No.048 「公」と「私」と

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_/_/   Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(48)
_/_/            平成10年8月8日 発行部数:2,640
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_/_/        国柄探訪:「公」と「私」と
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/       1.「公」と「私」
_/_/       2.近づく怪雲
_/_/       3.決死の宣戦布告
_/_/       4.進軍の道すがら
_/_/       5.満洲の寒さ
_/_/       6.肉親を思う歌
_/_/       7.老いし父母思はぬにはあらず
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日露戦争は一人一人の将兵が家族への「私情」を吐露しつつ、
それを守ろうと「公」のために立ち上がった戦いであった。

■1.「公」と「私」■

 「私」とは自分や家族のため、「公」とは国家公共のため。一度
戦争になれば、国民は「私」の部分を犠牲にして「公」につくさね
ばならない。さもないと、国民すべての「私」もなくなってしまう。

 明治日本が南下するロシアに対峙した時がまさしく、そういう状
況であった。当時の日本人が、この問題にどう対処したのか、その
赤裸々な声が「山桜集」という歌集となって残っている。今回は、
これらの声を通じて「公」と「私」の問題について、考えてみよう。

■2.近づく怪雲■

 ロシアが全満洲を占領したのは、1900年10月。その過程で、
7月には黒竜江東岸ブラゴウェシチェンスクにおいて、シナ人3千
人を駆り立て、黒竜江に突き落として虐殺するという「黒竜江上の
悲劇」を引き起こした。

 ロシアが満洲、朝鮮と南下すれば、虐殺されたシナ人の運命は、
明日の我が身かも知れない。当時、第一高等学校の記念寮祭歌とし
て作られた「アムール川(黒竜江)の流血や」はその予感を伝える。

アムール川の流血や 氷りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は 怪雲空にはこびつつ

 ロシアは1903年、韓国領の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領
し、要塞化を進めた。こうして「怪雲」の予感は、着々と現実のも
のとなっていった。
 
■3.決死の宣戦布告■

 明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略
意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。も
とよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの
決断であった。時の総理、伊藤博文は次のように語っている。

 若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロ
シア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び
浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が
海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍
(一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむ
べし

 いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、と
いうのである。負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同
様、植民地として隷従しなければならない。この危機感は明治天皇
から国民までが共有したものであった。

 事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をも
ってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣
民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下
る。

 明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対
してお詫びのしようもない、と涙を流された。天皇は日露戦争中の
御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の
病で崩御されるのである。

■4.進軍の道すがら■

軍人(いくさびと)すすむ山路をまのあたり見しは仮寝のゆめに
ぞありける

 明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事
もあった。その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける
者もいた。

     進軍の道すがら (陸軍少将 中村寛)
道すがらあた(敵)の屍(かばね)に野の花を一もと折りて手向け
つるかな

 敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を
忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであ
った。

国のためあだ(仇)なす仇はくだくともいつくしむべき事な忘れ


■5.満洲の寒さ■

 戦場となった満洲の寒さは厳しい。しかしその寒さにも兵士らが
まず思うのは、故郷に残した家族の事であった。

   このごろ寒さ一入(ひとしお)に厳しければ故郷に病める
  母の御身の上を思はれて
病なき我だに寒しこの頃はいためる母のいかがあるらむ

 その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。

いたで(戦傷)おふ人のみとりに心せよにはかに風のさむくなり
ぬる

 急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの
看取りであった。

寝覚めしてまづこそ思へつはもの(兵士)のたむろ(集まってい
る所)の寒さいかがあらむと

 目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事
であったのである。

■6.肉親を思う歌■

 戦場の夫が妻子を思い、また妻が夫を思う歌はとりわけ心を打つ。

   家を出づる時よめる
父の顔見覚え居よと乳児(ちご)にいへどちご心なく打ち笑みて
のみ

 出征の時に、これが最後かとも思い、父の顔を覚えていてくれよ
と、我が子を抱いて見つめるのだが、幼児はあやされているのかと
思い、無心に笑うばかりである。

片言に君が代歌ういとし子のすがた写して夫(つま)におくらむ

 夫の出征の間に成長して、片言で君が代を歌う子供の写真を、夫
に送ろうというのである。

   旅順攻囲雑詠
たまたまに稚児とあそべる故郷のゆめおどろかす大砲(おおづ
つ)の音

 故郷で我が子と遊んでいる楽しい夢を、突然破るのは野戦の大砲
の音であった。

   新年山
つはものに召し出されし我(わが)せこ(夫)はいづくの山に年迎
ふらむ

 この歌は、陸軍二等兵卒大須賀昌二の妻まつ枝のものである。明
治38年の春の歌会始の入選歌で、両陛下の前で披露された。出征
した夫を思う妻のまごころは、多くの国民の共感を得たであろう。
歌会始めという「公」的な場で、このような「私」の情が歌い上げ
られた所に、「私」を大切にする「公」というわが国の伝統が窺わ
れる。

■7.「私」に根ざした「公」■

 山桜集の圧巻は、猿田只介という教師出身の一兵卒が残した次の
連作である。

   出征の折よめる
待ちわびし召集令をうけしより心おどりぬなにとはなしに
君のため国の為なりとはいへど老いしちち母思はぬにはあ
らず
勇ましき働きせよといひさして涙に曇る母のみことば
ふた親に妾(わらわ)つかへむ国のためいざとはげますけな
げなる妻
門の辺(べ)に送るみ親ををろがめば泣かじとすれど涙こぼ
るる
手をつかへなみだぐみたる教子(おしえご)の姿を見れば胸
さけむとす
いざやいざ朝日のみ旗おしたててふみにじらなむ露の醜草
(しこぐさ、ロシアにかける)

 召集令を待ちわびるという「公」の気持ちも、いざ出征となると、
「老いしちち母思はずにはあらず」と「私」の気持ちが頭をもたげ
る。母親も「勇ましき働きせよ」と言いさしては「涙に曇る」。こ
のような「公」と「私」の葛藤の果てに、ふたたび「いざやいざ」
と戦場に向かう。

 一首目の「待ちわびし召集令」という気持ちは、「公」に向かっ
たものだが、それはまだ残される家族への「私」の情は十分入って
いない。しかし老いし父母や妻、教え子らの姿を通じて、自分にと
って大切な人々を守ろうという「私」の情の後に生まれ出た最後の
「いざやいざ」の歌こそ、「私」に根ざしたより深い「公」への気
持ちである。

 自分の家庭、家族を守っていたい、という「私」は、人間だれで
もが持つ自然の人情である。しかし皆が小さな「私」だけを考えて
いれば、アムール川で虐殺されたシナ人のように「私」すら守れな
いことになってしまう。「私」を守るためにこそ、「公」に向かわ
ねばならない時もある。

 「公」を無視した「私」だけでは利己主義の社会である。「私」
を無視した「公」だけでは、全体主義である。山桜集や歌会始の入
選歌にも見られるように、日露戦争は一人一人の将兵が家族への
「私情」を吐露しつつ、それを守ろうと「公」のために立ち上がっ
た戦いであった。極東の黄色人種の小国が、世界最大の陸軍を持
つ白人国家に勝った最大の原因は、国民一人一人が「私」に根ざし
た「公」に立ち上がった強さであろう。

■参考■(お勧め度、★:必読~★:専門家向け)
1. 小柳陽太郎、「日露戦争における天皇と国民」★★★、日本へ
の回帰第33集、国民文化研究会

■リンク■
a. JOG(007) 国際派日本人に問われるIdentity
 中国の国父孫文:どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、
ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの
奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、
日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族
が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争
の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな
驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。

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