-----Japan On the Globe(181) 国際派日本人養成講座----------
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_/ The Globe Now: 北方領土交渉小史
_/_/ ~スターリンの「負の遺産」
_/ _/_/_/ ロシアの変転きわまりなき外交攻勢に、わが国
_/ _/_/ は信義と国際法で対抗してきた。
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■1.スターリンの大喜び■
その日、スターリンは、きわめて満足して、書斎の中をぐる
ぐる歩き回りながら、「オーチン、ハラショー!(よし、いい
ぞ!)」と繰り返した、という。
1945年2月4日から11日まで、黒海沿岸のクリミア半島の
保養地ヤルタで開かれた「ヤルタ会談」での一こまである。こ
こで米国のルーズベルト大統領は、スターリンが対日参戦の報
奨として要求していた樺太の南半分とクリール(千島)列島が、
ソ連に引き渡されるのに何の問題もないだろうと、答えたので
ある。
「樺太およびクリール諸島」は、ヤルタ会談でルーズベル
トとチャーチルがスターリンに対して同意したソ連の対日
参戦の対価だった。[1,p92]
これはわが国にとっては、不幸な出来事だった。しかし、ロ
シア国民にとっては、このスターリンの遺産は彼が喜んだほど、
素晴らしいものだったのだろうか。その後の半世紀の歴史を辿
ってみよう。
■2.国境確定の3条約■
現在、わが国が返還要求をしている北方領土とは、歯舞群島
(100km2)、色丹島(253km2)、国後島(1,499km2)、択捉島(3,184
km2)である。国後島は沖縄本島よりやや大きく、択捉島は鳥取
県とほぼ同じ面積である。これらを合わせると、千葉県全体よ
りも大きい。[3]
日露間の国境を画定した史上最初の条約は、1855(安政元)年
の日露和親通好条約(通称、下田条約)で、当時の実効支配の
状況から、上記4島は日本領、それより北はロシア領と取り決
めた。樺太はこれまでのとおり境界を設けず、日露混住の地と
された。これ以降、この4島はスターリンに奪われるまで日本
領土であり、ロシア領土となったことは一度もない。
しかし、主権の不明確な樺太は日露間のいざこざが絶えず、
明治8(1875)年、樺太・千島交換条約により、樺太はすべて
ロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。
明治38(1905)年の日露講和条約(ポーツマス条約)では、
日露戦争の勝利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲
された。
■3.条約違反の宣戦布告と、停戦後の侵攻■
昭和20(1945)年8月9日、ソ連は降伏5日前の日本に対し
て、宣戦布告をした。これは翌年4月まで有効であった日ソ中
立条約の完全な侵犯行為であった。
8月14日、日本がポツダム宣言を受諾すると、スターリン
は全千島列島、および、北海道の北半分をソ連領とすることを
要求した。トルーマン米大統領は千島については同意したが、
北海道については拒否した。
スターリンの命令により、8月15日の停戦成立以降も、ソ
連軍による千島列島侵攻が進められ、北方4島は8月28日か
ら9月5日までに占領された。
ソ連側は北方4島領有の根拠として、ルーズベルト大統領と
のヤルタ協定を上げていたが、わが国が参加していない協定が
わが国の領土を取り決める権限を持ち得ないのは、国際常識で
ある。また当事国アメリカも、同協定は首脳どうしの方針を述
べた文書に過ぎず、領土移転のいかなる法律的効果も持ってい
ないと、宣言している。[1,p93]
終戦前に北方領土に住んでいた日本人は1万7千人以上いた。
ソ連軍の侵攻によって本土から切り離された住民達の一部は北
海道に脱出した。ソ連監視兵から逃れるために、嵐の日に海に
漕ぎだして、海の藻屑となる家族も少なくなかった。
島内に残った島民も、略奪、暴行を頻繁に受け、強制労働に
