No.1320 桓武天皇が遺した「後世への恩恵」


 桓武天皇は、巨大な財政負担に耐えながらも、国家の将来のために平安京造営と東北蝦夷の帰順という二大事業を敢行した。

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■1.「民のために軍事(蝦夷の平定)と造作(平安京建設)を止めるべし」

 昨日は一年ぶりくらいで京都駅で降りましたが、どちらを見ても大きな荷物を抱えた欧米人の観光客の姿が目立ちました。相変わらず京都は日本観光の中心のようです。

 先年、2025年大阪万博の招致に関する仕事でパリやロンドンにある各国大使館を回ったことがありましたが、外交関係の人々の間でも大阪を知っている人はほとんどおらず、京都はみな知っているので、「京都から新幹線で30分の都市」と紹介をしなければなりませんでした。やはり京都こそは日本の長い歴史と文化の象徴です。

 この京都を建設して平安時代を始めたのが、桓武天皇です。しかし、その財政負担は巨大で、晩年にはこんな逸話がありました。

 延暦24(809)年12月7日、69歳の桓武天皇の御前で「天下の徳政」について、30代の青年参議・藤原緒嗣(おつぐ)と60代の老参議・菅野真道(すがののまみち)が議論しました。

「天下の徳政」とは、徳のある政治とは何か、今の政治はその理想に叶っているか、ということですが、緒嗣はズバリと直言しました。

「現在、天下を苦しめているのは軍事(蝦夷の平定)と造作(平安京建設)です。この二つを止めれば、百姓(民)の暮らしを安んずることができるでしょう」

 蝦夷の平定と平安京の建設は、天皇の25年以上の治世の二大事業でした。それを民の負担になっているから中止すべしという大胆な提言です。真道は平安京の造営にも携わっていたこともあり、断固反対しました。しかし桓武天皇は緒嗣の提言を入れたので、世の識者は天皇の英断に感嘆したと記録されています。

 決断は素早く実行され、3日後には平安京の造営事業を担当していた造宮省が廃止されました。天皇は1年近く前から闘病中であり、3週間後の正月には病のために新年の朝賀も中止され、3月17日には崩御されました。

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■2.目鼻のついた二大事業に自ら決着をつけた桓武天皇

「軍事と造作を止めるべし」とは言っても、途中で投げ出したわけではなく、この頃には両方とも既に目鼻がついていました。

 蝦夷平定の方は、3年前の延暦21(802)年に蝦夷の首領アテルイが降伏し、翌年には征夷大将軍・坂上田村麻呂がアテルイの根拠地よりもはるか北に志波城を築いて、朝廷の統治領域を大きく広げていました。

 また、平安京は延暦12(793)年1月に遷都が宣言されて、造営開始。翌年、桓武天皇が遷られ、平安時代の幕開けとなっています。「徳政」論争の時点では足掛け13年も造営が進められており、朝廷運営に必要な建物はあらかた完成していたでしょう。

 緒嗣と真道の論争は、桓武天皇が仕組んだ政治的儀式ではないか、という説があります。確かに自分の命も長くはない、二つの事業に目鼻がついた今、自分の治世としてのけじめをつけておこう、と考えられても不思議はありません。果断な構想力・実行力を持つ桓武天皇だけに、十分ありうることです。


■3.「当面は大きな負担となったが、後世にはその恩恵にあずかることとなった」

 それにしても、この緒嗣は後に、国家財政再建のために、藤原鎌足以来の特別な勲功に対して与えられた功封(こうふ、私有領地)1万7千戸を藤原一族ともども朝廷に返還するほどの人物でした。窮乏する民のために、そろそろ二つの事業の幕引きを図っては、と桓武天皇に内奏した、とも考えられます。

 想像を逞しくすると、天皇は、それは良いとしても、老参議・菅野真道は平安京造営にも功があったので、反対するであろう。それなら朕の前で真道と議論してみせよ、と命じたのかもしれません。

 緒嗣の父親、藤原百川(ももかわ)は、桓武天皇の力量を見込んで、強力に皇位に引き立ててくれた人物でした。桓武天皇は母親が百済からの帰化人一族出身で身分が低かったために、皇位につける可能性はほとんどありませんでしたので、百川には深く恩義を感じていました。その恩に報いるために、ここで息子の緒嗣に花を持たせてやろうという思いもあったのかも知れません。

