No.1282 聖徳太子は仏教の言葉で日本古来の理想を語った


 日本人の持つ平等感、自然との一体感、子孫への思いやりは、太子が残した日本の「根っこ」。

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■1.聖徳太子は仏教の言葉で日本古来の思想を語った

「当時権力をにぎっていた蘇我氏や聖徳太子が、新しい政治体制をつくろうとする中で仏教の受容を進めた」というのが、山川出版社の『中学歴史 日本と世界』(R4発行)の記述です。

 これはこれで間違いではありませんが、国際日本文化研究センター名誉教授・梅原猛氏の3500枚もの大作『聖徳太子』を読むと、歴史の表面をさっと撫でただけの皮相な説明であると感じられます。梅原教授は結論として、こう言っています。

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太子は、まさに政治家としてと同時に、思想家として、千年も二千年もの後にも通用する理想を示したが、ここには、明らかに中国やインドとちがった独自の日本的思想が示されているのである。[梅原、18,998]
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 日本仏教も太子によって、「中国やインドとちがった独自」のものになりました。卑近な例を挙げれば、今日の日本仏教は葬式や先祖崇拝に結びつけられていますが、これは日本独自の展開のようです。太子は推古14(606)年に「勝鬘経(しょうまんきょう)」の講読を推古天皇以下を相手に行いますが、この行事は父・用明帝などの霊の供養も兼ねていたようです。

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実際、日本人は古くから先祖供養をもっとも大事な宗教儀式としてきた。太子はこの先祖供養の儀式と仏教を結びつけたのである。かくて仏教は日本に定着し、現在まで日本人は仏教によって、主に祖先の供養と死者の葬儀を行っているのである。[梅原、18,990]
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 太子は「仏教の受容」をしたというより、仏教の言葉を使って、日本古来の思想を語った、と言った方が良さそうです。そして、先祖供養に限らず、太子が語られた「日本的思想」は様々な面で今日の我々の「根っこ」になっているのです。


■2.『三教義疏』は太子の著作か?

 聖徳太子は推古12(604)年に冠位十二階の制定、翌年に憲法十七条の公布、15(607)年には小野妹子らの隋への派遣と、内政外交にわたって活躍した後、17(609)年頃からは勝鬘経、維摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)の注釈書を書きます。三つの経の注釈書(義疏)ということで、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と総称されます。

 そしてその後、『天皇記』『国記』『本記』という、現存はしませんが、後の『古事記』『日本書紀』の原型となる歴史書をまとめます。

 朝廷における人材登用のための冠位十二階、国家運営のための十七条憲法、人心教化のための『三教義疏』、そして国家の成り立ちを描いた歴史書と、まさに「太子以前と太子以後の日本は別の日本になったのである」と梅原教授が述べるように、我が国の骨格を造ったのでした。

 もちろん、こういう偉人を認めない歴史家は多くいます。その代表格が津田左右吉(そうきち)です。『古事記』『日本書紀』も、十七条憲法も後世の偽作とする津田は、当然、『三教義疏』も太子の著作とは認めません。その津田の主張に対して、梅原教授は徹底的な批判を加えます。

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あれほど津田は『三経義疏』を太子著作にあらずと断定的にいいながら、『三経義疏』の内容にほとんどふれていないことである。私には、津田はほとんど『三経義疏』を読んでいないように思われる。[梅原、8,896]
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 津田の論拠は、太子のような実務にたずさわる政治家が、あのような煩瑣な思弁的な著作をする、というのは疑わしい、という、何ら史実に基づかない感覚的なものが中心のようですが、梅原教授はそれを「凡人史観」と呼び、史実をもって論破していきます。


■3.当時の中国随一の高僧に対して堂々の論陣を張った著作

 まず、『法華義疏』は草稿が残っています。そこにはところどころ、紙を貼って訂正されたりしています。また日本語の順に字を書いてしまい、後に漢文の語順とは違うことに気がついて、「レ」点をつけて改めたところなどがあり、日本人の手になるものであることは明らかとされています。

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 さらに仏教の専門家なら決して間違わない誤字がいくつか見つかっています。「小乗」を「少乗」、「舎利弗」を「舎利佛」と書くなど、字の誤りだけではなく、「かなり決定的な仏教教義理解の未熟さ」[梅原、8,753]が指摘されています。

 それにもかかわらず、『三経義疏』には大胆な、鋭い見解が述べられています。経典の原文に関して、参考にした中国の注釈書の解釈を批判し、はっきり「私はこう思う」と述べています。それは学問好きな素人の余技というレベルではありませんでした。

『三教義疏』はさかんに書写されて、奈良朝の代表的な学僧・智光(ちこう)の著書には、『三教義疏』が数十回にわたって引用されています。また、遣唐使によって『勝鬘』『法華』の義疏が中国に持ち込まれ、後に中国の学僧・明空によって、太子の義疏の注釈書が作られています[梅原、8,089]。

