No.1298 「空の神兵」と呼ばれた男たち ~ 落下傘部隊によるパレンバン油田確保


 パレンバン油田確保によって、日本はその後、3年半も戦い続けることができ、インドネシア独立のための準備期間を稼げた。

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No.399 頼朝が生んだ幕府体制の叡智
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No.311 聖徳太子の大戦略
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■1.潜在的敵国にエネルギーを依存する戦略的失敗

 9月27日、ロシアからドイツへ天然ガスを供給している北海・海底パイプライン、ノルドストリームで3カ所のガス漏れが起きました。このパイプラインは、ロシアがウクライナ軍事侵攻の後に供給量を大幅に削減し、8月末には完全に停止していたので、残っていたガスが漏れた程度で、大きな事故には到りませんでした。

 同日、デンマークのフレデリクセン首相は会見を開き「当局は、これは事故ではなく、意図的な行為だと明確に判断している。誰が背後にいるのかを示す情報はまだない」と述べました。有力な憶測としては、ロシアが対露強硬姿勢に傾いたドイツに対する威嚇として行ったという見方が出ています。

 このノルドストリーム建設は、以前から米国が反対していました。ロシアへのエネルギー依存が高まるからです。それを無視してきたドイツの弱みが、今回のロシアとの対立で浮き彫りになりました。ドイツは大慌てで、省エネや代替調達先の確保に奔走しています。潜在的敵国にエネルギーを依存することは、重大な戦略的失敗なのです。

 しかし、わが日本も大東亜戦争前に、ドイツと同様の戦略的失敗をしていました。


■2.日本の息の根をとめる石油禁輸

 開戦直前の日本は石油の約9割をアメリカやオランダ領東インド(現在のインドネシア)からの輸入に頼っていました。開戦の4ヶ月前、1941年8月にはアメリカのルーズベルト大統領は対日石油禁輸の措置をとりました。対日石油禁輸にはオランダも追随しています。

 当時、スターク米海軍作戦部長は大統領から対日石油禁輸について意見を求められ、「禁輸は日本のマレー、蘭印(インドネシア)、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちに米国を戦争に巻き込む結果になろう」との意見を提出していました[中村、p573]。石油禁輸とは、一国の経済と生活の息の根を止める措置なのです。

 開戦直前の日本の石油備蓄量は770万トンと、年間消費量500万トンの1年半程度しかありませんでした。これに軍艦、飛行機、戦車などで石油を大量に消費する戦争が始まれば、1年程度で底をついてしまいます。スターク部長の予見通り、日本はアメリカに全面屈服して禁輸を解除して貰うか、油田のあるインドネシアなどに進攻するしか道はなかったのでした。

 しかし、そこで日本陸軍はまさに神業(かみわざ)を行います。開戦のわずか2ヶ月後にインドネシアのパレンバン油田を落下傘部隊によって占領し、その能力3百万トンを短期間のうちに6百万トンに拡充して、3年半も戦い続けることを可能にしたのです。


■3.俄(にわか)仕立ての挺進第二連隊

 昭和17(1942)年1月31日、次の命令が下されました。

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 第一挺進団は、パレンバン飛行場を占領し、・・・なし得れば敵の破壊に先立ちパレンバン製油所を占領確保する。[奥本、p23]
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 パレンバン飛行場は英軍の拠点シンガポールから約500キロ南方、スマトラ島南部にあり、日本軍の進攻から逃れた英軍航空主力約200機が退避していました。シンガポール攻略を成功させるためにも、後方拠点であるパレンバン飛行場を占領することが第一目標でした。そしてあわよくば、同地にある製油所を確保して石油を手に入れたい、と考えていたのです。

「挺進団」とは落下傘部隊のことです。第二次大戦初期のドイツ軍空挺部隊の活躍に刺激され、日本陸軍は秘密裏に挺進団の育成を始めました。多摩川畔の読売遊園の落下傘塔で着地訓練を行い、実際の飛行機からの降下に初めて成功したのは、わずか1年前の昭和16(1941)年2月でした。

 開戦直後の12月13日、第一挺進団の挺進第一連隊は南方戦線に向かうべく門司港を出帆しましたが、海南島沖で敵潜水艦に攻撃されたのか、火災を起こして沈没し、救出された挺進団は装備も失い、とうてい作戦などできる状態ではありませんでした。

 代わって、急遽、1月4日に編成されたのが、挺進第二連隊でした。後に中心的な活躍をする第4中隊第3小隊長の奥本實中尉がこの連隊に配属されたのが、2ヶ月足らず前。落下傘塔での着地訓練と、実際の飛行機からの落下傘降下は最低限の3回ほどしかできませんでした。

 当時、ドイツのみならず、アメリカもソ連も、前線にいち早く兵士を送り込める空挺作戦を行いましたが、兵士の犠牲が多すぎて、各国は断念せざるを得ませんでした。落下傘降下の間、地上から狙い撃ちにされ、しかも反撃もできないのですから、犠牲が多いのも当然です。しかし日本陸軍はこのにわか仕立ての挺進第二連隊で、パレンバン飛行場占領と製油所確保という神業に成功するのです。


