No.1303 日本国の基本構造を確立した大化の改新
神話時代から続く「天皇」をいただく「日本」。この基本構造を確立したのが、天智・天武・持統天皇三代の大化の改新だった。
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■本講座のYouTube版、先週公開分
■意外に身近な歴史人物。歴史学習で先人たちと語り合おう
No.1302 中学生の素直な感性が古代人物を蘇らせた
~ 歴人(歴史人物学習)館便り(2)
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■幕末日露外交、最大危機を克服した二人の信義と友情
No.1102 高田屋嘉兵衛とピョートル・リコルド 幕末の日露外交危機を克服した二人の友情
https://youtu.be/HB8n4h0fzkE
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■1.蘇我氏が皇位を簒奪していたら
「日本」という国家は、「天皇」を国家および国民統合の象徴としていただき、その天皇が民の安寧を神に祈り、天皇の御代を表す元号を世界で唯一保持しています。わが国の基本構造を一文で表せば、こう表現できましょう。そして、これらの国柄を確立したのが、天智・天武・持統三代にわたる公民国家確立の苦闘だったのです。
この苦闘の発端が、乙巳(いっし)の変による蘇我氏の打倒でした。蘇我氏は自分たちの祖先の祭壇を作って「廟(びょう)」と呼び、墓を築いて「陵(りょう)」と唱えました。
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廟も陵も、ともに漢人社会では帝王家の施設にしか用いることの許されていない用語である。彼らはこうした事実をつみ重ねながら、漢風に、王朝が新実力者に帝位を授与する形式のいわゆる禅譲(ぜんじょう)というやりかたで、皇室から君主権を奪いとろうとしたもののようである。この一族がいかにシナかぶれしていたかがわかるだろうと思う。[村尾、p63]
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蘇我氏の野望が実現していたら、今の日本はどうなっていたでしょう。蘇我「王朝」は、崇峻天皇を暗殺し、聖徳太子の皇子・山背大兄王の一族を滅ぼしています。そんな悪逆の歴史を持つ「王家」が、日本国の象徴であったら、日本国民は敬愛の心など持ち得ないでしょう。君主制を敵視する左翼の格好の攻撃材料になったはずです。
いやそもそも、ひとたび蘇我「王朝」が皇位を簒奪したならば、道鏡などのようにその後も皇位を狙う野心家たちが後を絶たず、中国のように王朝が興っては滅びの戦乱の歴史が繰り返されたでしょう。日本国民が経済的にも文化的にも発展したのは、平安時代や江戸時代など、長い平和の時代があったからです。
また、江戸幕府から明治政府への政権交代がスムーズに行われ、その後、国民が一丸となっての近代化が一気に進み、70年足らずで世界の指導的大国になりえたのも、国家・国民統合の中軸たる皇室があったからです。それが中国のように、政権争奪の内戦続きでは、近代化など望むべくもありません。
乙巳の変を権力争いの次元だけで見て「クーデター」などと呼ぶのは、こうした日本の歴史の本質を捉えていません。国家の基軸たる皇室を護持して逆賊を退治し、その後の安定的な発展の基盤をもたらした偉業だったのです。
■2.「国民生活への思いやりが深い」制度
中大兄皇子と中臣鎌足が追求した理想は、その後の大化の改新で順次具現化された「公地公民の原則」に現れています。「公民」とは、豪族が支配する「私領民」を、天皇が統治する「公民」とすることですが、単に支配者が変わるということではなく、「大御宝」として、その安寧を図るということでした。
天武天皇の命によって編纂が開始されたとされる『日本書紀』の原文では、初代・神武天皇が皇位に就かれる際に「元元(おおみたから)を鎮(しず)むべし」との詔を発せられたのを初めとして、「人民」「衆庶」「百姓」「民萌」「民」などの別々の字を用いられてはいますが、みな「おおみたから」と訓じられています。
「大御宝」を護るためにどのような政策がとられたのでしょうか? まず口分田は6歳以上の男子に2段、女子にその3分の2、家人・奴にはそれぞれ良人男女の3分の2が与えられました。唐では成人男子のみに支給された事に比べれば、子供、女性、家人・奴にまで支給する、という点で、今日の言葉で言えば、基本的人権が考慮されています。
ちなみに奴婢(ぬひ)は、それまでの卑民制度を唐にならって残したものですが、最盛期でも人口は全体の1割よりははるかに少なく、さらに次第に減少して、延喜年間(901-903)には法的に廃止が宣言されました。[坂本S50、p99]
また、税として収めるのは、だいたい収穫の3%程度でした。それ以外に年に10日間の労役がありました。これは唐の半分の日数です。労役に出ない場合は、1日分の代償として麻布2尺6寸を収めなければなりませんでしたが、唐はその1.44倍の3尺7寸5分を収める必要がありました。[村尾、p81]
こうしたデータをもとに、村尾次郎・文部省主任教科書調査官は、次のように結論されています。