 その緒嗣が編纂に加わった『日本後紀』は、桓武天皇の崩御に際して、こう記しています。

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 内には興作を事とし、外には夷狄(いてき)を攘(う)つ。当年の費(ついえ)と雖(いえど)も、後世の頼(たより)とす。

 内には造営事業を行い、外には蝦夷を制した。(この二大事業は)当面の大きな負担となったが、後世への恩恵となった。
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 この一文は緒嗣が、桓武天皇への追慕を込めて書いたように思えてなりません。

「後世への恩恵」は、現代の我々にも及んでいます。以下、桓武天皇の成し遂げた二大事業が、我々にとってどのような意味を持っているのか、考えてみましょう。


■4.「永遠の利用にたえる壮麗な都をつくりあげた」

 まず、京都の存在意義ですが、これについては多く語る必要もないでしょう。千年以上もの間、日本の首都として国を担ってきました。千年も都であり続けたのは、偶然ではありません。西本昌弘・関西大学教授は、著書『桓武天皇』の中で、次のように評しています。

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 平安京は水陸交通の要衝に位置し、四方の諸国から人びとが集まりきたるのに便利な、広い平野のなかに建設された。桓武は一時の負担をものともせず、永遠の利用にたえる壮麗な都をつくりあげたのであった。[西本、p50]
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 桓武天皇は最初に長岡(京都府向日市)に都を移し始めましたが、桂川の氾濫などで、わずか10年で平安京に再度、遷都せざるをえなかったのです。天皇はこの失敗から多くを学び、平安京建設に生かしたのです。

 それにしても、桓武天皇はなぜ奈良を離れて、京都に都を移したのでしょうか? いくつかの説がありますが、最も支持されている説は、奈良の仏教界が堕落・腐敗しながらも、政治への影響を強めており、それと距離を置くため、というものです。

 律令政治のもとでは、僧侶は課税されませんでした。課税逃れのために勝手に僧となり、奈良の大寺院に田地の名義を寄進する者が多くいました。また諸寺が貧窮の民に高利貸しまでする事もありました[坂本、p126]。桓武天皇は、こうした事を禁じましたが、抜本的に改革するために、都を移し、なおかつ、諸寺には平安京への移転も、寺院新設も認めなかったのです。

 桓武天皇自身は、即位前には皇族ながら大学頭(かみ)として、現在の東大総長のような職に就いています。(それだけ即位の可能性はないと見られていたからです)。そして、寺院は教学研究と僧侶の修行の場とすべきと考えていました。

 平安京では天皇は最澄を引き立てました。最澄は、平安京を見下ろす比叡山に仏教の総合大学とも言うべき延暦寺を建て、ここから法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍などの名僧が育っていきます。日本仏教の抜本的改革もその後の発展も、桓武天皇の「後世への恩恵」の一つなのです。[JOG(1278)]


■5.蝦夷の反乱

 蝦夷の平定についてはどうでしょうか? まず押さえておくべき大前提は、蝦夷は東国地方に住んでいて大和朝廷に帰順していなかった和人か、あるいは後のアイヌ人なのか、二つの説がありますが、アイヌ人にしても和人と同じく縄文人の子孫ですから、ほとんど同族なのです。いずれにせよ、蝦夷を服属させる事業は、民族の統合でした。

 蝦夷は新潟市、米沢市、仙台市あたりを結んだ線より北側に住んでいましたが、彼らを朝廷の統治下に置こうとする動きは大化の改新の直後、大化3(647)年に越(こし)の国(後の越後国)に淳足柵(ぬたりさく)を設けることから始まりました。

「柵」、または「城柵」とは一種の砦で、軍事・行政の拠点でした。城柵の周辺には、服属した蝦夷系住民が住み、土木作業など賦役を負う一方で、禄や食料の支給を受け、未服属の蝦夷から護られていました。蝦夷系住民との饗宴や交易も城柵で行われました。

