No.191 栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人



-----Japan On the Globe(191) 国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人
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_/ _/_/_/ 「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせ
_/ _/_/ たい」と、中将は36日間の死闘を戦い抜いた。

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■1.「名誉の再会」式典■

 昭和60(1985)年2月19日に硫黄島で行われた「名誉の再
会」式典に参加した当時高校2年生のマイケル・ジャコビー君
は次のような手紙をレーガン大統領に送った。この手紙は国際
ロータリークラブが行った「平和への手紙」コンテストに全世
界から応募された4万5千点から最終的に選ばれたものである。

 しかし、あの時あの場で次に何が起こったかを大統領御
自身に見ていただきたかったと思います。日本軍兵士の未
亡人や娘とアメリカ軍兵士の妻や子供たちが、たがいに近
寄ったかと思うと抱きしめあい、身につけていたスカーフ
や宝石などに思いのたけを託して交換しはじめたのです。
男たちも近づいてきて、最初はためらいがちに握手しまし
たが、やがて抱き合うや声をはなって泣き出しました。
・・・・

 ふと気がつくと、誰かが私の頭に帽子をのせてくれまし
た。かつての日本軍人です。笑顔を見せて自己紹介し、そ
の日本軍の作業帽を私にくれると言いました。私の祖父も
近づいて話しはじめました・・・・

 私には余人には知り得ぬなにかがわかったような気がし
ました。昨日の敵が今日の友となり得ることを、祖父や祖
父と手を握りしめている旧日本軍兵士によって、全世界の
人々に示してもらいたい、とさえ思いました。・・・・[1,p13]

■2.わが海兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦い■

 ジャコビー君の祖父は、この硫黄島での40年前の戦いに参
加していたのである。硫黄島はサイパンなどのマリアナ諸島と
東京の中間の小笠原諸島に属する。マリアナ諸島からB29が
日本本土を空襲するためには、日本の航空兵力が駐屯する硫黄
島を占領しておくことが不可欠だった。

 徒歩半日で一回りできるほどのこの小島を、米軍は5日間で
占領する計画だったが、2万余の日本軍は36日間持ちこたえ、
大半が戦死したが、7万5千の米軍に死傷者2万6千近い大損
害を与え、実質的には敗戦ではないか、といの一大論争が米国
内に巻き起こった。

 海兵隊の最高指揮官スミス中将は「硫黄島の戦いは、わが海
兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦いである」と述べた。
ワシントンの国立アーリントン墓地には、6名の海兵隊員が硫
黄島の擂鉢山の山頂に星条旗を押し立てているモニュメントが
設置されている。

 日米の軍人が「名誉の再会」をしようとすれば、それは真珠
湾でも、広島でもなく、両軍が互角の死闘を演じたこの硫黄島
こそもっともふさわしい場所であった。

■3.東京が少しでも長く空襲を受けないやう■

 死闘を演じた日本軍の指揮官は、栗林忠道陸軍中将であった。
中将は戦闘前に、家族に以下のような手紙を書いている。

 島の将兵○○(JOG注:機密を守るための伏せ字、「2
万」か?)は皆覚悟を決め、浮ついた笑い一つありません。
悲愴決死其のものです。私も勿論そうですが、矢張り人間
の弱点か、あきらめきれない点もあります。・・・・・

 殊に又、妻のお前にはまだ余りよい目をさせず、苦労ば
かりさせ、これから先と云ふ所で此の運命になったので、
返すがえす残念に思ひます。

 私は今はもう生きて居る一日一日が楽しみで、今日会っ
て明日ない命である事を覚悟してゐますが、せめてお前達
だけでも末長く幸福に暮らさせたい念願で一杯です・・・・

 私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉じるの
は残念ですが、一刻も長くここを守り、東京が少しでも長
く空襲を受けないやうに祈っています。

