No.572 近衛文麿の戦い(上)


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地球史探訪: 近衛文麿の戦い(上)
~ 日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」
 戦争を阻止すべく、近衛文麿首相は日米
首脳会談実現に全力を上げたが、、、
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■1.「僕の志は知る人ぞ知る」■

 昭和20(1945)年12月16日朝、青酸カリを飲んですでに
冷たくなっている近衛の遺体が発見された。近衛は戦争犯罪容
疑で米軍に呼び出しを受けており、その前夜、次のようなメモ
を遺していた。

 僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を冒した。之に対
し深く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人
として、米国の法廷に於(おい)て裁判を受けることは、
堪え難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずれ
ばこそ、この事変解決を最大の使命とした。そしてこの解
決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日
米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪
人として指名を受けることは、誠に残念に思う。

 しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於(お)い
てさえ、そこに多少の知己(ちき)が存することを確信す
る。[1,p18]

 米国における「知己」の一人が、近衛が首相として日米交渉
に全力を尽くしていた時の駐日米国大使ジョセフ・グルーであ
る。グルーは近衛が万策尽きて首相を辞任した際に、次のよう
な手紙を送っている。

 日本のために貴下が捧げられた、長い難渋な、この上な
く卓抜な公的奉仕に敬意を表します。[1,p253]

 近衛は昭和18年4月、すでに敗色濃厚となった大戦の最中
に、支那事変当時を回想して、次のように述懐している。

 なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてし
まつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼
に見えない力にあやつられてゐたような気がする。[2,a]

「何者か目に見えない力」が、近衛内閣を支那事変に巻き込み、
対米戦争に駆り立て、そして今また近衛を戦争犯罪容疑で死に
至らしめたのである。近衛の悲劇は、昭和日本の歩みの象徴で
あった。

■2.日本を支那事変に引きずり込んだ内外二つの力■

 支那事変は、昭和12年(1937)年7月、近衛の第一次内閣発
足の一ヶ月後に勃発したものである。その発端となったのが、
北京郊外の蘆溝橋での日本軍と国民政府軍の衝突で、中国共産
党によって両軍を戦わせた陰謀である事を示唆する証拠がいく
つか見つかっている。[b]

 近衛は不拡大方針をとり、現地では停戦協定も結ばれたが、
日本軍は何度も不法射撃を受け、通州では260余名の日本人
が虐殺された。さらには上海でも中国共産党に通じた国民政府
軍の高官が日本軍を攻撃して、戦火を広げた。

 一方、近衛内閣の内部にも、共産主義者が忍び込んでいた。
近衛がブレーンとしていた昭和研究会のメンバー、元朝日新聞
記者・尾崎秀實は「東亜共同体」建設のために、親日政権の樹
立を主張していた。これは裏返せば、蒋介石政権打倒を意味し、
日本と国民政府を戦わせて、共倒れさせ、日中で「赤い東亜共
同体」を建設しようという陰謀であった。

 昭和研究会周辺には共産主義者がいるらしい、との噂が出始
めて、近衛は第2次、第3次内閣では尾崎を遠ざけた。噂は真
実で、後に駐日ドイツ大使館顧問のリヒャルト・ゾルゲがソ連
のスパイである事が発覚した際に、尾崎もその協力者として逮
捕され、死刑に処せられている。[a]

 こうして近衛内閣は、内からと外からの共産主義勢力の謀略
により、支那事変に引きずり込まれていったのである。

 昭和14(1939)年1月、支那事変を収拾できないまま、近衛
内閣は総辞職した。

■3.「多くの政治上過誤を冒した」■

 昭和15(1940)年7月、第2次近衛内閣が発足した。すでに
欧州大戦でヒトラーの快進撃が始まっており、「バスに乗り遅
れるな」との声が国内にも上がっていた。ドイツ、イタリアと
の三国同盟を、前任の米内光政内閣はなんとか抑えこんでいた
が、近衛内閣発足後2ヶ月で成立させてしまう。

 さらに日本軍の南部仏印進駐を契機に、アメリカの対日石油
全面禁輸を招き、日米間の緊張が高まった。近衛は、三国同盟
を推進してきた松岡洋右を更迭し、第三次内閣を発足させた。

 第1次内閣での支那事変収拾失敗と、第2次での三国同盟成
立、第3次の日米対立と、近衛の首相在任中にわが国は大きく
戦争に近づいていくのだが、それを近衛は「僕は支那事変以来、
多くの政治上過誤を冒した」と振り返っているのである。

