No.252 ジョン万次郎とメリケの恩人

 
アメリカの捕鯨船に救われた漂流少年は、近代技術を学び、
開国間際の日本に帰っていった。

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■1.異国の帆船■

 「船じゃ、船がきゆう」。仲間の声で洞窟に寝ていた万次郎
たちは、はね起きた。崖をよじ登り、破れかけた襦袢を脱いで、
懸命に振って叫んだ。「助けてくれえ」。

 やがて船が近づいてきた。大きな異国の帆船だった。二艘の
ボートが降ろされ、浜に漕ぎ寄せてくる。「ありゃ、異人じゃ
ねや」「逃ぐっがか」と怯える仲間に、万次郎は「とろいこと
いうちょらんと、助けにきた神さん逃がすんか」。

 ボートが暗礁を避けて止まると、異人達が声をあげて万次郎
たちを呼ぶ。万次郎は崖を滑り降り、海に入って抜き手を切っ
て泳いだ。ボートに着くと異人達が手を差し伸べて、引きあげ
てくれた。「おーきに」と万次郎は船底にひれ伏し、感謝の言
葉を述べた。仲間達も続いて泳いできた。

 1841年6月27日、現在の東京港から570キロ南下した八
丈島と小笠原諸島の中間にある無人島、鳥島での事であった。
万次郎たち5人は土佐の漁師で、足摺岬沖で漁をしていた所を
急の嵐で黒潮に流され、鳥島にたどり着いて約5ヶ月ほど救い
を待っていたのであった。万次郎、14歳の時であった。

■2.ノースメリクのエナイツライ■

 万次郎たちを救った船は、アメリカ合衆国マサチューセッツ
州を根拠地とする捕鯨船ジョン・ハウランド号であった。全長
54メートル、375トンと捕鯨船の中でも巨大で、食糧用に
生きた牛や豚まで飼育され、船底には鯨油を詰める大樽が6千
個も積み上げられている。乗組員は34名、船長はウィリア
ム・H・ホイットフィールド、36歳であった。

 救われた万次郎たちは、「筒袖に股引」の服に着替えさせら
れ、豚肉の角煮と菜汁を少しばかり与えられた。空腹を続けた
後で、一遍にたくさん食べると腹をこわすからである。万次郎
がすぐに食べ尽くして、手を合わせて「もっちっと頂戴したい
わのーし」と頼むと、船員たちはその仕草に笑い声をあげた。
「この旦那らは、ええ人らや」。万次郎は敏感に感じ取った。

 船の中の生活が始まると、万次郎は船員たちに近づいては、
身振り手振りで話しかけ、掃除などの雑用を熱心に務めた。次
第に彼らの言葉エンケレセ(イングリッシュ)の片言を覚え、
この船はノースメリク(ノース・アメリカ)のエナイツライ
(ユナイテッド・ステイツ)の船だという事も分かった。

■3.ゼア・シー・ブローズ(潮吹き発見!)■

 万次郎は見張りをやらせて貰うようになった。帆柱の頂上の
見張り籠に立って、望遠鏡を見ながら、水平線を見守る。はる
かかなたに鯨の潮吹きを認めると、よく透る高声で叫ぶ。

 ゼア・シー・ブローズ。 ブロオオーズ。(潮吹き発
見!)

 見張りのセリフを万次郎は巧みに真似る。船は鯨の方角に向
かい、6人乗りのボートを何艘か降ろして鯨に接近させ、何本
も銛を撃ち込んで、鯨が息絶えるまで格闘する。見事、しとめ
ると、尾びれを鈎付きロープで引っ掛け、母船から引っ張り上
げる。同時に薙刀のような大きな刃物で、皮に切れ目を入れる
と、肉は海中に落ちて、皮だけが引き揚げられる。この皮を熱
湯で煮て鯨油をとり、陸揚げした後にロウソクや石鹸、灯油に
加工される。

