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人物探訪: まごころの「軍神」橘周太
橘周太は、部下や生徒へのまごころの深さで
人々の心に生き続けた。
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■1.「軍神橘中佐の面影」■
「軍神橘中佐の面影」と題して、橘周太が名古屋陸軍地方幼年
学校の校長を務めていた頃に師事した生徒が、その思い出を語っ
た一文がある。
明治36(1903)年9月1日、私は三河国の田舎の小学校
から志願がかない、一生徒として入校の栄を荷うことがで
きたのであります。然るに未だ一面識もない校長殿から入
校第一日に校門で、泙野(なぎの)と私の姓を呼ばれたの
であります。校長殿はすでに入校前日までに写真に依って
全新入生徒の名を記憶せられて居たのであります。
これは小さな事の様でありますが、茲(ここ)に教育者
とし、熱烈なる真摯(しんし)の態度が窺われるではあり
ますまいか。入校第一日から校長先生に其の名を呼ばれ、
温かき言葉をかけられた生徒がどうして校長から離れるこ
とが出来ましょうか。[1,p108]
橘周太は、海の軍神・広瀬武夫中佐[a]と並んで、陸の軍神
と呼ばれていた人物である。「軍神」というと、いかにも戦前
の軍国主義において、勇猛な戦い振りで敵を撃滅した人物を戦
意高揚のために持ち上げたもの、という先入観を抱く人もいる
だろう。しかし事実はそうではない。
広瀬中佐が旅順港閉塞作戦において部下の安否を気遣うあま
りに自らの命を捧げたと同様、橘中佐も自ら先頭に立っての夜
襲において壮烈な戦死を遂げた。二人とも部下への愛の深さに
おいて、人々の思い出の中に生きてきたのである。
■2.「貧民生計の艱苦を忘るる勿(なか)れ」■
橘周太は、慶応元(1865)年、長崎県南高来郡千々石村(現在
の雲仙市)の豪農の家に生まれた。先祖は楠木正成の血統を受
け継いだ武士で、尊皇の志篤く、父・季隣(すえちか)は維新
の際に、西郷隆盛などに従ってしばしば京都にも上り、勤王の
大道を訴えた。
橘家は代々、村長の役割を果たしてきたが、「如何程(いか
ほど)の資産家とならんにも、貧民生計の艱苦を忘るる勿(な
か)れ」と代々の家訓に伝えてきた。こうした思いやり溢れる
家柄の中で橘周太は育った。
長崎中学校を卒業した後、東京に遊学し、明治14(1881)年、
17歳にして、陸軍士官学校幼年生徒となる。23歳で士官学
校歩兵科を卒業し、陸軍歩兵少尉として青森歩兵第5連隊小隊
長に任ぜられた。
「部下を愛するや深淵底なきが如し」と同僚から評された橘の
部下思いは、この時から発揮されている。当時の日記には、
将たる者は部下を愛するの至情を基礎とせざるべからず。
として、自分が何か食べたい時には部下も空腹である、自分が
眠いときは部下も眠い。部下を思う心が厚くなければ、将とし
てその時々の状況に適合した判断はできない、と書いている。
まさに「貧民生計の艱苦を忘るる勿(なか)れ」と同じ思いや
りの心である。
■3.「膽(たん)は大にして心は小」■
橘は第一小隊長だったが、ある時、第二小隊の一人の兵卒が
病気で急死した。橘は日記の中で、隣の小隊の兵卒の突然の死
を嘆き悲しんでいる。
翌日、近くにある陸軍墓地で葬儀が行われることになったが、
あいにくその日は中隊が守衛の番にあたっていたので、亡くなっ
た兵卒の親しい同僚しか参列することができなかった。
橘は中隊全部の者の心を手向けてやりたいと思い、葬式が行
われる時間に、その陸軍墓地の近くで演習を行う事とした。そ
して、休憩時間に兵たちに自由に焼香をさせた。
橘は後の幼年学校校長になってから、求められて、青年士官
の心得を説いた『老婆心』という一文を書いた。誠と愛情の籠
もった書物として、長く陸軍の将校たちの心の糧とされてきた
が、その中にこんな一節がある。
隊付士官は、時に若干の金を軍用行李(こうり、荷物入れ)
の底にしまっておく必要がある。戦時に際しては勿論であ
るが、平時でも大いにこれを用いる時期があるものである。
つまり部下の下士や兵卒等が、父母の病気危篤の電報が
来たりしたときに、帰省しようと思ってもその旅費に困っ
て大変苦しむことがある。こんなときに一時軍用行李を開
いて貸してやると、部下たちの孝行を全うせしめることに
なる。言いかえれば、安心してその本分を実行させること
になるのである。[1,p192]
『老婆心』の中で、橘は「膽(たん)は大にして心は小」でな
ければならない、と説いている。自分の信念は百難を排して行
わなければならないが、その際には細やかな心遣いが必要だと
言う。兵卒の葬式にあたってのエピソードや、軍用行李の配慮
