No.210 河上清~嵐に立ち向かった国際言論人

 -----Japan On the Globe(210)  国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人
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_/ _/_/_/  米国の指導的な言論人として、河上清は日米戦
_/ _/_/ を避けるために必死のペンを振るった。

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■1.栄光と悲劇の国際言論人■

 1949年10月12日、河上清がワシントンDCの病院で76
歳の人生を終えた時、ワシントン・ポストは、次のような哀悼
の社説を掲げた。

 ベテラン日本人ジャーナリストK・K・カワカミの晩年
は挫折と悲劇に彩られていた。今世紀初めにこの国にきた
彼はアメリカを日本人に、日本をアメリカ人に知らせる仕
事に身をささげ、ワシントンでももっとも著名な言論人の
一人となった。だが彼が築き上げた世界は日米開戦で崩れ
去り、彼の名声は色あせ、疑惑と敵意の対象にさえなって
しまった。以後も彼は言論活動を続けたが、再び世に認め
られることはなかった。ワシントンの多くの人々が愛着と
悔恨を持って彼を思うであろう。

 明治の初めに米沢の貧しい下級武士の家に生まれた河上清が、
アメリカに渡って、代表的な新聞、雑誌に頻繁に寄稿する著名
な言論人となり、13冊もの英文著書を出版したというのは、
いかにも明治人らしいスケールの大きな成功物語である。

 と同時に、日系移民排斥から大東亜戦争に至る半世紀の日米
間の嵐に立ち向かい、何とか祖国を救おうとして果たせず、そ
のために自らの名声をも犠牲にした悲劇の人生でもあった。

■2.「カール・マルクス」■

 河上清は、明治6(1873)年、米沢に生まれた。幼い頃に父母
を亡くした清ら兄弟の面倒を見る祖母は、清の学問の才能を見
いだして、家宝の日本刀6振りを売って、小学校に通わせた。
河上は最上位の成績で米沢中学に進み、さらにつてを得て東京
で書生としての生活を始める。

 慶応義塾で福沢諭吉から「列強に征服されないためには、近
代的な産業と軍隊を築く以外に道はない」という講義を聴いた
り、社会主義思想に触れたりした。青山学院では学生による同
人誌の編集・執筆の中心となり、マルクスの礼賛記事を書いた
ために、冗談半分に「カール・マルクス」とのあだ名を付けら
れた。後年、アメリカでキヨシ・カール・カワカミとしたのも
この縁である。

 24歳の時、当時の大新聞・萬(よろず)朝報に評論記事を
送った所、いきなり第一面の「論壇」に掲載され、その縁で内
村鑑三、幸徳秋水、内藤湖南など、萬朝報のそうそうたる執筆
陣に混じって、健筆をふるうようになる。

■3.アイオワ大学での覚悟■

 明治34(1901)年、河上はアメリカ留学に出発した。青山学
院での友人がアイオワ大学に留学しており、政治学部のベンジ
ャミン・シャボウ教授に河上の記事を紹介した所、河上に関心
を持って、奨学金を出して研究生として迎えるという措置をと
ってくれたのである。

 渡航費や生活費は自分で調達しなければならなかったが、萬
朝報を通じて紹介してもらった後藤新平(当時は台湾民政長官
[a])に会いに行った所、「これを進呈しよう。アメリカで最善
を尽くして学び、帰国してからその知識を活用してくれ」と言
って、300円を出してくれた。今の価値では300万円ほど
であろうか、見ず知らずの青年でも国家の将来に役立つとみれ
ばポンと大金を与える、そんな気風が当時はあった。

 アイオワ大学は見渡す限りトウモロコシ畑や麦畑の続く大平
原を見渡す低い丘の上に建てられている。そこで研究に打ち込
んだ河上は、なんと10ヶ月で「近代日本の政治思考」という
修士論文を英語で書き上げ、その優れた内容が評価されて翌年
には大学の出版局から1冊の本として出版される。日本国の起
源から、明治維新、自由民権運動、帝国憲法に至るまで、日本
の政治思想の流れを鋭く解説したこの本の序文で、河上は次の
ように述べている。

 私は日本という国をいつまでも愛しつづける。日本から
自分を切り離すようなことは絶対にないであろう。

 以後の河上は、日米確執の嵐の中で、この覚悟を何度も試さ
れることになる。

■4.華々しいデビュー■

 1906(明治39)年秋から河上はニューヨーク・タイムズの書評
欄で、K・K・カワカミの署名で定期的に登場するようになっ
た。日本やアジア関係の書物の評論が中心だった。前年の日露
戦争でアジアへの関心が高まっていたことも幸いしたとは言え、
28歳ではじめて米国に渡った青年が、わずか5年で米国を代
表する一流紙に認められたのである。