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日本の律令制度は、日本人の比較的おだやかな性質と、儒教の徳治の精神とを基礎にして、この制度の母国である隋唐のやりかたよりもはるかに国民生活への思いやりが深いものとなった。[村尾、p81]
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■3.公正な行政を目指した熱意
また「大御宝」が安心して暮らせるようにするためには、役人たちが厳正な行政を行わなければなりません。大化元年8月5日、東国の国司8人を選んで派遣する際にも、その心得を厳しく諭しました。曰く「任地に行って戸籍を作り、田畑を調べよ。わいろを採って、人民を苦しめてはならない。京に上るときに、大ぜいの百姓を共につれてはいけない」等々。
国司たちは、明くる年の3月には帰京して、仕事ぶりを厳密に調べられています。
同じ8月5日、朝廷では、人民の声を直接政治に取り入れようという意図から 鐘と櫃(ひつ、箱)の制度を設けたました。人民は、もしなにか困ることがあって訴えたいと思う場合は、まずは仲間の長たる人に申し出て、その人から朝廷に訴えます。
もし、その長たる人が訴えてくれないときは、そのことを申し文に書いて櫃に入れる。係りの役人は、毎朝早く箱を開いて申し文を取って天皇に申しあげる、天皇はそれに年月を書きくわえて、役人たちに示す。それでも役人たちがなまけて処理をせず、また一方にえこひいきして正しい判決をしないときは、鐘をついてそのことを訴えよという三段がまえです。
実際に、期限以上に朝廷の雑役に使われていた地方民がこの方法を利用して、役人の勝手なやり方を改めさせた例もありました。
また大化2年3月22日には薄葬令が出されました。それまでは古墳を築いて手厚い葬儀を行っていましたが、それが一般農民を疲弊させていることから、身分によって墓の大きさ、使う人夫の基準を設けました。これによって、以後、豪壮な古墳が姿を消します。
さらに旧俗廃止の詔も出されました。殉死の風習を止めさせ、民間における有力者の無力者への不法行為、男女の間における男子の女子に対する暴虐などを禁止しました。
「大御宝を鎮むべし」に、朝廷がいかに熱心に取り組んだかが、察せられます。
■4.全国規模での戸籍作成
天智天皇は即位の2年後、670年に全国規模での戸籍を作成しました。その年の干支にちなんで、庚午年籍(こうごのねんじゃく)と呼ばれる、わが国最古の戸籍です。各戸毎に氏名、年齢、戸主か、家族だったら戸主との続柄、身体上の特徴、課役の有無などを記した詳細な台帳です。
また当時、一般の民衆には、本来姓がなかったのですが、庚午年籍の作成時に、すべての公民の姓を公的に定めました。
戸籍は口分田の支給と徴税の基本です。戸籍に載るということは、当人の公民としての権利と義務を明確にするということでした。それまでの豪族の私領民では、どこに誰がいるのか、その豪族以外には分からなかったのとは大違いです。
戸籍を作るには、全国の役人に文字を書く能力が必要であり、また紙や筆の供給も必要です。登録する項目と、記載する方法の基準を決めて、全国に徹底しなければなりません。1300年後の現代においても、いまだ国民の登録台帳さえ整備できていない国がある事を考えれば、この時代に戸籍を作ったことがいかに先進的なことだったかが窺われます。
■5.官僚制の確立
私領と私有民を持つ豪族たちの連合国家という形から、土地と人民を国家に所属させる公地公民制の確立が、大化の改新の大きな眼目でしたが、それと同時に豪族たちは徐々に朝廷での官位を持つ官僚となっていきます。
そして、官僚として出発する青年は、まず各800人が在籍する中務省左右大舎人(おおとねり)寮に所属させ、そこから能力を見てふさわしい職に出世させるようになりました。毎年の勤務評定もなされるようになりました。
官僚制とは、今日、あまり良い意味では使われませんが、出身部族に関わらず、才能ある者を抜擢する、という意味では、きわめて近代的な制度なのです。
またこの制度により、天皇の御代代わりがあっても、官僚組織自体は、大きな変化を受けずに、安定的な行政を続けることができるようになりました。
■6.都づくり
官僚制とともに、国家統治の基盤となったのが、都づくりです。日本で最初の碁盤の目状の都市として建設された藤原京は、天武天皇の頃から工事が始められ、持統・文武・元明の3代の天皇がここに住まわれました。大きさは次代の平城京や平安京を凌ぐ、古代最大の都です。

それまで天皇の御代替わりのたびに、あるいは一人の天皇の御代でも何度か都が移されていましたが、何代も続けて都とするという点で、統治機構が様変わりしました。
天皇のお膝元で、専門の業務を持った官僚たちが行政を行う、という形で、天皇の御代代わりがあっても、ある程度、継続的な統治ができるようになりました。
なお、碁盤の目状の都市設計は唐から学んだことですが、重大な違いもあります。唐の長安のような巨大な城壁がないことです。これは騎馬民族の襲来に備えて、とのことですが、それだけでは内部の坊という区画単位でも壁に囲まれていることが説明できません。
