YouTube版 No.806 野口英世、黄熱病との戦い

 黄熱病が流行する赤道直下の港町に野口英世は乗り込んでいった。

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■1.ノグチ博士来る

 1918(大正7)年7月15日、南米大陸の北端、ほぼ赤道直下にあるエクアドルの港町グアヤキルに野口英世は上陸した。助手として看護婦たち、医療機器の技術者、薬剤師などを従えていた。同時に臨床医学機器11箱、薬品類4箱、実験用のウサギやモルモットなどが陸揚げされた。

 すでに米国ロックフェラー医学研究所の代表的な医学者として名をなしていた野口のことは、到着以前からグアヤキルの新聞で報道されていたので、出迎えで黒山の人だかりとなった。

 騒ぎを大きくしたもう一つの理由は、同じ船に乗っていたオペラ歌手のマリア・エバントス一行が、グアヤキルで黄熱病が流行し、町の通りで死ぬ者がいると聞いて、上陸を拒否し、出演契約を破棄すると言い出したことだった。

 グアヤキルはほぼ赤道直下にあり、海抜5メートル。高温多湿で、黄熱病の他にマラリア、ペスト、赤痢、腸チフスなどの感染症の温床で「蚊が多く汚い港町」と言われていた。公衆衛生対策も整わず、オペラ歌手たちが怖がるのも無理からぬことであった。

 身長わずか153センチの野口は、当時の東洋人としても小柄だった。その野口が真っ白のスーツ姿にゲートルを巻いた猛獣ハンターのような奇抜な格好をして現れた。翌日の現地の新聞の第一面には、その写真が大きく掲載された。新聞記者には「ゲートルを巻けば蚊が防げるから、足の方には神経を使わないで研究に専念できるでしょう」と答えている。

 さらに新聞は「ノグチが他の博士たちと異なるのはスペイン語を話すことだ」とも報じた。野口は上陸第一声を現地の人々に直接伝わるようスペイン語で語ったことが、彼等の興味をさらにそそった。
 その一週間前に米国ロックフェラー財団が組織した黄熱病委員会調査団の野口以外のメンバーが到着していたが、彼ら米国人はスペイン語を学ぶことなど、念頭になかっただろう。

 もっとも野口がスペイン語を勉強し始めたのは、わずか1年ほど前に過ぎない。英語、ドイツ語、フランス語、デンマーク語を話す野口は、外国に溶け込むには、その国の言葉を学ばなければならない、と考えていた。ロックフェラー医学研究所でも、「野口英世は眠らない」との伝説を生むほど研究に打ち込んでいたが、その勢いでスペイン語も習得したのだろう。

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