 こうした城柵が約150年の間に21カ所ほど、北へ北へと設けられていき、最終的には青森県を除く東北地方の大半が、大和朝廷の統治下に収められたのです。

 しかし、宝亀11(780)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみ・あざまろ)の反乱から、蝦夷との戦いが始まりました。呰麻呂は朝廷軍に協力して戦功を立て、外従五位下という地方在住者として最高の位と、陸奥国上治(かみはり)郡の大領(長官)の地位を与えられていました。その人物が和人の高官から蝦夷として辱めを受けていたので、その高官を殺害して、反乱を起こしたのです。

 今までの130数年間、蝦夷は大和朝廷の服属民として比較的おとなしくしてきたのですが、蝦夷社会の成長とともに地位も権限も得て、対等の民としての扱いを求めるまでになったのでしょう。

 呰麻呂の乱は、桓武天皇即位の前年に起きました。蝦夷問題はまさに桓武天皇治世の冒頭から、大きな課題として降りかかってきたのです。


■6.今日も思慕されている坂上田村麻呂の平定政策

 最初の蝦夷平定の軍勢約4万が延暦8(789)年に送られましたが、司令官に力量なく、緩慢かつ統制のとれない動きをしているところを、族長アテルイに率いられた蝦夷軍のゲリラ戦に無残な敗北を喫しました。

 次の遠征は、準備に5年をかけて、延暦13(794)年、平安京遷都の慌ただしい中で、10万もの大軍が送られました。この不屈の実行力が桓武天皇の持ち味でしょう。この時もアテルイが活躍し戦果はわずかでしたが、朝廷軍では34歳の若き坂上田村麻呂が頭角を現しました。

 田村麻呂は延暦15(796)年、陸奥守と鎮守将軍に任命されて、行政と軍事を一手に掌握し、卓越した能力を発揮しはじめます。蝦夷側のゲリラ戦術の手にはのらず、田村麻呂は城を築いて持久戦を行い、蝦夷側の団結を懐柔策で切り崩していきます。アテルイは孤立していき、6年後の延暦21(802)年にはついに降伏します。

 城の中には農事試験場もあり、帰順した蝦夷には農業指導も行っていました。また投降した数千人規模の蝦夷は東国から九州に到る国々に送られ、そこで口分田を与えられ、租税も免除されて、各地に定着していきました。

 東北地方を平定した坂上田村麻呂は、今日でも敬愛されています。「怒れば猛獣もたちまちたおれ、笑えば幼児もなつく」と伝えられ、田村麻呂が創建・関係した神社が東北地方だけでも50以上もあります。蝦夷を同胞として一つ屋根の下に招き入れた政策に、蝦夷側も感謝したからでしょう。[JOG(1172)]


■7.東北地方の統合が遅れていたら

 こうして東北地方が平安時代の初めから、日本国に統合されたことの意義は何でしょうか? それは、東北地方の統合が遅れていたら、我が国はどうなっていたか、と考えれば見えてきます。

 ロシアがシベリアを東進し、太平洋岸カムチャッカ半島にロシア領土の標識を建てたのは1697年でした。そこから、樺太や千島列島を南下していきます。幕吏・最上徳内が択捉島でロシア人と最初に接触したのは天明6(1786)年のことでした。

 当時北海道は松前藩の所領でしたが、地理調査も行き届いておらず、アイヌとの交易が行われている程度でした。幕府はロシア南下に備えて、急いで北海道を幕府直轄にして防衛に走ります。この時、たとえば千島列島の国後・択捉に配備されたのが、東北地方の津軽藩・南部藩の藩士500名でした。

 もし東北地方の統合が遅れたら、こういう処置もできず、北海道は千島列島や樺太と同様、ロシアに占有されていた可能性が大きかったでしょう。先の大戦でも、スターリンは北海道の北半分を奪取しようとしました。

 江戸時代以降の日本にとって最大の脅威はロシアでした。現在の日本が北方領土を奪われながらも、北海道以南を確保できているのは、長年にわたって東北地方より北の調査・開発・統合を進めてきた先人たちの努力のお陰なのです。桓武天皇の東北統合は、その中でもひときわ輝く功績と言えます。


