原文で味わっておこう。
__________
正成一人(いちにん)いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば、聖運つひに開かるべしと、おぼしめ候らへ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
地方の一豪族からの天下の鎌倉幕府への大胆不敵な宣戦布告と言えよう。それから2年後の元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡を経て、5年後の延元元(1336)年5月の湊川での自刃まで、正成のこの言葉通りの獅子奮迅の戦いぶりは、武士の理想像として、その後の日本人の心に長く生き続けた。
■2.赤坂城の戦い■
笠置寺は幕府の京都数万の大軍に攻められ、後醍醐帝は幕府に捕らえられてしまった。正成は河内の領内に聳える赤坂山に城を構えて5百の兵とともに立て籠もって旗揚げしていたが、関東からはるばるやって来た数万の軍勢が残る赤坂城に迫った。
急拵えの赤坂城は堀も満足になく、わずか1,2町(1~2百m)四方にやぐらを2~30ほど建てただけの粗末なものだった。寄せ手は、せめて一日たりとも持ちこたえてくれれば、恩賞に預かれるものを、と願った。
寄せ手の侍千人ほどが崖をよじ登り、塀にとりついて乗り越えようとした所、塀が倒されて崖下に転げ落ち、さらに上から大木大石を投げられて、7百余人が討たれてしまった。塀は二重になっていて、外側は見せかけだったのである。
翌日は用心して残る塀に熊手を投げかけて破ろうとした所、上から長いひしゃくで熱湯をかけられ、2、3百人が負傷した。
寄せ手は攻めあぐんで、兵糧攻めに切り替えた。包囲が20日も過ぎると、正成は城内に大きな穴を掘り、先の戦いで塀の中で倒れた2、30の死体を中に入れて、10月21日の風雨の夜に城に火を放って、脱出した。
「城が落ちたぞ」と勝ちどきを上げて、城内になだれこんだ寄せ手は「なんと哀れなことだ。正成はとうとう自害して果てた。敵ながら弓矢とる武士として立派に死んだものだ」と褒め称えた。
■3.正成、再起■
こうして死んだと思われていた正成が突如、姿を現したのは、それから1年以上も経った元弘2年12月であった。すでに後醍醐天皇は隠岐に流され、側近たちの多くも死罪流罪に処せられていた。
そこに突如現れた正成は近隣の幕府方地頭を襲い、降伏した武士たちを自軍に従えた。さらに年が改まると、紀伊や河内和泉の幕府方所領を襲って、降伏するものはすべて麾下につけ、たちまちに2、3千騎の勢力に膨れあがった。正月19日には難波にまで進出して、幕府方5千の軍勢をさんざんに破った。
正成は謀略の面でも優れた才能を発揮した。近畿の交通の要所にはそれぞれ数名単位の山法師姿の部下を送り、聖徳太子の「未来記」には、「後醍醐帝が戻られて幕府が滅びる」と予言されている、と触れ回らせて、人心を動揺させた。
■4.天嶮・千剣破城■
正成の再起に、鎌倉方は動揺した。ほっておけば、幕府に不満を持つあちこちの輩が蜂起して、手に負えなくなるであろう。
そうなる前に正成を討たなければならない。幕府は5万の大軍団を正成討伐のために送り込んだ。
正成はかねて準備していた千剣破(ちはや)城に立て籠もる。
赤坂城からさらに10キロもの山奥にある金剛山の支峰であって、四方を50mから100mの深い断崖に囲まれた険阻な孤峰であった。周囲4キロばかりの頂上に、本丸、二の丸、三の丸、四の丸と階段状に何重もの砦が築かれていた。
食糧は十分貯え、空き地には野菜を作ってある。水は自然の湧水以外にも、大木をくりぬいた水槽を2、3百も作って、陣屋の雨樋から雨水を貯めこむ。籠城が何百日続こうと、水と食糧に関しては困らない用意が出来ていた。
■5.千剣破城の攻防■
このような奥まった所に、5万もの大軍が津波のように押し寄せ、周囲4キロにも足りぬ孤峰をぐるりと取り囲んで、千剣破谷を埋め尽くした。先手の一群が、まるで蟻の大群が砂山を登るように、びっしりと崖一面を埋め尽くして這い登り始めた。
