No.1348 戦争にもルールがある ~ 南京戦、国際法を守った日本軍、破り放題の中国軍


 国際法を破り放題の中国軍に対して、松井石根司令官と上海派遣軍は国際法に忠実に戦った。

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■1.ガザ地区での戦闘は南京攻略戦を思い起こさせる

 イスラエルのガザ地区への攻撃が続いています。テレビのニュースでは、イスラエル軍の空爆で怪我をした子供などが運ばれるシーンが繰り返し流され、国際的にもイスラエルが悪役とのイメージが定着しつつあります。

 ガザ地区は全長41キロ、幅10キロの土地に、パレスチナ人難民など230万人が暮らしています。テロ組織のハマスは、ガザ地区の病院の地下にトンネルを掘って基地にしている、とイスラエルは主張しています。実際にイスラエルは、病院の庭に作られた地下壕の入り口を映像で示していました。

 医療施設への攻撃は国際人道法で禁じられています。民間人や負傷した将兵の治療を速やかに行うためです。同時に、医療施設を戦闘のために利用することは、上記の国際法を悪用する戦争犯罪であり、その場合には医療施設は攻撃しても良いことになります。

 戦争には、こうした国際人道法や戦時国際法と呼ばれるルールがあるのです。「戦争は悪」として、イスラエルの戦闘行為のみを批判し、一方でハマスの戦争犯罪をほとんど問題にしない大方のマスコミの報道姿勢は片手落ちです。

 ゲリラ側の戦争犯罪には目をつむって、正規軍の戦闘行為のみを批判する偏向報道は、85年前の日華事変でも我が国に向けられました。

 南京事件では、30万人とも言われる大虐殺があったかどうか、という問題のみが注目されますが、当時の中国軍将兵が国際法を破り放題の戦いぶりをした実態を見ていきますと、日本軍の松井石根(いわね)司令官の苦悩とともに、日本軍による組織的な大虐殺などあり得なかったこともよく分かります。


■2.松井石根司令官の配慮

 上海派遣軍司令官の松井石根大将は、若い頃から欧米諸国の植民地主義からアジアを守る為には日中の提携が不可欠だと考えていました。明治40(1907)年に清国に赴任して、中国革命を目指す孫文と親交を結びました。孫文は大アジア主義を唱え、その「日本なくして中国なし、中国なくして日本なし」という言葉に松井は深く共鳴しました。

 昭和2(1927)年に陸軍中将になった際には、苦境にあった蒋介石を日本に呼び、田中義一首相と会談させて、蒋介石の国民政府による中国統一を後押ししました。その後も大亜細亜協会を発足させて、日中の提携による「アジア人のためのアジア」を目指す活動を続けます。

 その蒋介石が松井の期待を裏切って、昭和12(1937)年に15万もの大軍で上海の外人居留区を襲う構えを見せました。上海の在留邦人を護るのは、わずか4千人の海軍陸戦隊です。そこで緊急支援として上海派遣軍が組織され、すでに予備役になっていた松井が司令官に任命されました。中国をよく知り、人脈も多い親中派の長老として、事変の早期解決を期待されたのです。

 国際都市・上海には各国民が在留していましたので、松井は国際問題が生じないよう、国際法の権威・斎藤良衛博士を帯同しました。またフランスのジャッキーノ神父が難民区を設定して、30万人の難民を保護していたので、ここは攻撃しないという約束を松井は守り、神父からこう感謝されています。

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 日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。[東京裁判・松井石根被告弁護側最終弁論]
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■3.南京防衛の司令官が逃げ出して、中国軍は大混乱

 上海派遣軍は、その後、蒋介石を追って、上海から南京の攻略に向かいました。首都・南京に関しては、無用な犠牲を避けるために、「オープン・シティ(無防備都市)宣言」をしようという意見が中国側でも大勢を占めていました。この宣言をして、全ての戦闘員や兵器を撤去し、軍事的抵抗の能力・意思がないことを示せば、都市での戦闘を避けることができます。

 蒋介石も首都機能の移転を先に宣言して、南京の防衛には消極的でした。ところが南京を守備する司令官・唐生智(とうせいち)が徹底抗戦を頑なに主張し、結局、蒋介石もこの意見を受け入れざるを得ませんでした。

 1937(昭和12)年12月9日、松井司令官は南京の平和的開城を願って、降伏勧告を出します。しかし、この時、すでに蒋介石以下の幹部は南京を脱出済みでした。回答期限の10日正午になっても、音沙汰なしです。松井司令官はやむなく、その午後、攻撃開始を命令します。この日の日記に松井はこう書きました。「敵軍の頑迷、まことに惜しむべし やむなき事なり」[早坂、1620]

 驚くべきことに、徹底抗戦を主張した唐生智は、日本軍の攻撃開始後の翌々日、12日20時頃に南京から逃げ出してしまったのです。しかも、配下の部隊に撤退命令や降伏命令も出さずに、置き去りにしてしまいました。それを知った師団長以下の将兵たちも我先に逃げ出してしまい、中国軍全体がパニックに陥ってしまいました。

