No.1296 聖徳太子が築いた日本の骨格
現代の日本の国家的危機は、聖徳太子が築いた骨格を崩しているところから生じている。
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■1.聖徳太子が直面した国家的危機
12月1日に公開した日本志塾 第18号「聖徳太子が築いた日本の骨格」では、太子が当時の国家的危機に対応すべく国家体制、教育、外交の三つの分野で築いた骨格が、現在までの日本を支えてきたことをお話ししました。本号はそのお話の続編です。
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まず、当時の危機とは、以下のようなものでした。
(1)豪族間の争いによる国内の混乱
当時の日本は国家と言っても、豪族の連合国家でした。その中で天皇家の力が衰え、蘇我氏や物部氏などの有力豪族が権勢を伸ばし、互いに勢力争いをしていました。それにより国政が非常に乱れました。
(2)仏教導入か、否かの対立
大陸の先進文明として仏教を受容すべきか、それとも古来の神ながらの道(神道)を守り続けるべきか、との論争が、豪族どうしの争いに拍車をかけました。
(3)東アジアの動乱
国外では、隋が大陸を統一し、高句麗に大軍を送り込みます。同時に、新羅が半島統一を狙って、任那や百済に攻め込みます。隋と新羅の連合は、日本にも脅威を与えていました。
■2.「公民国家」の理想
これらの3つの国家的危機に聖徳太子は立ち向かっていきます。
まず、豪族間の争いを止めるべく、国家体制を豪族の連合国家から、「公民国家」へと大転換させます。それまで豪族達が私有していた土地も人民も、すべて国家のものとする、ということです。
坂本太郎・東大名誉教授は、太子の描いた公民国家の構想を次のように説明しています。
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第一に、国家は君と臣と民との三つの身分で構成される。おのおのがその分を守って国家のために尽くす時、国家は永久に栄えるということである。
君は天皇、臣は朝廷に仕える役人、そして民は一般の人々だ。・・・ 天皇は、臣や民とはかけはなれた高い地位にあるが、礼を重んじ、信を尊び、賢い人を役人にして、民の生活を安定させねばならぬ。
臣は、君の命をうけて、私(わたくし)をすて、公(おおやけ)に向かい、公平な政治を行わなければならぬ。民は、臣の導きによって、おのおのの職分につとめねばならぬ。[坂本]
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臣を政府、民を国民と考えれば、天皇を国家・国民統合の中心として、政府が国民のために政治を行う、という国家体制です。その後の貴族政治のみならず、幕府政治、明治以降の政府でも、この基本形は継承されています。
今も国務大臣など政府の上層部は天皇陛下による認証式が行われます。国会議員にも、国会開会式において天皇がお言葉を述べます。ここには天皇が国民の安寧を祈られる大御心を体して政治を行うべし、という理想が込められています。
■3.「大御宝を鎮むべし」を追求するための「公民国家」
17条憲法は、公民国家を治める臣たちの持つべき心構えが示されています。たとえば、第12条では次のように述べられています。
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十二にいう。国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやつこ)は百姓から税をむさぼってはならぬ。国に二人の君はなく、民に二人の主はない。国土のうちのすべての人々は、皆王(天皇)を主としている。仕える役人は皆王の臣である。どうして公のこと以外に、百姓からむさぼりとってよいであろうか。[宇治谷]
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豪族が私領民に勝手に課税したり使役したりすることは、もはや許されません。民はすべて「公民」であり、国司も国造も、その公民の統治を天皇から委任された「天皇の臣」なのです。
ここで「国土のうちのすべての人々」は、原文では「卒土(くにのうち)の兆民(おほみたから)」と記されています。また「百姓」も「おほみたから」と訓じられています。
初代・神武天皇は即位に際し「元元(おほみたから)を鎮(しず)むべし」と宣言しました。民は国家の大切な「大御宝」であり、その安寧を実現することが、わが国の建国目的でした。聖徳太子はその目的を追求して、豪族連合国家を公民国家に脱皮させたのです。
「大御宝を鎮むべし」との初代神武天皇の建国宣言は、126代の今上陛下にも受け継がれています。たとえば本年の新年のメッセージでは、コロナの被害者への心配を述べられ、さらに昨年の台風や大雨の被害者、そして東日本大震災の被災者に対しても、次のように心を寄せられています。