■4.「本日ノ給養ハ靖国神社ニオイテス 奥本」

 挺進第二連隊は1月15日、門司港を出発し、31日、ベトナムのカムラン湾に到着。そこから列車でマレー半島南部のスンゲイパタニ飛行場に行き、猛暑のなか、落下傘降下後の地上戦闘訓練を続けました。紀元節の2月11日には、陸軍部隊の一部がシンガポール市街に突入し、攻略を目前としていました。

 この日、第二連隊は祭壇にパラシュートを積み、「必ず開けよ!」と開傘祈願祭を行いました。落下傘が開かなければ、降下兵はそのまま地上に激突して死んでしまいます。まだ、日本陸軍としても初降下に成功して1年しか経っていませんから、装備品の技術も未成熟、訓練も不十分、悪く言えば、神頼みのところもあったのでしょう。

 奥本中尉は日の丸に青インクで「本日ノ給養ハ靖国神社ニオイテス 奥本」と大書し、分隊長らにも寄せ書きをさせ、自分の首に巻いて降下することとしました。給養とは給与と休養のことであり、今回返上した分は、戦死の後に靖国神社で受領する、というまさに決死の覚悟でした。しかし隊員たちの士気は燃え上がっていました。
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輸送機の関係上、兵二名を残置すべく命じたるも、兵は容(い)れず。喧嘩腰にて作戦参加を望み、死を共にせんことを誓い来り泣く。[奥本、p44]
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■5.パレンバン飛行場近くのジャングルに降下

 昭和17(1942)年2月14日午前9時、挺進隊員を乗せた輸送機が次々と飛び立ちます。あわせて、兵器などを収めた物料箱を投下する輸送機、護衛のための隼戦闘機隊など、合計88機の大編隊がマレー半島を南下していきました。

 編隊はマラッカ海峡を越え、スマトラ島の東岸に沿って南下します。途中で敵ハリケーン戦闘機隊が襲ってきましたが、隼戦闘機隊が交戦し、数機を撃墜しました。やがてパレンバン飛行場に近づくと、17門ほどの敵の高射砲が火を噴いています。その中を輸送機は高度3百メートルの低空飛行で飛びます。

 午前11時26分。奥本中尉を先頭に次々と降下していきます。その間隔は0.5秒。間隔が空くと、互いに離ればなれになって、地上に降下してから集合に時間がかかるからです。あまりにも低空飛行なので、地上までの降下時間はわずか4~50秒しかありません。

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 敵弾の炸裂した爆風で、大きな傘がフワ、フワ、と傾く。
 白い傘布にブスブス弾丸が貫いて穴が多数明いたが、幸運にも絹の傘布は裂けなかった。全員無事に降下し終わった。むろんジャングルの中へ。・・・

 バシャッ!ポキポキポキーン!バシャッ! 木枝が折れ、ひっかかり、脚がなお地につかない。私は枝にひっかかった傘を、ブランコにして振動をとり、傘の帯の懸吊器を外してやっと地に脚が着いた。ジャングルの中だ。1メートル前方が見えない。
「おーい!」と隣兵を呼ぶも、全然声や反応がない。全くの一個人とは……。孤独だ。[奥本、p67]
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■6.奥本中尉の涙

 こんな状態から始まった、総勢約340名の落下傘部隊が英蘭軍約1200名を駆逐して、パレンバン飛行場と製油所を占領した手に汗握る、しかも奇跡的な活躍は、奥本中尉の手記をベースにした『空の神兵と呼ばれた男たち ― インドネシア・パレンバン落下傘部隊の奇跡』を読むことをお勧めします。特に、手記が漫画化もされていて、登場人物たちの思いがよく伝わってきます。

 ここでは印象的なラストシーンのみ、引用しておきましょう。翌2月15日のことです。午前10時、ジャワ方向から双発の飛行機が一機、飛んできて、飛行場の上を旋回し始めました。友軍機だと分かると、みな飛行場に出て、日章旗を振りました。

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 まもなくこの機は、滑走路に着陸して来た。その機の窓から、飛行集団の川元浩参謀(陸士四十三期、鹿児島県)が跳び下りてきた。参謀懸章が遠方からでもハッキリ見える。
 川元参謀は下りてきて、手当たり次第、一兵一兵毎に握手して、参謀自ら兵に敬礼している。兵の労苦をねぎらっているのである。そして白い手袋の手には紙が握られている。南方軍総司令官、寺内寿一大将よりの部隊感状を携行して来たのである。・・・

 われら降下隊員は、ここで始めて後方の友軍と血が通ったのだ、という嬉しさで、私でさえポロポロと涙を流した。[奥本、p125]
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■7.「おおっ、神の兵だ!」「ジョヨヨボ伝説どおりだっ!!」