従事させられた。昭和22、23年にかけて、残っていた島民
は、すべての財産を没収され、所持品は一個に制限されて、島
から追放された。島民たちは満杯の貨物船で本土に送還された。
■4.ダレスの巧妙な仕掛け■
終戦前から始まっていた米ソの確執は、1950年6月の朝鮮戦
争勃発を境に明確な対立となった。米国は日本を共産主義の防
波堤にすべく、サンフランシスコ講和会議において対日講和を
希望する国すべてを集めて、一括締結するという戦略を採った。
この時に、米国全権代表ジョン・フォスター・ダレスが採用
した戦略が、日本側に千島列島を放棄させておいて、しかもそ
の帰属先を決めない、という巧妙なやり方で、日ソの間に諍い
の種を蒔いておくというものだった。
アンドレイ・グロムイコ・ソ連全権代表は、ダレスの策略に
乗って、講和会議には出席したものの、北方領土におけるソ連
の主権が認められなかった事を不満に、講和条約には調印せず
に帰国してしまった。
逆に日本側は、吉田茂全権が受諾演説において、主権放棄し
た千島列島には、日本固有の領土である4島は含まれない、と
の指摘を行い、講和条約に調印した48カ国のどこからもこれ
に関する異論は提出されなかった。
ソ連側は、その後、北方領土領有の根拠として、ヤルタ協定
と並んで、このサンフランシスコ講和条約を上げるが、この条
約はソ連自体が調印しておらず、また4島が含まれていないと
いう日本側指摘にどこからも異議がなかった事から、その主張
には国際法上の根拠はない。
■5.2島返還論のトリック■
1953年のスターリン死亡後に実権を握ったフルシチョフは、
米国との平和共存路線に転換し、日ソ間の国交正常化交渉も19
55年6月から始められた。ソ連は歯舞、色丹の2島返還を示唆
したが、国後、択捉については、頑として応じなかった。
ソ連側の2島返還論は島の数では中間的妥協点のように見せ
かけながら、面積的には北方領土全体の93%を占める国後、
択捉をそのまま保持しようという巧妙なトリックであった。
結局、2島の返還と「領土問題を含む平和条約締結に関する
交渉を継続する」という文言の入った日ソ共同宣言がまとまり
かけたが、国交正常化を政界引退の花道としたい鳩山首相の足
下を見たフルシチョフは、発表前の土壇場になって「領土問題
を含む」の一節を削除することを要求し、日本側に飲ませた。
これがその後、ソ連政府が「日ソ間に領土問題は存在しない、
解決ずみ」と主張し続ける根拠となった。
日ソ共同宣言は、両国の首脳によって調印され、両国議会で
批准された条約に等しい文書となったが、日米安保条約改訂に
反撥したフルシチョフは1960年1月に、2島返還は「日本領土
から全外国軍隊の撤退」を条件とするという覚書きを送りつけ
てきた。批准後の条約に一方的に条件をつけるなどという国際
常識を無視したやり方に驚倒した日本政府はただちに反論を行
った。
■6.対日接近の繰り返し■
1968年のチェコ事件で、ソ連が同盟国に対しても軍事介入す
ることに衝撃を受けた中国は対米接近策に転換した。それに対
抗してソ連は経済発展めざましい日本への接近を図り、1972年
グロムイコ首相来日、それに対して田中首相の73年10月の訪
ソとやりとりがあったが、田中首相の日中国交回復優先の方針
で実を結ばなかった。
日中国交回復に対してソ連は報復措置をとることをほのめか
し、78年8月に平和条約が締結されると、北方領土に地上部隊
約1個師団(1万人弱)を配備して牽制した。以降、79年のア
フガニスタン侵攻、83年の大韓航空機撃墜(犠牲者には日本人
乗客28名を含む)、さらにSS20(中距離戦略核)の極東配備
などで日本国内の反ソ感情が高まり、日ソ関係は冷え込んだ。
85年3月に共産党書記長に就任したゴルバチョフは、軍拡に
よるソ連経済の疲弊から脱するために、ソ連の外交姿勢を革命
的に転換した。日本に対しても、日米安保条約の容認、ブレジ
ネフ時代に中断されていた北方領土墓参の再開許可、北方領土
配備のソ連軍の縮小、そしてソ連最高首脳として初の来日など、
改善努力を図った。
しかし、ゴルバチョフは、日ソ間に領土問題が存在すること
こそ認めたが、「日ソ共同宣言」で約束された2島返還につい