「一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けない
やう」という一節に、栗林中将の明確な狙いが見てとれる。死
に急ぐのはかえってたやすい。2万の兵に玉砕を覚悟させなが
らも、「一刻でも長くここを守る」ために、長く苦しい戦いを
いかに続けるか、そこに中将の苦心があった。

■4.地下からのゲリラ戦■

 ワシントンの日本大使館に武官として駐在したこともある中
将は、米国の巨大な工業力を知り尽くしていた。攻めてくる米
軍を水際で迎え撃とうにも、空爆や艦砲射撃ですぐに殲滅され
るだけである。そこで全島に強固な地下壕陣地を設け、空爆・
砲撃をしのぎつつ、上陸してきた米軍を地下壕から自在に出没
してゲリラ戦で消耗を強いるという作戦をたてた。

 しかし地下10mでは温度は49度にも達する。兵たちはふ
んどし一つの姿で、ツルハシ、スコップで掘っていくのだが、
1回の作業は3分から5分、5人一組で一昼夜掘っても1m進
むのがやっとだった。

 さらに将兵を苦しめたのは水不足である。時折の雨水だけで
は、一日4人に水筒1個分の水の配給しかできなかった。飯米
は硫黄臭い地下水か海水で炊くが、ひどい下痢で悩まされた。

 栗林中将は自らの食事も水も特別扱いを厳禁とし、全島を廻
っては地下壕作りを陣頭指揮した。兵たちは中将の作った「敢
闘の誓い」を口ずさみながら、苦しい作業を進めた。

一、我等は各自敵十人を殪(たふ)さざれば死すとも死せ
  ず
一、我等は最後の一人となるとも「ゲリラ」に依って敵を
  悩まさん・・・

 こうして米軍が攻撃開始した昭和20年2月の時点では、総
延長約18キロに及ぶ地下洞が掘られ、島南部の擂鉢山には6
キロの蜘蛛の巣状の地下陣地が張りめぐらされた。

■5.Black death island! (黒い死の島だ!)■

 2月16日、戦艦7隻を中心とする26隻の米艦隊が硫黄島
を包囲した。その南80マイルには護衛空母11隻が配置され
ていた。やがて3日間に及ぶ艦砲射撃と空爆が開始された。硫
黄島戦終了までに打ち込まれた艦砲弾は29万発、1万4千ト
ンに達した。着弾で地面が大地震なみに揺れるのを、日本軍は
地下で堪え忍んだ。

 上陸を前に海兵隊員たちは双眼鏡で、砲撃の黒煙が上がる硫
黄島を見つめていた。南海の島だというのに、緑の椰子の木も、
白い砂浜もない。見えるのはただ地獄絵図のような擂鉢山と、
黒い海岸だけである。「Black death island! (黒い死の島だ!
)」と誰かが不吉な声をあげた。

 19日午前9時、水陸両用装甲車500隻が上陸を開始。日
本軍が沈黙を守る中、約3キロの海岸に、3万人の兵員と4万
トンの機材が送り込まれた。1mあたり10人の人間と、13
トンの機材で海岸はごったがえした。

 9時29分、日本軍が一斉に砲撃を開始した。前方と左右の
三方から、日本軍の迫撃砲が集中弾を浴びせた。戦車が燃え、
水陸両用車が吹き飛び、胴体や手足が散乱した。長さ1.5m、
直径30センチもの大型砲弾が炸裂すると、周囲20mの人間
を殺し尽くした。まさに阿鼻叫喚の地獄だった。

 最初の一日で島の南半分を確保する計画だったが、米軍は海
岸部に釘付けにされ、上陸後18時間で死傷者は2,312人に及
んだ。報告を聞いたルーズベルト大統領は戦慄の余り、息をの
んだ。上陸開始51時間後には死傷者は5千人を超え、米国民
は南北戦争でのゲティスバーク激戦以来の大流血にショックを
受け、以後、死傷者数は報道されなくなった。