などは、「心は小」の一例である。
■4.「さあ、殿下もお入りなさい」■
青森に着任して1年半、橘は近衛歩兵第4連隊付へと抜擢さ
れた。近衛連隊は皇居の守護役で、陸軍将校のあこがれの的だっ
た。さらにその2年余り後の明治24年1月、今度は東宮武官
に大抜擢された。皇太子殿下(のちの大正天皇、当時12歳)
の教育係である。こうした相次ぐ抜擢は、橘の教育者としての
人格が、陸軍内で高く評価されていたからである。
殿下は、相撲がお好きだった。よく「橘、相撲をとろう」と
言われた。他の侍従や武官は、わざと負けてやったりしていた。
しかし、橘は対等に力をだして、手ごころを加えるようなこと
をしなかった。殿下に体力とともに、強い精神力を持って欲し
いと願ったからである。
殿下が15歳の時、5時40分から1時間の剣道の寒稽古を
1月14日から30日間続けてやろうと言い出された。橘はそ
のお相手をして、殿下が30日間皆勤され、合計170回の試
合をされた時には、涙を流さんばかりに喜んだ。
夏には海で水泳を教えた。それも小船で沖まで連れて行き、
侍従や武官が飛び込んで泳ぎ始めると、橘は「さあ、殿下もお
入りなさい」と、殿下を抱き上げて、ザンブと海にほうり込ん
でしまった。殿下が死にものぐるいで手足をバタバタさせ、精
根尽きて沈んでしまいそうになると、船に引き上げられ、しば
らく休んでいると「さあ、もう一度」と放り込まれる。こうし
ているうちに、たった一日で2、3メートルは泳げるようになっ
た。
ある程度、泳げるようになると、イタズラ好きの橘は泳いで
いる殿下の足を学友に海中から引っ張らせたりした。こういう
手荒な訓練で、もともと体の弱かった殿下は、メキメキと丈夫
になっていかれた。
■5.「軍人の鑑」■
約5年、東宮武官を努めた後、近衛歩兵連隊に戻り、さらに
明治30(1896)年、33歳にして陸軍戸山学校の教官に任ぜら
れた。軍事の研究教育とともに、国民の体育・武道・射撃・音
楽の向上に貢献した教育機関である。軍人精神の教育と、家族
的な中隊の実現という年来の抱負を、直接生かせる場であった。
橘は従来の精神教育では口先で説くだけでは不十分であると
し、教官自身の言行によってそれを示す事を重視した。その教
育体験から、のちにまとめた『新兵教育』という著書は、全陸
軍必読の書とされた。同時に橘の勤勉と功績は「軍人の鑑」と
して称賛され、時の『軍事新報』で幾多の人々が「橘に爵位を
授けるべきだ」と口々に論じたほどだった。
「軍人の鑑」という称賛が、勇猛果敢にして大きな戦功を上げ
た人物ではなく、橘のような真の教育者に向けて使われたこと
に留意する必要がある。また爵位も、功成り名遂げた人への論
功行賞の一つではなく、国民の師表として尊敬に足る人間に与
えるべきものという考えがあったのだろう。
■6.「教育は人格と人格との接触である」■
明治35(1902)年、橘は38歳にして名古屋陸軍地方幼年学
校長に任ぜられた。冒頭に紹介した、全生徒の名前を入学前に
覚えていたというエピソードは、この時のものである。教え子
の一人が、後にこう回想している。
校長の家庭は楽園のようであった。ヱキ夫人が馬丁や女
中をいたわり一子一郎左衛門を中心に和気あいあいとして
いて一歩、校長宅の門をくぐれば、春風駘蕩、春がすみが
たなびいているようであった。
生徒は努めて校長に近接せよ、との訓示通り、日曜日に
は生徒が校長宅を訪問するように誘う。生徒が弁当を持っ
て交代で訪ねると、校長を始め、夫人、馬丁、女中まで一
家総出で、おはぎ、おしるこ等を作ってもてなす。その時
の校長の服装は、清潔な木綿の着物に古い小倉の袴姿であっ
た。[1,p151]
橘は乃木大将[b]の話をよく生徒にした。乃木大将は当時、
中将で退役して、那須で農耕生活に入っており、将軍としては
華々しい道を歩んでいなかったが、その誠忠、礼節、質素な人
格を橘は敬慕していた。その乃木の「教育は人格と人格との接
触である」という考えを、橘はそのまま実践したのである。
「生徒は努めて校長に近接せよ」とは、こうした生徒との接触
を通じて、己の人格によって、生徒の人格を育てようとしたの
である。
■7.「祝いの印に煙草でもおごれ」■
明治37(1904)年2月、日露戦争が始まり、橘は第二軍管理
部長として出征。8月11日には遼東半島に上陸し、歩兵第
34連隊の第一大隊長に任ぜられた。
大隊書記であった内田清一軍曹は、こう書いている。
夜に入り勤務を終え、月にあこがれてたまたま幕舎に戦
友を訪(と)うに際し、橘大隊長殿の着任を喜ぶの声は各
幕舎より起こり、直接麾下(JOG注: 指揮下)にある予等
を羨むものの如く、祝いの印に煙草でもおごれなどと言え
るも面白し。[1,p163]