ては、「チャンスは消え去ったのだ」として否定した。両国議
会が締結した文書の一部を一方的に無視する姿勢は、国際常識
を蹂躙するそれまでのソ連のやり方と変わらなかった。そのた
め、日本政府もゴルバチョフの期待した経済協力、経済支援を
与えなかった。
■7.日本の協力は不可欠■
ゴルバチョフに北方領土を返還しないよう圧力をかけていた
のは、ロシア共和国大統領エリツィンだった。そのエリツィン
も、いざ実権を握ると、経済大国日本に接近する必要を痛感し、
ソ連邦解体の直前、91年11月「ロシア国民への手紙」を発表
した。
この中でエリツィンは、「ロシア人の利益の観点からみて、
日本との間に平和条約がないために両国関係が事実上凍結して
いるという状態に今後とも甘んじていくということは許し難い
ことである」と述べた。すなわちロシアにとって日本の協力は
不可欠であると認めた。
さらに国際社会の中でのロシアの将来とは、「合法性、正義、
国際法の諸原則の無条件の順守」にかかっていると主張してい
る。これは国際法に則って北方領土問題を解決しなければなら
ない、という決意表明であった。
また欧米諸国もロシア支援の負担を軽くするためには日本の
援助が不可欠であり、そのためにも北方領土問題の早期解決を
支持するとの姿勢が、90年7月のヒューストン・サミット、91
年7月のロンドン・サミットで表明された。
■8.2000年までの解決合意■
その後、エリツィンは経済改革の失敗、IMF(国際通貨基
金)からの融資条件として求められた厳しい国内経済対策、ポ
ーランド、チェコ、ハンガリーなどのNATO加盟などで追い
つめられ、打開策として早急な対日関係改善を求めた。それが
97年、橋本首相との「ノーネクタイ」のクラスノヤルスク会談
での「2000年までの平和条約調印を目指して最大限の努力を尽
くそう」という合意である。
しかし、交渉が進展しないまま、2000年末が迫り、政府、自
民党は焦りからか、2島返還を優先しようという意見や、野中
幹事長から「領土問題の解決は平和条約締結の前提条件ではな
い」と伝えられるような発言が出て、ロシア国内の返還反対派
を元気づけた。
一方、エリツィンに代わったプーチン大統領は、「クラスノ
ヤルスク合意は実現されている」と語った。結果はどうあれ、
「最大限の努力を尽くす」ことが合意の内容だという大胆な開
き直りである。
政策失敗との批判をかわすために、国益を損ねてまで合意の
期限を守ろうとするわが国の一部の政治家と、国益のためには
国家間合意を平気で踏みにじるロシアの政治家とは、見事な対
照をなしている。
■9.「負の遺産」■
北方領土に関する日露交渉の歴史は、ロシア外交の本質をよ
く表している。それは日ソ中立条約侵犯から始まり、対日接近
の必要から部分的に歩み寄っては、思い通りにならないと前約
を覆す、という繰り返しだった。
過去に日本の技術・経済協力を得て、シベリア開発を進めて
いれば、ロシアにとって巨大な国益につながったはずである。
しかし不法占拠した北方領土に頑なに固執し、かつ国際法も国
家間の約束も平然と踏みにじるロシアの外交姿勢は、日本国民
に不信感を植え付け、その機会を自らつぶしてきた。
信義を軽んずるロシアの外交姿勢は、ロシア国民の利益をも
害してきたと言えよう。スターリンが「オーチン、ハラショ
ー!」と快哉して得た北方領土は、その信義なき外交姿勢とと
もにロシア国民の「負の遺産」となっている、と言える。
一方、日本政府の外交姿勢は、一部の不見識な政治家をのぞ
いて、おおむね一貫して信義と国際法の原則に立つものであっ
た。マスコミではあまり報道されないが、北方領土返還を求め
る国民の署名も7千万人を突破し、衆参両院での返還決議も
27回に達するなど、わが国世論は圧倒的に北方領土完全返還
で一致しており、それが政府の一貫した政策を支えてきたので
ある。
北方領土問題は、むき出しの国益がぶつかり合い、時には無
法もまかり通る国際社会の中で、いかにわが国が信義を踏みつ
つ国際正義を主張していくか、という忍耐と試練の場である。
さらに圧倒的な世論が政府の政策を導きうるか、というわが国
