■■ Japan On the Globe(309)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
人物探訪: 許國雄 ~ 台湾人の大和魂
「日本教育」で教わった「大和魂」で、許國雄は台湾の
教育と政治の改革に取り組んだ。
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■1.「國雄(くにお)、後を頼む」■
1947年3月6日、台湾南部の高雄。高雄市立病院の主任医師、
と言ってもまだ25歳の許國雄は、市参議員(市会議員)であ
る父に頼まれ、救護隊として市役所で待機していた。
日本の敗戦後、大陸から渡ってきて台湾を支配した中国国民
党の役人たちは台湾の物資を横領して上海で売り払ったため、
猛烈なインフレが全土を襲った。兵隊たちによる台湾人への略
奪・殺人・強姦も日常茶飯事だった。日本統治下で安定した法
治社会を経験していた台湾人たちの不満がたまっていた。
その不満に火をつけたのが、2月27日、台北で煙草を売っ
ていた老婆が、専売局の役人たちに銃で激しく殴打された事件
だった。翌28日、専売局に抗議に押し寄せた群衆にいきなり
憲兵隊が機関銃で発砲し、多くの犠牲者が出た。これを機に台
湾全土で台湾人による暴動が始まった。228事件である。
高雄市では市長らが平和的に事を納めようと、高雄要塞司令
部に交渉に行っていたが、それとは行き違いに要塞司令官は兵
を市役所に派遣して、機関銃で攻撃を加えさせた。銃弾は市役
所内に容赦なく降り注ぎ、その一つが許國雄をかばっていた父
の頭を貫いた。
「やられた。國雄(くにお)、後を頼む。」と父親は日本語で
言うと倒れた。國雄はとっさに父とともに倒れ、死んだふりを
した。
■2.弟二人も捕まった■
機関銃掃射をした後、兵隊たちは転がっている死体を一人づ
つ銃剣で突き刺し、生き残りがいないか、確認を始めた。國雄
を見つけた兵が「一人、生きているぞ」と北京語で言って、銃
口を頭に突きつけた。國雄は震える手で、左腕につけている赤
十字の腕章を指した。それが國雄を救った。
当時、市役所にいた三十数名はすべて殺され、赤十字の腕章
をつけた國雄ともう一人の医師だけが命は許されて牢に入れら
れた。3日後、市立病院の院長が要塞司令部側とかけあって二
人を救い出した。国民党の幹部も市立病院の世話になったいた
ので、そのコネが効いたのだった。
ようやく家に帰ると、家では父親の葬儀の真っ最中だった。
そこに今度は台北から高雄へ帰ろうとしていた弟二人が、国民
党に捕まって、処刑されるという噂が飛び込んできた。列車の
他の乗客はすぐ殺されたが、高雄出身の二人は見せしめのため
に故郷に連れてきて処刑しようというのである。國雄はたまた
ま要塞司令官の母の主治医をしていたので、その老婦人に必死
に頼みこんで、なんとか弟たちを助けてもらった。
■3.「九州男児」■
許國雄は大正11(1922)年、台湾海峡中の澎湖諸島に生まれ
た。父は教員で、昭和元(1925)年に高雄市に転勤したので、國
雄はそこで堀江尋常小学校に入った。ここでは日本人子弟と日
本語の得意な台湾人子弟が机を並べて学んでいた。國雄はそこ
からさらに高雄中学に進学した。
中学卒業後、國雄は九州歯科医学専門学校(現在は九州歯科
大学)で歯学を、さらに九州高等医学専門学校(現在の久留米
大学医学部)で医学を学んだ。小倉市と久留米市で学生生活を
送ったので、國雄は「九州男児」だと自称している。
在学中に大東亜戦争が勃発し、國雄は「欧米の支配からアジ
アを解放する時が来た」と喜んだのもつかの間、昭和20年に
敗戦。日本は台湾を放棄し、中華民国が接収することとなった。
國雄は一夜にして、敗残の大日本帝国臣民から戦勝国・中華
民国の国民となったのだが、昨日まで一緒に空襲の際には防空
壕に逃げ込んだ日本の友人たちのことを思うと、そんな気持ち
の切り替えはできなかった。