 華族筆頭の名家に生まれ、下積みの経験もないまま首相にま
でなってしまった近衛の脇の甘さが、こうした過誤の原因だろ
う。しかし、日米戦争の危機を迎えて、近衛は立ち上がった。

■4.「生命のことは考えない」■

 昭和16(1941)年8月4日、開戦の4か月前、近衛はある覚
悟を陸海両相に打ち明けた。

 これまでの日米交渉では種々の誤解や感情の行き違いも
ありこのまま進んでしまって戦争となることは陛下にも
国民にも申し訳がない。今は危機一髪のときであって、野
村大使だけを通じての交渉では時期を逸するかもしれない。

 そこで自分はホノルルにおいてルーズベルト大統領と直
接会談をして帝国の真意を率直に述べたいと思う。・・・
この会談は急を要する。

 及川海相は即座に賛成し、東條陸相は種々注文をつけながら
も異存ないと言ってきた。

 さっそく天皇に奏上したところ、「石油の全面禁輸に関し、
海軍側の情勢もあることだから、大統領との会見は速やかにせ
よ」と督促されて、近衛は決心を固めた。

 その決心とは、ルーズベルト大統領との会談で支那からの撤
兵を要求されたら、その場で電報で天皇の裁可を仰ぎ、決定調
印するという非常手段をとることだった。

 周囲から「そんなことをしたら殺されるに決まっている」と
心配する声があがったが、近衛は、生命のことは考えない、と
答えた。

■5.近衛の「生涯の喜び」■

 近衛の提案を受けたルーズベルトは、「私の警告と平和的プ
ログラムに従うなら、近衛と会ってもよい、場所はアラスカの
ジュノーでどうか。期日は十月中旬ということにしよう」と回
答した。「警告」とは、日本がこれ以上侵略を続ければ、たと
えアメリカ自体が攻撃されなくとも、その第三国(英国、オラ
ンダを含む)を援助する、という内容であった。

 近衛はその「警告」を原則承知する回答を付けて、訓電させ
た。この近衛回答にルーズベルトは納得して頷いたという。近
衛はこれを生涯の喜びとして手記『平和への努力』にこう書い
ている。[1,p241]

 大統領は余のメッセーヂを読み、「非常に立派なもの」
と大いに賞賛した後、「近衛公とは三日間くらに会談を希
望する」といひ、期日に関してこそ言質を与へなかったが、
大いに乗気の色を見せたのである。

 恐らくこの時が日米の一番近寄った時であったかも知れ
ない。

 しかし、近衛の喜びは長くは続かなかった。9月3日、ルー
ズベルトは野村大使を呼んで近衛への返書を渡した。

 この会談そのものには賛成するが両国の国内事情も多々
ある。近衛公には同情するがやはり事前の予備交渉で詰め
る事が必要だろう。

 ルーズベルトが態度を翻した裏には、国務長官コーデル・ハ
ルが「首脳会談の前に話をまとめておかねば会談を開く意味は
ない」と譲らなかったからである。

■6.「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いできる」■

 実は、ルーズベルトの周辺にも共産主義者たちが入り込んで
いた。彼らは日米を戦わせることで、日本の軍事力を米国に向
け、ドイツと戦っていたソ連を護ろうとしたのである。

 後にハルの名を冠した「ハル・ノート」なる要求が日本政府
につきつけられた。これは米国議会にも秘密にされており、後
にその内容を知った共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッ
シュ議員が「この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任
がルーズベルトにある」と断言したほど、厳しい要求を盛り込
んでいた。[c]

「ハル・ノート」の原案は財務次官ハリー・デクスター・ホワ
イトが作成しており、彼は後にソ連のスパイであったことが明
らかになっている。[d]

 こうした共産主義者たちに乗せられていたルーズベルトはす
でに対日開戦を決心しており、近衛の提案を受け取る直前には、
英国首相チャーチルと会談して、第二次大戦の指導方針や戦後
処理に至るまで合意していた。

 その際に、ルーズベルトは「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱
いできる」とまで言っていた。近衛の回答を賞賛したのも、
「赤ん坊扱い」の一つだったのだろう。

 近衛は「生命のことは考えない」と言うほど、日米開戦を避
けるために必死の思いで奮闘した。しかし、日本を戦争に陥れ
ようという「見えない力」が米国側にも働いている事に、近衛
は気がついていなかった。