 この年に全世界で操業していた捕鯨船は882隻、うちアメ
リカ船が652隻で、最盛期には年間1万頭も捕獲していた。
捕鯨船は当初、大西洋に集中していたが、乱獲の結果、鯨が激
減すると、アフリカや南米大陸の南端を廻って、太平洋にまで
進出し、ついには日本近海にまで出没するようになったのだっ
た。

■4.ジョン・マン■

 鋭敏な視力と感覚を持つ万次郎は、優秀な見張り役として認
められるようになった。そのうちに船長に頼んで、ボートの漕
ぎ役となり、さらに銛打ちの練習を必死にして、ついには何頭
か自ら鯨をしとめるまでになった。いつのまにかジョン・ハウ
ランド号という船名をとって、ジョン・マンと呼ばれるように
なった。

 34名の船員たちは大洋の真っ直中で他に頼るものもいない
運命共同体である。力のある者は日本人少年でも取り立てられ
ていく。メリケたちは万次郎を弟のように可愛がり、やがて船
長も万次郎の利発さを気に入り、夕食後に読み書きを教えてく
れるようになった。アルファベットを習い、単語を一つ一つ頭
に刻み込んでいく。

 親はペエラン、子はチルレン、日はシャン、海はオセア
ン、、、

 黒人の若者ルイスからは、黒人が字を読めないので、メリケ
では馬鹿にされていると聞き、万次郎の勉強にはいっそう熱が
入った。

■5.マサチューセッツ州フェアヘブン■

「マンよ。お前は私とフェアヘブンに行くか」。船長に何度も
尋ねられるたびに、万次郎はついていくと答えた。数年前に妻
を亡くしたホイットフィールド船長は、万次郎を養子にして、
マサチューセッツに連れていく決心をしたのである。他の4人
はハワイのホノルルで船を降ろされ、現地政府に身柄を預けら
れた。

 アメリカに行くと決めた万次郎に、水夫長はこう言って拳闘
と銃の使い方を仕込んでくれた。

 この船に乗り込む者は、生死をともにしてきた仲間さ。
だから兄弟のように心が通じ合っている。だが、メリケへ
着けばいろいろな男女がいて、なかにはジョン・マンが日
本人だというので、めずらしがったり、意地のわるいこと
をしかけてくる者もいるかもしれない。ばかな奴の言葉は
聞き流しておけばよいが、乱暴なふるまいをする者があら
われたときは、マンは男の誇りを守らねばならない。

 1843年初夏、ジョン・ハウンド号は3年7ヶ月の航海を無事
に終えて、マサチューセッツ州ニューベッドフォードの港に戻
った。万次郎はホイットフィールドとともに、隣村のフェアヘ
ブンに住むようになった。

■6.ジョン・マンを見れば、ばかにはできない。■

 万次郎は隣家の女教師が経営している子供たちのための小さ
な学校に通うようになった。午前中は子供たちとともに、書物
で文章を学ぶ。気だてが良く優しい万次郎は、子供たちに大人
気で、竹とんぼなどの日本の遊びを教えて、大流行させた。

 午後は家の内外の片づけや薪割りをする。万次郎の骨身を惜
しまない働きぶりと、手際の良さは近所でも評判となった。夜
は、隣家の女教師から、英語の個人教授を受ける。万次郎は教
えられたことを何度も反復暗唱し、倦む所がなかった。

 わえはパシフィック・アセアンで拾われてきた土佐の貧
乏漁師じゃきに、メリケの男らの三層倍もはげまにゃ、こ
の国で生きていけなあ。ほんじゃきに、やったるぜよ。

 女教師も万次郎の理解力と記憶力が非常に優れているのに驚
いた。近隣の人々はこう言い合った。

 ジャパンというのはどんな島か知らないが、未開な生き
方をしているのだろう。しかし、ジョン・マンを見れば、
ばかにはできない。

■7.恥ずべき偏見■

 やがてホイットフィールドはアルバティーナという女性と再
婚し、万次郎とともに教会の日曜学校で家族席を借りたいと願
った。ところが、教会の代表者が訪れてきてこう断った。