連合国軍の手配した旧日本軍の駆逐艦に乗って、台湾に帰っ
た。規律正しい日本軍に代わってやってきた中華民国軍はみす
ぼらしく、裸足で天秤棒に鍋釜を下げている兵も多かった。こ
こから台湾人の悲劇が始まったのである。
■4.国民党に入党■
1961年、39歳の時に、蒋介石の息子・蒋経国から228事
件の話を聞きたい、という申し出があった。経国はこの時、台
湾中を廻って人々の意見を聞いていたのである。当時はまだ戒
厳令下で、罪もない台湾人が投獄されたり、銃殺されたりして
いた時代である。國雄は台湾人の本当の気持ちを伝えることが
できれば殺されても本望だと、228事件の体験をすべて話し、
最後につばを飲み込んで、ふりしぼるように言葉を発した。
「今の政治は、改革されねばなりません。」
次の瞬間、蒋経国は意外な言葉を口にした。「あなたの話は
よく分かりました。あなたの力を借りたい。あなたも国民党に
入って私と一緒に党を改革しようじゃありませんか。」
國雄はこのチャンスを逃がさなかった。「虎穴に入らずんば
虎児を得ず」、敵の本丸たる国民党に入党して、内部から改革
していこうと志したのである。後に蒋経国の後をついで国民党
総統となる李登輝を始め、この時に多くの台湾人が改革の志を
抱いて国民党に入党した。
■5.大和魂の教育■
國雄は高雄医学院の医学部や歯学部で教鞭をとるうちに、教
育への情熱がかき立てられ、自分で学校をやってみたいと思う
ようになった。1963年、看護婦・助産婦を育成する育英高級護
理助産職業学校を設立。この分野では台湾で最初の私立校だっ
た。現在は育英医護管理専門学校という短大となり、生徒数2
千名の規模となっている。66年にはさらに東方工芸専科学校を
創設。ここは現在、学生数8千人を擁する東方技術学院という
大学となっている。
國雄の創設した学校では、毎日朝礼を行い、国旗「青天白日
旗」を掲揚する。台湾への忠誠心を養いながら、同時に大和魂
の教育をめざした。台湾で最初の日本語学科も新設した。
設立した当初は高級官僚や政治家のどら息子も少なくなかっ
た。悪いことをした生徒には、親に言いつけるのではなく、容
赦なく殴る。「君は本来よい学生だけど、今のはよくない」と
言って、3回殴る。1回目は国に代わって殴り、2回目は父親
に代わって殴り、3回目は母親に代わって殴る。不思議なこと
に、殴られた学生ほど、卒業してから立派になり、「昇進しま
した」「今度社長になりました」と國雄に報告に来る。
校舎の一部には、日本間がしつらえてあり、そこには神棚と
共に教育勅語が額に入れて掛けてある。國雄は言う。
戦後の日本には教育勅語がないから、「夫婦相和」さず
離婚率が高いのです。「朋友相信ジ」ないから、「いじ
め」が絶えないのです。「博愛衆ニ及ボ」さないから、電
車で老人に席を譲らないし、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉
ズ」る精神が失われたから、利己的な人間が増え国全体の
名誉が蔑(ないがし)ろにされてしまうのです。
米占領軍がこの教育勅語を軍国主義として批判しました
が、どの文言が軍国主義にあたるのか私には理解できませ
ん。[1,p185]
■6.「瑞竹」の縁起■
東方技術学院の正門正面に「瑞竹」と呼ばれる巨大な竹の一
群がある。これは日本の皇室に関わるもので、大正12(1922)
年に昭和天皇がまだ皇太子の頃、12日間台湾を回られたとき
に、高雄まで足を伸ばされた。さらに隣の屏東(へいとう)へ
も行かれる予定であったが、その地に伝染病が蔓延したため、
行啓反対の声が強くあがった。しかし殿下は「そこもわが地、
わが民がいる」と言われて、自らの意思を示された。
伝え聞いた屏東の民は感激して、嘉義の山から蓬莱竹を9本
苅ってきて天幕を作り、家々に日の丸を掲げて盛大にお迎えし
た。竹は枯れて淡黄褐色に変色し、さらに芽が出ないように逆
さまに地面に差してあったのに、不思議な事に行啓の時には、
