No.0267 変革の指導者・明治天皇 ~ ミカドから立憲君主へ

崩御された明治天皇を世界のマスコミは日本の
急速な変革の中心者として称賛した。

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■1.「近代史上最も記念すべき治世」■

 1912(明治45)年7月30日、明治天皇崩御の報が伝わるや、
英国の首相アスクィスは、即座に下院において以下の動議を提
出した。
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 本院は我が皇帝陛下の盟友たる日本天皇陛下崩御の報に
接して深厚なる追悼の意を表彰し、あわせて本院が日本皇
室政府、および人民に対して有する深厚なる同情を我が皇
帝より日本新帝陛下に伝えられん事を請う。
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 この動議提出にあたり、アスクィスは次のような演説を行っ
た。
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 先帝陛下(明治天皇)はご在位50年を出でさせられず
してその国民的生活の後方に厳重に遮断せられたる半神的
地位より離脱して立憲的君主となり給い、よく祖宗伝来の
帝威を失い給うことなく、継承し給ひたる領土の政治、社
会、産業、智識、道徳等、各方面における活動の源泉、中
心力、および開拓者として、完全にして、かつ活力のある
変革の指導者とならせられたり。・・・

 余は歴史上、日本天皇陛下の如く一治世の短期間に、そ
の国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその
必要かくべからざる進歩発展を成就し給いたる君主の名を
挙ぐる事能わず。・・・
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 首相の演説は何度もの喝采を浴び、続いて野党も賛成演説を
行って、全会一致で動議は採択された。上院でも同様な動議が
採択され、翌日のロンドン・タイムズは、こう報道した。
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 昨日上下両院における議事の経過は我が議会と人民とが
特に日本および日本の皇室を推重する精神の顕著なる例証
なりとす。ジョージ皇帝の盟友たる日本先帝陛下の崩御に
ついて追悼の辞を我が皇帝陛下に奉呈せんとするの動議は、
・・・満場一致を以て可決せられたり。これ実に全英国民
および海外におけるあらゆるジョージ皇帝の臣民の哀情を
最も忠実に反照するものなればなり。

 吾人英国人は一斉に今やその終焉を告げたる治世、即ち、
首相の正しく言える「近代史上最も記念すべき治世」の偉
大なりしを意識するものなり。
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■2.各国が回顧した明治天皇の「治世」■

 上記の記録は「世界における明治天皇」[1]という崩御の際
の世界各国の報道を記録した上下2巻1500ページ、厚さは
10センチ及ぶ浩瀚な書物に収められている。それによる英国
以外の国でも、明治天皇の「治世」の偉大さを回顧する記事が
無数に掲載された(原訳文を一部読みやすく改変):

・ ニューヨーク・トリビューン紙(アメリカ): 日本先帝
陛下はその御治世の至重至要なるがため、疑いもなく歴史
上近代世界の大帝王中に伍し給うであろう。

・ ル・フィガロ紙(フランス): 崩御された天皇は現代の
大君主である。何となれば陛下のごとき御偉業を完成した
まえる御方は世に一人もいらっしゃらないからである。

・ ノーヴォエ・ヴレーミャ紙(ロシア): 陛下の御晩年に
当たり、我々が幾多の苦痛をなめたるにも関わらず、その
崩御の日に際しては全ロシア国民は謹んで満腔の弔意を表
すに躊躇せず。けだし敵味方たるを問わず偉人は依然とし
て偉人であるからである。

 ノーヴォエ・ヴレーミャ紙の「幾多の苦痛」とは日露戦争の
敗戦を指す。「敵味方たるを問わず」とは、ロシアの騎士道精
神の発露であろう。


■3.「ミカド」から「立憲君主」へ■

 アスクィス首相の演説の中の「国民的生活の後方に厳重に遮
断せられたる半神的地位より離脱して立憲的君主となり給い」
という言葉に注目したい。京都の皇居の奥深くにて、ひたすら
に国と民の安寧を神に祈られる「ミカド」から、国民国家統合
の象徴としての「立憲君主」に変わったのである。

 この変化は、現代の我々は何でもないことのように考えてい
るが、それに失敗した国々と比較してみれば、その意義の重大
さが理解できよう。

 たとえば清国皇帝は、アヘン戦争に敗れても時代の趨勢に気
がつかず、結局、辛亥革命で廃位させられた[a]。朝鮮王家は、
清国、ロシア、日本のそれぞれ外国勢力を頼もうとする勢力の
内紛に翻弄され、日本との合邦下では皇族として処遇をされて
いたものの、終戦と共にその地位を失った[b,c]。ロシア皇帝
は専制君主のまま、共産革命の最中に惨殺された。これらの君
主たちはいずれも近代化の波に消えていったのである。