 この後、さらに友軍機が飛来して、挺身第二連隊隊で当初の降下に参加できなかった96名が、あえて士気を高めるために落下傘で降下しました。これを見たインドネシアの人々が「おおっ、神の兵だ!」「ジョヨヨボ伝説どおりだっ!!」「しかも、わしらと同じ肌の色と顔をしとる!」と叫びました。

 ジョヨヨボ伝説とは、12世紀頃、東ジャワのジョヨヨボ王が古代インドの予言を訳させたもので、その書は現在もジャワ本島のソロ王宮に保管されているそうです。その中身は次のようなものです。

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 どこからか現れる白い水牛の人に長期に支配されるであろう。彼等は魔法の枚を持ち離れた距離から人を殺すことができる。
 北の方から黄色い人が攻めてきて白い人を追い出し代わって支配するが、それはトウモロコシー回限りの短い期間である。[奥本、p207]
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 奥本中尉がパレンバンの市街地に入ると、欧米人はすでに逃げ去っていました。残っているインドネシア人たちは日本人によく似て、しかも日本軍に対する好意に満ちて、協力的でした。中尉がトラックに乗って街中を走っていると、交差点のいたるところで住民に停められました。

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住民は、ガソリンスタンドからホースを引いてきて、私の車に「ガソリンを入れよ」と言う。そしてオランダ人や店舗を指さし、ポンポンと射撃の真似をする。「ガソリンをどしどしサービスするから、オランダ人をやっつけてくれ」というのである。二~三個所でそんな場面に出会ったものである。[奥本、p134]
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■8.空の神兵

 パレンバンの石油に関しては、後日談があります。3月1日、今村均中将は約4万の兵を率いて、ジャワに上陸、わずか9日間の戦闘で、10万のオランダ・イギリス軍を降伏させました。これは現地人の絶大な協力の賜です。

 たとえば、敵軍は退却時に、舗装道路の両側や中央線に植えられたタマリンドという高い木を切り倒して、日本軍の前進を阻みました。そこに多数の現地人が現れて、木を取り除くのを助けてくれました。休憩時には椰子の実までふるまってくれたのです。

 今村の軍政方針は、自身が起案した「戦陣訓」の「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能(よ)く無辜(むこ、罪のない)の住民を愛護すべし」に則ったものでした。

 それに応えて、敵が破壊した石油精製施設の復旧に、民衆は全力を挙げて協力してくれました。今村は石油価格をオランダ時代の半額とし、民衆は石油が安く使えると喜びました。[JOG(045)]

 オランダ時代のパレンバン製油所は年間3百万トンの石油を生産していましたが、日本の優秀な技術者たちによる増産改造が行われ、約6百万トンの生産が可能となりました。

 これほどの大量の石油を手に入れた陸軍は、その物流体制を考えておらず相当、慌てたようです。現地の軍隊は、急遽、南方の各地区に石油公社のような特殊会社を作り、約二千五百人規模での供給をする計画を陸軍省に要求しました。

 ここで登場したのが、中国本土などでの石油供給事業で実績を認められていた出光佐三です。出光佐三は、この事業を約二百名で行えると回答し、7月には社員を南方に派遣、軍属として供給業務に従事させ、パレンバン地区で生産される石油を各戦場や日本本土へ供給したのです。

 この石油供給によって、日本はその後3年半も戦い続けることができました。その間にインドネシアでは今村中将以下による軍政でスカルノなどの独立運動家の解放、多くの方言の統一、教育制度の確立、軍人や自治のための人材育成を進めることができました。[JOG(046)]

 こうした基盤によって、インドネシアは戦後、再植民地化しようとやってきたオランダ軍と戦って、自らの力で独立を果たせたのです。そこでは、1~2千人と言われる日本兵たちが敗戦後も現地に留まり、インドネシア軍に身をおいて、独立戦争を助けました。[JOG(036)]

 どうやらインドネシアの神々は、350年間もオランダの奴隷状態にあったインドネシアの人々を解放しようと、日本の神々に相談し、その結果、奥本中尉などの落下傘降下部隊、今村中将以下の陸軍将兵、出光佐三以下の出光興産社員など、善き志を持った日本人が選抜して送り込まれたようです。とすれば、その先陣を務めた落下傘部隊は、やはり「空の神兵」なのです。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

・JOG(895) アバダンの日章旗(下) ~ 出光「日章丸」の帰還
 イギリスの圧力をものともせずにイラン石油を持ち帰った出光は、日本国民を奮い立たせた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201504article_3.html

・JOG(894) アバダンの日章旗(上) ~ 出光「日章丸」、イランへ
 欧米石油資本の包囲を脱すべく、出光佐三は世界最大級のタンカー「日章丸」をイランに向かわせた。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201504article_1.html

・JOG(036) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
http://jog-memo.seesaa.net/article/494943813.html

・JOG(045) 「責任の人」今村均将軍(上)
http://jog-memo.seesaa.net/article/494943870.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・奥本實『空の神兵と呼ばれた男たち ― インドネシア・パレンバン落下傘部隊の奇跡』★★★、ハート出版、R03
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・中村粲『大東亜戦争への道』★★、展転社、H2
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