No.0200 暗き夜を照らしたまひし后ありて
ライ救済事業に尽くした人々の陰に、患者たちの
苦しみを共に泣く貞明皇后の支えがあった。
H13.07.29----34,862 Copies----289,348 Homepage View
■1.ハンセン病訴訟決着■
熊本地裁は、5月11日、ハンセン病の元患者らの訴えを認
め、らい予防法を放置して患者を隔離し続けた国に損害賠償を
命じた。そして小泉首相の決断で控訴が見送られた。
ハンセン病は感染力がきわめて弱く、戦後は医薬品が進歩し
通院で完治するようになったため、判決によれば、遅くとも昭
和35年以降は患者を隔離する必要がなかったが、らい予防法
に基づく隔離政策が続けられた。法律の廃止が遅れた理由は
「実質的に療養所の出入りを自由にしたが、世間の目が厳しく
完治しても退所できる人は少ない。法律があるから対策費を増
やせるという事情もあった」という。[1]
聖書や仏典にも記述のある古代からの難病の解決がまた一歩
進んだ事を喜びたい。これを機に、この病苦に侵された人々を
救うために、わが国で今まで救済事業に尽くされた人々の努力
の跡を偲んでみたい。
■2.今の世で一番悲惨で気の毒なは、、、■
明治33年5月、皇太子(大正天皇)妃として入内(じゅだ
い)された節子(さだこ)妃(後の貞明皇后)に、美子(はるこ)
皇后(明治天皇お后、後に昭憲皇太后)は次のように語られた。
今の世で一番悲惨で気の毒なは、ライを病む者ではない
かと私は思います。この人たちを中国では天刑病と言うら
しいが、彼の者らにだけ刑罰をくだすような無慈悲を天が
なさろうはずがない。けど肉親までが忌み嫌い、家から放
り出し捨てられ、社会からもまだ見捨てられています。病
む身でありながら住む家もない流離(さすらい)の身では、
その日の糧を乞うて乞食になり果てるより仕方ないでしょ
う。・・・
幼いころに物見の台から都大路小路をよう眺めました。
施薬院の前に行列を作り、うずくまっていた者の哀れな姿
が忘れられません。その多くはライ病患者であったと聞い
て、よけい忘れられんようになりました。手足がくさり落
ち、いざり歩かねば仕方ない。はては目も見えぬ。息をす
るのも苦しいという、不治の病苦だけでも、並大抵でない。
私は入内前、后さんになることは、あの人らの苦しみを軽
うしてあげられるのやないかと、浅はかな娘ごころで嬉し
う思いましたんやが。
施薬院とは、天平(西暦729~749)の昔、貧苦病苦に悩む人々
を救うために、光明皇后が設けられた施設である。99人の乞
食の垢を皇后自らのお手で洗われ、百人目に全身くずれ血膿だ
らけのライ者があらわれると、皇后はその者も丹念に洗った上
で、血膿を唇で吸って病苦をのぞかれたと言い伝えられている。
この光明皇后の再来の如くに、節子妃は春子皇后の御言葉を
聞いて以来の50余年、救ライ事業に御心を注がれた。
■3.患者達の和歌に■
大正4年11月、大正天皇のご即位とともに皇后となられた
節子妃は、光田健輔(みつだけんすけ)を引見された。
光田は多摩のライ療養所、全生病院の院長として、ライ患者
の収容・治療と、治療法研究に打ち込んでいた。明治30年に
開かれた第一回国際ライ会議では、ライは伝染病で、患者を隔
離する以外に伝染を食い止める以外に方法はないと結論が出て
いた。ヨーロッパのライ学者からは、日本人はライ病者を路上
に捨てると言われており、国家として恥ずかしいことだが、そ
う言われても仕方のない現状だった。欧米のキリスト教伝道師
たちが、療養所を作り始めていたが、光田は国家的事業として
ライ患者を収容・治療することが必要だと考えていた。
光田を後押しする渋沢栄一男爵に連れられ、二人は宮城の門
をくぐった。節子皇后はそれまでに何度も女官名で金一封を全
生病院に送られていた。
ありがとう。よう来てくれました。かねてから私は、こ
の世でライを病む者ほど気の毒な人々はおらぬと思ってお
ります。聞くところによると光田は、ライ患者の治療を終
生の仕事として貢献してくれているとか、ありがたく尊い
ことと、私からもお礼を言います。
皇后の慈愛の御言葉に、光田の涙はとまらなかった。渋沢は
全生病院の患者達の和歌を清書したつづりをお見せした。皇后
は自らそれを詠み上げられ、周囲の女官達にもお聞かせになっ
た。
萎え果てし右手に結びしフォークも今は飯(いひ)食(
は)むに重荷となりし