 翌年、シアトルで病気療養中に知り合ったミルドレッドと結
婚し、その故郷であるイリノイ州の小さな田舎町モメンスに居
を構え、長女ユリ、長男クラークと次々に授かった。河上は雑
誌や新聞に数多くの記事、論文を載せ、本も2冊出版して、米
国のジャーナリズム界ではすっかり有名になった。

 1913(大正2)年、二女マーシャも含め、河上一家5人はサン
フランシスコに移り住んだ。日本移民排斥の吹き荒れるカリフ
ォルニアが、日米関係の焦点となるという読みからだった。カ
リフォルニアでは、外国人の土地所有を禁止する法律が成立し
ていた。河上がミルドレッド名義で家を買おうとした時も、近
隣住民が反対運動を起こして、説得に苦労したほどだった。

 河上は日本人移民が勤勉かつ教育熱心であり、アメリカの社
会に溶け込もうと努力している事を説き、かつ欧州やアフリカ
からの移民には与えられる市民権が日本人移民には与えられな
い不公正を何度もついた。

■5.「日本は発言する・日中危機の中で」■

 1931(昭和6)年、満洲事変が起きると、日米関係の緊迫度は
いや増した。ただ、この時点では、米国の世論は日本断罪でま
とまっていたわけではなかった。たとえばニューヨーク・タイ
ムスの社説は次のように論じた。

 日本は満洲事変に関して効果的な広報をまったく欠いて
いる。日本の側にも数多くの点で正当な主張はある。国際
的な条約で認められた満洲での権益を中国側に侵害された
ことを主張する権利がある。・・・だが日本は国際世論へ
の配慮を怠り、激しい批判に対する自国の立場の説明や、
正当化をしないままに終わっている。

 国際連盟理事会での日中代表による公開討論会においても、
語学力、表現力の決定的な差によって、すっかり親中反日の空
気に覆われてしまった。「連盟はそれに影響されて、中国にあ
まりにも有利な見解を軽率すぎるほど早急に採用してしまっ
た」とこの社説は述べている。

 このような情況を座視できなくなったのであろう、河上は昼
夜兼行でタイプに向かい、「日本は発言する・日中危機の中
で」と題する本を大手マクミラン社から緊急出版した。タイム
リーな発言は、全米で評判になった。

 しかし、この書の序文には、時の日本首相犬養毅の序文がつ
いていた。著者の序文では河上は自分自身を「みずからの生ま
れた故国を深く愛しながらも海外に長く住んで欧米のものの見
方を十分に理解している愛国心あふれる日本国民」と規定した。

 それまでの著作のように中立客観的なアカデミズム、ジャー
ナリズムの立場でなく、はっきりと日本の側にたった政治的主
張と見なされても構わない、という覚悟がそこに表れていた。

■6.アメリカを敵とすべきではない■

 米国での日本擁護の発言と同時に、河上は日本の新聞にも頻
繁に寄稿して米国の世論を伝え、自制や譲歩を説いた。アメリ
カを敵とすべきではない、との信念であった。

 大阪毎日新聞への寄稿では、満洲国についてはアメリカは公
式にはなお不承認で日本に抗議しているものの、実際には既定
の事実としてあきらめてしまっている、アメリカに満洲への門
戸を開放せよ、と主張した。そして次のように警告した。

 ことに日本が北支(満洲と隣接する中国北部)に対して
いかなる態度をとるのか。これが米国の注意している点だ。
・・・日本がもし漫然と兵を進めて、武力一点張りで北支
に突出したとすれば、米国も黙視するわけにはいくまい。

 河上が最も激しく反対したのは、ドイツとの防共協定である。

 日独防共協定は表面は国際共産主義あるいはソ連の拡大
に対抗する予防作戦のようにみえるが、内実はアメリカと
イギリスへの対抗を目標としているようだ。もしいまはそ
うでなくとも、将来はかならずそうなる。この協定はやが
て軍事同盟になるであろう。だから、この協定は結局は日
米戦争の方向の第一歩となる危険性がある。

 透徹した視線は正確に日米戦争を見通していた。それを避け
るために河上は日米双方に向けて必死でペンをふるう。

 しかし、日本の新聞報道は激烈な対米強硬論に向かっていき、
自制を説く河上の論調はあまりにも「親米的」として次第に発
表の場を失っていった。同様に米国でもその日本擁護の立場は
人気をなくし、さらに追い打ちをかけるようにFBIからスパ
イ容疑をかけられた。こうして対米開戦の年、1941年夏には河
上はついにペンを捨ててしまった。

