No.189 蔡焜燦~元日本人の歩んだ道


-----Japan On the Globe(189) 国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:蔡焜燦~元日本人の歩んだ道
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_/ _/_/_/ 「日本」はあなた方現代日本人だけのものでは
_/ _/_/ ない。我々「元日本人」のものでもある。
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■1.歴史を共有した同じ国民■

 司馬遼太郎は「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』
の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったり
しています」と言っていた。

 台湾の日本統治時代に育った人々の間で、「台湾紀行」はか
つての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと大変な熱
狂を呼び起こした。李登輝前総統の曽文恵夫人は、司馬遼太郎
が亡くなった時に、次の追悼の和歌を詠まれた。もちろん日本
語で。

今もなお心にうかぶ台湾紀行夢と希望の国なれかしと

 この「台湾紀行」に、ガイド役として登場するのが、蔡焜燦
(さい・こんさん)氏である。平成5年1月2日、取材のため
に台北を訪れた司馬を、蔡さんは日本陸軍の「歩兵操典」その
ままの挙手の礼で出迎えた。終戦時、蔡さんは奈良で陸軍航空
整備学校に学んでいた。その時の教官が司馬と同期に当たるた
め、「上官」として敬礼で迎えたのである。

 司馬はすこしためらい勝ちに答礼したが、なかなか挙手の手
を下ろさない。蔡さんは直立不動のまま「司馬先生、そちらが
上官だから先に下ろしてください」と言わねばならなかった。
以後、この敬礼は二人だけの挨拶として続けられた。司馬と蔡
さんはかつて歴史を共有した同じ国民であったのだ。

■2.「日本人」として生きていく道■

 明治28(1895)年5月、日清戦争の勝利により台湾が日本に
割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与
え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き揚げることを認めた。
蔡さんの父親はこの時、16歳。一度は祖先の地・福県省に戻
ったが、そこに住んでいた叔父は、中国社会の腐敗ぶりから、
せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に「お前は
こんなところにいるような人間ではない」と帰還をすすめた。
蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選ん
だ。

 蔡さんは昭和2(1927)年、台湾中部の清水に生まれた。台湾
総督府は教育の普及に力を入れており、蔡さんも台湾人児童の
ための清水公学校に入った。ここでは鹿児島出身の河村秀徳校
長が、地元の人々の寄付を集めて、16ミリ映画や校内有線放
送による視聴覚授業など、当時の日本本土にもなかった先進的
な教育を試みていた。

 各校には教育熱心な日本人教師が配置されていた。蔡さんの
後輩に優秀だが貧しくて中等学校にいけない生徒がいたが、あ
る日本人の先生はその父親を訪ねて、「私が学校に行かせるか
ら」と言って5年間の学費を肩代わりしてくれた。日本人教師
と台湾人生徒の間には強い師弟関係が生まれ、現在も日本から
恩師がやってくると、台湾中から教え子が集まり、また自分の
郷里に招こうと恩師の奪い合いになるほどである。

 このような形で日本統治下での教育の普及が進み、昭和20
年での就学率は92%に達していた。ちなみに4百年間オラン
ダの植民地だったインドネシアでは3%だった。[a]

■3.大地震■

 昭和10(1935)年、台湾中北部を大地震が襲った。当時8歳
だった蔡さんも、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者
が恐怖にうち震える姿を見た。この時に、昭和天皇から遣わさ
れた入江相政侍従長が被災地の民家を一軒づつ廻って、お見舞
い金を下賜された。

 蔡さんの実家が持っていた貸家のうち、全壊は10円、半壊
は5円が下賜された。蔡さんの父親は、被害にあった借家人た
ちに見舞金をそのまま与えた。また軽傷を負った蔡さんの母も
1円を頂戴したが、その1円札は丸い額に入れ、昭和20年ま
で壁にかけられていた。少年だった蔡さんにも昭和天皇の国民
への愛情が伝わり、皇室に対する親近感が心の中に芽生えた。