つひにつひに母の臨終にも会えざりき初秋の空蒼き遠きふ
るさと
・・・
詠み終えられた皇后の閉じられた目から涙がこぼれ落ちた。
■4.険しい道でありましょうが■
光田から妻子がいることをお聞きになると、皇后はこう言わ
れた。
とかく世の中は上つらだけを見ます。皮膚に潰瘍ができ
手足が不自由になって目も見えんようになる、そのつらさ
を思いやるより先に毛嫌いし、根強い偏見を持ってみる。
その人々を治療してくれる得難い医者でありましょうが、
子供たちが心ないいじめにあうということはありませんか。
長男喜太郎が小学校に上がるようになると、ライ病院の子と
爪弾きにされ、いじめられて泣いて帰るのが、光田の悩みだっ
た。父の仕事を誇りを持って自覚させようとしても、小学校1、
2年の幼さでは無理なことだった。
どうか険しい道でありましょうが、これからも積極的に
救ライの仕事を進めてください。
という皇后陛下の御言葉とともに、金一封とお菓子をいただ
いて退出した。
光田は患者達と相談して、その金一封で茶の挿し木を買い求
めて、病院内に植えてまわった。院内ではお茶にも不自由して
いたのである。「毎日、見に来る楽しみができた」「受け持ち
を決めて水をやらにゃあ」。いっとき病苦も忘れた患者達の明
るい声が弾んだ。
光田が皇后陛下から金一封を賜ったことが新聞に出た途端に、
学校ではぴたりといじめがなくなった。
■5.もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海に■
昭和5年9月30日、瀬戸内海の小島、長島に国立ライ療養
所「長島愛生園」が完成した。光田の長年の活動が国会を動か
して予算を獲得させ、また反対する地元民を熱い意気込みで説
得した末の成果だった。
ルネッサンス様式の本館は、藍色の海に良く映えた。色がわ
らの病舎が緑の中に見え隠れしている。全生病院から移った患
者81名は、もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海を
涙ながらに見つめた。
長島愛生園の開設が新聞で伝えられると、全国から入園希望
が殺到し、開園4ヶ月で、400名の定員は軽く突破してしま
った。岡山まで来た女性患者が、愛生園は満員だと聞き、絶望
の余り川に身を投げて自殺するという事件まで起きた。光田は
募金を集めて、木材を買い、技術を持つ患者たちの手で10坪
住宅を作るという構想を実行に移した。
昭和の御代となり、皇太后となられていた節子妃は、国立療
養所の計画を聞かれてから、10年もの間、内廷費をきりつめ
て貯められた100万円もの金額を、朝鮮、台湾を含む全国の
療養所に寄付された。この事が、今までライに無関心であった
人々を目覚めさせた。宮内庁職員たちの寄付による千代田寮
(6棟)、神戸女学院生徒らによる神女寮(1棟)、など、数
年のうちに千人以上の患者が収容できるようになった。
皇太后の下賜されたうちの10万円を基金として、ライ予防
協会が設立され、渋沢栄一が会頭に就任した。初事業は親がラ
イで入院して難儀している子供たち400人を収容する施設を
作ることで、喜ばれた皇太后は向こう10年間毎年1万円づつ
贈られることとした。
皇太后のお誕生日6月25日は「恵みの日」と定められ、毎
年その前後一週間をライ予防週間とすることが決まった。
■6.めぐみの鐘■
長島の頂上にある光が丘には、東本願寺から贈られた鐘楼が
建立された。その鐘には、皇太后の次のお歌が刻まれた。
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
皇太后がお住まいの青山東御所の一角で、かえでの小生えが
群生しているのを見つけられた。かえでは皇太后に最初に救ラ
イ事業の大切さを説いた昭憲皇太后のおしるしである。皇太后
は女官達とともに、かえでの苗を育て、夏は青葉の陰に憩い、
秋はもみじを楽しむようにと、全国の療養所に2百本ほどの単
位で贈ることを始められた。その時に一緒に贈られたのが、こ
のお歌である。
皇太后のお歌を刻んだ鐘は、「めぐみの鐘」と呼ばれ、朝夕
に鳴り響いて時を告げた。患者として愛生園に住んだ歌人・明
石海人は次のような歌を遺している。
唱和する癩者一千島山に恵みの鐘は鳴りいでにけり
そのかみの悲田施薬のおん后いま在ますかと仰ぐかしこさ
みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生まれてわれ悔
ゆるなし
■7.プロミンの効果は間違いないのか■
戦争中にアメリカでプロミンというライ治療薬が開発された
という情報を得て、光田は戦後まもなくの昭和21年から試用
を開始した。歴史始まって以来、不治の病とされていた業病だ
ったが、膿を出していた体が3ヶ月から6ヶ月できれいな皮膚
に変わった。
昭和22年、昭和天皇が岡山県にご巡幸された時に、光田は
ライについて、20分間のご進講をした。皇太后からのお話が
あったのだろう、陛下は「50年間も、よく救ライ事業に尽く
してくれました」と語りかけられた。生物学者である陛下は、
ライ菌に関して詳しくお尋ねになり、「プロミンの効果は間違
いないのか」と聞かれた。
只今、懸命に試用を繰り返しております。10年は見守
る必要があると存じますが、この治療が進みましたならば、
不治とされたライが全治し、患者が消滅する日も遠くない、
前途は明るいと信じます。
光田が、最後に皇太后の長年に渡る数知れぬ恩賜が、社会の
ライ者への意識を変えることにつながりました、とお礼を申し
上げると、陛下はうなづかれて言われた。「プロミンが早く皆
に行き渡るといいね」
■8.暗き夜を照らしたまひし后ありて■
昭和26年5月17日、皇太后が68歳で崩御された。ご大
喪の儀には、ご生前から救ライ事業に御心をかけれていたご縁
で、全国の療養所長が特に参列を許された。入内に際して、昭
憲皇太后から救ライのお志をお聞きになってから、はや51年
の歳月が流れていた。
ご追号の貞明皇后は、「日月の道は貞(ただ)しくして明ら
かなり」という古典からとられた。日月の如く「聡明仁恵にし
て用を省き治ライに資し幽明の天地に光明をあたえたまえり」
と説明されていた。
昭和天皇は母皇后の御遺志をしのばせられて、そのご遺金す
べてを救ライ予防協会に下賜されることとした。政府はこのご
遺金を核にして「貞明皇后記念救ライ事業募金の運動」を創設
することにした。戦後の激しいインフレで、手の届かなくなっ
ていた患者や遺族、未感染児童の擁護を目的としていた。
その年の11月3日、光田は皇居で文化勲章を授与された。
36年前、貞明皇后に初めて拝謁した日のことがありありと思
い出された。
患者や私たちと共に泣いてくださる皇后様のお姿を支え
に、自分はここまで来ることが出来たのだ。そのご仁慈が
国中の人々を啓蒙し、それが施設の充実になっていったの
だ。そのお陰があってこその、今日の晴れがましい栄誉で
はないか。その皇太后様はもうこの世にましまさぬ。
天皇陛下ご臨席のもと、授章式が執り行われ、陛下お招きの
昼食会を終えて退出すると、光田はその足で貞明皇后が鎮まり
います多摩御陵に向かった。
暗き夜を照らしたまひし后(きさき)ありてライ絶ゆるこ
とも聞くべくなりぬ(千葉修)
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(142) 大和心とポーランド魂
b. JOG(120)「心を寄せる」ということ
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「【主張】ハンセン病訴訟 判決を機に偏見なくそう」、
産経新聞、H13.05.12、東京朝刊、2頁
2. 出雲井晶、「天の声」★★★★、展転社、H4
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「暗き夜を照らしたまひし后ありて」について
鈴木京子さんより
200号おめでとうございます。そして今回もまたすばらし
い内容の記事をよませていただき、思わず涙ぐみました。この
ようなことを知っている人は少ないと思うのですが、こういう
ことを知るというのは、大切なことだと思います。
皇室の方々の人間としての思いやりや、やさしさを(それこ
そが人間としての高貴さだと私は思いますが)知ることで、国
の母としての皇后様に憧れ、慕うという自然な心を持ちたいと
私は思います。
■ 編集長・伊勢雅臣より
足かけ4年近くで、200号を達成できました。読者の皆さん
からお祝いと励ましのメールをいただき、ありがとうございま
した。
© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