小さな新芽が出ていた。植物学者である殿下はこの新芽に目を
とめ、優しく撫でられた。殿下が帰られてから、この新芽から
ぐんぐん成長を始めたのである。
地元の人は、不思議な事として地面に植え直した所、大きな
竹林に成長したので、瑞祥だとして「瑞竹」と呼ぶようになっ
た。しかし國雄は戦後の国民党政府の反日政策からこの瑞竹が
苅られてしまう恐れがあると思って、その一部を密かに東方工
芸専科学校の正門前に移植したのである。戒厳令下で国民党政
府に知られたら、「親日的」としてただでは済まない危険な行
為であった。
■7.「大和魂」対「袖の下文化」■
1972年7月、國雄は教育会の理事長に任命された。教育会と
は、日本で言えば教育委員会と教員組合を合わせたような強力
な組織である。その直後、12月には教育会の推薦で、日本の
参議院議員にあたる国民大会代表に立候補することになった。
冷遇されていた教員の待遇改善などの公約を掲げ、選挙戦に臨
んだところ、トップ当選となった。
その後、教育会理事長と国民大会代表とも、14年の長きに
わたって務めた。國雄は教育事業、教育改革を自らの使命とし
て取り組んできたが、その間、常に念頭にあったのは、日本時
代に培った「大和魂」だった。
ある時、教科書会社が國雄に賄賂を持ってきたことがあった。
教育会の理事として、自分の会社の教科書を使って欲しいと頼
みに来たのである。日本統治時代の台湾ではこうした賄賂はほ
とんど無かったが、戦後は大陸の「袖の下文化」が持ち込まれ、
台湾中を汚染していた。
私は日本教育で、それも九州の久留米で勉強した九州男
児だ。こんなものを受け取れるか。
と言って、國雄は賄賂を突き返した。國雄の世代の台湾人にと
って、「日本教育」を受けたというのは、一つの自慢だった。
お金はあまり貯まらなかったが、清く正しく生きてこられた理
由の一つは、日本統治時代に受けた日本教育のお陰だと、國雄
は言っている。
■8.日本との教育交流■
國雄が教育会理事長、および国民大会代表に選ばれた1972年、
日本は大陸の中華人民共和国と国交を結び、台湾政府と断交し
た。この時、東京の都立高校の教員だった草開(くさびらき)
省三氏は、教育を通じて日台の交流を続けようと志を立て、何
ら政治的・資金的後ろ盾もないまま、台湾に渡って関係先と折
衝を始めた。そして72年の年末に日本から教師45名が派遣さ
れて、第一回の教育研究会が台北で開催された。
國雄は一回目から参加し、締めくくりの挨拶をしたが、草開
氏はそんな高い地位の人は外省人だと思って、親しく言葉を交
わさなかった。翌73年、今度は高雄で第2回目の研究会が開催
されることとなり、國雄は台湾側の受け入れ責任者として台北
空港に迎えに行った。
國雄が草開氏を見つけて握手をし、腰につけていたお守りを
指さして「伊勢神宮のお守りでしょう」と言うと、草開は急に
こわばった顔をした。外省人が難癖をつけてきた、と思ったの
であろう。
國雄はにっこり笑って、自分のポケットからも同じ伊勢神宮
のお守りを出した。草開氏は「あー」と満面の笑顔で手を握り
替えした。二人ともその年の遷宮祭に出ていて、そこで求めた
お守りだった。「ご遷宮に行かないようでは、人間として生ま
れてきた意味がない」と國雄が言うと、草開氏は「同感だ」と
応じた。以来、二人は台湾と日本で年一回交互に開かれる研究
会に28回も参加して一緒に皆勤賞を貰う事になる。
この研究会から生まれたのが「台湾と日本・交流秘話」であ
る[2]。1992年に台中市で開かれた第19回研究会で前高千穂
商科大学教授・名越二荒之助が、台湾に残る日本ゆかりの文化
遺産をスライド上映を交えながら紹介。これがきっかけとなっ
て、監修・許國雄、編者・名越・草開で出版にこぎつけた。
この本は大きな反響を呼び、日本人相手のガイドや旅行会社の
必読本となり、日本語コースを設けているいくつかの大学で副
読本として採用された[a,b]。