 ここに登場するのが、中国伝統の「督戦隊」です。これは前線から逃げようとする味方兵士を後ろから銃撃して、戦いを督促する部隊です。『チャイナ・ジャーナル』という英文月刊誌の翌年1月号に次の記述があります。
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唐生智逃亡と知れ渡ると、支那軍兵士は南京を離れようとした。彼らは友軍(著者注・督戦隊)の手で機関銃によりなぎ倒された。
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 日本軍の大半がまだ南京に入っていない段階から、この有様でした。

 翌13日には南京の各城門が突破され、中国兵は更なる敗走を始めました。潰走兵たちは、城門の中で唯一、市民の脱出用に開門されていた北門へと殺到しました。しかし、この周辺には督戦隊が配備されており、彼らは機関銃を掃射して、潰走兵たちの通過を拒んだため、再び大規模な同士討ちが起き、数多の死傷者が出ました。


■4.敗残兵たちの国際法無視

 南京陥落の翌日14日には、南京城壁の内外で掃討戦が行われました。島田勝巳中隊長は、この時の様子を後にこう語っています。
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 城内掃蕩中でも、獅子山付近で百四、五十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。
 中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理をふり返ってみると、「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。(『証言による「南京戦史」(9)』)[早坂、1858]
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 完全に武器を捨てて降伏した将兵を殺害するのは国際法違反ですが、投降を装って攻撃してくるゲリラ戦法自体が、戦時国際法での「背信行為の禁止」に違反しているでしょう。

 敗残兵たちのもう一つの道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺したりして衣服を奪い、南京市民に扮して、西洋人宣教師たちが設定した安全地帯に逃げ込むことでした。安全区に向かった一人の日本兵は、15日の日記にこう書いています。
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 行けども行けども、何処迄歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。[阿羅、p45]
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 安全区は上海でのジャッキーノ神父による難民区と同様、民間人や負傷者、病人などを保護するために設けられるものであり、軍隊が攻撃してはならない区域です。

 南京市の安全区は、市のほぼ中央部に「縦2マイル(3.2キロ)、横1マイル(1.6キロ)」ほど設定されました。南京城内の総面積の1割強ほどです。南京在住の外国人たちによって南京安全区国際委員会が組織され、そこでの行政を担いました。

 安全区を攻撃しない、という点については、日本軍はここでも厳格に国際法を守りました。国際委員会委員長だったドイツ人ジョン・ラーベは、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝(略)するため、我々は筆をとっております」と表明しています。[早坂、1,925]


■5.戦時国際法違反の便衣兵戦術

 安全区は中国側も戦闘に使ってはならず、非武装であることが条件です。そのために、武器を持った戦闘員が入り込むことを防がなければなりません。しかし、国際委員会は安全区になだれ込んでくる多数の中国兵を統制できませんでした。

 軍服を脱ぎ、庶民を装った中国兵を「便衣兵」と呼びます。彼らは安全区に身を潜めながら、隙あらば日本兵に攻撃を加えてくることが度々でした。

 中国兵がとった便衣兵戦術は、一般民間人を楯にした攻撃であり、戦時国際法で固く禁止されています。国際法では戦闘員は遠方からでもそれとはっきり分かる軍服を着なければならず、また武器も公然と目につくように携帯しなければなりません。

 日本軍は安全区の中に潜んでいる便衣兵の掃討をしなければなりませんでした。

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 歩兵第七連隊が十三日から二十四日まで安全区を掃討すると、小銃九百六十挺、手溜弾五万五千余発、迫撃砲十門、戦車四台などが出てくる。
それですべてかといえばそうでなく、二月四日に市民が安全区から出ていき、隠れていた中国軍も去らざるをえなくなり、警察庁が調べると、トラック五十台ぶんの武器が出てくる。しかもさらに隠匿されていると予想された。中国軍は膨大な武器とともに入りこみ、安全区は危険区となっていた。[阿羅、p45]
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■6.松井の涙

 17日の入場式の後、松井は参謀長から、入城以来、10ないし20件の日本兵による窃盗、殺人、殴打、強姦が起きたという報告を受けました。松井は狂ったように参謀長を怒鳴りつけ、ただちに憲兵隊をして不法行為を禁止させ、犯したものを逮捕するように命じました。

 翌日の慰霊祭の前には、松井は幹部を集めて涙を流しながら、「折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった」と語りました。