苦しみを共に泣く貞明皇后の支えがあった。
H13.07.29----34,862 Copies----289,348 Homepage View
■1.ハンセン病訴訟決着■
熊本地裁は、5月11日、ハンセン病の元患者らの訴えを認
め、らい予防法を放置して患者を隔離し続けた国に損害賠償を
命じた。そして小泉首相の決断で控訴が見送られた。
ハンセン病は感染力がきわめて弱く、戦後は医薬品が進歩し
通院で完治するようになったため、判決によれば、遅くとも昭
和35年以降は患者を隔離する必要がなかったが、らい予防法
に基づく隔離政策が続けられた。法律の廃止が遅れた理由は
「実質的に療養所の出入りを自由にしたが、世間の目が厳しく
完治しても退所できる人は少ない。法律があるから対策費を増
やせるという事情もあった」という。[1]
聖書や仏典にも記述のある古代からの難病の解決がまた一歩
進んだ事を喜びたい。これを機に、この病苦に侵された人々を
救うために、わが国で今まで救済事業に尽くされた人々の努力
の跡を偲んでみたい。
■2.今の世で一番悲惨で気の毒なは、、、■
明治33年5月、皇太子(大正天皇)妃として入内(じゅだ
い)された節子(さだこ)妃(後の貞明皇后)に、美子(はるこ)
皇后(明治天皇お后、後に昭憲皇太后)は次のように語られた。
今の世で一番悲惨で気の毒なは、ライを病む者ではない
かと私は思います。この人たちを中国では天刑病と言うら
しいが、彼の者らにだけ刑罰をくだすような無慈悲を天が
なさろうはずがない。けど肉親までが忌み嫌い、家から放
り出し捨てられ、社会からもまだ見捨てられています。病
む身でありながら住む家もない流離(さすらい)の身では、
その日の糧を乞うて乞食になり果てるより仕方ないでしょ
う。・・・
幼いころに物見の台から都大路小路をよう眺めました。
施薬院の前に行列を作り、うずくまっていた者の哀れな姿
が忘れられません。その多くはライ病患者であったと聞い
て、よけい忘れられんようになりました。手足がくさり落
ち、いざり歩かねば仕方ない。はては目も見えぬ。息をす
るのも苦しいという、不治の病苦だけでも、並大抵でない。
私は入内前、后さんになることは、あの人らの苦しみを軽
うしてあげられるのやないかと、浅はかな娘ごころで嬉し
う思いましたんやが。
施薬院とは、天平(西暦729~749)の昔、貧苦病苦に悩む人々
を救うために、光明皇后が設けられた施設である。99人の乞
食の垢を皇后自らのお手で洗われ、百人目に全身くずれ血膿だ
らけのライ者があらわれると、皇后はその者も丹念に洗った上
で、血膿を唇で吸って病苦をのぞかれたと言い伝えられている。
この光明皇后の再来の如くに、節子妃は春子皇后の御言葉を
聞いて以来の50余年、救ライ事業に御心を注がれた。
■3.患者達の和歌に■
大正4年11月、大正天皇のご即位とともに皇后となられた
節子妃は、光田健輔(みつだけんすけ)を引見された。
光田は多摩のライ療養所、全生病院の院長として、ライ患者
の収容・治療と、治療法研究に打ち込んでいた。明治30年に
開かれた第一回国際ライ会議では、ライは伝染病で、患者を隔
離する以外に伝染を食い止める以外に方法はないと結論が出て
いた。ヨーロッパのライ学者からは、日本人はライ病者を路上
に捨てると言われており、国家として恥ずかしいことだが、そ
う言われても仕方のない現状だった。欧米のキリスト教伝道師
たちが、療養所を作り始めていたが、光田は国家的事業として
ライ患者を収容・治療することが必要だと考えていた。
光田を後押しする渋沢栄一男爵に連れられ、二人は宮城の門
をくぐった。節子皇后はそれまでに何度も女官名で金一封を全
生病院に送られていた。
ありがとう。よう来てくれました。かねてから私は、こ
の世でライを病む者ほど気の毒な人々はおらぬと思ってお
ります。聞くところによると光田は、ライ患者の治療を終
生の仕事として貢献してくれているとか、ありがたく尊い
ことと、私からもお礼を言います。
皇后の慈愛の御言葉に、光田の涙はとまらなかった。渋沢は
全生病院の患者達の和歌を清書したつづりをお見せした。皇后
は自らそれを詠み上げられ、周囲の女官達にもお聞かせになっ
た。
萎え果てし右手に結びしフォークも今は飯(いひ)食(
は)むに重荷となりし
つひにつひに母の臨終にも会えざりき初秋の空蒼き遠きふ
るさと
・・・