これは内部の反乱、あるいは住民逃亡を防ぐ対策でもあったのではないか、と考えられます。とすれば、都市の構造は長安の真似をしたとしても、社会構造そのものは、まったく異なっていたのでは、と考えられます。
■7.神話に基づく天皇の権威の確立
上記の公地公民制、官僚制、都の確立と相まって、祭祀、国号、天皇号、元号、歴史書の編纂など、国家の精神的文化的内容の整備が進められました。これらはいずれも相互に深く関係しています。
まず、「大化」という年号は乙巳の変の直後に立てられました。シナの皇帝の服属国では、独自の年号を使えません。したがって、新政権誕生直後に年号を制定したのは、わが国は独立国であると、国際的に宣言したものでした。
天武天皇の御代で始まった古事記・日本書紀の編纂は、それまでの神話伝承を体系的に集めたものですが、その中で「高天原の天照大神が、御自らの子孫を葦原の中つ国に降臨させて、知らすべきと委託された」という天孫降臨神話が国家の正史に書き込まれました。
そして、天照大神を祀る伊勢の神宮が、国家的祭祀の頂点として位置づけられました。実際に唐の官僚制にはない「神祇官」も設けられました。公民が貢納した新穀、布、アワビなどを天皇が神に捧げて、天下公民のために豊作祈願をする祭祀が確立したのも天武天皇の御代だとされています。さらに天皇号と国号「日本」の使用が確立されたのもこの頃と言われます。
すなわち、天照大神の子孫である天皇が「日の本」の国の「おおみたから」の安寧を神に祈る、という国家原理が表明されたのです。こうなると、蘇我氏のような豪族がどれほどの実権を握ったからといって、皇位を簒奪することは難しくなります。こういう形で、天皇の権威を確立することは、国家を無用な権力闘争と戦乱から護り、平和と安定を保つことに繋がったのです。
また天智天皇を助けた中臣鎌足は、以後、藤原氏として権勢を誇りますが、中臣氏の先祖は天児屋根命(あめのこやねのみこと)であり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨に付き従って、地上に下った神、とされています。神話時代から皇室に付き従った一族である以上、どれほど権勢を持とうとも、皇位を簒奪しようなどという野心は持ち得なかったでしょう。
現実政治でいかほどに権勢を握っても、あくまで天皇の臣下である立場を踏み外さない、という政治的叡知により、藤原氏は長く繁栄を続けることができ、その歴史を通じて、権威と権力の分離という国家の繁栄と安定の叡知を築くことができたのです。
■8.現代まで続く国家の基本構造を残した大化の改新
こうした国家体制の整備を通じて、天皇の存在自体が大きく変わりました。坂本太郎・東京大学名誉教授は、つぎのように結論づけています。
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天皇は律令において、従来の宗教的・族長的な首長の上に、徳治国家の聖天子、法治国家の専制君主という性格を兼ね備えた魏然(ぎぜん、そびえ立つ)たる存在となったのである。固有の神祗祭祀を行なうと共に、重大政務はことごとく奏上をうけて決裁すべきであり、人民の父母として人民の生をやすんじ、道徳の行なわれる理想国を樹立することが期待せられたのである。[坂本S37、p96]
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こうして完成した古代国家の仕組みは、その後の日本の安定的な発展の枠組みとして機能しました。武家政権が登場してもそれは天皇から任ぜられた征夷大将軍であり、また明治以降の立憲君主制でも、天皇から任命された首相が政治を行っています。
「日本」という国号、天皇と元号、伊勢の神宮を頂点とする神道、記紀、これら現代まで続く日本国家の基本構造を定めたのが、大化の改新を成し遂げた天智、天武、持統三代の努力でした。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・JOG(1291) 大化の改新 ~ 公地公民と律令で幸福な国造りが進んだ
安定した国家体制のもとで、経済・文化が花開き、「御民(みたみ)我れ生ける験(しるし)あり」と歌われた。
YouTube版 https://youtu.be/ISaeXcf6xzY
ブログ版 http://jog-memo.seesaa.net/article/493017054.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・坂本太郎他『日本古典文学大系67 日本書紀 上』★、岩波書店
・坂本太郎『国家の誕生 日本の歴史文庫(2)』★★★、講談社、S50
・坂本太郎『日本史概説 上』★★、至文堂、S37
・村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
・義江明子『天武天皇と持統天皇―律令国家を確立した二人の君主』★★、山川出版社、H26
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4634548062/japanontheg01-22/
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