国益激突の中で共感が生まれた【幕末日露外交】

 嘉永6(1853)年12月14日、長崎の港に4隻の大船が停泊
していた。中央に陣取るのはロシア使節プチャーチンの乗る旗
艦「パルラダ号」。左右52門の大砲で港全体を威圧していた。

 午前11時、パルラダ号から6艘のボートが降ろされた。随
伴艦からは祝砲が放たれ、快晴の空のもとで長崎の港を囲む丘
陵にいんいんとこだました。

 やがてボートが次々と波止場につき、軍楽隊を先頭に武装兵、
ロシア使節と士官、水兵らが二列縦隊で続き、ラッパ・太鼓に
合わせて行進を始めた。隊列は西役所の前でとまり、使節と士
官は日本側の役人に案内されて対面所に入る。そこには4人の
幕府高官が応接掛として待ちかまえていた。

 応接掛次席の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)は、使節プ
チャーチンを60歳ぐらいと見た。髪は茶色で髭をたくわえ、
ゆったりとした表情から、高位の人物であると察せられた。

 その川路を随行秘書官で作家のゴンチャロフは「45歳くら
いの、大きな鳶色の眼をした、聡明闊達な顔付の人物」と後に
書き残している。

(続きは)

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