しかし城中からは何の防戦もしてこない。やぐらに翻る楠木の菊水の紋がはっきり見える所まで近づいて、「よし、一番乗りじゃ」と言った所で、大岩数十個が土煙を上げて転がり落ちてきた。
わざと各所に登りやすそうな道筋を拵え、そこに大岩を貯めておいたのだから、たまらない。圧死し、あるいは負傷した者の数は6千人にも上ったという。寄せ手は警戒して、兵糧戦に出た。城内から必ず水を汲みに降りてくるだろうと、名越(なごや)越前守が手勢3千人で近くの谷川に陣を張って待ちかまえたが、一向その気配がない。3日経って気も緩んで寝込んでいる所を、早朝の濃霧に紛れて、正成の手勢が急襲した。
たちまち数百人の死傷者が出て、他のものは命からがら逃げ延びた。その後、城中のやぐらに名越の紋所を染めた旗が立って、「やよ、寄せ手の方々、これこそ名越殿より頂戴つかまつった旗でござる。名越家の方々、これへおいで候うて、お持ち帰り願いたい」と大音声で呼びかけて来た。
名越越前守は「たとえ一族全滅するともこの恥辱をそそがぬわけには参るまい」と、大将以下5千人がまたもや断崖を上り始めた。そこに今度は直径3尺(1m)もありそうな大木が何十本となく降ってきて、4、5百人が押しつぶされ、浮き足だったところを上から矢が降り注いで、大半が討ち取られてしまった。
■6.兵糧攻め、梯子攻め■
寄せ手は再び兵糧攻めの戦術に戻った。しかしいまだ4万もの大軍である。持参した米俵が次第に乏しくなってきて、河内の国のあちこちで現地調達をしようとしたが、売ってくれる者がいない。すでに正成によって買い占められていたのである。
やむなく、隣国の大和の国で糧食を調達して、千剣破まで運ぼうとすると、正成のあやつる山伏などに襲われる始末。かえって包囲している幕府方の方が、兵糧不足で苦しめられることとなった。
そこへ鎌倉の執権から急使が来て、「怠けておらず早々に城を攻め落とせ」という叱責の声が伝えられた。単なる力攻めでは犠牲を重ねるだけだ、何か良い戦術はないか、と軍(いくさ)評定をしていると、中国の戦史に出てくる雲梯(うんてい、雲のかけはし)を作って、直接山上に突入しようという案が出た。移動式の巨大な梯子(はしご)なら、どこに架けるか分からないので、敵も大石や大木を準備する時間がないはずである。
早速、京から5百人ばかりの工匠を呼び寄せ、幅1丈5尺(4.5m)、長さ20丈余(60m)もの大梯子を作らせた。それを何十本という太綱で吊り上げ、木車を使って、絶壁にかける。「それっ」と寄せ手が一気に駆け上がろうとした所を、城内から大きな水鉄砲で油を浴びせかけた。滑って転落するものが続出した。そこに城内から火矢が浴びせかけられて、雲梯はたちまち燃え上がって、寄せ手の勇士たちを炎で包んでしまった。
■7.各地で宮方の旗揚げ相継ぐ■
しかし、こうしていくら堅固な城に立て籠もっていても、いずれは大石・大木も無くなり、矢種も尽き、食糧も食べ尽くしてしまう。籠城戦には時間を稼ぐことで達成される戦略目的がなければならない。
正成は千剣破城で、じっと待っているものがあった。これだけの幕府の大軍が、千剣破城に集結している事で、日本の各地の防御は手薄になる。そこを狙って、後醍醐天皇に心を寄せるもの、幕府に恨みを持つものが立ち上がるに違いない、というのが、正成の籠城戦に出た読みであった。
幕府方の大軍が攻め寄せたのが2月22日だったが、その翌日、山陰地方の交通交易を握って隠然たる勢力を持つ名和一族が後醍醐帝を密かに隠岐の島から救出して、船上山に設けた行在所(あんざいしょ)にお迎えしたという急報が届いていた。
雲梯が燃え上がった数日後には、帝をいただいた東征軍が京への進軍を開始したという知らせが届いた。また播磨の国で宮方の命を受けた赤松則村の軍勢は、幕府軍を打ち破って、京都に迫った。四国では伊予の豪族・土居道増、得能通綱が兵を挙げて、瀬戸内海の航路を押さえた。こうして西国での宮方の旗揚げが続くと、千剣破城を包囲していた幕府軍にも動揺が広がった。