 われわれはご夫妻とは今後もよろこんでおつきあいをし
たいと望んでいます。しかし教会での祈祷の席にニグロと
見まちがうような少年を同席させ、日曜学校でアメリカの
少年少女と教育するわけには参りません。ついては教会に
黒人用の教室が用意されていますので、そちらにお入れに
なられてはいかがでしょう。

 ホイットフィールドは、黙ったまま部屋のドアを開けて、代
表者を帰らせた。その後で、万次郎にこう言った。

 あの連中はキリスト教徒でありながら、恥ずべき偏見に
とらわれている。マンは心配せず、私に任せておきなさい。

 ホイットフィールドは、その後、万次郎を受け入れてくれる
別の宗派に宗旨替えして、3人一緒に日曜毎に教会へ行くよう
になった。

■8.バートレット・アカデミー■

 1844年1月、万次郎はホイットフィールドに勧められて、バ
ートレット・アカデミーの入学試験に挑戦した。この学校は、
捕鯨業の中心にある学校として、操船に必要な高等数学、測量
術、航海術などをも教えていた。ここを卒業したら、航海士と
なり、船長になるのも夢ではないと、ホイットフィールドは説
いた。

 キャプテンは、わえの神さんじゃなあ。ほんまに足向け
て寝られんお人じゃ。キャプテンになれりゃ、仰山金儲け
しきゆうに、いつか土州(土佐)に帰りゃ、お母はんや兄
弟を楽にさせちゃれらあ。わえは死んでもバートレット・
アカデミーに入るろう。

 万次郎は起きている間のほとんどの時間を書物に向かい、必
死の受験勉強を続けた。しかし、アメリカ人の生徒でさえ、落
ちることの多い学校である。試験の問題はほとんど解けたが、
万次郎は不合格を覚悟していた。学校の玄関の黒板にチョーク
で書かれた合格者リストに自分の名を発見した時には、体の中
で歓喜が爆発した。

 家に帰り、居間で気遣わしげに待っていた夫妻に合格を告げ
ると、ホイットフィールドは万次郎を厚い胸に抱きかかえて、

 やったぞ。ジョン・マン。それでこそ私の息子だ。

 おおきに、ほんにキャプテンのおかげじゃねや。うれし
ゅてたまあるか。

 万次郎は背を波打たせて号泣した。アルバティーナも前掛け
を顔に押しあてた。

■9.首席卒業■

 2月から授業が始まったが、本格的な数学や測量術は難解で、
1時間の授業について、2、3時間もの自習を行わなければ、
ついていけなかった。一ヶ月ほど経った頃、「もうついてけ
ん」と絶望しかけた。他の少年たちも、日本の漁師が高度な数
学などつかいこなせるはずがない、と思っていた。だが、日が
経つにつれ、万次郎は頭角をあらわしていき、皆は彼に一目置
くようになった。校長は授業中に言った。

 このクラスでいちばん学業の進歩がめざましいのはジョ
ン・マンだよ。皆、彼を見習うがいい。彼は英語を覚えて
から3年経っていないんだ。君たちはまもなく彼に学問の
うえで追いついていけなくなるよ。

 校長の予言通り、万次郎は翌年3月に首席でバートレット校
を卒業した。さらに船内で貴重な技術である樽作りを、住み込
みで習い覚えた。万次郎の腕はすぐに評価され、航海士として
雇われた。彼を乗せたバーク・フランギラン号は1846年5月、
ニューベッドフォード港を出航した。万次郎はまだ20歳前だ
った。

■10.一人の捕鯨船長の親切な行いによって■

 この航海で優れた手腕を発揮した万次郎は、船中の尊敬を集
め、副船長にまで昇格した。万次郎は近代的航海術を身につけ、
またアメリカ社会を生きた最初の日本人と言える。

 この後、万次郎は幕末期の日本に帰り、各地で自らの見聞を
伝える貴重な働きをする。薩摩では開明君主として名高い島津
斉彬公にアメリカの社会事情や科学技術を語り、小型の洋式帆
船まで建造した。さらには、薩摩藩からイギリスへ送られる留
学生に英語の教授を行った。

