No.450 松江中佐とドイツ人俘虜たち



■■ Japan On the Globe(450)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪: 松江中佐とドイツ人俘虜たち

「私はいま、誇りをもって、この地を去ることが
できます。それは松江所長のおかげです」
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■1.「聞こえる・・・音楽が」■

 89名のドイツ人俘虜たちは、銃に着剣した衛兵に厳しく監
視されながら、重い足取りで川沿いの土手道を歩いていた。四
国の遠い山々は青く霞み、見渡す畑は菜の花の黄色に埋め尽く
されている。しかし、俘虜たちは、日本の春を味わう余裕を持っ
ていなかった。

 大正6(1917)年春、徳島県鳴門市近郊の板東。第一次大戦で
日本は日英同盟の誼(よしみ)によって、中国でドイツが租借
していた青島要塞を攻撃・占領し、4千6百余名のドイツ将兵
を捕虜にした。これらの捕虜たちは、日本国内12カ所の収容
所に入れられたが、まもなく6カ所に再編された。

 この89名は久留米の収容所から板東に移送されてきたのだっ
た。久留米の48連隊は、青島戦の主力として戦った事もあっ
て、この地には戦死者の家族も多く、捕虜たちを憎悪で迎えた。
捕虜たちは小さな南京虫だらけの藁布団に寝かされ、事ある毎
に鉄拳で殴られた。だから、新しい収容所に移送されると知っ
ても、何の希望も持てなかった。

「聞こえる・・・音楽が」と戦闘で失明したドンゲルが言った。
遠くからかすかにブラスバンドの音楽が聞こえてくる。隊列が
進むにつれて、音楽ははっきり聞こえるようになった。間違い
ない。それはドイツの愛国歌『旧友』であった。

■2.所長・松江豊寿■

 俘虜収容所の門をくぐると、ブラスバンドの一隊が整列して
いた。青島で別れ別れになった戦友たちの懐かしい顔が見える。
捕虜たちは抱き合って再会を喜んだ。

「捕虜どもを整列させいッ!」と久留米から引率してきた指揮
官が叫ぶと、衛兵たちが、捕虜を銃の台座で打ち据え始めた。
歓喜の叫びが、悲鳴と怒号に変わり、いまにも暴動に発展しそ
うな雲行きとなった。

「やめいッ、よせッ」と鋭い声がかかった。収容所の副官・高
木大尉であった。そこに立派な八の字髭の人物が現れ、落ちて
いた帽子を拾い上げ、土を払ってから、「誰のものか」とドイ
ツ語で聞いた。ヘルマン一等水兵が手をあげると、ニッコリ笑っ
て帽子を手渡した。

 私は所長の松江豊寿(とよひさ)である。ただいまの衛
兵たちの非礼について心からお詫びするとともに、あらた
めて歓迎の辞を申し述べる。

 ドイツ語の丁重な挨拶が信じられず、久留米から来た捕虜た
ちは、思わず顔を見合わせてしまった。所長に促されて、副官
の高木大尉が流暢なドイツ語で通達した。

 諸君。本日に限り、就寝時間が12時までに延長される。
二年ぶりの再会だろう。大いに旧交を温めたまえ。

 捕虜たちの間から、ドッと歓声が上がった。

■3.別世界■

 到着した捕虜たちにとって、この収容所の生活は驚くべきも
のだった。およそ一千名の捕虜が、8棟の兵舎に収用されてい
たが、それ以外にも図書館、印刷所、製パン所、製菓所など合
計26棟の洋式の建物が建っていた。ビールやチーズ、ソーセ
ージ、煙草などがこの収容所で作られており、自由に買うこと
ができた。隣接してテニスコートやサッカー場もあった。

 愛用のカメラを首から提げたヘルマン一等水兵は印刷所を訪
れた。青島戦に志願する前は大学の文学部に在籍したので、こ
こで発行される週刊新聞の記者として編集者のマルティン中尉
に誘われたのである。