■8.先人たちの感謝と称賛

 こうして桓武天皇の事跡を振り返りますと、「千年の都」平安京の造営、仏教の刷新、東北地方の平定・帰順と、我が国の歴史を大きく発展させたことが窺えます。

 桓武天皇の諡号(崩御後に贈られる号)は、日本根子(おおやまとねこ)皇統(あまつひつぎ)弥照(いやてらすの)尊(みこと)」と言います。歴代天皇による「皇統」をさらに輝かしいものにした、という意味で、まことに桓武天皇の功績にふさわしいものです。

「当年の費(ついえ)」に苦労しながら、「後世の恩恵」を遺した一代への当時の人々の感謝と称賛が込められた諡号です。それらの人々の子孫として、その感謝と称賛を我々も受け継ぎたいものです。
(文責 伊勢雅臣)

■おたより

■当時の為政者の統治の考えのなかに、現代に変わらぬ大切な政治的英知がこめられている(窓風さん)

 前々回の聖武帝と行基に続き、今回は、桓武帝についても、一読感銘深い事実に引きつけられました。藤原緒嗣なる政府高官が提議したという、帝都建設と蝦夷平定計画という二大事業の中止には、民生安定と地方政治に対する彼の強い責務と深い思慮が現れていて、一般庶民を大御宝と呼んだのも言葉だけを繕うものではなく、真実それに見合う施策を採っていることまで知ることができました。

 またこれに関連する坂上田村麻呂の東北征討(No.1172)の歴史的事実についても、アテルイの処刑などあったものの、軍事的側面以外の農業指導とか待遇改善などに、まだ民主主義とか人権といった言葉もなかった時代に、むしろそういった人権や民主政治の本質に照らしても遜色ない平定事業であったと評価しうるものを内包していたことを知りました。

 スコットランドの独立に奔走したウィリアム・ウォレスの処刑に比べて、投降した蝦夷の税の軽減など民生重視の施策に配慮していたことを知ると、当時の為政者の統治の考えのなかに、現代に変わらぬ大切な政治的英知がこめられていることに、驚きの念と歴史の事実を知る喜びを覚えました。

■伊勢雅臣より

 庶民を「大御宝」と呼び、その安寧を図ったことこそ、我が国の政治的叡知でした。


■奈良から京都への遷都については「日本の知恵」を見た(NAOKIさん)

桓武天皇の成し遂げた二大事業の偉大さは1000年後にこそ、正しく評価されるところにあるのだと分かりました。

奈良から京都への遷都については「日本の知恵」を見た想いがしました。

日本の知恵とは、「前にあったもの」は壊さず、「新しいもの」をつくって、それに替えるという変革方法です。

革命的、急進的な変化は一見すると急激な進歩と思えますが、人間の感情や思考はそんなに簡単に変化できるものではないのかもしれません。

緩やかに、いつの間にか、変わっている…という自然の営みのような変化が「日本の知恵」と思われた由縁です。

拙速の方が有難い変革はありますが、日本古来の方法も大事にしつつ、日本らしさについてこれからも考えていきたいと思います。


■伊勢雅臣より

たしかに、奈良から京都への遷都は、
> 「前にあったもの」は壊さず、「新しいもの」をつくって、それに替える
 ですね。


■リンク■

・JOG(1278) 最澄の仏教再生 ~ 日本人の生命観に根ざした日本人のための仏教へ
 最澄は日本人の自然観、人間観に根ざして、インド仏教を日本人のための仏教に再生した。
http://jog-memo.seesaa.net/article/490208024.html

・JOG(1172) かくて蝦夷は「和の国」に迎え入れられた
 坂上田村麻呂に「征服」された蝦夷の子孫たちは、なぜ彼を称え、思慕するのか?
http://jog-memo.seesaa.net/article/202007article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・井上満郎『桓武天皇:当年の費えといえども後世の頼り』★★、ミネルヴァ書房、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4623046931/japanontheg01-22/

・坂本太郎『日本史概説 上』★★、至文堂、S37
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4784300228/japanontheg01-22/

・西本昌弘『桓武天皇―造都と征夷を宿命づけられた帝王』★★、山川出版社、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4634548119/japanontheg01-22/

・村尾次郎『桓武天皇』★★、吉川弘文館、S62
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/464205085X/japanontheg01-22/


■伊勢雅臣より

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