■6.「暴走」命令■

 しかし勇猛な海兵隊はそれでも前進を諦めなかった。「ここ
に転がっていたら、ジャップの射撃のまとになるだけだ。」と
捨て鉢の気持ちになった所に、がむしゃらに前に進め、という
「暴走」命令が発せられた。死者も負傷者も無視して、海兵達
は半狂乱になって前進した。

 22日には、擂鉢山目指して風雨に打たれ、泥の中をもがき
はい回りながら前進した。海兵師団参謀W・クラーク大尉は言
う。「あの視界の悪い雨の中で、どうやって狙いを定めるのか、
日本兵の姿は見えないのに、こちらが頭をあげると、とたんに
正確な弾丸が飛んでくる。ジャップが射撃の天才であることは、
われわれの負傷が頭と腹に多いことからも、分かる。」

 しかし、雨の中では日本軍の発砲が閃光となって見えてしま
う。米軍はそこに砲撃を集中して、塹壕やトーチカを一つづつ
潰し、一歩一歩前進していった。米軍が擂鉢山を攻略し、星条
旗が揚がったのが23日午前10時31分。この写真が翌日、
全米の新聞のトップを飾り、アーリントン墓地の硫黄島モニュ
メントとして残されることになる。

 南部の擂鉢山を占領し、残るは中北部のわずか数キロ。しか
し、今までに数えた日本兵の死体はわずかに1,231に過ぎず、
2万を超す日本兵がその数キロに手ぐすねひいて米軍を待ちか
まえていた。

■7.今までの戦場では見参し得なかった巧みさ■

 日本軍の巧妙なゲリラ戦は、米軍第4師団戦闘詳報に次のよ
うに描写されている。

 彼ら(日本兵)はわが砲撃の間は地下にかくれ、終わる
と外に出て待つ。われわれが近づけば集中射撃を浴びせ、
われわれが損害をうけて釘付けになると、いくつかの銃器
と死体を残して、またトンネルにもぐりこむ。

 わが大隊長は、ロケット、火砲の援護を要請して進むが、
たどりついた陣地には敵が置いた銃と死体しかなく、不審
の首をひねっているとまたもや集中する銃弾に包囲される。

 負傷者が出て「コーズマン!」と衛生兵を呼ぶと、「コーズ
マン」と答えて近づくのは、しばしば米兵の軍服を奪い、衛生
兵に扮装して、銃剣と手榴弾を握った日本兵だった。

 何気なく転がっている酒びんや鉄カブトを持ち上げると、仕
掛けられていた爆薬が爆発した。「今までの戦場では見参し得
なかった巧みさ」と米軍戦闘詳報は舌をまく。

■8.矢弾尽き果て■

 こうした死闘を1ヶ月近くも続けた後、日本軍はようやく島
の北辺に追いつめられ、残る人員も約9百人になっていた。3
月16日午後、栗林中将は参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報
で送る。

 戦局最後の関頭に直面せり、敵来攻以来麾下(きか)
将兵の敢闘は真に鬼人を哭(な)かしむるものあり・・・

国の為重き務(つとめ)を果たし得で矢弾尽き果て散るぞ
悲しき

 栗林中将はなおも、目的は玉砕することではなく、敵に出血
を強要することだとして、10日間の抵抗を続け、最後の出撃
は26日の夜明けだった。約4百の将兵で米軍の後方部隊を急
襲し、死傷者172人の損害を与えた。中将は攻撃の途中で負
傷し、歩けなくなった所を「屍を敵に渡すな」といい残して、
部下に介錯を命じた。二人の部下は遺体を大木の根本に埋めた
後に、自決したと伝えられている。

■9.精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき■

 硫黄島が陥落するや、日本本土への空襲が始まった。「重き
務を果たし得で」と中将は詠んだが、その後の歴史の展開に従
って、この36日間の死闘は次第に重い意味を持つようになっ
ていく。