また日本語教育の重要性を国会で訴え、これがもとになって
現在、約30の商業高校で日本語学科が設立されている。
■9.許國雄の「大和魂」■
1988年1月、蒋経国・国民党総統が突然、逝去し、副総統だ
った李登輝氏が党内選挙に勝って、初の台湾人総統となった。
李登輝氏は京都大学出身で、自ら「二十二歳まで日本人だっ
た」と言う人物である。國雄は同じ元日本人として応援した。
1996年、台湾で最初の総統選挙が行われる事となり、「台湾
は中国とは別の独立国家だ」と主張する李登輝氏の再選を阻も
うと、中国共産党政府は台湾近海にミサイルを試射して威嚇し
た。しかし、これは逆効果だった。李登輝氏は約1千万の有権
者のうち、6百万票も獲得して圧勝したのである。[c]
今の台湾を支えているのは、日本の教育を受けた人たち
です。日本の年配者と同じく若い頃に大東亜戦争を体験し、
防空壕を掘ったりして鍛えられた人が今の台湾のリーダー
になっています。・・・
あれほどの中共のミサイル威嚇にも、誰一人として逃げ
ようとはしませんでした。全く落ち着いています。逃げな
いのみならず、中立の浮動票はみんな李登輝氏の方に流れ
てしまいました。ミサイルが一発でも命中すれば、多くの
台湾人が死にます。恐ろしくないわけがありません。しか
し、台湾人は「忍」の心で、徳川家康のように黙って独立
の機会を待つ李登輝氏に投票しました。[1,p159]
「虎穴」に入って国民党を中から改革しようという使命感、国
家と両親に代わって生徒を殴る公共心、危険を省みずに「瑞
竹」を移植したように信ずるものを守らんとする気概、そして
じっと独立の機会を待つ忍耐・・・これら総てを含めて許國雄
は「大和魂」と呼んでいる。そしてその大和魂を許國雄は「日
本教育」から学んだというのである。
「大和魂」を軍国主義時代のスローガンと決めつけるのは勝手
だが、それとともに我々現代日本人はこうした使命感、公共心、
気概、忍耐をも捨ててしまったのではないだろうか。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注いで台湾の
民生向上と発展のために尽くした。
b. JOG(225) 仰げば尊し~伊沢修二と台湾教育の創始者たち
新領土・台湾では教育こそ最優先にすべきだと、我が身を省み
ずに尽くした先人たち。
c. JOG(061) 李登輝総統の志
漢民族5千年の歴史で初の自由選挙で選ばれた台湾総統。「世界
でももっとも教養の高く、かつ名利の欲の薄い元首(司馬遼太郎)」
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 許國雄、「台湾と日本がアジアを救う」★★★、明成社、H15
2. 名越二荒之助他、「台湾と日本・交流秘話」★★★、展転社、H8
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「許國雄 ~ 台湾人の大和魂」について Kenichiさんより
1960年生まれの会社員です。よいお話を紹介していただ
きありがとうございます。私も仕事の関係で20回ほど台湾を
訪れましたが、台湾は等身大の日本を受け入れてくれる本当の
親日国家です。ところが多くの日本人は、身近な大事な友人の
ことを気づかないで、背伸びややせ我慢をして感謝もせずにお
金だけとって、さらに悪口をいう隣国たちにばかり目をむけて
いるのは困ったことです。
貴メルマガの4万人近い若い読者が、お互いに過去を共有し
て欠点も長所も知ってつきあってくれる友邦台湾の存在を意識
してくれるきっかけになることを切に望みます。
■ 編集長・伊勢雅臣より
「台湾」を正式国名にしようという台湾正名運動の大会が9月
6日に台北の総統府前広場で開かれ、日本からも200名もの
応援者が駆けつけたそうです。
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