■7.「アジア人のアジア」■

 1941年12月7日(現地時間)真珠湾攻撃とともに、FBI
はかねてから用意してあった在米日本人、日系人の重要人物を
一斉に逮捕、抑留された。河上は「危険な敵性外国人」の最上
位のグループに入っていた。2ヶ月も勾留されて、翌年2月に
入ってから、ようやく審問が始まった。河上は堰を切ったよう
に語り始めた。

 アジアでの今の戦争は単なる武力衝突ではなく、思想的
な革命だと考えます。何世紀かに一度、全世界をゆるがす
ような革命です。その思想とは、簡単にいえば、「アジア
人のアジア」であり、私自身も青年時代から信じてきまし
た。・・・この戦争も根底にはアジア人を支配し搾取する
白色人種の"神権"に対する挑戦があります。・・・

 この戦争に日本は勝てないでしょう。だがたとえ日本が
滅びても、「アジア人のアジア」という思想や主義は厳然
と残るでしょう。そして戦後、オランダ領のインドネシア
も、イギリス領のビルマも、フランス領のインドシナも必
ずみな独立するでしょう。

 河上の雄弁に興味をもって聞き入っていた審問委員達は、さ
りげなく聞いた。「だが、あなた個人はできるなら日本がこの
戦争に勝つことを望むのではないか」 日本につくのか、アメ
リカにつくのか、という踏み絵の質問である。一瞬息を呑んだ
後、河上ははっきりと「ノー」と答えた。

 私は「アジア人のアジア」主義を実現するためには日本
が負けなければならないと信じます。日本は貧乏国である
ため、占領したアジアの国々に対しどうしても搾取政策を
とることになり、諸国の真の独立自立を助けることにはな
らないからです。

■8.「日本はまた先頭に立つ国となるでしょう」■

 河上の友人だったワシントン・ポストの元編集局長や国務省
高官、議会議員など各界の大物が嘆願書をFBIに送ってくれ
たお陰で、河上は70日間で抑留を解かれた。

 その後、河上は自ら進んで戦争情報局に協力することを申し
出て、日本兵士に投降を呼びかけるビラの文案作りを手伝った
りした。これは河上の保身であるとの解釈もあるが、負けると
分かっている戦争を早くやめさせることが祖国のためになる、
と考えたのかも知れない。

 ようやく戦争が終わると、河上はワシントンの自宅でひっそ
りと過ごした。ハーバード大学で講義しないかという話も辞退
した。妻の姉に送った手紙から、当時の河上の心境が読みとれ
る。

 健康のためにはあらゆる活動を犠牲にするのもやむを得
ない。私はまだまだ生きなければならないからです。長く
生きて日本が軍国主義のくびきを脱し、また豊かに栄える
のを見なければならない。「アジア人のアジア」という私
の永年の理想が現実になるのを見なければならない。そん
な新しいアジアでは、日本はまた先頭に立つ国となるでし
ょう。なんと言っても世界中の諸国が何世紀もかかって達
成したことを半世紀でなしとげた日本が、貧弱な敗戦国の
ままで長くいるはずはありません。

 ここでも河上の予言は恐ろしいほどに的中した。しかしそれ
を見ることなく、河上は1949年9月に没した。76歳だった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平

b. JOG(156) リカルテ将軍~フィリピン独立に捧げた80年の生涯

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 古森義久、「嵐に書く」★★★、講談社文庫、H2

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■「河上清~嵐に立ち向かった国際言論人」について

 華のある人々の人生という物語に夢を馳せながら、一歩一歩
同じ異国の地で色々悩みながら悪戦苦闘する毎日です。僕はま
だ22歳。河上清が渡米するよりはやく渡米したのですが、こ
うして先達の偉業を目の当たりにしてみると、改めて日本人と
しての誇りが心の底から沸き上がるのを強く感じます。
(Hirokiさん)

 鎖国していた日本から、何故こんな人物が出たのか不思議で
す。私心を無くせば、こんなにも世界が見えてくるのでしょう
か?自分というものが無く、国のため、世界の為に尽くした姿
に体が震えるくらい感動しました。(宏さん、島根県)

 河上 清さんについての今回のコラムは、しみじみと、そし
て自分への強烈なメッセージとして、読ませていただきました。
自分もかくありたいという思いでいっぱいです。(泉 幸男さん
「国際派時事コラム」 http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/

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