No.545 河口慧海の探検(下)

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人物探訪:河口慧海の探検(下)

 仏教原典を得て、慧海はその解読による国民
教化の夢に乗り出した。

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■1.「これは世界最大のコレクションであろう」■

 明治37(1904)年、日露戦争の最中、英国遠征隊がチベット
に侵入し戦闘を始めた、というニュースが伝えられた。

 帰国して2年、慧海は講演と執筆の多忙な日々を送っていた
が、このニュースに再度のチベット入りを決意した。戦争の混
乱の中では鎖国体制もほころびが出ているだろう、前回の探検
では十分収集できなかった仏典を入手できるのではないか、と
考えたのである。

 10月11日、神戸港から出発。11月3日、カルカッタに
上陸した後、ビザを得て、翌1905(明治38)年3月に、まずネ
パールに入った。

 2年前にネパール国王に拝謁した時、慧海は漢訳の大蔵経と、
サンスクリット語の原典を交換しようと約束していた。慧海が
漢訳版を献上すると、国王は慧海に下賜する仏典収集を収集す
るよう命じた。日本びいきの工部大臣キショル・ナルシン
・ラナの肝いりで、10人もの人手を出して、各地の旧家に保
存されている仏教原典の収集が進められた。同時に慧海も自費
での買い付けを行った。

 慧海はネパールに9カ月滞在し、346部もの教典をカルカッ
タに持ち帰った。後に慧海を訪ねた著名なドイツ人インド学者
ヘルマン・オンデンベルヒは「これは世界最大のコレクション
であろう」と感嘆した。

■2.亡命中のダライ・ラマに拝謁■

 慧海は、その後インド北東部ガンジス河沿いの都市ベナレス
に7年間滞在し、仏教原典を読解するために、サンスクリット
語を学んだ。この地はサンスクリット研究のメッカとして知ら
れ、慧海は中央ヒンドゥー学院(現在のベナレス・ヒンドゥー
大学)の名誉学生となり、ここの教授の指導のもと、毎日9時
間から10時間もの猛勉強をした。

 日本にもサンスクリットの学者はいるが、チベット語もでき
る人はいない。サンスクリット語の原典とそのチベット語訳の
比較研究は、自分の双肩にかかっている、というのが、慧海の
使命感だった。

 この時期に慧海は第一回のチベット探検をテーマとした『西
蔵旅行記』の英語版『スリー・イヤーズ・イン・チベット』を
出版した。チベット人の風俗、習慣、精神生活をアジア人の視
点から描き、また手に汗握る冒険物語の魅力も備えたこの本は、
エカイ・カワグチの名を世界に広めた。

 慧海はこの間にも、再度のチベット入りの機会を窺っていた。
2回目の旅では、ダライ・ラマ、パンチョン・ラマといった然
るべき宗教指導者に話をつけて、チベット大蔵経を入手しなけ
ればならない。

 そのダライ・ラマは1904(明治37)年に英軍がラッサに迫っ
た際、モンゴルのウルガ(現・ウランバートル)に亡命してい
た。1909年にダライ・ラマは5年ぶりにラッサに帰還したのだ
が、今度は清の軍隊2千が東チベットを武力で制圧した。

 ダライ・ラマは昨日の敵・英国の庇護を求めて、インドに脱
出し、国境近くの高原都市ダージリンに国賓として迎えられた。
この時のダライ・ラマは13世であったが、現在の14世とまっ
たく同じ格好である。

 慧海はダージリンにダライ・ラマを訪ね、何度か拝謁して、
チベット入国を許された。

■3.人食い坂■

 1913(大正2)年12月20日、二度目のチベット行に出発。
今回はダージリンからまっすぐ北上し、シッキム王国を通って、
チベット入りするという最短ルートをとった。

 1月10日、慧海と現地人の荷物運び3人の一行はメト坂に
さしかかった。ここは人食い坂とも呼ばれ、雪嵐に襲われて凍
死または餓死する旅人が前年だけで十数人も出た、という名う
ての難所である。

 幸いに朝から空は晴れていた。ティスタ川上流の氷河を幾度
も渡りながら、急坂を登る。午後4時、斜めに切り立った大岩
壁の陰に狭い空き地を見つけ、その晩はここに泊まることとし
た。火を起こして夕食をとり、周囲に床を延べて眠りについた。

 暴雪風が始まったのは、真夜中のことである。従者の一人が、
慧海を起こして言った。

 ラマ(お坊)様、風は南から強く吹いて、雪は大雪、空
は真っ暗。本当に暴風になる気配です。ラマ様、祈祷して
この大難を払って下さい。

■4.慧海の涙■

 それでは、と慧海は起き上がり、「わしは今からこの難を逃
れるために祈願するから、お前たちは安心していなさい」と言っ
て、敷布の上に座り直し、一心不乱に釈迦牟尼の姿を観じ、こ
の暴風雪を晴れしめ給え、と祈った。しかし、暴風雪が岩壁を
打つ音はますます激しさを加えていく。