■8.鎌倉幕府滅亡■
この中で宮方の勝利に決定的な働きをしたのが、足利高氏であった。足利氏は代々、将軍家・北条氏と婚を通じ、幕府における最高の一族として遇せられていたが、源頼朝の系統が絶えて後はほとんど唯一の源氏の嫡流であり、代々天下を取ることを宿願としていた。
赤松の軍が京都に迫って、高氏は京の防衛を命ぜられたが、後醍醐天皇に使いを派遣して帰順を誓い、密書を各地の豪族に送って協力を求めた。そして赤松と連携して、京都六波羅の幕府の館を襲って、討ち滅ぼした。
六波羅陥落の報が届くと、千剣破城を包囲していた幕府軍は退却し、正成の軍はここに百日以上に及ぶ籠城から解放されて、今度は意気盛んに追撃戦に入った。
さらに関東では、これまた源氏の一族、新田義貞が兵を挙げて、鎌倉を襲った。これにより、鎌倉幕府150年、北条氏9代の権勢は滅び去った。
■9.正成の一途さ■
わずか千人程度の手勢で、幕府数万の大群を千剣破の山奥におびき寄せ、百日余にわたる籠城を成功させた正成は、まさに天才的な武将と言うべきであろう。
しかし、それよりも顕著なのは、時代の趨勢を見通す政治的見識であった。北条氏が元寇の際に示した無私な為政者としての姿勢を失い[a]、尊大にして富貴に驕(おご)り、その政治は腐敗して公正を失っていた。天下の人心は鎌倉幕府から離反して、政治の刷新を期待していた。正成はこの情勢を正確に見通していた。笠置寺に逃れられた後醍醐帝の召命に即座に応じ、帝が隠岐に流されて、倒幕の見込みもまったく失せたと思われた時にただ一人反抗の狼煙を上げたのも、この正確な情勢判断があったからであった。
しかし、正成がその後の日本人の心に長く生き続けたのは、その軍事的才能と政治的見識もさることながら、自らの名誉も富も顧みることなく、後醍醐帝に仕えた一途さにあった。
埋もるゝ身をばなげかずなべて世のくもるぞつらき今朝の初霜
とは、後醍醐帝が隠岐に流された時の御歌であろう。遠島に埋もれる御身よりも、世の曇りがつらいと、ひたすらに民を思う後醍醐帝の大御心に仕えまつることこそ、乱れた世を直し、民の安寧を実現する道と正成は信じたのであろう。
■10.七生報国■
後に、高氏が後醍醐帝に背き、九州に落ちた時、正成は高氏との和解を勧めた。源氏の頭領として、やがて高氏が権力を握るだろうとの、これまた正確な情勢判断だった。この献策が入れられず、京都に迫る高氏の軍を、正成は兵庫・湊川にて迎え撃つ。それは死を覚悟した戦いだった。
もし正成が名利を思ったら、この時に高氏について、室町幕府の大豪族として、栄華富貴は思うがままであったろう。しかし、正成の誠忠はそれを許さなかった。数万の高氏の軍と6時間余に渡る激戦を続けた後、正成は弟・正季と差し違えて自刃する。二人がからからと笑いながら交わした最後の会話は、次のような内容だった。
__________
七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対するもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)とこそ存じ候らへ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この七生報国の精神は、太平記に語り継がれ、遙か後代の吉田松陰や坂本龍馬など幕末志士、そしてさらには特攻隊員に受け継がれていく。正成の国を思うまごころは幾たびも日本人の心の中に生まれ変わってきたのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を 惜しまない鎌倉武士たちだった。
b. JOG(167) 国柄探訪: 三島由紀夫と七生報国
自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという三島の「狂気」 は緻密に計画され、周到に実行された。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 山崎正和訳、「太平記 上下」★★、河出書房新社、S63