 土佐では城下随一の知識人・河田小龍と起居を共にして、西
洋事情を語り、その門下から坂本龍馬が出た。龍馬はもともと
過激な攘夷論者だったが、一転して開国に目覚めたのは、万次
郎から伝えられた海外事情を学んだからだった。「万次郎さん
は私の恩人」と龍馬は言っていた。

 また日米修好通商条約の批准書交換で咸臨丸がアメリカに派
遣された時には、通訳と操船の両方で活躍した。この船には若
き日の福沢諭吉が乗っていた。こうして万次郎の学んだアメリ
カの社会事情と近代技術は、日本の開国と維新のいろいろな場
面で、重要な働きをした。

 万次郎がホイットフィールド夫妻に再会したのは、明治3
(1870)年10月だった。フランスとプロシアの戦争を観戦させ
るために訪欧団が組織され、アメリカ経由で行くことになった
ので、万次郎も同行することになったのである。この時、万次
郎は43歳、アメリカを出てから20年以上も経っていた。

 万次郎がホイットフィールド家のドアを叩くと、65歳にな
っていた老船長は「俺の息子だ。ジョン・マンが帰ってきてく
れたか」と言って、万次郎を抱きしめ、頬ずりをした。万次郎
はあふれる涙を抑えることが出来なかった。地元新聞は万次郎
の帰郷を次のように報じた。

 ここでわれわれの捕鯨産業が日本の開国と世界貿易に貢
献したことを忘れてはならない。つまり一人の捕鯨船長の
親切な行いによって、漂流少年がフェアヘブンの公立学校
で教育を受けた。その結果、アメリカと日本の交友関係が
ひらかれ、促進されることになったのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■ ~日米関係史~
a. JOG(132) 人種平等への旗手~米国黒人社会の日本観
 歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリ
カ黒人だった
b. JOG(197) 太平洋の架け橋となった人形たち
 日系移民排斥から悪化する日米関係を懸念して1万2739体
の人形がアメリカから贈られた。
c. JOG(054) 無言の誇り
 収容所に入れられた12万人の日系人

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 津本陽、「椿と花水木 上下」★★★、新潮文庫、H8
https://www.amazon.co.jp/dp/4344412583/japanontheg01-22/

2. 星亮一、「ジョン万次郎」★★★、PHP文庫、H11
https://www.amazon.co.jp/dp/4569573193/japanontheg01-22/

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「ジョン万次郎とメリケの恩人」について 匿名希望さんより

 以前読んだ、「椿と花水木」を思い出しました。波瀾万丈と
いうのは彼の人生にぴったりの言葉ですね。往年の活躍に比べ
て、晩年の寂しさはなんかすごく切なかったです。キャサリン
との恋愛そして死別も印象に残っています。

 渡部昇一氏の「かくて昭和史は甦る」の中でも触れられてい
ますがなぜ徳川幕府が腰抜けと言われても、ペリーの艦隊をす
んなり受け入れたのか?よく言われるのが「平和な時代が長く
続いてあわてふためいたからだ」ともっともらしい理屈がつけ
られていますが、実はジョン万次郎がペリーの艦隊の目的は捕
鯨船の基地を作るためで侵略ではないと幕府の首脳に話してい
たからで、圧倒的な武力の差のある相手に対して無用な争いを
避けるという賢明な判断があったからと言うのが実状のようで
す。

 江戸時代はよく暗黒の身分社会のように言われていますがジ
ョン万次郎のような漁師でも有能で有れば幕府の首脳に取り立
てられるといった柔軟性を持っていたというような面にも目を
向けるべきではと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 当時の幕府は、蒸気船やパナマ運河建設の情報も掴んで、総
合的な世界情勢判断の結果、開国の決断をしたようです。万次
郎の取り立てといい、鎖国して身分制社会の中で居眠りばかり
していた、というのは、誤った先入観かも。

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