No.297 近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ



■■ Japan On the Globe(297) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪:近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ

 ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続
けて、ついに屈しなかった青年貴族。
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■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■

 同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防
諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。

 その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエ
だと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息
子か?」

「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)
年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近
衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時に
はすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦すること
を決めていたのである。

 近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令
に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3
日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊
の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放され
たら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結
して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。

 文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊
び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の
秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲
になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれ
て徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度は
よく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79
センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケー
ルの大きな人物だった。

■2.すごいスパイになる!■

 ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次
官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍は
いきり立っていた。

 いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイ
になる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜
を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集
団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣
りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。
政党をつくり彼を党首にする。

 いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は
1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることにな
る。

■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■

 コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっ
ている。そろそろ吐かないかね。

 そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗
聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくな
るくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一
日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。

 この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されまし
た。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるの
でしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下
に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をた
がえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあ
なたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わた
しにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切
れなんて。

 そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。

 父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備え
は常にできております。

 もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにあ
る。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえ
はふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に
関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の
罪状を書け。

 紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。

 翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安
機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺
室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボ
ルであった。

 その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は
入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パン
と水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び
出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。や
がて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというの
に、老人のようになってきた。

■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■

 取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄
中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードと
して罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。
起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。

 その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中
国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、
また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆ
る「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をな
したという理由であった。

 近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見
ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その
中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。
また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きず
り込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、
現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・
尾崎秀實が逮捕・処刑されている[a]。しかし文隆は上奏文の
存在すら初耳であった。

■5.ロシア語の嘆願書■

 起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。
英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁
判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守
にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれない
か、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。

 またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。
ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向す
るかもしれない、と考えたのかも知れない。

 紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際
に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、
即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱
の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の
学習にあてる事を自らのノルマとした。

 それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、
文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになっ
た。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった
時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。

 文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さ
をしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、
とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分
のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品
の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。

 後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日
本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話
ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。

■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■

 7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に
呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆
は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとり
が、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それす
らもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議
したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能
なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めな
い。」

 文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資
料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち
82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構
っている暇はなかったろう。

 大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成し
た調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、き
みも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言っ
た。

 いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度
も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺してい
たことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくな
ったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にも
わたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさ
ま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わた
くしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。
 
■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■

 1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人
護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクの
アレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3
大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。

 文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余
りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官
吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだ
んに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭
い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこ
められてしまう。

 そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合
唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりか
えり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面
白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同
じ話を繰り返しせがまれた。

 1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でも
いまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されてい
た。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を
要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書
が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰
せ」と要求した。

■8.文隆、死す■

 1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロの
チェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外
国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍
の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、
ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しか
し、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔
をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初
めての事だった。

 抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。
ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注
射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあると
いう。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打
たれている事を思い出した。

 10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ
共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオ
のニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓
声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。

 23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲
われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き
取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。
同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20
分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その
後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。

■9.「本当のサムライだ」■

 1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開
かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への
墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の
最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なし
ではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報
担当のスースロフが言った。

 プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えるこ
とですが、ある種の救済でもあったのです。

 同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にも
う一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑
留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の
日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦
に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを
新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもま
ちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容
所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目に
なる、と。

 フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフ
は文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった
事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。
彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)
の手口としか考えられないな」と言った。

「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ
何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を
打ち切った。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の
「赤い東亜共同体」が実現する!

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
(アドレスをクリックすると注文画面に飛びます)
1. V.A.アルハンゲリスキー、「プリンス近衛殺人事件」★★★、
新潮社、H12
2. 西木正明、「夢顔さんによろしく 上・下」★★★、文春文庫、H14

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ」について
 Daikaguraさんより

 既に故人ですが私のおじ(母方の伯父でM姓)の家に遊びに
行った折々に見たこと聞かされた諸々、小学生頃の遙か彼方の
記憶ながら思い起こされた記憶の断片をご紹介したく投稿しま
す。

 伯父は家庭内でも声掛けがたき"孤高の人"然としていました。
過去の忌まわしき記憶から脱却できずに、あまり恵まれない晩
年を送られたように思えてなりません。

 伯父は満洲でドイツ系の会社に勤務していましたが、敗戦に
伴いロシア兵からの取り調べを受けました。M中将(伯父の兄
で長崎の名門と聞いているが尉官は未確認)が隠していった軍
の財宝に関する取り調べと称して、拷問を受けました。彼は背
中に大きな焼き跡を背負いました。日本の土を踏んだ後も、二
度と「焼き魚」を食べることはありませんでした。どうしても
その時の衝撃が呼び起こされる臭いだった由。

 拷問で受けた最大の傷は体以上に心へ残されたと小生は考え
ています。私共の父祖が"物言えば唇寂し"との思いで、戦後耐
えて生き抜いた歴史を多少なりとも共有する一助になれば幸甚
に存じます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 声高の自虐史観にじっと耐えて、戦後を生き抜いてきた人々
の思いに心を寄せたいと思います。

© 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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