2. 「太平記」全5巻、新潮日本古典集成、S63 (なお、小説版としては以下の2つをお勧めする)
3. 吉川英治、「私本太平記」全8巻★★★、吉川英治歴史時代文庫、 講談社、H2
4. 山岡荘八、「新太平記」全5巻★★★、山岡荘八歴史文庫、
講談社、S61
5. 植村清二、「楠木正成」★★、中公文庫、H1
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/■「楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士」について
今回のお話を読んで、真っ先に思い出したのが、以前この講座で読んだ栗林中将の話でした。それにしても、私など生まれてから平和な時代に育ったのでこのような状況は想像もつきません。死の恐怖をどうやって克服したのかとか、自分が同じ立場に立ったら小便ちびるだろうなと思いますね。
確か以前谷沢永一さんが本で書かれてましたが戦後なぜ誰も責任をとろうとしない、勇気のない社会になったのかその原因をこう分析されてました。
BC級戦犯として処刑された人の中には、自分は無実だがここで私が逃げると他の人に迷惑がかかるからと言って、処刑された人が沢山いるそうです。このような勇者を尊敬せず、唯の要領の悪い人間として切り捨ててきたつけが今の無責任社会となっているのではないだろうか?
楠木正成が最近あまり話題にならないのも、上記のような事が原因なのだろうかと考えてしまいますね。
(匿名希望さんより)
■ 編集長・伊勢雅臣より
過去の歴史を断罪しようとするあまり、過去の偉人たちの生き様まで否定したことが、今日の道徳崩壊につながっているのでしょう。歴史と道徳はつながっています。
■「楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士」について
前回の大楠公・楠木正成、正行の話は母がよくしていました。
青葉しげれる桜井の里のわたりの夕まぐれーー子供の頃よく歌ったものです。日本人の魂が歌われていると思います。日本弱体化政策ーー忠臣蔵も楠公さんも曽我兄弟も話されなくなって久しいですね。本年神戸ーー湊川神社、盛大まつりが行われました。
伝統が復活される事はうれしいです(商業主義はこまりますが)。拉致被害者をささえる故里のみなさんに日本の古き良き時代を再現してくださり、私達までこころやすらぎます。あのような日本をとりもだしたいです。
自衛隊での体験搭乗・体験乗艦の体験記をホームページに掲
指しました。
http://homepage3.nifty.com/47576-inaka/
美智子さんより
■ 編集長・伊勢雅臣より
私も、拉致被害者の故郷での様子を伝えるニュースに、心安
らぐ日本の故郷を思い出しました。
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■1.正成一人いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば■
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鎌倉武士の近ごろの悪逆非道ぶりは、すでに天道のとがめを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りはてたのに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がございましょう。ただ天下統一の業が成功するには、武略と智謀とのふたつが必要です。・・・
勝敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必ずしもお気にかけられるには及びません。この正成(まさしげ)ひとりがまだ生きているとお聞きくださいましたら、帝の御運は必ず最後には開けるものとお考え下さい。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