 マルティン中尉はヘルマンを散歩に誘った。鉄条網の向こう
に見える畑では、地元民と捕虜たちが一緒に農作業をしていた。

 ドイツ式の農業を教えているんだ。捕虜たちの農作業の
様子を見ていて地元民のほうから申し入れできたんだよ。

 収容所の門を出る際には、10人ほどの日本の青少年が入れ
違いに門を入ってきた。「地元の中学校の生徒たちだ。週に2
回、ドイツ式の器械体操の実習に来ている。当時はまだ珍しかっ
た器械体操を、テンペルホフ上等兵が鉄棒の大車輪などを実演
しながら、教えていた。

 外の田舎道を歩いていくと、彼らと同様に衛兵に付き添われ
たドイツ人のグループが、そこかしこに歩いている。

 地元の工務店で蒸気エンジンの修理を教えている者や、
酪農や建築を教えている者がいる。松江所長の方針でね。
ハーグ条約で保障されている食費や医療費以外に、これら
の収入が加わるので、ここの捕虜たちは地元民よりずっと
金持ちなんだ。

 ヘルマンは信じられない思いがした。

■4.武士の情け■

 89名が到着して数日後、そのうちの一人カルル・バウムが
脱走した。報告を受けた松江に、部下が「徳島の62連隊に協
力を頼みましょう」と進言した。松江は即座に答えた。

 連隊はいかん。連隊を巻き込めば、面倒なことになる。
周囲は海と山、どうせ逃げられない。怪我などしないうち
に、われわれの手で保護したい。

 二日ほどして、カレルが自ら戻ってきた。傷の手当てをされ
ている。しかし、本人は、山の中を逃げ回っていた、と言い張っ
ている。松江は「彼は山中で道に迷った。それで良かろう」と
済ませようとした。

「そんなことでは、捕虜どもに対するしめしが」と反対する部
下に松江は諭した。

 傷の手当てをしてくれたのは、たぶんこの板東の人だろ
う。だとすれば決して口を割るまい。それを明かさないの
は、恩義を感じているからだ、脱走犯を助けたことで、罪
に問われることがないようにしたいんだ。目をつぶろう。
武士の情けじゃないか。

 カルルが所長室に呼ばれた。殴る蹴るの制裁を受けることを
覚悟していた。しかし、松江は優しい声で言った。

 カルル君だね。君に一つ頼みがある。君は以前、青島の
ビクトリア街で、パン職人をしておったそうだね。どうだ
ろう。炊事棟の要員に加わって、パンを焼いてくれないか
ね。

 カルルは高木副官に製パン所に連れて行かれた。懐かしいパ
ンの焼ける匂いが充満していた。カレルの視線が台の上でパン
生地をこねている一人の手元に止まった。カレルはその手から
パン生地を奪い取ると、

 もっとこねるんだ。もっと強く。生地は生きて、呼吸を
している。この手で、それを、それを、、、

 カレルは何度も力任せにパン生地を叩きつけて見せた。しか
し、その背中がすぐに動かなくなった。「どうした。カルル」
と高木副官が覗き込むと、カルルの目には、涙があふれそうに
なっていた。

■5.「彼らも、祖国のために戦ったのです」■

 陸軍省からの呼び出しで、松江は東京に赴いた。そこでは俘
虜情報局の将校たちが待ちかまえていた。局長の多田少将が、
苛立ったような声をあげた。

 君は捕虜たちからの評判もいいようだが、甘やかせば評
判のいいのは当たり前でね。あとで必ずしっぺ返しを食う。
陸軍省からの通達だ。板東収容所については、来月から
予算を削ることになった。

「なんですと!? 理由はなんですかッ!?」と松江は激昂した。

 捕虜どもに、自由気ままに贅沢をさせる余裕など軍には
ない。彼らは敵国の捕虜だ。それを忘れてはならん。

 松江の興奮は収まらない。

 片時も忘れたことはありません。彼らは敵国の捕虜、し
かし犯罪者ではない。

 彼らも、祖国のために戦ったのです。しかも、わずか5
千人で数万の連合軍と互角以上に戦い抜いた勇士たちだ。
決して、無礼な扱いをしてはならない。戦争が終わってド
イツへ帰還できる日まで丁重に扱うべきだと思うておりま
す。