 仏教学者・花山信勝氏が岩波文庫版『法華義疏』で、以下のような趣旨の解説をされています。[梅原、9,203]

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 本書は仏教および漢文上の初歩的過ちの数々を含みながらも、当時の中国随一の高僧の注釈に少しも屈せず、堂々の論陣を張って「一大乗仏教の真髄」を発揮している、実に珍らしい著作である。「日出ずる処の天子」として大国・隋の皇帝に堂々たる対等の書を送ったと伝えられている人の作としてまことにふさわしい。
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■4.すべての日本人をすくいとるような統一的国家の建設を目ざしていた

 花山氏は上記の解説で「一大乗仏教の真髄」と評していますが、この「一大乗」という名称自体が太子の造語のようです。そして、そこに太子の日本的思想が現れています。もともと中国の高僧の注釈書では「大乗」と言っていましたが、それを太子は「一大乗」と言い換えたのです。[梅原、11,659]

 そもそも「大乗」とは、ひとり山野に籠もって悟りの境地を開こうとする僧の姿勢を「小乗(小さな乗り物)」と批判したもので、現実世界に苦しむ衆生を救う「大きな乗り物」という意味です。しかし、小乗を否定する大乗では、まだそこに分派対立があります。

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太子はすべての日本人を除外せず、すべての日本人をすくいとるような統一的国家の建設を目ざしていたのである。[梅原、12,011]
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「一大乗」の「一」には、「平等」という理想が込められています。すべての人間には仏性があり、平等に救われるべきもの、と太子は考えます。

 憲法十七条の第十条には「共に是(こ)れ凡夫のみ」という一句があります。「自分も他者も共に迷いの多い凡夫であって、自分は正しい、相手が誤っているなどと思い上がってはならない」との平等な自覚から、互いに助け合って向上を目指すべき、とされているのです。


■5.平等実現に失敗したインド仏教、成功した日本仏教

 インドに生まれた仏教にも、平等の理想がありました。カースト制による厳しい階級差別の中で、釈迦は平等な社会を理想としたようですし、アショカ王が仏教によってインドを統一しようとした際にも、カースト制の打破までいかなくとも、緩和しようという考えはあったに違いないと、梅原教授は語ります。

 しかし、インドのカースト制は根強く、逆に仏教をインドから追い払ってしまったのでした。

 日本にも氏姓(しせい)制という一種の階級差別がありましたが、太子は一大乗仏教と冠位十二階、十七条憲法によって、それを打破しました。奈良時代には柿本「朝臣(あそん)」人麻呂とか、山上「連(むらじ)」憶良などと、階級を示す「姓」をつけていたのが、平安時代には菅原道真などと、姓をつけずに呼ばれるようになりました。

 これは太子が秦「造(みやつこ)」河勝のように低い姓の人間を、冠位十二階で上から二番目の位に登用したことが影響しています。

 太子が「一大乗仏教」として、国民全てを平等に救おうと目指された理想が鎌倉仏教に受け継がれて、法然が浄土宗で、教義の勉強も修行も不要で、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われると教え、あるいはその弟子・親鸞が「自分が悪人だと目覚めた者こそ救われる」と説いた説につながりました。親鸞は太子を「和国の教主聖徳王」と讃仰しています。

 今日でも、日本社会の国民相互の平等感は世界でも群を抜いていますが、その精神は太子が仏教の言葉を使って説いた処から流れ出ているのです。


■6.人間ばかりではなく、動物や植物にも仏性がある

 太子の平等精神は、人間だけでなく、すべての動植物、自然にも及びます。

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 すべての人間には仏性があり、それらはすべて平等に救われるのであると考えるのである。あるいは仏性はたんに人間ばかりではなく、動物や植物にもあると考えられるのである。[梅原、12,074]
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 動植物にも「仏性」がある、と考えるのは、縄文以来の「すべては神の分け命」という生命観が基盤にあるからでしょう。この原初的生命観が太子を通じて最澄に伝わり、「山川草木悉皆成仏」という天台本覚論につながります。[JOG(1278)]

「すべては神の分け命」とはアニミズム(精霊信仰)と呼ばれ、世界の多くの原始部族が共有していた生命観ですが、農耕や牧畜など、人間が自然を管理支配する「文明」が始まると、次第に失われていきました。それが近代化した先進国の中で色濃く残っているというのが、我が国の特徴です。

 たとえば、食事の前に「いただきます」と食材の「いのち」をいただくことに感謝し、また食べ物を捨てることを「もったいない」として罪悪感を感じます。「もったいない」とは「物体(もったい)」、すなわち、物のあるべき姿を実現できず、申し訳ない、ということです。