元弘元(1331)年8月27日、再度の倒幕計画が漏れ、後醍醐帝は奈良北東山中の笠置寺に逃れられた。そこで夢の中に大きな常磐木の南に伸びた枝が勢いよく張って、玉座を守っているという夢を見られた。木に南と書けば、「楠」となる。「このあたりに楠と称する武士はおらぬか」とお尋ねになって、早速召し出されたのが、河内の国金剛山の西麓に領地を持つ楠木正成であった。
すぐに参上した正成が、天下統一のための策略について問われ、申し上げたのが冒頭の答えであった。最後の一節のみ太平記の原文で味わっておこう。
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正成一人(いちにん)いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば、聖運つひに開かるべしと、おぼしめ候らへ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
地方の一豪族からの天下の鎌倉幕府への大胆不敵な宣戦布告と言えよう。それから2年後の元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡を経て、5年後の延元元(1336)年5月の湊川での自刃まで、正成のこの言葉通りの獅子奮迅の戦いぶりは、武士の理想像として、その後の日本人の心に長く生き続けた。
■2.赤坂城の戦い■
笠置寺は幕府の京都数万の大軍に攻められ、後醍醐帝は幕府に捕らえられてしまった。正成は河内の領内に聳える赤坂山に城を構えて5百の兵とともに立て籠もって旗揚げしていたが、関東からはるばるやって来た数万の軍勢が残る赤坂城に迫った。
急拵えの赤坂城は堀も満足になく、わずか1,2町(1~2百m)四方にやぐらを2~30ほど建てただけの粗末なものだった。寄せ手は、せめて一日たりとも持ちこたえてくれれば、恩賞に預かれるものを、と願った。
寄せ手の侍千人ほどが崖をよじ登り、塀にとりついて乗り越えようとした所、塀が倒されて崖下に転げ落ち、さらに上から大木大石を投げられて、7百余人が討たれてしまった。塀は二重になっていて、外側は見せかけだったのである。
翌日は用心して残る塀に熊手を投げかけて破ろうとした所、上から長いひしゃくで熱湯をかけられ、2、3百人が負傷した。
寄せ手は攻めあぐんで、兵糧攻めに切り替えた。包囲が20日も過ぎると、正成は城内に大きな穴を掘り、先の戦いで塀の中で倒れた2、30の死体を中に入れて、10月21日の風雨の夜に城に火を放って、脱出した。
「城が落ちたぞ」と勝ちどきを上げて、城内になだれこんだ寄せ手は「なんと哀れなことだ。正成はとうとう自害して果てた。敵ながら弓矢とる武士として立派に死んだものだ」と褒め称えた。
■3.正成、再起■
こうして死んだと思われていた正成が突如、姿を現したのは、それから1年以上も経った元弘2年12月であった。すでに後醍醐天皇は隠岐に流され、側近たちの多くも死罪流罪に処せられていた。
そこに突如現れた正成は近隣の幕府方地頭を襲い、降伏した武士たちを自軍に従えた。さらに年が改まると、紀伊や河内和泉の幕府方所領を襲って、降伏するものはすべて麾下につけ、たちまちに2、3千騎の勢力に膨れあがった。正月19日には難波にまで進出して、幕府方5千の軍勢をさんざんに破った。
正成は謀略の面でも優れた才能を発揮した。近畿の交通の要所にはそれぞれ数名単位の山法師姿の部下を送り、聖徳太子の「未来記」には、「後醍醐帝が戻られて幕府が滅びる」と予言されている、と触れ回らせて、人心を動揺させた。
■4.天嶮・千剣破城■
正成の再起に、鎌倉方は動揺した。ほっておけば、幕府に不満を持つあちこちの輩が蜂起して、手に負えなくなるであろう。