■6.会津武士としての誇り■

 多田の目が、侮蔑の色を見せた。「松江中佐。君は、会津の
出身だったな。いつまでたっても、会津は会津だな」 言葉を
飲み込んだ松江は、多田をぐっと睨みつけた。

 帰りの汽車で、まっすぐに背筋を伸ばして、座席に腰をかけ
た松江は、ただ一点を見据えていた。「会津は会津だな」、そ
ういう侮辱を、今まで何度受けてきたことか。

 約50年前の明治維新の際、会津藩は藩をあげて薩摩長州の
官軍と戦った。敗れて生き残った藩士たちは「降伏人」と蔑ま
れ、本州最北端の下北半島の斗南(となみ)の地に押し込めら
れた。

 松江はそこで生を受けたのである。西南戦争で会津武士たち
が活躍し、ある程度の名誉を回復したが、まだ松江のように将
校にまで昇進した人物は少なかった。会津武士としての誇りが、
松江を支え、そしてドイツ人俘虜たちへの同情となっていたの
だろう。

 予算削減への対策として、松江は山を買って、捕虜たちに木
の伐採をさせた。それを薪として市価よりも安く買い上げ、収
容所内の炊事や風呂炊きに使って、予算節約につなげようとい
うのである。事情を知った捕虜たちから、志願者が自発的に集
まり、ドイツ本国で営林署に勤めていたクリーマント軍曹の指
揮のもと、熱心に働いた。

■7.「諸君、新聞を出したまえ」■

 1918(大正7)年11月、ドイツが降伏し、第一次大戦が終わっ
た。戦勝を祝って、徳島の大通りも花山車や提灯の灯で光の洪
水となった。沿道を埋め尽くした群衆は日の丸の小旗を振って、
沸き立っていた。しかし、板東の町はひっそりとしていた。
「ドイツさんが可哀想だ」と泣いている女性までいた。

 収容所も静かだった。いつもなら活気のある印刷所は音もな
く、皆ぼんやりと、雨にけぶる窓の外を眺めていた。そこに松
江が現れて、「今まで出していた新聞をどうするんだ」と聞い
た。ヘルマンたちは顔を見合わせて、「この状況では、とても
手につきませんから」と答えると、松江は言った。

 諸君の気持ちは判るが、どんな苦しみのなかでも、人は
光を見つけ、将来に立ち向かう勇気を持つべきだ。

 そういう松江は、酷寒の地・斗南での会津人たちの絶望的な
生活を思い起こしていたのかも知れない。

 諸君、新聞を出したまえ。そして、そのことを紙上で全
員に呼びかけたまえ。

 粛然とした一同に、松江の力強い言葉が響いた。「これは私
の命令だ」 全員が、深く胸を打たれていた。「松江所長、判
りました。 命令を感謝します」と、一同は日本式に頭を下げ
た。

■8.「われわれには敵味方の区別はなくなった」■

 1919(大正8)年6月、ヴェルサイユで第一次大戦終了の調印
式が行われた。松江所長は捕虜全員を中央広場に集め、訓示を
行った。

 私はまず、このたびの戦争で亡くなった敵味方の勇士に
対して哀悼の意を、、、もとぃ、今、私は敵味方と言った
が、これは誤りである。去る6月28日の調印終了の瞬間
をもって、われわれには敵味方の区別はなくなった。今や
諸君は捕虜ではなく、一個の自由なるドイツ国民となった
のである。

 すでに諸君が想像しているように、敗戦国の国民生活は
悲惨なものである。どうか困難にめげず、祖国ドイツの復
興に尽力してもらいたい。

 最後に松江は捕虜全員を見渡し、力強いドイツ語で言った。
「本日ただ今より、諸君の外出はまったく自由である」 捕虜
たちの間から、一斉に拍手と歓声が沸き上がった。「ダンケ!
 ダンケ!(ありがとう)」という声が収容所を揺るがし、放
り投げられたたくさんの帽子が、青空に舞い上がった。