■4.立派に戦ってくる■

 昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まる。真珠湾でのアメリ
カ太平洋艦隊殲滅、マレー海戦でのイギリス東洋艦隊撃滅の報
に台湾民衆も興奮し、内地同様に提灯行列で祝った。14歳に
なっていた蔡さんも「いつの日にか戦の庭に馳せ参じたい」と
心に誓った。台中県には海軍の飛行場があり、蔡さんは塹壕堀
りの動員作業に参加して、生まれてはじめて洋食をご馳走にな
った。

 台湾人には軍人への道が閉ざされていたが、昭和17年、戦
線の拡大と共に、門戸が開かれた。志願兵制度が発表されるや、
千人の募集に40万人の志願者が殺到し、中には血書嘆願する
ものもいた。蔡さんも遅れをとるまいと少年兵募集に応募し、
昭和20年1月、少年航空兵として陸軍航空学校入学を許され
た。日本への出発の前夜、蔡さんは友人にこう語った。

 チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。し
かし俺は日本という国が好きだ。天皇陛下が好きだ。だか
ら俺、立派に戦ってくる。

 蔡さんの父親は、戦費捻出のために金製品の買い上げを呼び
かける日本政府に協力して、家の金製品を残らず差し出そうと
した。金の指輪一つだけは残そうとした母親と口論していた父
親の姿を、蔡さんは思い出す。「ああ、親父は、いい日本人に
なろうとしているのだ」と蔡さんは誇りに思った。

■5.内地にて■

 蔡さんは奈良市高畑の岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現
在の奈良教育大学)に入校した。そこでは台湾で経験したよう
な差別はまったくなく、上官達からかわいがられた。教科も飛
行機整備などの専門分野よりも、数学などの一般教科に多くの
時間が割かれた。

 ここでは伝染病予防のために「ハエ取り競争」という競技が
あり、負けると夜間の不寝番という罰則が待っていたのだが、
班長の安原万寿太(ますた)軍曹は、「お前たちは、必死にな
ってハエなど採らんでもいい。その分しっかり勉強せい。学生
の本分は勉強だ。罰則の不寝番は俺がやってやるから心配する
な」と言ってくれた。そんな班長を不寝番に立たせては申し訳
ないと、蔡さんの班は頑張って常に中隊一位の成績を収めた。

 8月、敗戦。ある中隊長から「君たちはまだすぐには台湾に
帰れないだろうから、軍の払い下げの山で雑木を切って我々と
一緒に炭を作ろうじゃないか」と誘われた。こうして蔡さんは
10数名の仲間と一緒に京都の美山町の山奥で炭焼きを始めた。
地元の人達が「兵隊さん、これをご飯の足しにしてください」
と大豆や山菜、松茸、山芋などを差し入れてくれた。

 12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられ、佐世保で
船を待つ。「中華民国台湾青年隊」の腕章を与えられ、一躍戦
勝国民にされたが、複雑な心境だった。

 佐世保の復員事務局では「第○小隊第○班50名」と言えば、
50名分の食事が用意された。蔡さんたちはこの手で食料を余
分に手に入れて「味噌焼きおむすび」を作り、佐世保や、遠く
京都にまで戻って、飢えた戦災孤児たちに与えた。

■6.祖国への帰還■

 昭和21(1946)年1月1日、接収された駆逐艦「夏月」で台
北に到着。しかし出迎えた軍楽隊に続く中華民国の兵士を見て、
帰還の喜びは心の中で音をたてて崩れた。

 ぼろぼろの綿入れ服に唐傘を背負い、わらじを履いている者、
天秤棒の竹籠に鍋釜をのぞかせている者、全員が胸のポケット
に歯ブラシをさし、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶ
ら下げている。規律正しい日本陸軍とは似ても似つかぬ姿であ
る。