 2万余の日本軍が守るちっぽけな小島を奪取するのに、米軍
は2万6千近くの死傷者を出した。残る内地237万余、外地
310万余の陸軍兵力が日本全土と広大な中国大陸で、同様の
ゲリラ戦を展開したらどうなるか? 硫黄島の戦いでつきつけ
られたこの問いを、米国は沖縄戦でもう一度思い知らされるこ
とになる。

 おりしもこの戦いの直後の4月12日、日本の無条件降伏を
主張していたルーズベルト大統領が急死する。無条件降伏の方
針は実質的に変更され、ポツダム宣言の諸条件が提示された。
国体護持を求めて本土決戦を主張する陸軍にも「最終的の日本
国の政府の形態は・・・日本国国民の中に表明する意志により
決定されるべきものとす・・・」との連合軍回答が矛を収める
きっかけとなった。[a,b]

 鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の御聖断をてこに、ポツダム宣
言を受け入れ、綱渡りの終戦を実現した。硫黄島と沖縄での日
本軍の死闘がなければ、無条件降伏要求の方針は変更されず、
歴史は本土決戦へのコースを辿っていたかもしれない。「せめ
てお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」という中将の念
願は、より大きな形で果たされたのではないか?

 平成6年2月、小笠原諸島復帰25周年を記念されて、天皇
皇后両陛下は硫黄島に行幸され、鎮魂の御製・お歌を詠まれた。

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(
ほ)りけむ
(文責:伊勢雅臣)
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人」について
石本さん(アメリカ在住)より

 5月28日はアメリカではメモリアルデーで、今話題になっ
ている「パールハーバー」という映画を見ました。戦闘シーン
は、30分以上続く、大きなスケールですごい迫力でした。そ
の戦闘シーンは、一般的に「日本軍は負けた=弱かった」とい
う考えに反するものだったと私は思います。

 日本軍の戦闘機が始めに真珠湾に着たとき、操縦者は、目下
で「何だろう」と不思議な顔で見上げている、アメリカ人の子
供や人々に「逃げろー」と叫ぶシーンからそれが言えます。ま
た、反撃として、関東に落とす爆弾に、アメリカ軍人が親友の
フィアンセ(真珠湾で亡くなった)の名前を書いたりしている
シーンもありました。

 この戦争に関わった全ての人々は、個人でそれぞれの想いを
抱いて戦っていたんだと思いました。最終的にはアメリカが勝
った、と言われる戦争ですが、映画の最後の言葉でもあるよう
に、「本当の勝利」というのはなかった、と私も思いました。
そして、この映画が伝える大きなことは、その戦争というもの
の、無残さ、残酷さ。私達が想像できないようなことが現実に
起こること。そういうものを、アメリカという国に、教えてく
れていると思いました。

 私は、このJOGで第2次世界大戦に関わった多くの日本人の
記事を読んできました。学校では学ばなかった歴史的な人々の
強さ、国に対する忠誠心を忘れない日本人に、私はなりたいと
思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 米国内で反日ムードを盛り上げているといわれる映画ですが、
日本軍のパイロットが一般市民に「逃げろー」と叫ぶシーンが
あるとは初耳でした。確かに軍艦や軍事施設に絞った(今で言
う)ピンポイント攻撃を目指したと言われています。この点が
一般市民への無差別攻撃を行った原爆攻撃や、空襲とは本質的
に異なります。先の大戦に関する日米それぞれの思いと歴史観
があって、しかるべきだと思います。

■リンク■
a. JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
b. JOG(151) 阿南惟幾 ~軍を失うも国を失わず

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 平川祐弘、「米国大統領への手紙」★★★、新潮社、H8
2. 児島襄、「将軍突撃せり」★★、文藝春秋、S45
3. ビル・D・ロス、「硫黄島」★★、読売新聞社、S61

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mag2:28,070 melma!:1,892 kapu:1,842 Pubzine:1,306 Macky!:932 

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