 これら周辺国に比べると、日本は幕末の「尊皇攘夷」から一
転して、五箇条のご誓文で「広く会議を興し」「智識を世界に
求め」、さらにアジアで最初の近代憲法を制定して、国会を開
設した。五箇条のご誓文も、明治憲法も、明治天皇のお名前で
発せられたものである。言わば、明治日本の近代化努力の象徴
が明治天皇だったのである。

 明治天皇が「ミカド」から、「立憲君主」に変わられた過程
を見ていくと、日本が封建国家からごく短期間のうちに国民国
家に生まれ変わることができた秘密が見えてくるだろう。


■4.「尊皇攘夷」から「開国」へ■

 英国では新聞の速報に続いて、いくつかの月刊誌が明治天皇
を回顧する長文の評論を掲載した。その一つ"The Nineteenth
Century and After"(「19世紀以降」)9月号は、ジョセフ・
ロングフォードによる「日本先帝陛下の御逸事」という文章を
掲載している。この一文には、若き明治天皇が実際の行動を通
じて「立憲君主」となられていく過程が、著者自身の日本滞在
中の見聞を含めて、生き生きと描写されている。

 明治元(1868)年3月26日、その前年1月に15歳にして即
位されたばかりの明治天皇は京都御所にて初めて外国人を引見
された。相手は英国公使ハーレー・パークス卿である。しかし
この引見は尋常なものではなかった。

 パークスが京都に入った時、神聖な都が外国人のために汚さ
れたと見る二人の暴漢が、騎馬衛兵に護られた公使一行の行列
に斬りかかり、10人もの重傷者を出したのである。パークス
自身も危うく斬られる寸前に、暴漢は取り押さえられた。
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 御幼年の天皇陛下は御自身、この件に関して悔恨の辞を
述べ給うべき機会を得たまえり。すなわち陛下はなお幼年
にましましてこの時初めて海外より遙かに来たれる異国人
を引見したまい、したがって大なる好奇心をもって充たさ
れたまいけんも、その御態度はいかにも冷静におはして深
き御思慮を備えたまいぬ。これと同時に今後かかる暴行を
断然許さざることを公然国民に布告せしめたまひぬ。
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 この時まで「尊皇攘夷」のかけ声に「神州」を汚す外国人を
襲う事件がたびたび起こっていたが、明治天皇が自ら外国人を
引見され、「鎖国の禁を解き今後国際間の規定に基づき諸外国
と交通す可し」との詔勅が発せられるに及んで、このような事
件は後を絶った。

 日本が国際社会に仲間入りしていく第一歩が、外国人の国内
の往来・居住を安全にし、かつ、天皇が日本の元首として諸外
国からの公使を引見することであった。この二つの事が、一挙
に行われたのである。

■5.跪座平伏の如きは過去の夢となりおわりぬ■

 同年10月29日、天皇は新都・東京に行幸された。神奈川
通過の際は、横浜在住の外国人はこれを拝したが、奉迎の歓声
を放つことは禁ぜられた。
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 この際、外国人が得たる深き印象は、日本の国民が一語
をも発せずして粛然として陛下を奉迎し参らせたる事なり
き。鹵簿(ろぼ、行幸の行列)の近づくと共に沿道に幾重
にも整列せる日本人は一斉に跪座(きざ、ひざまずいて座
る)したり。・・・

 天皇の座乗したまえる白木造にて金色の菊花を整える黒
塗りの屋根ある御乗物の続いて進み来るや、一斉に地に額
つけり。・・・深き沈黙はわずかに柏手の音によりて破ら
れたるのみ。
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 まさに明治天皇は「ミカド」として迎えられたのである。
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 ただしこれより未だ三年ならずして著者は陛下が欧州式
の無蓋馬車に乗じたまい、洋装せるわずかの騎兵の護衛に
て東京市中を行幸したまうをたびたび拝しまいらせたるが、
その都度人民は行幸のために業務を休止せざるよう命ぜら
れ、跪座平伏の如きは過去の夢となりおわりぬ。
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 さらに25年後、ロングフォードは日清戦争後、広島より還
御された明治天皇を奉迎する群衆の有様をこう記している。
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 天皇陛下万歳の叫声は御道筋に轟きわたり、人民はもは
や合掌礼拝する事なくあたかもロンドンにおける民衆がな
すと均しき熱烈なる歓呼と同じく帽を振り手巾(ハンカ
チ)をひるがえせり。
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 こうして天皇は民が跪座平伏して迎える「ミカド」から、英
国国王と同じく、民衆が歓呼して迎える近代的君主となった。