■7.グルーとの会見■

 9月6日、御前会議が開かれ、陸海軍首脳部がまとめた「帝
国国策遂行要領」が提示された。それは「10月下旬を目途に
対米戦争準備を完遂する」「並行して米英との外交交渉を進め
る」「10月上旬に至っても外交交渉の目途がつかない場合は
対米開戦を決意する」というものだった。

 昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のた
ちさわぐらむ」との明治天皇御製を拝誦され、陸軍の主張する
戦争準備は進めても、なお「外交を第一とせよ」との思し召し
を示された。

 東條はこれに驚愕し、「聖慮は和平を望んでおられる。こう
なったら何としても日米交渉を成功させねばならない」と自分
に言い聞かせるように言った。天皇の思し召しにより、近衛の
進めていた日米交渉の重要性を軍部も再認識する所となった。

 この晩、近衛は駐日米国大使グルーと秘かに会い、こう説い
た。

 自分が大統領と直接会談できれば双方の見解対立を必ず
解決できる。現内閣では陸海軍は一致して交渉の成立を希
望しており、こういう機会は生涯のうちにまたとないから、
この際一刻も早く大統領と会見して根本問題につき意見を
交換したい。・・・

 自分は身の安全も顧みず、日米関係の再建のために命を
かけたいと思っている。もしアメリカへ行くなら一行の船
には東京の天皇と直接交信できる性能を持ったラジオを装
備し、大統領と合意に達することがあれば天皇に奏上し、
詔勅が発せられ、即刻すべての敵対行為を取りやめる命令
が下されることになっている。[1,p246]

 グルーは、早速、近衛との会談を受諾するよう促す電報を本
国に打った。そして、日本の和平派は未曾有で極めて危険なこ
とだが、天皇を介入させてアメリカとの戦争を避け、日本の方
向転換実現のためにあらゆる可能な方法を用いる覚悟をしてい
る、と自らの手記に遺した。

■8.東條との対立■

 しかし、10月2日にハルから示された回答は、近衛の提案
を一蹴したものだった。日本が中国の特定地域に不特定期間駐
屯しようとしていることを非難し、日米首脳会談は両国間にな
お現存する意見不一致のままでは効果を望めない、と突き放し
たのだった。

 この回答に軍部は「外交交渉に望み無し、もはや開戦やむな
し」との意見で固まってしまった。それでもなお、近衛はあき
らめずに、10月5日、東條を私邸に呼んで話し合った。

 近衛はまだ外交交渉の望みを捨てるわけにはいかない、と迫っ
たが、東條は、もはや承伏しがたい、と態度を硬化させたまま
だった。

 一番問題になっているのは、三国同盟ではなく支那の駐
兵だと思うから、ここは一度引き上げて、わずかな資源保
護くらいを名目とした兵を残すだけにしてはいかがか。
[1,p249]

 東條は「アメリカの態度は強硬で明白だ。駐兵拒否といわれ
ては陸軍は譲れない」と突っぱねた。こんな押し問答が何度も
続いた。

 東條の説得に失敗した近衛内閣は総辞職し、内大臣・木戸幸
一の推挙で、東条内閣が登場する。東条は、昭和天皇の意向に
従って最後の対米交渉を進めたが、その努力もむなしく遂にハ
ル・ノートを突きつけられて、開戦を迎えることになる。

■9.「日米交渉に全力を尽くした」近衛■

 この経緯を辿れば、近衛が「日米交渉に全力を尽くした」と
いうのも誇張ではないことが理解できよう。そしてグルーがそ
れを「長い難渋な、この上なく卓抜な公的奉仕」と称賛したの
も単なるお世辞ではないことは明らかである。

 米国が真に平和を望んでいるとしたら、グルーが促した通り、
日米会談を受諾して、和平への一縷の望みを模索したはずであ
る。しかし、ルーズベルト大統領はすでに対日開戦を決意して
おり、近衛の必死の提案を一蹴したのである。

 その米国が日本を占領して、近衛を「戦争犯罪人」として検
挙しようとは、いかにも理不尽な仕打ちであった。実は、そこ
にも「見えない力」が働いていたのである。
(続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日
の「赤い東亜共同体」が実現する!
b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、
蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
d. JOG(116) 操られたルーズベルト
 ソ連スパイが側近となって、対日戦争をそそのかした。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』★★、
日本経済新聞社、H18
2. 三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略」★★、自由社、
S62
 
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