 お米を育てて、ご飯に調理した以上、残さず食べて、そのいのちを自分の体内で生かすことこそ、お米の本来の姿と考えるのです。こうしたアニミズム的な感覚が、なぜ現代の日本にも豊かに残っているのか。それは縄文以来の「すべては神の分け命」という生命観を、太子が仏教の言葉で表現し、それが最澄やその後継者たちの布教を通じて、継承されたからではないでしょうか。


■7.先祖供養が生む教育重視

 冒頭で、太子が先祖供養を仏教に結びつけた、という梅原教授の指摘をご紹介しました。民俗学者・柳田国男は、各地に残る民話から、我が国では祖先の霊が山の高みから我々を見守ってくれていると信じられてきた事を明らかにしました。

 世界の多くの原始部族は、こうした祖霊信仰を持っていましたが、近代化した国家で祖霊信仰を持ち続けている点にも、我が国らしさがあります。

 我々を立派に育ててくれた先祖が我々を見守ってくれているなら、現世の我々も子孫のためにできる限りのことをしようという気持ちになります。そして、まずはしっかりした教育を施して、立派な人生を歩ませようと考えるでしょう。

 逆に、先祖が自分たちを見捨ててさっさと極楽浄土に行ってしまう、と信じていたら、見捨てられた現世代も自分の成仏しか考えず、子孫のことなど、どうでも良くなってしまいます。

「もともと太子の仏教観そのものが化(け)を重視する仏教観であった」[梅原、10,993]と梅原教授は指摘します。「化」とは「教化」、すなわち教育によって、当人をより立派な人間に成長させることです。「人、尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教うれば之(これ)に従う」とは、憲法第二条で述べている太子の教育観です。

 教育重視とは、我が国の古来からの「根っこ」です。江戸時代の就学率は世界でも群を抜いていましたし、明治維新後、すぐに公布された学制により、全国での大々的な学校造りを始めました。

 この子孫への思いやりという「根っこ」も、太子が古来からの祖霊信仰を仏教に結びつけて、お盆のたびに先祖の霊をお迎えするという行事によって、我々の心中に深く根ざすようになったのではないでしょうか。


■8.「大悲(だいひ)息(や)むことなく」

 こうして考えると、現在の我が国に根強く残っている自然観や生命観は、縄文以来の祖霊信仰や精霊信仰を太子が仏教の言葉で明確に表現されたところから、太く深く我々の心中に根を張ったものと考えられます。もし太子がいなかったら、我々は言葉で明確に表現されずにいた精霊信仰、祖霊信仰を忘れて、インド式仏教や、中国式儒教に席巻されていたことでしょう。

 神道を基盤に仏教も儒教も共存しているのが、日本の強みで、このかたちを始めたのが、聖徳太子でした。太子は『維摩経義疏』にこう書きました。

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 国家の事業を煩(わずらい)と為す。ただ大悲(だいひ)息(や)むことなく、志(こころざし)益物(やくもつ)を存す。
(国や家の事業は煩わしいが、しかし人々や生きとし生けるものへのあわれみの心〈大悲〉が息むことなく、それらを益することを志している)[拙訳]
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 太子の「大悲」は、今も我々を益してくれているのです。
(文責 伊勢雅臣)


■おたより


■聖徳太子の「行き方」は日本の「行き方」を作っている(Naokiさん)

聖徳太子の「すごさ」「すばらしさ」を分かりやすく教えていただき感謝いたします。日本古来の理想・日本らしさを「仏教の言葉」に置き換え、語っていただいたからこそ、今の日本があるのだと感じました。

聖徳太子の「行き方」は日本の「行き方」を作っていると気付きました。日本の「行き方」とは、外来の良いモノは取り入れるが、そこに必ず「日本化」するカスタマイズの一手が入り、オリジナルよりも良いモノにするという行き方です。

このように考えると、日本らしさとは?日本古来の理想とは?という問いと自分の言葉で答えを語れる力が全日本人にとって重要なのだと思いました。自然を大切にする心はSDGsのはるか前から日本にはありましたし、先祖崇拝は生き物としての人間にとっては民族に関係なく大切な思想です。日本の良さを知り、生徒たちに伝えていきます。

■伊勢雅臣より

 > 聖徳太子の「行き方」は日本の「行き方」を作っていると気付きました

 とは、名言です。外来の文化を学びながらも、自分に合うように改変する、そこに日本人のオリジナリティがありますね。それは学習しつつ、進化する力です。

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■リンク■

・JOG(1123)「和の国」日本の礎(いしずえ)~聖徳太子の十七条憲法
 国内の動乱で現れた人間性の醜さを、太子は凝視した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201907article_3.html

・JOG(1278) 最澄の仏教再生~日本人の生命観に根ざした日本人のための仏教へ
 最澄は日本人の自然観、人間観に根ざして、インド仏教を日本人のための仏教に再生した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/490208024.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・梅原猛『梅原猛著作集2 聖徳太子 下』★★、小学館(Kindle版)、H15
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