詠み終えられた皇后の閉じられた目から涙がこぼれ落ちた。
■4.険しい道でありましょうが■
光田から妻子がいることをお聞きになると、皇后はこう言わ
れた。
とかく世の中は上つらだけを見ます。皮膚に潰瘍ができ
手足が不自由になって目も見えんようになる、そのつらさ
を思いやるより先に毛嫌いし、根強い偏見を持ってみる。
その人々を治療してくれる得難い医者でありましょうが、
子供たちが心ないいじめにあうということはありませんか。
長男喜太郎が小学校に上がるようになると、ライ病院の子と
爪弾きにされ、いじめられて泣いて帰るのが、光田の悩みだっ
た。父の仕事を誇りを持って自覚させようとしても、小学校1、
2年の幼さでは無理なことだった。
どうか険しい道でありましょうが、これからも積極的に
救ライの仕事を進めてください。
という皇后陛下の御言葉とともに、金一封とお菓子をいただ
いて退出した。
光田は患者達と相談して、その金一封で茶の挿し木を買い求
めて、病院内に植えてまわった。院内ではお茶にも不自由して
いたのである。「毎日、見に来る楽しみができた」「受け持ち
を決めて水をやらにゃあ」。いっとき病苦も忘れた患者達の明
るい声が弾んだ。
光田が皇后陛下から金一封を賜ったことが新聞に出た途端に、
学校ではぴたりといじめがなくなった。
■5.もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海に■
昭和5年9月30日、瀬戸内海の小島、長島に国立ライ療養
所「長島愛生園」が完成した。光田の長年の活動が国会を動か
して予算を獲得させ、また反対する地元民を熱い意気込みで説
得した末の成果だった。
ルネッサンス様式の本館は、藍色の海に良く映えた。色がわ
らの病舎が緑の中に見え隠れしている。全生病院から移った患
者81名は、もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海を
涙ながらに見つめた。
長島愛生園の開設が新聞で伝えられると、全国から入園希望
が殺到し、開園4ヶ月で、400名の定員は軽く突破してしま
った。岡山まで来た女性患者が、愛生園は満員だと聞き、絶望
の余り川に身を投げて自殺するという事件まで起きた。光田は
募金を集めて、木材を買い、技術を持つ患者たちの手で10坪
住宅を作るという構想を実行に移した。
昭和の御代となり、皇太后となられていた節子妃は、国立療
養所の計画を聞かれてから、10年もの間、内廷費をきりつめ
て貯められた100万円もの金額を、朝鮮、台湾を含む全国の
療養所に寄付された。この事が、今までライに無関心であった
人々を目覚めさせた。宮内庁職員たちの寄付による千代田寮
(6棟)、神戸女学院生徒らによる神女寮(1棟)、など、数
年のうちに千人以上の患者が収容できるようになった。
皇太后の下賜されたうちの10万円を基金として、ライ予防
協会が設立され、渋沢栄一が会頭に就任した。初事業は親がラ
イで入院して難儀している子供たち400人を収容する施設を
作ることで、喜ばれた皇太后は向こう10年間毎年1万円づつ
贈られることとした。
皇太后のお誕生日6月25日は「恵みの日」と定められ、毎
年その前後一週間をライ予防週間とすることが決まった。
■6.めぐみの鐘■
長島の頂上にある光が丘には、東本願寺から贈られた鐘楼が
建立された。その鐘には、皇太后の次のお歌が刻まれた。
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
皇太后がお住まいの青山東御所の一角で、かえでの小生えが
群生しているのを見つけられた。かえでは皇太后に最初に救ラ
イ事業の大切さを説いた昭憲皇太后のおしるしである。皇太后
は女官達とともに、かえでの苗を育て、夏は青葉の陰に憩い、
秋はもみじを楽しむようにと、全国の療養所に2百本ほどの単
位で贈ることを始められた。その時に一緒に贈られたのが、こ
のお歌である。
皇太后のお歌を刻んだ鐘は、「めぐみの鐘」と呼ばれ、朝夕
に鳴り響いて時を告げた。患者として愛生園に住んだ歌人・明
石海人は次のような歌を遺している。
唱和する癩者一千島山に恵みの鐘は鳴りいでにけり
そのかみの悲田施薬のおん后いま在ますかと仰ぐかしこさ
みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生まれてわれ悔
ゆるなし