 嗟呼(ああ)斯(か)くては我は信力少く徳微(かすか)
にして此処(ここ)に死に果てんか十年以来我帰朝を待ち
給へる我老母は云何(いか)に感ぜらるゝならん、不孝の
我身よ。

 こう思った途端、十数年前の最初のチベット旅行の際には、
どんな危難にあっても、決してこぼれたことのない涙が、慧海
の両眼からどっと溢れ出た。

 それからしばらく、従者の叫び声が、慧海の瞑想を破った。

 ラマ様、雪が止んで、空に2、3の星が見え、雲がまば
らになってゆきます。この分なら、私らも死なずにすみそ
うです。まことにありがたいことです。

 慧海は、晴れゆく空を見ながら、仏がこの凡夫の真心を受け
取って下さったのだと、改めて熱い涙を流した。

■5.首都ラッサの変貌■

 チベットに入ると、一行は馬を提供され、宿のない所では、
その地方の村長宅に泊めてくれた。この優遇の理由を、慧海は、
チベット人の間で日本を妙に買い被る風潮があったためと指摘
する。

 日本は、義のため、平和のために他国を救う仏菩薩の国であ
る。だから、日本人を大切にしておいたならば、他日、日本が
チベットを救う時、まずわれわれを率先して救ってくれるだろ
う、と現地の人々は考えていたようだ。これにはロシアの極東
侵略を防いだ日露戦争の影響が多分にあるだろう。

 また前回ラッサ滞在中に評判となったセライアムチ(セラの
医師)が来た、という報を聞きつけた人々が、毎日のように治
療を受けにやってきた。慧海は前回の経験から、出来るだけの
医薬を持ってきていたので、惜しげもなく施薬した。生まれて
から薬を飲んだことのないチベット人には、面白いように効い
た。耳かき一杯ほどの薬を与えると、翌日には治って、お礼に
来るほどであった。

 8月7日、首都ラッサ入り。慧海は12年ぶりに見る「仏の
地」の変貌ぶりに驚いた。侵入してきた中国軍との戦闘で、市
街地の3分の2は火災を被り、今なおあちこちに空き地が残っ
ていた。

 ダライ・ラマ13世は、独立を維持するために、英国の後ろ
盾を得たい、と考えていたようだ。また元日本陸軍軍曹・矢島
保次郎が、ダライ・ラマに見込まれて、チベット軍要請訓練教
官を務めていた。ダライ・ラマは、チベット軍を近代化するた
めに、日本の協力を期待していたらしい。

 国際社会の荒波は、世界の秘境にも、ひたひたと押し寄せて
いた。

■6.仏典収集■

 前回のチベット入りでは十分な仏典収集ができなかったが、
今回はダライ・ラマ、パンチョン・ラマと直接会って、仏典の
下付を願い出た。

 パンチョン・ラマには漢文大蔵経を献上し、チベット大蔵経
の下付を請願した。パンチョン・ラマは著名なナルタン版の版
木を管理しており、西の都シガツェ近郊のナルタン大僧院で1
組、印刷されて、慧海に下賜された。

 ダライ・ラマは、慧海のためにサンスクリット語の仏典の写
本を探させた。中央チベット南部の町ギャンツェのパンコル
・チョエデ寺で良い写本が見つかったので、それが慧海の下賜
されることになった。

 また慧海自身も、各地の古寺を訪ねて仏典を探した。シガツェ
の東方22キロのところにあるシェル寺を訪ねた所、11世紀
に書写されたサンスクリット語仏典が見つかり、そのうち『法
華経』と仏教詩集の2部を贈られた。

 こうした旅の途中、慧海はチベットの高山植物の採集にも、
熱心に取り組んだ。

 昼間長い道を旅して、夜はまた採集した植物の整理をす
るのは並大抵のことではなかった。昼間も従者達が食事の
支度をしている間に、標本に当てた湿った紙を取り替える
など、少しの暇もなかったが、幸に身体が壮健であったし、
珍しい植物を集めて持ち帰ったら日本の植物学者がどんな
にか喜ぶだろうと考えると、困難も忘れて熱心に採集した。
[『慧海伝』,1,p282]

 慧海が収集した1千余点と言われる植物標本は、後に国立科
学博物館に寄贈された。この中から、新種、新変種などが20
種ほど発見されている。

 さらに化石を含む鉱物標本、毛皮などの動物標本、仏像、仏
画、仏具、装飾・工芸品、日用雑貨などが、大量に収集され、
現在は東北大学文学部の「チベット資料室」に河口コレクショ
ンとして保管・展示されている。