そうなる前に正成を討たなければならない。幕府は5万の大軍団を正成討伐のために送り込んだ。
正成はかねて準備していた千剣破(ちはや)城に立て籠もる。
赤坂城からさらに10キロもの山奥にある金剛山の支峰であって、四方を50mから100mの深い断崖に囲まれた険阻な孤峰であった。周囲4キロばかりの頂上に、本丸、二の丸、三の丸、四の丸と階段状に何重もの砦が築かれていた。
食糧は十分貯え、空き地には野菜を作ってある。水は自然の湧水以外にも、大木をくりぬいた水槽を2、3百も作って、陣屋の雨樋から雨水を貯めこむ。籠城が何百日続こうと、水と食糧に関しては困らない用意が出来ていた。
■5.千剣破城の攻防■
このような奥まった所に、5万もの大軍が津波のように押し寄せ、周囲4キロにも足りぬ孤峰をぐるりと取り囲んで、千剣破谷を埋め尽くした。先手の一群が、まるで蟻の大群が砂山を登るように、びっしりと崖一面を埋め尽くして這い登り始めた。
しかし城中からは何の防戦もしてこない。やぐらに翻る楠木の菊水の紋がはっきり見える所まで近づいて、「よし、一番乗りじゃ」と言った所で、大岩数十個が土煙を上げて転がり落ちてきた。
わざと各所に登りやすそうな道筋を拵え、そこに大岩を貯めておいたのだから、たまらない。圧死し、あるいは負傷した者の数は6千人にも上ったという。寄せ手は警戒して、兵糧戦に出た。城内から必ず水を汲みに降りてくるだろうと、名越(なごや)越前守が手勢3千人で近くの谷川に陣を張って待ちかまえたが、一向その気配がない。3日経って気も緩んで寝込んでいる所を、早朝の濃霧に紛れて、正成の手勢が急襲した。
たちまち数百人の死傷者が出て、他のものは命からがら逃げ延びた。その後、城中のやぐらに名越の紋所を染めた旗が立って、「やよ、寄せ手の方々、これこそ名越殿より頂戴つかまつった旗でござる。名越家の方々、これへおいで候うて、お持ち帰り願いたい」と大音声で呼びかけて来た。
名越越前守は「たとえ一族全滅するともこの恥辱をそそがぬわけには参るまい」と、大将以下5千人がまたもや断崖を上り始めた。そこに今度は直径3尺(1m)もありそうな大木が何十本となく降ってきて、4、5百人が押しつぶされ、浮き足だったところを上から矢が降り注いで、大半が討ち取られてしまった。
■6.兵糧攻め、梯子攻め■
寄せ手は再び兵糧攻めの戦術に戻った。しかしいまだ4万もの大軍である。持参した米俵が次第に乏しくなってきて、河内の国のあちこちで現地調達をしようとしたが、売ってくれる者がいない。すでに正成によって買い占められていたのである。
やむなく、隣国の大和の国で糧食を調達して、千剣破まで運ぼうとすると、正成のあやつる山伏などに襲われる始末。かえって包囲している幕府方の方が、兵糧不足で苦しめられることとなった。
そこへ鎌倉の執権から急使が来て、「怠けておらず早々に城を攻め落とせ」という叱責の声が伝えられた。単なる力攻めでは犠牲を重ねるだけだ、何か良い戦術はないか、と軍(いくさ)評定をしていると、中国の戦史に出てくる雲梯(うんてい、雲のかけはし)を作って、直接山上に突入しようという案が出た。移動式の巨大な梯子(はしご)なら、どこに架けるか分からないので、敵も大石や大木を準備する時間がないはずである。
早速、京から5百人ばかりの工匠を呼び寄せ、幅1丈5尺(4.5m)、長さ20丈余(60m)もの大梯子を作らせた。それを何十本という太綱で吊り上げ、木車を使って、絶壁にかける。「それっ」と寄せ手が一気に駆け上がろうとした所を、城内から大きな水鉄砲で油を浴びせかけた。滑って転落するものが続出した。そこに城内から火矢が浴びせかけられて、雲梯はたちまち燃え上がって、寄せ手の勇士たちを炎で包んでしまった。
■7.各地で宮方の旗揚げ相継ぐ■
しかし、こうしていくら堅固な城に立て籠もっていても、いずれは大石・大木も無くなり、矢種も尽き、食糧も食べ尽くしてしまう。籠城戦には時間を稼ぐことで達成される戦略目的がなければならない。