■7.プロミンの効果は間違いないのか■
戦争中にアメリカでプロミンというライ治療薬が開発された
という情報を得て、光田は戦後まもなくの昭和21年から試用
を開始した。歴史始まって以来、不治の病とされていた業病だ
ったが、膿を出していた体が3ヶ月から6ヶ月できれいな皮膚
に変わった。
昭和22年、昭和天皇が岡山県にご巡幸された時に、光田は
ライについて、20分間のご進講をした。皇太后からのお話が
あったのだろう、陛下は「50年間も、よく救ライ事業に尽く
してくれました」と語りかけられた。生物学者である陛下は、
ライ菌に関して詳しくお尋ねになり、「プロミンの効果は間違
いないのか」と聞かれた。
只今、懸命に試用を繰り返しております。10年は見守
る必要があると存じますが、この治療が進みましたならば、
不治とされたライが全治し、患者が消滅する日も遠くない、
前途は明るいと信じます。
光田が、最後に皇太后の長年に渡る数知れぬ恩賜が、社会の
ライ者への意識を変えることにつながりました、とお礼を申し
上げると、陛下はうなづかれて言われた。「プロミンが早く皆
に行き渡るといいね」
■8.暗き夜を照らしたまひし后ありて■
昭和26年5月17日、皇太后が68歳で崩御された。ご大
喪の儀には、ご生前から救ライ事業に御心をかけれていたご縁
で、全国の療養所長が特に参列を許された。入内に際して、昭
憲皇太后から救ライのお志をお聞きになってから、はや51年
の歳月が流れていた。
ご追号の貞明皇后は、「日月の道は貞(ただ)しくして明ら
かなり」という古典からとられた。日月の如く「聡明仁恵にし
て用を省き治ライに資し幽明の天地に光明をあたえたまえり」
と説明されていた。
昭和天皇は母皇后の御遺志をしのばせられて、そのご遺金す
べてを救ライ予防協会に下賜されることとした。政府はこのご
遺金を核にして「貞明皇后記念救ライ事業募金の運動」を創設
することにした。戦後の激しいインフレで、手の届かなくなっ
ていた患者や遺族、未感染児童の擁護を目的としていた。
その年の11月3日、光田は皇居で文化勲章を授与された。
36年前、貞明皇后に初めて拝謁した日のことがありありと思
い出された。
患者や私たちと共に泣いてくださる皇后様のお姿を支え
に、自分はここまで来ることが出来たのだ。そのご仁慈が
国中の人々を啓蒙し、それが施設の充実になっていったの
だ。そのお陰があってこその、今日の晴れがましい栄誉で
はないか。その皇太后様はもうこの世にましまさぬ。
天皇陛下ご臨席のもと、授章式が執り行われ、陛下お招きの
昼食会を終えて退出すると、光田はその足で貞明皇后が鎮まり
います多摩御陵に向かった。
暗き夜を照らしたまひし后(きさき)ありてライ絶ゆるこ
とも聞くべくなりぬ(千葉修)
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(142) 大和心とポーランド魂
b. JOG(120)「心を寄せる」ということ
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「【主張】ハンセン病訴訟 判決を機に偏見なくそう」、
産経新聞、H13.05.12、東京朝刊、2頁
2. 出雲井晶、「天の声」★★★★、展転社、H4
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「暗き夜を照らしたまひし后ありて」について
鈴木京子さんより
200号おめでとうございます。そして今回もまたすばらし
い内容の記事をよませていただき、思わず涙ぐみました。この
ようなことを知っている人は少ないと思うのですが、こういう
ことを知るというのは、大切なことだと思います。
皇室の方々の人間としての思いやりや、やさしさを(それこ
そが人間としての高貴さだと私は思いますが)知ることで、国
の母としての皇后様に憧れ、慕うという自然な心を持ちたいと
私は思います。
■ 編集長・伊勢雅臣より
足かけ4年近くで、200号を達成できました。読者の皆さん
からお祝いと励ましのメールをいただき、ありがとうございま
した。
© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
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