-----Japan On the Globe(169) 国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:欧州合衆国案の母・クーデンホフ光子
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_/ _/_/_/ 欧州連合の原案を提唱したカレルギー伯爵は、
_/ _/_/ 日本人として誇りを抱く光子に生み、育てられた。
-----H12.12.16 31,133部------------------------------------
■1.欧州合衆国の理想■
ウィーンの街は、王宮、市庁舎、オペラ座、シュテーファン
大寺院、そしてやや郊外にあるシェーンブルン宮殿と、重厚か
つ壮麗な建築物に富み、650年も続いたハプスブルグ王朝の
盛時を今も偲ばせる。
19世紀にはオーストリア・ハンガリー二重帝国として12
もの多民族を抱えていたが、民族独立の風潮の中で、1914年、
皇太子フランツ=フェルディナンドがセルビアの一青年に暗殺
されたことを契機に、ヨーロッパ全体を巻き込む第一次大戦と
なった。
死傷者3千5百万人もの犠牲を出して大戦は1918年に終わっ
たが、このような悲惨な戦争を二度と起こさないためには、欧
州の諸民族が平等に結束して、一つの共同体となる以外にない
・・・第一次大戦後にそう主張して、今日のEU(ヨーロッパ
連合)の起源となる案を提唱した人物が、オーストリアに現れ
た。リヒャルト・クーデンホフ・カレルギー伯爵である。この
リヒャルトを生み、育てた母親は日本人で、光子という。
■2.ハインリッヒと光子■
明治25(1892)年2月29日、オーストリア・ハンガリー帝
国の代理公使として、青年貴族ハインリッヒ・クーデンホフ・
カレルギーが来日した。クーデンホフ・カレルギー家はハプス
ブルグ王家に近い名家であり、現在のチェコに広大な所領を持
つ大貴族であった。
その世継ハインリッヒは華麗な軍人生活を送っていたが、愛
好するショーペンハウエルの影響で仏教の研究をしたいと思い、
日本に来ることを熱望していたのである。
来日早々、牛込の坂を馬で登っていた所、乗馬が路上の氷に
足を滑らせて横転し、ハインリッヒもしたたかに体をうった。
それを目撃した青山光子は臆する所無く、家の者を呼んで救護
し、医者に手当をさせた。
かいがいしく看護する光子の姿は、ハインリッヒの心を打ち、
感謝の意も含めてオーストリア公使館に勤めてはくれないか、
と頼むと、すぐに応諾した。出会って半月もたたない3月16
日に二人は結婚届けを出している。まさに運命的な出会いであ
った。
■3.外交官夫人■
当時は人種差別が公然と行われていた時代である。日本は極
東の未開な一小国として見られていた。光子はそんな日本の、
しかも平民の出身である。ハインリッヒは、東京・横浜に居留
する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えた。
もし、わが妻に対して、ヨーロッパ女性に対すると同等
の取り扱い以外を示す者には、何人を問わず、ピストルに
よる決闘をいどむ。
これに関して、ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように
日記に記している。
決闘は一回も行われなかった。だれも彼も、この新しい
オーストリアの外交官夫人により、彼女の優美と作法によ
り、魅了された。外交団全体が彼女に対して尊敬の念を示
した。
結婚の翌年には長男ハンス、翌々年には次男リヒャルトが生
まれた。
■4.日本人の誇りを忘れないように■
明治29(1896)年、ハインリッヒは足かけ5年に及ぶ日本滞
在を終え、帰国した。その年の正月に二人は宮中参賀に招かれ
ている。光子が母国日本を去る前に、せめて最上の光栄の思い
出を作ってやろうという思い遣りもあったのであろう。光子は
皇后陛下から次のようなお言葉を賜った。
遠い異国に住もうとなれば、いろいろ楽しいこともあろ
うが又随分と悲しいことつらいこともあろう。しかしどん
な場合にも日本人の誇りを忘れないように---。宮廷衣装
は裳を踏んで転んだりすることがあるから気をつけたが宣
い。
二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の
丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着いた。ハインリッヒは
ちょうど父が亡くなり、一族の長となったので、外交官生活か
ら退き、大地主として領地の管理に専念することにした。
一族の親類知己は、東洋の未開国から連れられてきたアジア
人女性に冷たい目を向けた。小姑たちは光子の着こなしや立ち
居振る舞いという末梢的なことでチクリチクリとあてこすった
りしたので、光子はつらさのあまり何度も日本に逃げ帰ろうと
思った。
そのような時に、光子を励ましたのが「日本人の誇りを忘れ
ないように」という皇后陛下のお言葉だった。そして「裳を踏
んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、
貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて
分かった。
■5.女学生の生活■
ある日、子供が教科書を開いて自習している時に、「お母様、
これは何でしたっけ」と光子に聞いたが、日本で尋常小学校し
か出てない光子には答えられない。光子は、はっと思った。
「これではいけない」 ヨーロッパ人の母なら当然心得ている
事を、自分が知らないのでは、日本女性の名折れである。
そこで光子が考えたのは、自分も家庭教師について、子供よ
り先に勉強しておき、子供から何を聞かれても答えられるよう
にしておく、ということであった。さらに周囲に馬鹿にされな
いための語学や教養も必要だ。次男のリヒャルトは、自伝でこ
う回想している。
母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送
っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フラ
ンス語、歴史、および地理を学んでいた。その外に、母は
ヨーロッパ風に座し、食事をとり、洋服を着て、ヨーロッ
パ風に立ち居振る舞いすることを学ばなければならなかっ
た。
睡眠時間を削ってまで、立派な母親となるために勉強に打ち
込む光子の姿は、子どもたちの心に深い影響を与えたようだ。
後にこのリヒャルトは、ヨーロッパ合衆国の実現に向けて、終
生たゆみない研究と運動を続けていくことになる。
■6.これからは自分でいたします■
1906年、夫ハインリッヒが急死した。わずか14年の夫婦生