民主主義の真価を問われている場でもある。
領土問題を棚上げして目先の利益に走るというような事があ
っては、国家の尊厳を失い、かつ民主主義の基盤をゆるがすこ
とになりかねない。それは次世代の日本国民にとって新たな
「負の遺産」を生むことになる。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、
千島の日本軍が立ちふさがった。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「日露国境交渉史」★★★、木村汎、中公新書、H5.9
2. 「変わる日露関係」★★★、安全保障問題研究会編、文春新書、
H11.9
3. 「北方領土問題対策協議会」http://www.hoppou.go.jp
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
知世子さん(モスクワ在住)より
最近「アンネの日記」という有名な話が上演されていたので、
行ってきました。そこで、まったく偶然に隣に座った老人がユ
ダヤ人で本人はイスラエル人と名乗っていましたが、芝居より
よっぽど面白い歴史的な事実をいろいろと聞かせてもらえまし
た。
なにより感動したのは、イスラエル人でありながら、イスラ
エル問題でも、「絶対に武力で解決してはいけない。話し合う
べきだ」という立場で、チェチェンの問題に関しても、客観的
な目で、まったく同じように考えていることでした。
残念ながら、今日のロシアでは、ほとんどの人が洗脳された
ように、チェチェン人が悪だと決め込んで、自分たちが未開な
チェチェンを制圧して、文明化するのが善だとばかりに、信じ
こんでいます。恐ろしいことです。
チェチェン人の実業家を暗殺するために、去年の3月、小型
飛行機を事故に見せかけて、計画的に墜落させた疑いまである
ようです。同じ飛行機には、有能な若手報道記者も乗っており、
乗っていた全員が亡くなられたようです。(今、その特集番組
を見ていたところです)
シベリアやサハリンのような地方では、どれだけの若者が召
集されて、チェチェンで若い命を失っているか、そして、多く
の人がなんのための戦争か、その実感が首都では非常に薄いの
です。富と権力が集中したモスクワには、なにか偽善的なもの
がだんだん溢れてきています。私はそういうロシアの中の不公
平や、嘘臭い政治や戦争に慣れきったところに、本当に嫌気が
さし、絶望していたので、彼の考え方に目が開かされた気持ち
でした。
■ 編集長・伊勢雅臣より
近くて遠い国ロシアの事をもっと知る必要がありますね。
■JOG(181) 「北方領土交渉小史」について
ひとみさん(中学校教師)より
いつも楽しみに読ませていただいております。最新刊の北方
領土に関しては、TOSS インターネットランド(インターネッ
トでの教材リンク集 http://www.tossland.net/ )で「北方領
土」で検索していただくと、兵庫県の谷和樹先生が小中学校で
の授業用にホームページを紹介してくださっています。とても
有名な授業実践です。私も谷和樹先生のホームページを参考に
授業をさせていただきましたので、より一層興味深かったです。
中学生には、ぜひ今回の国際派日本人養成講座を読ませようと
思っています。
■ 編集長・伊勢雅臣より
インターネットを活用して、子どもたちに北方領土を正しく
教えようという谷先生の授業には、感銘を受けました。こうい
う授業を受けられる子どもたちの幸福をうれしく思います。
3月24日(土)熊本での小生の講演会には多数ご参加いた
だきありがとうございました。福岡、長崎、大分、鹿児島など
遠方からも多くの方にお越し頂き、感激しました。今後、他の
地区でも開催しますので、よろしくお願いします。
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まぐまぐ28,437 Melma!1,845 カプ1,740 Macky!850 Pubizine788
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