正成は千剣破城で、じっと待っているものがあった。これだけの幕府の大軍が、千剣破城に集結している事で、日本の各地の防御は手薄になる。そこを狙って、後醍醐天皇に心を寄せるもの、幕府に恨みを持つものが立ち上がるに違いない、というのが、正成の籠城戦に出た読みであった。
幕府方の大軍が攻め寄せたのが2月22日だったが、その翌日、山陰地方の交通交易を握って隠然たる勢力を持つ名和一族が後醍醐帝を密かに隠岐の島から救出して、船上山に設けた行在所(あんざいしょ)にお迎えしたという急報が届いていた。
雲梯が燃え上がった数日後には、帝をいただいた東征軍が京への進軍を開始したという知らせが届いた。また播磨の国で宮方の命を受けた赤松則村の軍勢は、幕府軍を打ち破って、京都に迫った。四国では伊予の豪族・土居道増、得能通綱が兵を挙げて、瀬戸内海の航路を押さえた。こうして西国での宮方の旗揚げが続くと、千剣破城を包囲していた幕府軍にも動揺が広がった。
■8.鎌倉幕府滅亡■
この中で宮方の勝利に決定的な働きをしたのが、足利高氏であった。足利氏は代々、将軍家・北条氏と婚を通じ、幕府における最高の一族として遇せられていたが、源頼朝の系統が絶えて後はほとんど唯一の源氏の嫡流であり、代々天下を取ることを宿願としていた。
赤松の軍が京都に迫って、高氏は京の防衛を命ぜられたが、後醍醐天皇に使いを派遣して帰順を誓い、密書を各地の豪族に送って協力を求めた。そして赤松と連携して、京都六波羅の幕府の館を襲って、討ち滅ぼした。
六波羅陥落の報が届くと、千剣破城を包囲していた幕府軍は退却し、正成の軍はここに百日以上に及ぶ籠城から解放されて、今度は意気盛んに追撃戦に入った。
さらに関東では、これまた源氏の一族、新田義貞が兵を挙げて、鎌倉を襲った。これにより、鎌倉幕府150年、北条氏9代の権勢は滅び去った。
■9.正成の一途さ■
わずか千人程度の手勢で、幕府数万の大群を千剣破の山奥におびき寄せ、百日余にわたる籠城を成功させた正成は、まさに天才的な武将と言うべきであろう。
しかし、それよりも顕著なのは、時代の趨勢を見通す政治的見識であった。北条氏が元寇の際に示した無私な為政者としての姿勢を失い[a]、尊大にして富貴に驕(おご)り、その政治は腐敗して公正を失っていた。天下の人心は鎌倉幕府から離反して、政治の刷新を期待していた。正成はこの情勢を正確に見通していた。笠置寺に逃れられた後醍醐帝の召命に即座に応じ、帝が隠岐に流されて、倒幕の見込みもまったく失せたと思われた時にただ一人反抗の狼煙を上げたのも、この正確な情勢判断があったからであった。
しかし、正成がその後の日本人の心に長く生き続けたのは、その軍事的才能と政治的見識もさることながら、自らの名誉も富も顧みることなく、後醍醐帝に仕えた一途さにあった。
埋もるゝ身をばなげかずなべて世のくもるぞつらき今朝の初霜
とは、後醍醐帝が隠岐に流された時の御歌であろう。遠島に埋もれる御身よりも、世の曇りがつらいと、ひたすらに民を思う後醍醐帝の大御心に仕えまつることこそ、乱れた世を直し、民の安寧を実現する道と正成は信じたのであろう。
■10.七生報国■
後に、高氏が後醍醐帝に背き、九州に落ちた時、正成は高氏との和解を勧めた。源氏の頭領として、やがて高氏が権力を握るだろうとの、これまた正確な情勢判断だった。この献策が入れられず、京都に迫る高氏の軍を、正成は兵庫・湊川にて迎え撃つ。それは死を覚悟した戦いだった。
もし正成が名利を思ったら、この時に高氏について、室町幕府の大豪族として、栄華富貴は思うがままであったろう。しかし、正成の誠忠はそれを許さなかった。数万の高氏の軍と6時間余に渡る激戦を続けた後、正成は弟・正季と差し違えて自刃する。二人がからからと笑いながら交わした最後の会話は、次のような内容だった。
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七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対するもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)とこそ存じ候らへ