橘は「部下の統御」について、かつて『軍事新報』に寄せた
論文の中でこう書いている。
人はその心の底から、その人の誠心をうちあけて接する
ときは、どんな部下でも、その上官の命に従わないことは
ない。
ある人は、部下を統御するのは一つの術であると言って
いるが、自分はそうは思わない。統御するということは、
その人の心によって行われることであり、その心は誠心の
発露したものであらねばならぬからである。だから、統御
は術だとは言えないのである。術であり得るはずがない。
[1,p127]
教育と同様、軍隊における統御も「人格と人格との接触」と
考えていた。こうした橘の着任により、「将校、士卒の態度急
に引きしまれるかの様、一般の士気益々旺盛となれり」と、内
田軍曹は記している。
■8.「とうとう最期が来たようだ」■
8月24日夜、大隊は首山堡(しゅざんぽう)目指して、前
進を開始した。日露両軍主力計28万が初めて激突した遼陽会戦
の始まりである。26日は豪雨が夜を徹してやまず、露営した
全員がずぶぬれとなって一晩を過ごした。橘は「兵卒の苦労察
せられ落涙せり」と日記に書いた。
30日夜明け方、雨のように落ちてくる敵弾の中、夜襲を決
行し、橘は光きらめく愛刀を抜いて敵数名を倒した。内田軍曹
は、それに続いて大隊長旗を山上に立てて万歳を唱えた。
しかし、橘は数発の弾丸を受け、軍曹が橘を背負って高地を
下る途中、さらに7発の敵弾を受けた。窪地で敵弾を避けなが
ら衛生隊を待ったが、橘の傷口からは鮮血がほとばしり出て止
血のしようもなかった。
残念ながら天はわれに幸いしなかったようだな。とうと
う最期が来たようだ。皇太子の御誕生日である最もおめで
たい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望
とするところだ。ただ、残念ながら多くの部下を亡くした
のは、この上ない申し訳のたたないことだ。
こう言い残して、眠るように橘は逝った。
■9.「橘少佐の神霊に拝告」■
内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡にこう述べ
ている。
翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、遼陽街
の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、日本軍を歓迎
する情は至れり尽くせりのすばらしいものでした。
ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、もうす
でに隊長殿はこの世におられません。遼陽の歓迎ぶりがど
んなにすばらしいものであったか、語ろうと思いましても
この世におられません。・・・
私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してよりまだ
日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、
まるでずっと昔からの部下であったように接してください
ました。私はおかげさまで、いつも勇み励み、愉快な軍務
に服することが出来ました。・・・
崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長、故陸軍歩兵少
佐橘周太殿、ご神霊にご報告しなければならないことがいっ
ぱいありますが、眼は涙に曇り、胸ははりさけんばかりで、
思うがごとく述べ切れません。
ただ、願わくば、ご神霊を拝み、いつの日にか、再び地
下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであ
ります。[1,p169]
橘は着任後、わずか3週間にして、これほどの敬慕の情を部
下に抱かせたのである。「軍神」とはかくの如き人物であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(228) 広瀬武夫とロシアの人々
ペテルブルグの人々に深い敬愛の念を与えて、海軍大尉・広
瀬武夫はロシアとの戦いのために帰っていった。
b. JOG(218) Father Nogi
アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃
木大将をいかに描いたか?
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 坂憲章『明治の教育精神―橘周太中佐伝』★★★、出島文庫、H15
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