 夕刻には報道部長から所感を発表させました。そこでは「亡くなった日本軍将兵を弔って感慨深いものがある」と述べるとともに、こう語っています。
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 支那軍の戦死した将兵の上にも深く同情を寄せるものである。ことにこれら戦争に禍せられた幾百万の江浙地方の無辜の民衆の損害に対し一層の同情の念に堪へぬ。
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 慰霊祭の翌日、松井は自ら安全区に入って、避難民から話を聞きました。通訳をした岡田尚は次のように語っています。
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 将軍は難民たちに対し、交戦中の危険その他、いろいろの実情を質問し、かつ優しく慰安の言葉を与え、さらに日本軍は決して善良なる民衆には危害を与えぬよう自分から厳重に命令はしておいたが、言語の不通その他の理由でいろいろ迷惑なこともあったと想像するが、近き将来には必ず安居楽業の時代が来ると思うゆえ、安心して仕事をするようにと説明されました。[阿羅、p126]
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■7.誰も見ていない「20万人以上の大虐殺」

 以上が、松井司令官率いる日本軍と、混乱の極みにあった中国軍の南京における「戦闘」の実態です。戦闘当時も100人以上の日本人新聞記者が南京に来て取材をしていますが、誰も何万という中国人が虐殺されている光景も、大量の屍も見ていません。

 帰国してから松井は、日中両国兵士の血がにじんだ土を混ぜて、熱海の地に興亜観音を建て、読経の日々を送っていました。

 戦後、東京裁判で呼び出されて、松井は日本軍による「20万人以上の虐殺」の責任を問われましたが、こう証言しています。

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 私の南京占領に対する周到な配慮にかかわらず、占領当時の混乱した状況で、興奮した一部の若年将兵の間に、忌むべき暴行を行いたる者があったようだ。これは私のはなはだ遺憾とするところである。・・・
 南京攻略戦闘に際して、中国兵や民衆が、爆撃、銃撃により多数死傷したことはあったろうが、検事側が主張するような計画的または集団的虐殺を行った事実は断じて無いと信ずる。
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 20万人以上の根拠とされたのは、崇善堂という慈善団体の遺体処理記録ですが、この団体は南京市政府の記録では、遺体処理など行っていなかったことが、阿羅健一氏の調査により明らかにされています。それでも松井は「南京市民を保護する義務の履行を怠った」罪で死刑となりました。松井の辞世の一首は次の和歌です。

 天地(あめつち)も人もうらみずひとすじに無畏(むい)を念じて安らけく逝(い)く

 無畏とは、仏が法を説くときのなにものをも畏(おそ)れない態度です。たとえ虚妄の裁判で死刑になろうとも、自分が若い頃から一筋に信じてきた日中提携の道の正しさを信じて、安らかに逝く、という心境ではないかと思います。

 中国がいくら声高に「30万人虐殺」を言いつのろうと、日本国民としては、松井司令官と上海派遣軍の戦いぶりに誇りを持つべきです。
(文責 伊勢雅臣)

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■おたより

■松井大将を擁護した武藤章(和明さん)

川田稔著「武藤章」P39によれば松井石根は、その責任(南京事件)を問われ、後に東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。その松井について武藤は、「全然誣告(ぶこく)といわざるを得ない」として擁護している。

武藤によれば、松井は、南京占領時には「南京市内における日本軍人の非行」に対して厳重な取り締まりを命ずるなど、「心底からの日支親善論者」で、「支那人の立場を尊重」する姿勢が強かったという記述があります。

■伊勢雅臣より

武藤章は中支那方面軍参謀副長として、松井大将のそばで仕えていました。「心底からの日支親善論者」「支那人の立場を尊重」、これが松井大将の真の姿だったと思われます。


■妻の親戚筋に南京戦に参加した方がいました(清田直紀さん)

 妻の親戚筋に南京戦に参加した方がいました。戦車隊の隊長をされていて、当時南京城突破一番乗りだったとか。その方のお子さん(妻の叔父)から、当時の新聞記事のコピーもいただきました。

 写真付きのその記事には「虐殺」の文字は当然ありません。日本軍の活躍について述べていただけです。

 中華民国(現在は中共)のプロパガンダにしてやられた日本ですが、そろそろ冷静かつ知的に反撃すべき時と思いました。先人の名誉を回復したいです。

■伊勢雅臣より

 当時の新聞記事のコピーをくれた方も、なんとか南京大虐殺の嘘を晴らしたいと願っていたのでしょうね。

 まさに「一隅を照らす」行為だと感じました。

 こうした一つ一つの積み重ねで、日本国民が嘘に気がついていくことが大切だと思います。



■リンク■

・JOG(455) 「南京大虐殺」の創作者たち
 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち
http://jog-memo.seesaa.net/article/200607article_2.html

・JOG(1031) 日中戦争に引きずり込まれた日本
 日本はどのように、日中戦争に引きずりこまれていったのか?
http://jog-memo.seesaa.net/article/201710article_5.html

・JOG(081) 松井石根大将 ~大アジア主義の悲劇~
http://jog-memo.seesaa.net/article/500564736.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・阿羅健一『決定版 南京事件はなかった―目覚めよ外務省!』★★★、展転社、R04
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886565506/japanontheg01-22/

・早坂隆『松井石根と南京事件の真実』★★★、文春新書、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4166608177/japanontheg01-22/

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