「俺はこんな連中と一緒になるのはいやだ!」と、共に帰還し
た二人の戦友は、引き揚げる日本兵に紛れて、日本に戻ってし
まった。日本軍の制服のまま、日本語を話していれば、疑われ
ることもなかったのである。

■7.金、金、金の世界■

 中華民国政府による台湾統治が始まると、日本統治時代には
考えられない不正と汚職がはびこり始めた。大陸から派遣され
てきた警察官は何の罪もない人々を微罪で捕まえては、保釈金
を要求した。

 蔡さんは従兄弟が校長を務める小学校の体育の教師となった
のだが、ある日、用務員が警察の備品を便所に投げ入れた、と
いう疑いで拘束された。ゴム・ホースでさんざん殴りつけられ
た用務員は、自分がやったと自白させられた上で、蔡さんに命
ぜられたと苦し紛れの証言をした。

 出頭命令を受けて、蔡さんが交番に行くと、用務員はおどお
どした上目遣いで「蔡先生、助けてください」と言う。蔡さん
が議論で警官を負かすと、怒った警官が拳を振り上げてきた。
ちょうどそこに校長がやってきて、警察局長と話をつけて、事
なきを得た。

 教員は業者からノートを安く仕入れては、生徒に定価で売り
つけるようになり、少しでも裕福な生徒のいる学校に移って身
入りを多くしたいと県の教育課や校長に賄賂をおくるようにな
った。すべては金、金、金の世界になってしまった。

■8.2・28事件の惨劇■

 1947年2月27日、台北の路上でタバコ売りをしていた老婆
が、専売局の役人に暴行されたのがきっかけとなって、怒った
民衆が立ち上がった。翌28日、群衆が旧総督府前の広場に集
まると、憲兵隊が機銃掃射を行い、十数名が死傷した。各地で
抗議行動が展開され、ラジオ放送局を占拠した民衆が、台湾全
土に向けて非常事態を告げた。2・28事件の始まりである。
[b]

 ラジオからは日本語で「元○○飛行隊のものは○○に集結せ
よ」などと呼集がかかり、軍艦マーチや君が代行進曲が流され
た。「基隆港に日本からの援軍が上陸したらしいぞ」という噂
も流れた。

 3月2日、蔡さんの町にも暴動が飛び火し、群衆が若い外省
人の警察局長宅に押し入った。立派な革のトランクがこじ開け
られると、中には札束がぎっしりと詰め込まれている。民衆は
この「汚れた金」を燃やしてしまった。

 3月8、9日に大陸から送られてきた2個師団が上陸すると、
報復が始まった。中国兵はトラックに据え付けた機関銃を乱射
しながら町の大通りを駆け抜け、無差別殺戮を行った。さらに
医師や教師、弁護士、学者などの知識層が次々と逮捕され、裁
判もなく処刑されていった。犠牲者は3万とも5万とも言われ
ている。

 蔡さんの知人で基隆警察局の用務員だった人も検挙され、手
のひらに太い針金を通されて、9人一緒につながれ、銃で撃た
れて、海に突き落とされた。幸い列の一番端で銃弾が当たらず、
手のひらの針金を抜いて、九死に一生を得た。また当時17歳
だった蔡さんの実弟は、北京からやってきた先生に言われる通
り書いた一枚のメモがもとで、10年の懲役刑を科せられた。

■9.日本人よ胸を張りなさい!■

 1968(昭和43)年10月、ジャパンラインという船会社の代
理店の営業部長として、蔡さんは戦後初めて日本の土を踏む。

 案内役の高島嘉道氏に頼んで、靖国神社に連れて行ってもら
った。かつて共に戦い、祖国に殉じた2百数十万の英霊に鎮魂
の祈りを捧げたかった。ここには台湾人戦没者2万7千余柱も
祀られている。その一人が李登輝氏の実兄で、海軍機関上等兵
としてフィリッピンで戦死した李登欽氏(改姓名・岩里武則)
である。