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この七生報国の精神は、太平記に語り継がれ、遙か後代の吉田松陰や坂本龍馬など幕末志士、そしてさらには特攻隊員に受け継がれていく。正成の国を思うまごころは幾たびも日本人の心の中に生まれ変わってきたのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を 惜しまない鎌倉武士たちだった。
b. JOG(167) 国柄探訪: 三島由紀夫と七生報国
自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという三島の「狂気」 は緻密に計画され、周到に実行された。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 山崎正和訳、「太平記 上下」★★、河出書房新社、S63
2. 「太平記」全5巻、新潮日本古典集成、S63 (なお、小説版としては以下の2つをお勧めする)
3. 吉川英治、「私本太平記」全8巻★★★、吉川英治歴史時代文庫、 講談社、H2
4. 山岡荘八、「新太平記」全5巻★★★、山岡荘八歴史文庫、
講談社、S61
5. 植村清二、「楠木正成」★★、中公文庫、H1
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/■「楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士」について
今回のお話を読んで、真っ先に思い出したのが、以前この講座で読んだ栗林中将の話でした。それにしても、私など生まれてから平和な時代に育ったのでこのような状況は想像もつきません。死の恐怖をどうやって克服したのかとか、自分が同じ立場に立ったら小便ちびるだろうなと思いますね。
確か以前谷沢永一さんが本で書かれてましたが戦後なぜ誰も責任をとろうとしない、勇気のない社会になったのかその原因をこう分析されてました。
BC級戦犯として処刑された人の中には、自分は無実だがここで私が逃げると他の人に迷惑がかかるからと言って、処刑された人が沢山いるそうです。このような勇者を尊敬せず、唯の要領の悪い人間として切り捨ててきたつけが今の無責任社会となっているのではないだろうか?
楠木正成が最近あまり話題にならないのも、上記のような事が原因なのだろうかと考えてしまいますね。
(匿名希望さんより)
■ 編集長・伊勢雅臣より
過去の歴史を断罪しようとするあまり、過去の偉人たちの生き様まで否定したことが、今日の道徳崩壊につながっているのでしょう。歴史と道徳はつながっています。
■「楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士」について
前回の大楠公・楠木正成、正行の話は母がよくしていました。
青葉しげれる桜井の里のわたりの夕まぐれーー子供の頃よく歌ったものです。日本人の魂が歌われていると思います。日本弱体化政策ーー忠臣蔵も楠公さんも曽我兄弟も話されなくなって久しいですね。本年神戸ーー湊川神社、盛大まつりが行われました。
伝統が復活される事はうれしいです(商業主義はこまりますが)。拉致被害者をささえる故里のみなさんに日本の古き良き時代を再現してくださり、私達までこころやすらぎます。あのような日本をとりもだしたいです。
自衛隊での体験搭乗・体験乗艦の体験記をホームページに掲
指しました。
http://homepage3.nifty.com/47576-inaka/
美智子さんより
■ 編集長・伊勢雅臣より
私も、拉致被害者の故郷での様子を伝えるニュースに、心安
らぐ日本の故郷を思い出しました。
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