■7.11年の収穫■

 慧海は、大量の仏典と収集品をインドに持ち帰り、1915(大
正4)年8月7日、カルカッタから日本郵船の博多丸で帰国の
途についた。

 11年にも渡った今回の旅の収穫は大きかった。主目的であ
るサンスクリット語およびチベット語の仏典を手に入れ、また
植物・鉱物・仏教関連の膨大な資料を収集した。

 さらに、今後の仏典研究のために、サンスクリット語を習得
し、パンチョン・ラマなど、数多くの人々と親交を結んだ。

 しかし、これらの業績は、慧海にとっては志を実現するため
の一里塚に過ぎないものであった。慧海の本志は、仏教の原典
を辿ることによって、その真の教えを明かし、広めることであっ
た。

 この志を抱いたのが、明治23(1890)年頃であったから、す
でに四半世紀ほどの年月が経っていた。慧海はようやくサンス
クリット語、およびチベット語の仏教原典を入手し、両言語を
習得して、仏典和訳の入り口に立ったのである。

■8.仏典500巻の和訳へ■

 慧海は、帰国した翌年の大正5(1916)年4月から、有志の資
金協力を得て、仏典の研究・翻訳に着手した。同時にチベット
語学生を募集し、東洋大学で週に12時間、また夜間、自宅に
おいてもチベット語を教授し、3年後には一通りチベット語を
学び終えた弟子を5人ほど得た。

 これに力を得た慧海は、サンスクリット語、チベット語仏典
で、漢訳を改訳すべきもの、漢訳されていないもの500巻を
選び、今後10年かけて和訳する、という青写真を作成した。
これに従って『法華経』『維摩経』などの和訳対訳が、次々と
刊行されていった。

 こうした原典の研究を通じて慧海は、多くの宗派に分裂した
仏教界のあり方に根源的な疑問を得た。釈尊の入滅後、仏教は
中国を経由して、日本に伝わったが、その間に分裂を重ね、互
いに優劣を競ってきた。各宗派は、自らが伝えるもののみを真
として、他を貶(けな)しているので、いずれが真の仏教であ
るか、分からない。

 慧海はサンスクリット語、およびその逐語訳に近いチベット
語訳の仏教原典を通じて、釈尊の思想そのものに迫っていった。

■9.「生ある間はその尽くすべきに尽くさんことを期す」■

 こうした仏典の研究・翻訳の傍ら、慧海はチベット語の文法
書である『西蔵文典』の著述を大正5(1916)年から始め、10
年ほどかけて完成させたが、実際に出版に漕ぎ着けたのは、昭
和11(1936)年であった。

 文法書が出来上がると、慧海は休む間もなく、チベット語辞
書『蔵和辞典』の編纂にとりかかった。辞書があれば、チベッ
ト大蔵経に収録された数千の仏典を、統一された訳語で、効率
よく和訳する道が開ける。和訳大蔵経による国民教化という夢
に至る道である。

 昭和12年に知人たちに送った書状では、13万語の辞書を
13年の年月をかけて完成させる、という決意を述べている。
この時、慧海はすでに72歳である。

 何時死ぬか解らぬ生命を以て、斯(かく)の如き長時を
要する事業をなさんとするは、実に冒険事なりと云うべし。
然れども大方の事業は冒険なしに成就するものは甚だ稀な
り。故に自らその険を冒して、自衛自進以てその業を成ぜ
んことを期す。・・・生ある間はその尽くすべきに尽くさ
んことを期す。

 慧海は昭和25年の完成を目指して、辞書編纂に邁進したが、
大東亜戦争末期の昭和20年2月、眠るように亡くなった。享
年80歳。『蔵和辞典』は、ついに完成することはなかった。

 国民教化という見果てぬ山頂を目指して、チベット探検から
大蔵経和訳、そして『蔵和辞典』編纂と、冒険につぐ冒険の人
生であった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(544) 河口慧海の冒険(上)
 仏教原典を求め、慧海はインド、ネパール、チベットを6年
間、旅した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 奥山直司『評伝 河口慧海』★★★、中央公論新社、H15

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「河口慧海のチベット行(下)」に寄せられたおたより

薫風さんより
 河口慧海という人物の名前は知っておりましたが、その業績
について詳しくは知りませんでした。明治の人、言ってみれば
まだ人々が貧しい時代に生きた人の気骨と言いますか、根性と
いいますか、いったん決めたら、その意志を貫く気概には感動
させられますね。

 今日の私たちのように、どうしても情報に惑わされて、気が
散ってしまうという事がなかったのかもしれないと思いますが、
それにしても、外国へ出かければそこに落とし穴ともいうべき、
あらたな状況が繰り広げられていたはずです。そうした中で、
困窮することなく、道を切り開いていった、強靭な意志を養成
するには、いったいいかなる教育が望ましいのか。

 戦後は一貫して権利の主張などと言っては自分に都合のよい
道、つまり易しい方向に道を選んできたように思われてなりま
せん。早く反省して、正しい方向へ舵をとりなおさねばならな
いと思います。

 すぐれた偉人の業績を知り、その足跡を辿って生き方を学ぶ
ように、偉人伝記が多く読まれることも期待したいです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

「歴史を学ぶ」とは、つまる所、先人の生き方に学ぶことなの
でしょう。
 
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