 社に向かうと、高島氏が胸ポケットの定期入れから一枚の写
真を取り出して、言った。「蔡さん、これ・・・私の兄です。
フィリピンで戦死しました。蔡さん、今日は本当にありがとう
ございます。」「この時、高島氏と私の心が一つになった」と
蔡さんは語っている。

 戦後の価値観で、過去を批判する現代日本人に、蔡さんは次
のように語りかけている。

 日本統治時代、日本人教師達は、我々台湾人に「愛」を
もって接してくれた。そして「公」という観念を教えてく
れたのだった。愛された我々は、日本国家という「公」を
愛し、隣人を愛したのである。[p198]

 どうぞ心に留めていただきたい。「日本」はあなた方現
代日本人だけのものではない。我々「元日本人」のもので
もあることを。[p245]

 台湾には、日本がいまこそ学ぶべき「正しい日本史」が
ある。どうぞ台湾に正しい歴史を学び、自信と誇りを取り
戻していただきたい。そして誇りある日本が、アジア地域
の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。

 日本人よ胸を張りなさい![p247]
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
b. JOG(062) 台湾史に見る近代化の条件

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 蔡焜燦、「台湾人と日本精神」★★★★、日本教文社、H12(JO
G注:本書は、3万部と売れ行き好調にもかかわらず、著者の意
に反して、販売中止となりました。どこからかの圧力に屈した
のでしょう。「日本人よ胸を張りなさい!」と語る蔡さんに対
し、日本人として恥ずかしい限りです。
  平成13年8月、小学館文庫より再刊されました。 

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「人物探訪:蔡焜燦~元日本人の歩んだ道」について

 片倉さん(台湾在住)より
 今回の蔡さんの回も興味深く読ませていただきました。私自
身、蔡さんとは親しくおつきあいいただいており、結婚式の際
には乾杯の音頭をとっていただいたりしました。台湾に残る日
本統治時代の遺構を探し歩いて、その記録を写真と文章で紹介
しています。 http://katakura.net/

中山さんより
 涙があふれてしかたがありませんでした。なんと素晴らしい
われわれの先人たち!誇りに思います。またわれわれ日本人は、
蔡さんのような方がおられることに感謝しなければいけません。
蔡さん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。日本の良いと
ころを認めてくださってありがとう。

今岡さん(上海在住)より
 過去の偉人たち ふつうの人たちが知らない偉人の方々。彼
らの残した大きな大きな足跡があればこそ今の日本があったと
思います。私たち、海外に勤務する日本人も、偉人たちの心を
見本として、少しでも自分の足跡が残るように心がけるべきと
おもいます。異国で聞く日本人の心、これに勝る心のリハビリ
はありません。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 今回頂いた多数のおたよりは、片倉さんにお願いして、蔡焜
燦さんに送っていただけることになりました。

■書籍版購入の方々からのお便り

 中学校の社会科教師です。昨年から今年にかけて、2年生の
歴史で「過去の日本・日本人を誇りに思う」立場から授業をし
ました。もっと聞きたいというような目で前傾してくる生徒た
ちをみて、社会科は日本を愛する教科でなくてはならぬとしみ
じみ思いました。この講座がどれだけその授業を豊かに肉付け
してくれたか計りしれません。

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 こんにちは。いつも国際日本人養成講座のメルマガを興味深
く読ませていただいています。中二の女子で、まだまだひよっ
こですが同じ日本人としてさきにこのような方々がいられたこ
とは私の誇りです。人はみな感謝の念がなければ社会において
共同生活を営むことができないと思います。このような素晴ら
しい先人がいることに感謝し、願わくば自分もできるだけ近い
ようになりたいとも思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 第2巻発売開始以来、400人以上もの方々からお便りをい
ただき、感激しています。特にこれからのわが国を担う青少年
の志を引き出す上で多少なりともお役に立てているなら、本当
に嬉しく思います。

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