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(東日本大震災で被害を受けた)多くの方々が、困難な状況の中で今なお苦労を重ねておられることを案じています。
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日本国憲法は第1条で「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と述べています。それは単に制度の上で天皇を戴くことだけでなく、大御宝の安寧を祈る天皇の大御心を、どう現実の政治で実現するのか。こう自問しながら、具体的な政策を考えるのが、日本の政治家の責務なのです。
「大御宝の安寧」のための政策提案もなく、政府の揚げ足とりばかりの一部野党、与党でも票目当ての人気とり政策に走る一部の議員、こうした政治家はこの根本を見失っています。現代政治の混乱はここから来ています。
■4.「公民」を育てるための教育
第二の仏教の受容に関しては、仏教か神道か、という二者択一ではなく、神道の土壌の上に仏教を移し替える、という天才的なアプローチをとられました。
たとえば、今日、多くの葬式は仏式で行われます。これも太子が始められたとされています。太子は、推古14(606)年に推古天皇に「勝鬘経」の講読をしましたが、これは父・用明帝などの霊の供養も兼ねていました。ここから、仏教と先祖供養が結びつきました。梅原猛・国際日本文化研究センター名誉教授はこう指摘されています。
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実際、日本人は古くから先祖供養をもっとも大事な宗教儀式としてきた。太子はこの先祖供養の儀式と仏教を結びつけたのである。かくて仏教は日本に定着し、現在まで日本人は仏教によって、主に祖先の供養と死者の葬儀を行っているのである。[梅原]
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先祖供養を仏教によって行うようになったことで、神道の祖霊信仰が現代まで継承されました。もともとの大陸の仏教では、人間の魂は極楽か地獄に行ってしまいます。こういう死生観では、先祖から自分を通って子孫に繋がる「縦糸」の意識は薄れてしまいます。
「先祖が草場の陰で私たちを見守ってくれている」という日本人の死生観によって、先祖に感謝し、自分も子孫のために頑張らねば、という使命感を抱きます。自分の出費を抑えても、子供の教育にお金を使う、というのが、日本人の強みの一つですが、それは太子が仏教を変容させ、日本仏教を通じて祖霊信仰を日本人の心の中に活かし続けたからです。
このような縦糸の意識は健全な家庭で維持継承されるものです。家庭の中でこそ子供たちは歴史伝統の縦糸、家族や地域、社会の横糸の中に自分を位置づけ、その中で処を得るよう、成長していきます。これが国を支える「公民」を育てる道です。
子供の権利や人権ばかり主張する今日のリベラリズムは、こうした縦糸、横糸を忘れさせ、根無し草の人間を育てています。現在の教育の混迷は、ここから来ています。
■5.中華帝国主義を否定し、独立対等外交へ
第三の東アジアの動乱に対しても、太子は天才的な外交路線を始めます。中華帝国が自らを天下の中心とし、周囲の蛮族を従えるという「冊封体制」、今日の言葉で言えば「中華帝国主義」を排して、主権国家としての独立対等路線を始めたのです。
隋は西暦581年に、およそ300年ぶりに大陸を統一しましたが、598年には高句麗に大軍を送ります。高句麗は今日の北朝鮮から南満洲を占めていた国家でした。高句麗が隋に攻められているのをこれ幸いと、朝鮮半島東部を占めていた新羅は、日本の属領であった南端の任那や、南西部の百済を攻めます。
隋-新羅同盟に対抗して、聖徳太子は高句麗-百済-日本の三国同盟を組みますが、日本の遠征軍は渡海目前での将軍の病死により、応援を果たせませんでした。この失敗から、聖徳太子は「新羅を討つに兵を用いず」として、外交による新羅の封じ込めに転じます。
推古天皇15(607)年、太子は小野妹子を隋に派遣し、皇帝あての国書を送ります。これが「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という有名な国書です。
この国書がいかに画期的だったかは、同時期に高句麗の嬰陽(えいよう)王が、隋の大軍を撃退した後に隋皇帝に送った国書と比べるとよく分かります。王は戦争に勝ったのに、国書では「遼東糞土の臣(糞尿にまみれた遼東の地を治めさせていただいている臣下)」とまで、へりくだっているのです。
これに比べれば、太子の国書はまったく対等の、しかも親しみを込めた挨拶です。隋の煬帝は、妹子との会見の後、激怒して「このような無礼な書は二度と自分には見せるな」と臣下に命じました。煬帝が怒ったのは、「天子」「皇帝」とは世界に自分一人しかいないという中華思想のゆえです。
太子は高句麗随一の仏僧恵慈を側近としていましたから、こうした随皇帝の反応は織り込み済みだったでしょう。そのうえで、高句麗との戦いで精一杯の隋には、さらに日本を敵に回す余力はない、と正確に国際情勢を読んでいました。