活であった。異国に一人残された光子は、今まで二人で築いて
きた世界が足もとから崩れ去っていくような気がした。
しかし、悲しみに浸っているひまはなかった。ハインリッヒ
は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、
いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託さ
れるべし、と書き残していたのである。
広大な領土と厖大な財産の管理を、未開国から来た一女性に
任せておけるはずもない、と家族親戚は驚愕狼狽した。しかし、
光子はそんな周囲に断固として言い切った。「これからは自分
でいたします。どうぞよろしくご指導願います」
日本女性がこのような任につくには不適当であると、裁判ま
で起こされたが、光子は自ら弁護士を雇い、時間はかかったが、
訴えを退けた。
光子は、法律や簿記、農業経営の勉強もして、領地財産の管
理を自ら立派にこなしていった。さらに亡夫の精神に沿って、
立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児に
も打ち込んだ。長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳。
子どもたちが成年に達するまでは、日本に帰ることをあきらめ
よう、と光子は決心した。
表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙し
い毎日を送っていたが、望郷の念はやむことはなかった。時折
日本の着物を着て、何時間も鏡の前に座っている時が、最も美
しく見えた、とリヒャルトは回顧している。また正座して毛筆
で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通
は出していた。
年老ひて髪は真白くなりつれど今なほ思ふなつかしのふる
さと
老年になってからの和歌である。「私が死んだ時は、日本の
国旗で包んでもらいたい」と口癖のように言っていたという。
■7.オーストリアの愛国者として■
1914年、第一次大戦の勃発に、光子は胸をさし貫かれる思い
をした。日本は日英同盟から英国に加担し、極東でのドイツ軍
と戦端を開いたが、オーストリア・ハンガリー帝国とは戦うべ
き理由もなく、友好関係を維持したいと願っていたのだが、国
交断絶を言い渡された。
両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦
当時はヒステリックな反日感情が沸き上がった。ウィーンにい
た外交官や留学生などもみな国外退去して、光子はこの広大な
帝国にただ一人残る日本人となってしまった。
日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに
威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がり、仲
間の貴族や領民が次々と光子のもとにお祝いにかけつけたのだ
が、今度は敵国となってしまったのである。
光子は長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、
赤十字に奉仕した。光子らの甲斐甲斐しい看護ぶりに、人々は
好感を抱いた。
さらに領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大
量の馬鈴薯を実らせた。光子は収穫した馬鈴薯を、借り切った
貨車に詰め込んで、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にま
で運ばせた。
前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア軍の兵士達は食
糧難に悩まされていたが、「生き身の女神さまのご来臨だ」
と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝んだ。馬鈴薯作りは終戦
まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だった。
■8.名誉と義務と美しさ■
大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・
ハンガリー帝国からは、ハンガリー、チェコスロバキア、ユー
ゴスラビアなどが新国家として独立し、ポーランドやルーマニ
アにも領土割譲されて、解体の憂き目にあった。
大戦で疲弊した上に、28もの国家がアメリカの2/3ほど
の面積でひしめき合い、民族対立の火種を抱えたままでは、い
ずれヨーロッパに第二の大戦が起こり、世界平和をかき乱す禍
の元となってしまう。
ウィーン大学を卒業していた次男リヒャルトはこう考えて、
1923年、著書「パン・ヨーロッパ」を発表した。ヨーロッパの
28の民主主義国家が、アメリカのような一つの連邦国家とし
てまとまるべきだ、という大胆な提案だった。
リヒャルトの理想に、人々は、分析を特徴とする西洋思想に
対して、総合・統一という東洋的考え方を感じ取った。そして
その著者の母は日本人であるという驚くべき事実が伝えられて
くると、さまざまな新聞が光子に新しい名称を贈った。曰く、
「欧州連合案の母」、「欧州合衆国案の母」、「パン・ヨーロ
ッパの母」、、、
リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロ
ッパの政治思想に大きな影響を与え、第2次大戦後のヨーロッ
パ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EE
C)、そして現在のヨーロッパ連合(EU)と着実に発展を遂
げつつある。
1941年8月28日、光子は卒中発作で、突然、しかし静かに
亡くなった。母国を離れて45年目であった。リヒャルトは母
についてこう述べている。
彼女の生涯を決定した要素は3つの理想、すなわち、名
誉と義務と美しさであった。ミツ(光子)は自分に課され
た運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保
ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである。
■リンク■
a. JOG(069) 平和の架け橋
他者との間に橋をかけるためには、「根っこ」と「翼」を持た
ねばならない。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「クーデンホフ光子伝」★★★、木村毅、鹿島出版会、S51.2
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