■6.開国、文明開化、そして独立保全■

 明治元年の東京行幸は短かったが、ロングフォードは東京に
て外国公使を引見した事とあわせて、天皇が艦船に乗られて東
京湾を巡航された事を特筆している。
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 この事たるさらに革新に一歩を進めたるのみならず、国
民の迷信にも一撃を与えたり。しかして結果は何らの恐慌
をも実現せず、将来陛下は全国土を巡幸あらせられるべく、
御旅程は海陸いずれをも持ちうべしと知られたり。
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 江戸時代の民は、京都御所に隠れたまうミカドが船に乗られ
ることなど、予想だにしなかっただろう。天変地異でもあるか
と迷信に囚われた人々もいたかもしれない。しかし明治天皇は
艦船に乗られ、何も凶事は起こらなかった。近代的な艦船は日
本と海外をつなぐ架け橋である。明治天皇は自ら艦船に乗られ
ることによって、開国と文明開化を推し進めるべき事を示され
たのである。

 艦船に関しては、もう一つ興味深い記事がある。発行数十万
部で英米豪などで広く読まれていた「評論の評論」という雑誌
は、明治天皇の肖像を表紙に掲げた8月号に「日本より得たる
帝王の模範、勲業、および教訓」と題する記事を載せ、明治天
皇が海軍拡張の予算が足りない時に、宮廷費を削って毎年30
万円を6年間下賜された事実を紹介して、こう述べている。
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 その海軍拡張の結果は対馬沖において世界に発揮せられ
(日本海海戦でのロシア・バルチック艦隊撃滅)日本の海
軍をして永く東海を制御するの地位に達せしめたり。吾人
は我が国(英国)においてかかる同一の類例を想像し得る
や如何。そもそも英国における海軍の必要は日本より大な
るにあらずや。海軍は我らに対しては死活の問題なり。
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 近代的艦船は開国の手段であるとともに、それはまた東アジ
アにひたひたと迫る欧米列強から、独立を守るという「死活の
問題」への手段でもあった。明治天皇は自ら宮廷費を節減して
この事を国民に知らしめたのである。

■7.英国皇族を迎える■

 明治2(1869)年8月、英国ヴィクトリア女王の次男エジンバ
ラ公が世界漫遊の途上、日本に立ち寄る事となった。外国皇族
を国内に迎える事は千余年来で初めてのことだった。明治天皇
は「親交ある国際間の風習に従い英国皇族を迎うべし」と国民
に宣言した。
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 かくて公はその宮中において陛下に拝謁せられ、儀式の
後はさらに一層親密なる会見あり。陛下は公とお席を共に
したまいて、公の訪問は日英両国間にすでに存在せる親交
を更に強固ならしむる為に大なる効果あるべきと思うて欣
幸としたまう旨を述べたまいぬ。

 この会見の席に列なれるは(公使)ハリー・パークス卿、
ならびに当時在シナ英国艦隊提督ヘンリー・ケッベル卿
・・・なりき。しかして列席の人々はいずれも、この若き
天皇がかつて経験し給いし事なき長時間の対談において、
当意即妙の応答をなしたまいたるを見て深く感動し、その
聡明なる御資質は将来かならず立派なる御統治をなしたま
うべしと思えり。
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 まだ10代の後半の少年とも言うべき年頃の明治天皇が、英
国皇族、公使、提督を堂々とお迎えしたというのは驚くべき事
だが、同時に、この事によって、七つの海を支配する大英帝国
といえども、対等の独立国家として交際すべしという事が国民
に示されたのである。

■8.不動の軸があってこそ、急旋回も可能となる■

 「評論の評論」誌に掲載された記事は、明治天皇の治世をビ
クトリア女王と比較して、こう述べている。
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 両陛下とも天の命ぜる御大業を成就せられ、各々その国
の為に無限の名誉と栄光とを来たさしめたまいたり。日本
天皇陛下はその変化急速なる日本における万世不易の中心
点におわしたり。

 先帝陛下は・・・常に国民を指導奨励したまい、もって
一見不可能の事業たる旧日本の真髄を永遠に新日本と融和
一貫するにおいて成功したまえるなり。
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 幕末から明治にかけて、我が国は「攘夷」から「開国」へと
急旋回し、封建国家から近代的な立憲国家に生まれ変わったの
だが、その変化の中心にあったのは明治天皇であった。明治天
皇御自身の役割や行動も「ミカド」から「近代的君主」へと急
激に変わられたのだが、その民の安寧と平和を祈る御心は、皇
室伝統として代々伝えられてきた不変のものである。

 不動の軸があってこそ、急旋回も可能となる。これが「近代
史上最も記念すべき治世」を実現した我が国の革新の原理であ
った。幕末、終戦時に続いて、3度目の大変革を迫られている
 現代日本において、この原理を思い起こしたい。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 望月小太郎、「世界における明治天皇 上下」★、原書房、S48

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