果たして太子の読み通り、煬帝は怒りを抑え、翌年の小野妹子の帰国に際し、特使・裴世清以下12名の使節団を同行させました。使節団は煬帝からの、こんな国書を持参しました。
「皇帝から倭皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で「皇(天皇)は海の彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活は融和し、深い至誠の心あり」。なにやら日本に阿(おも)っているような文面です。
隋の使節団は新羅を驚愕させました。もし、隋が日本と組んだら、新羅はひとたまりもありません。慌てて、日本にご機嫌取りの使節を送って来ました。
その後も隋の高句麗侵略は続きましたが、太子の封じ込め策によって新羅は動けなくなり、高句麗は後顧の憂いなく対隋戦に集中できました。結局、大軍を3度も北朝鮮まで送るという無理がたたって、隋は618年に滅亡してしまいます。高句麗は心のこもったお礼の使節を日本に送りました。
■6.太子の「バランス・オブ・パワーに基づいた独立対等外交路線」に戻るべき時
太子の対等独立外交路線は、その後の江戸時代までの日本の対中外交の基本となりました。白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮征伐を除けば、民間による交易が中心で、中華帝国との直接のやりとりはほとんどありませんでした。
平安時代にはもう中国から学ぶべきものはないと遣唐使を廃止して、ほとんど国交断絶状態となり、その後は和歌や物語などの平安文学が栄えました。江戸時代も琉球王国を擬制の仲介国として、対明・清貿易はしましたが、正式な国交はなく、国内は長い平和と繁栄の時代が続きました。
太子の外交戦略は、今日の言葉で言えば、主権国家どうしの対等友好外交です。その友好の背景には、バランス・オブ・パワーに基づく平和維持がありました。その枠組みの中で、新羅のような「ならず者国家」の野望を封じ込めたのです。
当時の東アジア情勢は、今日とよく似ています。中国が伝統的な中華帝国主義に戻り、そのお膝元で北朝鮮という「ならず者国家」が大手を振るって、ミサイルを撃ちまくっています。
このような国際的危機を招いたのは、今までの日本の外交姿勢に問題があったからです。「日中友好」のかけ声のもと、そして中国に植え付けられた贖罪意識に誘導され、日本は対中ODAと企業の対中進出によって中国を経済大国に育ててしまいました。その経済力を使って、中国は軍事大国としてのしあがりました。
太子が遺した「バランス・オブ・パワーを基盤とした独立対等外交」路線を忘れたことが、現在の国家的危機を招いたのです。
■7.日本の骨格が崩れ始めたことから、国家的危機が再来している
以上、太子が遺した日本の骨格として、以下の3点を論じました。
・「大御宝を鎮むべし」という国家目的を追求する公民国家
・家庭を基盤として縦糸、横糸の中で子供を育てる公民教育
・バランス・オブ・パワーを基盤とする独立対等外交
これらの骨格が崩れてきているところから、現代日本の国家的危機が再来しています。危機の克服のためには、日本の本来の骨格を再構築し、そこから頑健な体力を取り戻す、というアプローチが必要です。太子の事跡を学ぶ歴史教育とは、そのためにあるのです。
(文責 伊勢雅臣)
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■リンク■
・JOG(1282) 聖徳太子は仏教の言葉で日本古来の理想を語った
日本人の持つ平等感、自然との一体感、子孫への思いやりは、太子が残した日本の「根っこ」。
http://jog-memo.seesaa.net/article/491050158.html
・JOG(1248) 聖徳太子の和の祈り
聖徳太子の肉声に耳を傾ければ、家庭、職場、国を元気づけるための体験的な智恵が聞こえてくる。
http://jog-memo.seesaa.net/article/202112article_4.html
・JOG(1123) 「和の国」日本の礎(いしずえ)~ 聖徳太子の十七条憲法
国内の動乱で現れた人間性の醜さを、太子は凝視した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201907article_3.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・宇治谷孟『日本書紀(下)全現代語訳』★★、講談社学術文庫、S63
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・梅原猛『聖徳太子 1~4』★★★、小学館
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・坂本太郎『日本の歴史文庫2 国家の誕生』★★★、講談社、S50
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