■9.「我が友に・・・!」■

 元気づけられたドイツ人たちは、板東の人々への感謝に、ベ
ートーベンの第9交響曲を演奏する事にした。日本各地のドイ
ツ関連施設から楽器を取り寄せ、総勢45名での演奏である。
これが日本での第9の初演となる。

 演奏の前に、青島総督だったハインリッヒ少将が挨拶を述べ
た。

 青島での戦闘に敗れ、われわれは捕虜となって、この地
へ参りました。私はいま、誇りをもって、この地を去るこ
とができます。それは松江所長のおかげです。

 松江所長は、私の人生で、もっともつらい時期に、勇気
と力を与えてくれた。勇気と力---。我々は、ベートー
ベンのフロイデ(歓喜)を感謝のしるしとして、皆さんに
プレゼントしたい。世界のどこに、バンドーのようなラー
ゲル(収容所)があったか! 世界のどこに、松江のよう
なラーゲル・コマンダー(収容所長)が、、、

 感極まって、ハインリッヒが声を詰まらせた。会場は水を打っ
たように静まりかえった。ハインリッヒは松江のもとに歩み寄っ
て、愛用のステッキを差し出した。「我が友に・・・!」

 二人を包んで、嵐のような拍手が沸き起こった。
(文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 古田求『バルトの楽園』★★★、潮出版社、H18


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「松江中佐とドイツ人俘虜たち」に寄せられたおたより

hyndさんより
 先日渋谷で「バルトの楽園」のポスターに板東という字を見
て私の郷里の徳島県の収容所物語だなと思いました。日本での
第9の初演の地として最近では少しは知られるようになったと
思いますが、私が板東にあるドイツ記念館を訪れたのはおよそ
20数年前、私がまだ高校か中学生だった頃です。

 館内には写真の他、遺品や帰国した捕虜からの手紙などが展
示されていました。今でも記憶しているのはその元捕虜からの
手紙は収容所で青春時代をすごしたことを懐かしく思うという
内容だったことです。記念館を出ると小さな「ドイツ橋」とい
う捕虜作成の石橋が残されていてそこで写真をとりました。当
時の日本人の礼儀正しさ、先進技術を捕虜からも学ぼうとする
姿勢に感心せずにはいられませんでした。

佐倉さんより
 地元徳島の「日本初の第九物語」、ありがとうございます。
この話を初めて聞いたときは、「悪逆非道の大日本帝国がなぜ
そのような人道的なことをしたのか」と疑問でした。その理由
はこのメルマガをはじめ、色々な文献にて最近理解しました。
「日本人だから」ですね。

 敗者にも尊敬の念を持たなければならない。戊辰戦争の会津、
第一次世界大戦のドイツ、そして第二次世界大戦の日本。本メ
ールを読み、改めて感じます。

 映画「バルトの楽園」も封切りですね。徳島ではロケ地も公
開されています。映画がヒットして、「戦前も日本はそれほど
悪い国ではなかった」と多くの人が気がつけば良いな、と期待
しています。

タマセイさんより
 読み終える頃には、涙が流れて仕方ありませんでした。浅学
ゆえ、この話しは知りませんでした。こういう立派な日本人
(ニッポンジン)が居たということを、どうして義務教育で取
り上げないのでしょうか。日本人としての「誇り」、他者への
「思いやり」、そして常に心すべき「感謝の気持ち」。これら
を徹底して教えることによって、国際化する今のご時世で、真
に尊敬される国際人としての日本人(ニッポンジン)が育つは
ずと確信しております。私は中学一年から剣道を始め、今年で
40年になりますが、お蔭様で、「実るほど頭を垂れる稲穂か
な」のごとき素晴らしい方(年齢問はず)に触れることが出来
ます。そのような方が外地に指導に出かけると、言葉は通じな
くても心は通じるようです。小学生のうちから英語に力を入れ
るよりも、国語と日本の歴史に力を入れる方がはるかに得策だ
と信じてやみません。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 板東の歴史は日本人の財産ですね。
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